marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その5)『聖餐式』についての書かれた救済の仕組み:聖書私的勝手解釈!

2023-11-12 22:03:33 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 ウクライナとロシアの戦争も1年も経とうとしているのに止むことなく、今度はイスラエルとパレスチナの戦争も起こって、1万人以上も人が亡くなったというニュースである。

***********イエスと弟子たちの会話

弟子が問う。

「・・・世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」

イエスは話された。

「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現われ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ、世の終わりではない。民は民に、国は国に対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。・・・」(マタイによる福音書24:4~8節)

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・・・あぁ、異邦人である僕らには、あまりに多くの先理解が必要なようだ。しかし、世界を見渡せば、ネットや世界のニュースもテレビには飛び込んでくる。戦争が起こり、人と人の対立や、愛は冷え込んでいくだろうと彼は語る。彼の言葉は、そのようだし彼が我々を目覚めさ、彼の再来はまじかなことだと思われてくる。

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何千年に渡って、どうして書き続けられて来たのだろう。思うに、人を創造された神は生きておられ働いておられるのだろうなぁ、ということ。そして、世界を見渡せば、分かろうとしない者は、ますます分からなくなり、理解しようと思う者はよりおおく教えられるであろう、というところか。

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さて、世界のキリスト教会での聖餐儀式についてなのだが、これだけでも紀元前からの教えというものが・・・、人は必ず死を迎えるわけだから、それをこの地上からの、この今の肉体からの脱出と考えれば、神の人と呼ばれたモーゼが旧約時代において、神の使命により民を導いて、あのカナンの地、最終エルサレム(エル・シャローム 神の平安、平和)の地を目指したのは、全人類を死からの脱出(肉体を超えた永遠の霊を持つために)の故に、地上にイエスと言われる救い主(永遠の救済者)を誕生させたという、永遠の神の平和の世界へ我々を導くというこの筋書きが改めて思わされてきて、それが不思議でたまらない。

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聖餐式について・・・私的勝手に解釈とは何の文献も見ないで、そう教えれたと聖書のみによって僕が拾う言葉である。とにかく、無心に読むことによって、ぽこぽこと表に現れてくる、遠い過去からの時間の流れの中で、地下水脈のように流れ、それが現在とそして、未来にまでおそらく流れているのだろう泉のように表現される言葉にその繋がりが推測されて来る。その生きた言葉というもの。

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聖書は誰が書いたんでしょうね。時折、学びの後に口ずさむ、牧師に問いかける僕の言葉であった。「文字を書いたのは人なのでしょうけれど、書かせたのはやはり神様なのでしょうねぇ。何千年にも渡っての物語の中に、ときおり現れる地下水脈のように湧き出る繋がりというか、それがイエスという男につながっていると理解する者には、そのように深層からの答えが返ってくるように思われる。」と。

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聖餐式とは、最後の晩餐に記念として行えとイエスが弟子たちに示された事柄である。

聖餐とは、キリスト教会にとっては大切な儀式なのではあるが、多くは、それがイエスと言われる方が、イエスが十字架に掛からんとする囚われの身になる夜に、弟子たちと最後に夕食を共にした最後の晩餐で、イエスが行われた儀式めいた行為なのである。

「これは皆の為に裂かれる私の体、これは流される血である。記念としてこれを行いなさい。」としてパンと葡萄酒をその例えとして共に食していた弟子たちに与えた行為なのであった。

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この新約聖書部分のみから聖餐式がキリスト教会で行われるようになったか、と言えば、そうではなく、神の当初からの救済のプログラムの中に仕組まれた行為だったということだ。

まず先理解の第一の層には、我々は神の似姿に神により創造された者らである、ということである。

次に、状態として我らは神に息(霊)を吹き込まれ人という種になった者らである、ということである。

永遠の命とは、その神の住む世界に帰り、まったき(からだをもつ)霊として永遠に生きることである。

背後の物語を除き、聖書の言葉だけをあげると、無論、多くの言葉があるけれど、一つの救済の神の仕組みとしてそれが、旧約時代からの筋書き上にあったという、驚きである。霊を吹き込まれ、人となり、肉としての不完全さに神から離れ、その代償として遣わされたイエスの身代わりの犠牲の故にその理解を得た者ら(信者)の救済が完成した。

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その言葉を数か所拾ってみよう。『過ぎ越し』の脱出時の種入れぬパンは『最後の晩餐』のパンの類比。

〇出エジプト記12章13~14節

「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」

〇レビ記17章11節

生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。」

〇マタイ26章26~29節(マコ14:22-28、ルカ22:15-20、Ⅰコリ11:23-25)

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。また、盃を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この盃から飲みなさい。これは、罪が許されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」

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つまり、聖書の起源前からの聖餐は神の救済の仕組みとして、永遠の命への脱出として・・・定められたものなのであった。

疲れ、困難のある肉の世界から神の永遠の霊の世界へ、イエスは御自身の身をとおして、そのからだを犠牲として捧げられたのであったという筋書き。そして生きている者は聖霊を送ると言われた。人が生きるのは霊による、と。

どのような不完全な者をも彼を信じた者には、召された後にキリストを着て永遠の国の祝宴に招かれるのであると。

更に、古来から伝統により、神の導きがあったと心底においては理解している当時のユダヤ人やその歴史を知っているであろう異邦人信者に対しても、完成度高いと言われるギリシャ語で書かれたへブル人への手紙にその神学論を展開しているのである。

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〇ヘブライ人への手紙9章11~15節

「・・・御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。・・・まして、永遠の”霊”によって、御自身をきずのないものとして神にささげられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。」

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聖書を読むには、崇高な高い次元からの解釈と読み取りが必要にもなり、それは我らにはその意味合いを掲示として示されるのであろうが。

「さぁ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」と。

今生においてイエスの救済の言葉に感応する者らは、その元の命は神のもとに居た者らであるらしい。この地上に派遣されて、命をつないで今の命に在らしめているDNAの浄化を図って、イエスに出会い救済に与る、という宿題をやり遂げるために、命が与えられているのであるということになろうか。

「生きていて私を信ずるものは、死ぬことがない。」******* 時は、近づいている。  



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