marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(411回目)アダムさん罪を犯して裸であることに恐れをなした訳は? 〔創世記第3章〕

2017-08-11 00:07:15 | 日記
 道徳的規律は、理解されるとしても、それは一般論でどうにか解釈されるもの。ただ、全人類の罪の始原はもっとその前の「人」が純真無垢で、相対的に「何が罪やら」という判断基準さえない初めのことなのであった。だから、その時からと言えばいいか遠くに行かれたようにあるいは神が多様にあちこちにおられるように現代においては、罪とはその人の歴史の中でまず第一には神に、そして、つぎは隣人に関する期待が総じてモーセさんに与えた「十戒」ということになるのではなかろうかという解釈になる。ところが・・・
◆人はすべての人が罪人なので・・・と簡単に書いていただいているが、しかし、読む方は何の事やらなのだった。そう簡単に決めてくださるなということなのであった。そういう意味に於いて、僕らが「罪」と言われたとき何か漠然として、かなり歴史を歩んで来た、純真無酷からあまりに遠く離れて守れなかった神との道徳の残骸が蓄積して、その中からすべての人は罪人なのですなどと言われても、おそらくほとんどの人はピンと来ないだろう。それは、なんども言うけれど基準が示されていないと人は、分からんものなのだ。それは、他の人が聞いても分かる決まりになって、ようやくさ納得ということに・・・。しかし、
◆聖書のいうところの「罪」とは、それはそれは原始の話のこと。つまり創世記の神が創造された最高傑作たる人のその神からの霊的断絶のことを話している訳です。つまり、霊的世界の充満していたパラダイスから、追放されてしまったパラダイス・ロストのことを言っているようなのです。我らはすべて、それ以降の人が恣意的に、考えでもってあるいは雰囲気と言っていいいか、間違ってというか、否、性的幻想でもってと言えばいいいか、人の意識でそれを愛とか、恋とかでもいいのですが生殖に結びつき、その快楽を自分でコントロールしなくてはいけない(コントロールできない人もいるだろから管理ということばを使ってもいいいか)ことになってしまった訳です。
◆今から見れば、たかだかそれだけのことと思うかもしれないのだが、考えて見れば実に深刻な事件であったのです。すべての文化、文明のはしり、人類のドラマ、今、そして、未来のありとあらゆるドラマの主人公たる人間のドラマである訳だから・・・。これだけで人間のドラマのすべての始まりなのであると大げさに言ってもいいようなことなのである。だから・・・
◆(創世記3:7)「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆おうものとした。」のだった。(僕は今、とても暑いので裸になったいるのだが・・・)主なる神の足音が聞こえた時、アダムは「恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」(創3:10)と答えているのです。アダムは、実は裸であること自体が恐ろしくなったのではなく、創造の神から離れて、意図的に、恣意的に人の命を生み出す生殖器を自分達が持っていることがあらわに分かったことに恐れをなしたのである。神の息(霊)が吹き込まれるその土台である肉体(霊が離れると無機物に化していく、土に帰り塵になる〔創3:19〕)をエデンから追放されたその不完全なその霊の汚染されたその土地で、神の創造せし、その人間の増殖システムの機能の一部を自分たちが持ち合わせていることに恐ろしくなったのですね。もう、エデンの園には帰れない、悪魔の化身(天界において神と同等の霊的能力を持ち合わせていたと言われ創造の際に御使いの長でもあった堕天使)の蛇にその思いが汚染されて、以降の人はすべて、何らかの霊的汚染を肉に持ち合わせてその歴史を歩まねばならなくなったことになる。・・・それが、今も個々人のあらゆる人間の悩みの、不幸の元にもなるという考え、それがすべての人は罪人ですという言葉に表れたということ。
◆ここは、つまり「罪」とはこうして、神が愛された最高傑作が、人間の神の霊から離れた自立によって、御自分のテリトリーから離れたしまった。この現象がすべての人に「罪」が生じているということになろうと・・・。ですから、神はいつもわたしの元に帰れと言われているということになる訳です。(不完全な人がこう言うと何故か辛気くさいし、嫌みたっらしく聞こえてしまうとすれば、それも人の限界ということです。)
◆(創3:21)「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」
イチジクの葉が動物の皮になったのは意味のあることのように思うのだが如何に・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(410回目)神に対する人間の罪という奴がどうもいまいち分からない 〔創世記第3章〕

2017-08-09 22:10:45 | 日記
 今回は、創世記の人が神に対して罪を犯す時点から、さらに進んで、わかりやすく共同体としての遵守事項としての神との契約が基準にされた出エジプト記に少し入り込みます。
◆神に対する人間の罪という奴がどうもいまいち分からなかった。今も多くの人は、道徳的なことだと思ってる・・・。嘘言ってはいけないとか、物取ってはいかんとか・・・。これは、モーセの十戒の中にもある。しかし、これはモーセによってエジプトから導き出された人々がその共同体として歩むときの決まり事としての守らなければいけない事柄、この諸々の詳細が契約事項として”出エジプト記”というところに書かれている。
◆僕は、この契約という概念が驚きなのだった。あの時代、しかもどこかの国のなんとなくの宗教ごと、言葉にはしない、してもお題目で、何が書いてあるかもよく分からず・・・というか、分かっても「生きることはかくかくしかじか・・・」とう説明にすぎないような内容で、長々と繰り返し・・・。まさに観念的な他力本願。ところが、旧約聖書、神は人間にまずは、共同生活の基本として神の言葉の理解とその遵守と実行を約束ごととして提示する。理解するとは、受け取る側も自分の言葉で理解するということなのだ
◆おまけに、人というのは言葉では何でもそのときは守りますと・・・しかし、慣れや怠惰や忘却やご都合主義の解釈に変ずるのが人というもの。そこで、少なくとも確実としての自覚として、それは我々のためであるし、その提示にたいしてその弱点を防御するために命が賭けられるように血が関係してくる。(この意味においても、新約になりイエスの十字架の血の意味が関係してくる。)
◆出エジプト記には第20章に十戒(十の神からの戒め)に対して第21章からはその契約の詳細が記載されている。で、民はこれを逸脱した場合に罪を犯すということになると考えたのだろうな。時代はくだり、さらに詳細に細かな規定が出来ていった。************ 
(24:7)契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語らえたことをすべて行い、守ります」というと(24:8)モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」********
 言葉に基づくということは、少なくとも実行可能かどうか以前の人どうしの間で話された言葉にも理解されるものであったということ。これがキリスト教は言葉の宗教であると言われるゆえんかと・・・。つまり、ここで人の生理医学的といえばいいか、脳みその前頭葉を必ずフィルターとして神は少なくとも一度は、自分の言葉を用いて神と自己の関係を(血を通してだから)自分の肉体の生き死に考えながら意識せざるを得ない時を経験する訳であった。
◆一昔前は、ノーベル賞受賞者の6~7割はユダヤ人が占めていたのは、こういう普遍性のある言葉を観念的でなく、実際の事柄としてその言葉を実際的に使う訓練をしていたからなのかなと思ってしまう時があった。
◆さて、この共同生活、出エジプトに参加は、純粋なイスラエル人だけでは無論ないわけだったから、共同生活としての決まりは第一に神との関係に於いて契約としていかなる人も適応しなければならない事柄となった要素を内に含んだものだったことが理解される。・・・ここまできてどうだろう、創世記第3章の人が罪を犯したこととどういう関係があるのだろう。そこで、また戻ります。
(※注:突然に引用した出エジプト記第24章なのだが、上述引用の次の9節~11節と12節以降が、ちぐはぐとなっているのは先のブログに書いたが編集前の大切な資料を継ぎはぎしているからであることが推察される。10節 イスラエルの神を見る・・・なんて書いているけど神を見た人は死ぬんじゃなかったかなぁ!)・・・・続く 

世界のベストセラーを読む(409回目)脱線:広島原爆投下から72年 広島での不思議な思い出

2017-08-06 18:26:13 | 日記
 本日は、広島原爆投下から72年 朝の8時15分 テレビに合わせ黙祷する。
原爆では14万人もの方が亡くなられた。歳を重ねると戦争が絶えないことを
ほんとに残念に思われてしかたなくなる。今、人が神の前に罪を犯す場面を
学んでいる。(創世記第3章)

 学生時代、広島にある大企業の実習が必修単位であったので参加した。それぞれが
日本の各地の企業に2週間ほど、泊まり込みでつとめ夏期レポートを提出する。
もらえるのは三単位だったかな。

 そこに行ったのは、友人と僕の二人だったのだが、休みを利用し原爆資料館を見に
行った。写真ではなく現物がそこにあり、記憶にあるのは一升瓶が飴のように
溶けていたもの、それから人影が石の階段にくっきりと焼き付けられていたもの
だった。
・・・不思議に思っていることというのは、原爆ドームを背景に友人に写真を
撮ってもらったのだが、当時はネガ写真である、その場面だけが現像すると一枚も
写っていなかったことである。

 それから、カトリックのお墓をお盆の前に写真を撮りにいったこと。ずいぶん古い
お墓もあったが女性のお墓にはマグダレーナ(マグダラのマリア)という受洗名が
掘られたお墓が多かったこと。
これはデジカメの時代となっていたが、ここでも不思議なこと。
それはそれらのお墓の写真を撮ろうとしたときいくらやってもシャッターがカシャと
押し込まれなかったことだった。他の場面では問題なかったのに。

 写真に撮られるのが嫌だった霊がたまたま居合わせたんだろうなぁとそれなりに納得。
こういうことが、何度かあった。

 広島に共に行った友人は、その後、僕と共に教育学部の単位を一緒にとり(僕らは
今の工学部だった)卒業してから企業就職をやめて一転地元に帰って、小学校の校長
まで務めあげて退職した。

 彼が、エドガー・ケーシーという人の本に出会い、キリスト教に興味を持って、イエス
を信じ、洗礼を受けた僕の知人の一人である。・・・ 

世界のベストセラーを読む(408回目)人類(個々人)の遺伝的欠陥の消滅と新しい命 〔創世記第3章〕

2017-08-06 02:00:00 | 日記
 また、たいそう小難しい題をつけてしまった。そんで、そういうときはカテゴリーも最近変えたりしている。
◆創世記第3章は、神に創造された人が罪を犯した場面となるが、それが人類に伝搬して、今も(この地上に人がいる限り)、神の国に帰還するまでの悪戦苦闘の歴史を歩んでいるのであるとまとめるとそういうことになる。それで、なかなか進まない理由は、全人類に関わるとされる当初のその話であるからなのだ。第一にキリスト教、つまり新約聖書の神学展開を始めた使徒パウロは、自分は主に、つまり復活したイエスの顕現に会い、異邦人に宣教するために召されたのだと命をかけたのですが、その神学の論点は、「イエスの十字架」にあると言える訳です。いろいろ議論はあるが少なくとも僕はそう思う。
◆そこで、全人類に関わるであろう、アダムの話、そしてその全人類が信ずる事においては、割礼(つまりイスラエルの選民族としてのいわれの儀式)を受ける前のアブラハムことに於いて、「主を信じたこと」を論ずるのは異邦人に適応できること、つまりは今やキリストは、全人類のために十字架に掛かられたとの議論を展開するのでした。
◆そこで、僕ら地上の人間は、この肉体の五感が満足するよう(つまるところ脳みその満足?)発展してきた欲求の充足を求めて、少しく世界に目を広げてみれば、それは経済(儲けること)の満足の追究でもあった。それはあくまで手段であったにも拘わらず、それが目的となってしまい、今や、そのことを追究し、安楽に一つの従属が手に入ることになり、最終結果として僕らの命が永遠には生きないであろうという予測があろうにも関わらず(※僕はいつも思うがプルトニウムの半減期はは2万4千年、他廃棄物が貯まるのにどうして原発は廃絶されないのだろう。地球は確実に汚染されている。地球には人類が将来確実に住めなくなるだろうなぁ。)、まさにまだ先があるとノアの大洪水の警告にも関わらず飲み食いしているのと同じ訳である。そういう人の欲求の中に罪の根が有るのか、言葉上の輝ける未来のエネルギーが、実は人類を滅ぼす極めて危険なものでもあるにも関わらず、まさにそれは軟弱な土台の上に漂っているのだ。
◆ですから、人が罪を犯したこと、そのことに神のもとでの自由が得られないこと、第一に神の霊との断絶が起こっていること。(3:22) われわれのひとりのようになり・・・神に対抗するようになってしまったこと。さらに、パートナーとして創造されたにも拘わらず、もっとも信頼されるべきこれぞわたしの骨からの骨、肉からの肉(2:23)とまで言ったパートナーまでに責任転嫁が始まり断絶が発生したということです。さらには、悲しいかな、生き物には優劣性の優位を保とうとして、他を排他しようとする気質がある、英雄主義と言えばいいか、それが無ければ進歩は無い・・・というのはかっこええかもしれないが問題はそこにも生き物としての弱点がある訳なのである。
◆神の無理難題のような戒めは、この肉(神の断絶から始まった生まれつきの人)は、それを守り切れないこと、さらには、その戒め自体を知らない(つまり選民以外)の人にはどうなのかということをパウロはローマ信徒への手紙で語るのである。
◆さらに、神からの断絶、つまり霊の断絶は、今も行われて完全なる回復は不可能な訳だから、といって死んだら再びこの地上にその本人の自覚のまま生き直すということは不可能な訳であるのだから(自覚のないまま生まれ変わっている人はいるのだろうけれど)、このまま当の本人の自覚で次の世界に生きるには、まずすべてお見通しの心の中まで(パウロにしてみれば律法を守り切れていない自分があらわになる訳であるから)、そこで今、生きている自分をキリストと共に十字架につけよ!と力説するのです。いつも喜べ、絶えず祈れ、すべての事感謝せよ、そして第一に互いに許し合えとよく教えられるのは次の世界での反映される事象だからと考えられます。
◆イエスを信ずることそれは次の世界に生きるときにあらわになるはずの恥が、キリストを着ることによって解消されてる、無効にされている、皆無になって消滅しているということなのです。・・・とすれば、次の永遠の世界で楽しく、何の苦労もなく、みんなと生きることになるということなのですね。 
無学で、犯罪人でイエスの右に共に十字架にかけられた男、イエスを認め、御国に行かれた時どうかわたしを思い出してくださいとイエスに言った男がこの地上でイエスと共に最も早くパラダイスに帰って行く保証を得られたことを僕らは決して忘れてはいけない。〔ルカ23:43〕・・・ 続く                                                

世界のベストセラーを読む(407回目)何のことやらが実はとても重要なびっくりのことが書かれていたのだ!〔創世記第3章〕

2017-08-05 02:19:10 | 日記
 聖書はやっぱり、人が(といより、天上界と地上人間界の行き来していた御使いが昔・・・資料が諸々あろうとも)啓示により書き留めたものなのだろう。そこで、初めて読む人が、早速、何のことやらと思うのが創世記第3章の15節なのです。
 主なる神が罪を誘発させた蛇(悪魔)に向かって言う言葉。
 
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   15節:お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
        わたしは敵意を置く。
         彼はお前の頭を砕き
          お前は彼のかかとを砕く

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◆そして、食べてはいけないとの神が指示したのに食べてしまって、それを神が詰問する場面は、命令系統の手順を踏む部分は、それが手順としてやはり正解なのだよなと聖書は合理的だと思ってしまう。神は、初め人アダムに指示したのだ。女(あとでエバと呼ばれる)は、伴侶者であるアダムから禁止事項を聞いたのだ。ところが、女は指示命令系統に水を差すように指示命令系統からの逸脱、中途に神が創造された生き物で最も賢い蛇(姿を変えた悪魔)に唆されてそちらを信じたのだった。
◆(指示命令系統の混乱、大企業でもこんな事は起こるのだ)そして、伴侶者であるアダムに伝搬する・・・。神は当初の指示命令系統を踏んでアダム→女→蛇→女→アダムという具合に罪を犯したための人類の一般化でそれ以降、人という者がどのようにエデンの園から放置させられ額に汗水して食物を得ていかねばならないかを説明する。
◆さて、その15節は、初め何の事やらが、実は「原福音」と呼ばれている部分なのだということです。いのちのことば社、新改訳聖書のその箇所の注書きを見てみるとこう書かれていました。
 ※15節は原福音と呼ばれるもの。ここにはキリストの福音が予表されている。特に女の子孫が単数であることが、キリストによるサタンへの勝利を表していると思われる。お前の頭を踏み砕きは、サタンとその力に対する完全な勝利を表す。それに対してかかとにかみつくは、相手に激しい苦痛は与えても、それは致命的なものとはならないことを表す。・・・
 と書かれていました。
◆詰まるところこういう解釈になるのでしょうか。悪魔は、イエスを亡き者しようとするが、一時的十字架の苦しみがある(かかとにかみつく)が、そのことを通して、実は悪魔の恣意的な策略は完全に頓挫の運命となる(何しろ砕かれるのは頭だから)ということ。元の原稿資料はイエスの生まれる前の2000年以上に書かれたものだろうが、そのように解釈しようとすれば、これは少し驚きの部類に入ると思われる。・・・ 恐るべし聖書  Ω