西欧では、歴史の中で宗教と政治の争いや思想哲学が、大衆に先理解として影響を与えて来たので、この一読訳の分からない哲学書が出たとき、それまでの思想界に影響えを与えたのだった。
知られた風土的諸々の言わずと知れたこのような先理解が、長年定着した上に思想哲学界に改めて風穴を開けたのが、この書物ということだった。
この国の書店でもよほどのオタクでなければ、一派の方はこの本は手にとらないだろう。読む方がいたとしても、取り上げられた言葉の意味、その解説から理解していかないといけない。それでけでも霹靂。
かなりのハードルがあると思う。ふと考えれば、このやり方で語り続けると息詰まるのではないかとふと思ってしまう。これを先に書くとよくないけれど、実はこの本は、計画は長々と第二編まで書く予定だったらしいが、行き詰まりを見せ、第一編だけで書くのを辞めた本だということ。
しかし、僕にとってはボケ防止にはいい。何故そう表現するのか、造語まで使ってなどと考えるのはなるほどねぇ、などと思うけど・・・。
誰でもが当然もつであろう、言葉に対する先理解までの意味を脱色させて、そんな努力をして普遍化を図ろうと心掛けるけど、(例えば、人間のことを『現存在』と書く。さらに、自分の内面、周囲の関りなども含めての表現を『世界ー内ー存在』などと表現する。他にも以降、多々・・・)
もう、これだと異邦人には到底わからんということになる。轟先生の本にも30年以上も付き合っているという。ハイデガーの本についてまだ本屋にあるので、一種中毒になるような、本である。
・・・ということで、かかわると本題に入りたいが、やはり周辺をぐるぐるうろつきまり、その語りを生涯、言い続けないといけなくなるような本なのだった。
で、次回、元に戻って本題に・・・つづく