キリスト教神学の研究から始まり、考えの深層にその強い宗教性があったとすれば、同じテキスト(聖書)を読む宗教性と言っても、それは個々人の信仰の度合いにより相違があるのだから、哲学という学問としてはアウトなわけだが、実は彼が表さんとしたのは、モノが『ある』という認識、人間含め限りなく人それぞれ個々の在り方、内面、外周に哲学的な面から精緻に言葉化して迫ろうとしたことなのだった。
それは、人間は見た目だけで、この人は・・・などと評価するが、実際は生い立ちから、その人の考えから、さらにあらゆる存在(ある)することが当然だろうと思ってきたことなどの考えが、その個々の実情は実は異なってそこに『ある』、ということだろうと厳密に考えて再考したこと。だから人間を『現存在』と書き、そのありようを『世界ー内ー存在』などと表記したこと。従来の先入観が入り込まないよう言葉を選んで。
ボケ防止にあれこれ聖書神学や人間学をこのように表現しようとしたのか、と思えばがぜんボケ防止にはいいなと思ったのだった。しかし、くだくだ書いても(もともと、付き合うとそういう思考になってしまう中毒もの)先へ進まないので、数点、キリスト教の面から無論すべてからは迫れないが、ヒントと聖書の新約聖書の手紙から書いてみたい。
当初からこの本を読んでも何のことかと思われれば、逆に誰でも市販されている聖書をもとに、それに付随した神学初歩を少しかじりながら、なるほど天地創造来の考えのある宗教性は、西欧での従来の哲学者、思想家に多大な影響を与えてきたのかと感心する。
僕なりに理解した内容は先生方の本同様、どうしても解説で終わってしまう。読むのに一苦労でボケ防止にはいいが。次回、ハイデガーがキリスト教神学の書く欲動となった先理解となるポイントを僕なりに書いてみたい。・・・