marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(282回目)福音書において何を求め期待すべきかⅣ   (M・ルター)

2017-03-07 20:52:50 | プロテスタント
 永遠の命を与える言葉を自分のものにするためには、理解する自分の言葉が必要です。たいていの方は知識としての満足がないものですから解説書なりを手にします。ところが、これがまたピンキリの内容なのですね。ですから読書会などでは、基本に戻りルターの書いたものをテキストにして学ぶとよろしいかと思われます。それなりの勧めの文章がありますし、第一それなりの大家ですから・・・。
 今回は、前回の続きですが、例の列車に乗ってしまっている人々へのおすすめの言葉です。初めての方にはオカルトのように聞こえるかもしれませんが、福音書の中のイエスご自身の言葉自体が”霊であり命である”と言われているわけですから、次のような内容が普段の説教の中でいかに重要なことなのかは、中におられる人も今一度よく認識すべき内容と考えられます。・・・では、
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 さて、あなたが福音書を開いて、キリストがここ、かしこに来られ、または、だれかがキリストの身元につれて来られるのを読んだり、聞いたりするならば、そこであなたは、キリストがあなたのところに来たり、またはあなたがキリストのみもとに連れていかれるという説教、すなわち、福音を聞き取らねばならない。なぜなら、福音を説教するということは、キリストが私たちのところに来たりたもうとか、人々が私たちをキリストのみもとにつれた行くということ以外の何でもないからである。キリストがおいでになったり、誰かがキリストのみもとに連れてこられたりしたとき、キリストがどのように働きたまい、どのようにその人を助けたもうかを見るならば、そのようなことによって信仰があなたの内に起こされ、キリストが福音をとおして、あなたの魂にまさに同じ助けと恵みをとを差し出しておられることを、知るべきである。ここで静かにして、あなたに恵みのわざがなされるままにしておくならば、つまり、キリストがあなたに恵みの業をなし、あなたを助けたもうことを信じるならば、あなたは確かにそれをもつであろう。こうして、キリストはあなたのものとなり、あなたに賜物として与えられることになる。次いで必要なのは、あなたがこれをあなた自身の模範として受け取り、あなたの隣人をも同じように助け、あなたの隣人にも同じようなことを行って、あなたを隣人にとっても賜物としてまた模範として与えるようにすることである。これについてイザヤは「慰めよ、慰めよ、〔・・・・・〕その罪は許され、その咎(とが)は終わった。エルサレムはその罪のすべてに倍する恵みを神の手から受けた」〔イザヤ40・1以下〕と言っている。この二倍の恵みこそキリストにおける二つの物、すなわち賜物と模範とである。これは、モーセの律法が初子のものとしている遺産の二倍の取り分〔申命記21・17参照〕によっても、また、その他多くの予見的な表象によっても示されている。 ・・・続きます。
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                (世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p61)・・・ 

世界のベストセラーを読む(281回目)福音書において何を求め期待すべきかⅢ  (M・ルター)

2017-03-06 19:04:54 | プロテスタント
 いかめしいような表題ですが、ルターのつけています文章の題なのです。まさに目的ははっきりしているその列車に乗っている運転手の方なのですから、ものいいはストレート。外から乗り込もうとする人は、今一度立ち止まってしまうような、キリスト肯定はいいけれどちょっとまってくださいなと言いたくなるだろうなと僕は考えてしまう。しかし、時代を見よ!。かの宗教改革をなして神の言葉を我らに奪還にした指導者なのだから・・・何しろ、コンスタンチヌス体制ができあがって以来、アルプスを越えてヨーロッパにじわじわ浸透したキリスト教がベースの文化圏とは異なって、異邦人のこの国にはベースとなるそれと対決すべく自分のことばでのカルチャベートされたしっかりした言葉がなかったのであるから・・・。あるとすれば、これまたおそらく動かない心情ともいうべき”もののあわれ”で何が悪いんだというものが、この国にはあります。それは表に現れることはない、心情・・・。しかし、まずはこの国の方々に自分の言葉で読むという勧めですから、ルター前回からの続きを書きます。
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 見よ、もし、あなたがキリストを、自分のものとするよう与えられた賜として把握し、これを疑わないならば、あなたはまさにキリスト者である。この信仰があなたを罪と死と地獄とから贖いだし、あなたがすべてのものに打ち勝つようにするのである。ああ、これについてはだれにせよ、十分に語り尽くすということはできない。福音が毎日のように振りかざされていながら、このような説教がこの世において沈黙させられていたのは、避難されるべきことである。
 さて、キリストをこのような仕方であなたの救いの根拠とも宝ともしたならば、次の事柄が続くわけである。つまり、キリストを模範として受け取り、キリストがあなたに対してなさったのを、あなたが見るとおり、自分も隣人のための奉仕に身をささげるのである。見よ、そこでは信仰と愛とが働いている。そこでは、神の戒めが満たされており、人は喜びをもって、動揺させられることなく、すべてのことを行い、また忍ぶことができる。
 だから、十分注意するがよい。賜としてのキリストがあなたの信仰を養い、あなたをキリスト者とするのである。模範としてのキリストはあなたの行いの訓練をするが、その行いはあなたをキリスト者にするのではない。それは、あなたがすでに前もってキリスト者となったのちに、あなたから発するものなのである。だから、賜物と模範を十分区別するように、信仰と行いも十分区別すべきである信仰はなにひとつ自分のものを持たない。持つのはキリストの行いといのちだけである。行いはあなた自身のものを有しはするが、あなた自身のものでなく、隣人に属するものであるべきである。〔・・・・〕   ・・・ 続きます。
                         (『福音書において何を求め、期待すべきか』10の10の1・8-13)
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               (世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p60) ・・・ 

世界のベストセラーを読む(280回目)福音書において何を求め期待すべきかⅡ   (M・ルター)

2017-03-05 20:01:54 | プロテスタント
 キリスト教会に初めて来れた方は、まずもって頭に浮かぶことは、聞くことはよいことか、悪いことか、何を意識として持つべきことで必要なことか、それは無論、普段に頭で意識をして自分のことばで考えることなどをしていなかったことを無理矢理、まずは考えて見るという苦しいことを強いられるというような自分の意識上に起こることなどではないだろうか。なぜなら心の中の問題など、漠然とは思っているが、その思い方、考え方自体を今までまったく意識化したことなどがなかったあえて言えば生まれたままの自然人だったからである。そして外目では同じでも内面、周囲の人との軋轢に悩んだり、身体や精神に負荷をかけたりするのである。自分の内向にであればまだしも、それが外に向かうと裁きとなるだろう。その原因と戦おうとはしない。
 聖書を読む時の注意点をルターは、前回に続けて次ぎのように述べています。
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 第二に注意すべきは、キリストをモーセにしてしまい、キリストが教えるだけであり、他の聖人と同様模範を与えるだけであるという具合に、福音が教えの書か律法の書であるかのごとくにしてしまうことである。だから、あなたはキリストのおことばとみわざとを苦難とを、二通りの仕方で把握すべきである。
第一は、あなたの前に立てられた模範として、これに従い、あなたも同じようにするのである。この意味でペテロは、「キリストは私たちのために苦しみを受け、私たちのために模範を残された」〔第一ペテロ2・21〕と言っている。彼が祈り、断食し、人々を助け、愛を示されたのをあなたが見るとおり、あなたもまた、自分に対しても隣人に対しても行うべきなのである。(注意:何事でもそうであるが、「人間的なものの根絶」だから、動機に注意である。動機がいつの間にか自分の感情に転化しての行為であれば、それは長続きはしないし、霊的に枯渇するであろう・・・これは僕のコメント)だが、これは福音においてはもっともとるに足りないことである。これはまだ、福音と呼ばれることはできない。それでは、キリストはあなたにとって、ひとりの聖人以上の役に立っていないからである。彼の命はまだ彼のところにあって、あなたをまだ助けていない。つまり、このやり方ではだれもキリスト者とはならない。ただ、偽善者を作るだけである。
 あなたは、もっとずっと高い段階に来なくてはならない。こういう仕方で説教するのは最善のことではあるが、もちろんこれは今まで長いこと、希になっていた。福音の主要条項、または根幹は、あなたがキリストを模範として把握するよりまえに、神から与えられて、自分のものとされた賜物、贈り物としてのキリストを受け入れ、認識することである。キリストが何かをなし、あるいは苦しまれるということをあなたが注目し、聞くならば、キリストご自身がそのようなみわざとお苦しみとをもってあなたのものであることを疑わず、あなたが自身がそれをしたかのように、いや、あなた自身がキリストであるかのごとくにそれを信頼してよいのである。
 見よ、これこそ福音を正しく認識するということである。これは、神のあふれるばかりの恵みであって、いかなる預言者も使徒も天使もことばをもってしても汲みし得ず、いかなる心もこれを十分に讃美したり、把握したりできなかったものである。これこそ私たちにたいする神の愛の大きな火である。これによって心と良心とは喜ばしいもの、確かなもの、満たされたものとなる。これこそキリスト教信仰を説教することである。この説教こそ福音であり、これをドイツ語に訳直せば、喜ばしい、よい、慰めの使信というほどの意味である。この使信のゆえに使徒たちは12人の使者という名をもつわけである〔・・・・〕。 ・・・ 続きます。
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世界のベストセラーを読む(279回目)福音書において何を求め期待すべきかⅠ  (M・ルター)

2017-03-04 08:41:27 | プロテスタント
 宗教改革から500年、時代的制約があるとはいうもののルターの語る内容は、聖書の内容であるが故にというかまったく古くない。そして、親身になり聖書を読む事との勧めと導きを語っています。むしろ、限界は今(ルターにすればいつの時代もと言えるか)あまりにも雑音が堆積してしまった読む側の僕らの困難さにあるように思われてくる。当時からそのような状況が生じていたことに対するルターの解説書に振り回されることなく真に聖書の語ることを自分のことばで聴きなさいという勧めなのですね。ルター自身が当時からそう語っている、だからこの文を書いたのだと語っているのです。不思議に教えられることがたくさんあるように思われる。
◆岩波文庫の石原謙訳の「キリスト者の自由/聖書への序言」は、学者さんらしく難しい訳です。今回の表題はその中の「新約聖書への序言(1522年)」という表題の中に書かれている内容で(p55)、読みやすい徳善義和(日本ルーテル神学大学の先生)の平凡社からの世界の思想家ルターから同じ箇所の中からの抜粋を書きます。
◆「すべてのしがらみから解放されて永遠の命を与える神の言葉をひとりひとりのものに!」僕がブログを始めようとしたきっかけ、自己紹介に記載した内容にやはりぴったし。だから、ここから始めなければならないと思います。原点に帰るために。それでは・・・
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 福音書はただひとつだけであって、それが多くの使徒たちによって書かれたのだということを知らなければならない。パウロやペテロのどの手紙にしても、ルカの使徒行伝にしてもキリストのみわざとことばのすべてを物語ってはおらず、あるものは他のものに比べて短かったり、範囲が狭かったりはするが、伝えているのは同一の福音である。四大福音書にしてからが、どれ一つとして、キリストのおことばとみわざのすべてを含むものはない。これはまた、必要なことでもない。〔・・・・・〕
 福音はキリストについての報知であって、彼が神の子であり、私たちのために人間となり、死に、甦り、すべてのものを支配する主と定められたということを伝えるのである。パウロはその手紙の中に多くのものを取り入れ、これを十分に説明している。四福音書に書かれているような奇跡や旅行にはまったくふれていないが、福音全体を十分かつ豊かに含んでいる。これは、ローマ人への手紙の始めにある挨拶の中に、明瞭かつ的確に見られる。そこでは彼は福音とは何かを語っているが、こう書かれている。「イエス・キリストの僕、神の福音のために召され、定められて使徒となったパウロが---この福音は、神が預言者たちにより聖書の中であらかじめ、み子み関して約束されたものである。みこは肉によればダビデの子孫から生まれ、聖化の霊によれば、死人からの復活により力をもって神のみ子と定められた。この方こそ私たちの主、イエス・キリストである」と。(ローマ 1;1-4)
 ここであなたは、福音が、死に、甦って主と定められた神の子、ダビデの子キリストについての歴史であることを見る。これこそが福音の全容である。キリストがひとりしかおられないように、福音もひとつであり、ひとつしかありえない。それぞれの仕方でではあるが、パウロもペテロもキリスト以外のものを教えないのだから、彼らの手紙も福音以外のものではありえない。いや、このことは預言者についても当てはまる。パウロが先の箇所で言っているとおり、また、誰でも知っているとおり、彼らは福音を伝え、キリストについて語ったのだから、キリストについて語っているところでは、彼らの教えは真の、純粋の正しい福音以外のものではない。ルカやマタイが書いたものとその点では異なるところはない。例えば、イザヤ書53章で、彼が私たちのために死に、私たちの罪を負われたと言われているのは、まさに純粋の福音である。私は真実を言おう、福音のこの理解を把握しない人は、決して聖書への光を得ることがなく、正しい根拠を獲得することがない、と。 ・・・続く
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世界のベストセラーを読む(278回目)神学研究のための正しいあり方(M・ルター)

2017-03-03 21:05:56 | 日記
キリスト教の神学についてマルチン・ルターが述べていることを書きます。(抜粋)
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 私はあなたに神学研究のための正しいあり方と方法を示したい。なぜなら私もこの訓練を受けたからである。そしてこのあり方と方法というのは、疑いもなくすべての族長たちや預言者たちも保っていたものだが、聖王ダビデが詩篇119篇で教えているものである。そこであなたは、この詩篇全体をとおして十分に示されている三つの原則を見出すことであろう。それらは祈りと黙想と試練とである
 第一に、聖書は他のすべての書物の知恵を愚かとする書であることを、あなたは知るべきである。なぜなら、永遠の生命について教えているのは、この書以外にないからである。〔・・・・〕
 第二に、あなたは黙想すべきである。すなわち、あなたは聖書を単に心の中で繰り返すだけでなく、口に出して、聖書の文字通りのことばに従ってこれをいつも繰り返し、これに習熟し、一読、再読し、聖書が言おうとすることに熱心な注意と考察を向けるべきである。これにあきて、一度も二度もすでに十分に読んだし、聞いたし、語った、なんでも根底からわかっているのだなどと考えないように、注意しなさい。そんなことでは決して特別の神学者となりえない。そんな考えをもつような人は、時ならぬ時に実を結んだ果実のようなもので、まだ半分も熟さないうちに。落ちてしまう。〔・・・・〕
 第三に、ここには試練も入る。試練こそ試金石である。試練は知り、理解することをあなたに教えるばかりでなく、神のことばがすべての知恵にまさる知恵としていかに正しく、いかに真実で、いかに甘く、いかに愛すべく、いかに力強く、いかに慰めに満ちているかを経験することをも教える。〔・・・・〕
                            (『ドイツ語著作全集第一巻への自序』50・658-660)
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        (世界の思想家5 「ルター」徳善義和編 平凡社 S51.12.15初版 p54) ・・・