「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。
あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。
神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。・・・
神はおのおのの行いに従ってお報いになります。・・・
例え律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくても、自分自身が律法なのです。
こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこのことを証し
しており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、わたしの福音の
告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」
(新約聖書 「ローマ信徒への手紙」第2章から)
◆肉なる人が、自由を思考の中で得ようとすれば、第一に障害となる自分に反旗を翻し、反抗しようとする言葉を持つ人間を措定し
排他しようとすることを行い始めるものである。だから、人を裁くというドラマを作り上げ劇場タイプの勝った負けたの会話を
し始めるのである。「利己的遺伝子」という本来の人の生き方の基本的気質の現れか・・・。
◆実のところ、そんな劇はつくらなくてもいいのだが、何故か劇的なドラマをつくり相手を引きずり込んでその中の主人公となるべく
自分の劇のドラマに突入していく。被害者になり、加害者になったなんだかんだと騒ぎ喚く。
その中の会話は、実は大層なことではないのであるが、その先読み込みのドラマ化された評価判断設定から抜け出せなく主人公に
ならなければ気がすまないという気性から、人の人生はそれでなりたっているという思いから抜け出せない。
◆多くは、言葉の誤解から生じている。強い思い込みによる自己判断基準、だからその判断基準自体を確かめようにも自分とは、
人とは、という客観的、相対的に自己を判断評価することが出来ない人とは距離を置く以外にないと言うことになる。
◆その解消には、常なる正しい相手との会話を経験しそれを通していくしか、おそらく矯正はされないだろう。だから、神は観念的
抽象的な対象であってはならないのである。それは自分の言葉から抜け出せていないからである。ここにキリスト・イエスが欠点
のない人としてこの地上に送られてきた理由の一つでもある と僕は考えている。 ・・・
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