marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(416回目)脱線:厳しい訳そのままでないと自己納得で生ぬるくなることを知っていたのか

2017-08-17 01:00:00 | 日記
 とかくこの国では、特に政治家は言葉尻を捉えられると困るからというのか、真意を曖昧にする言葉が巧妙に使われてきたが、古来ユダヤ人では、その言葉の使い方のニュアンスは、厳しい。それが、少し初めての方には面食らうところでもある。
◆それで、モーセの十戒で「汝の父、母を敬え」の戒律と、先のイエスの言葉で、「〔・・・・〕父、母を捨てろ〔・・・・〕」と出てくるのは、ガチンコするのではないですかという事の正解は、先のイエスの真意ということである。
◆聖書は、イエスの言葉に普遍性もあるが、当時の状況との中での会話のやりとりを考慮しないといけないところがある。無論、僕らはヘブル語のニュアンスまで知らないし、かといって、ご都合よく理解できるように僕らが原典を訳していいというところは駄目なところもある。(実際、ここが難しいところなのだろう。さすが始原は同じ神様でもイスラム教”コーラン”はまったく禁じられているけれども)だから、現代に於いても、その道の でも、しか・・・何とかの方が見られるような教師は特別厳しい裁きを受ける ことを知らなくてはいけないということになろうかと思う。この普通の人が思うであろう疑問を誠意を持って返答出来るその道の方がおられるかどうかは非常に少ないのではないかと、僕は疑問に思う。 

◆当時の状況を少し学んでみた・・・
 「一世紀当時のガリラヤでは、賢者の弟子たちはしばしば家を離れ、師に従って各地を転々と旅して歩くのが普通の暮らしだった。巡回伝道者の一行と言えば聞こえはいいが、実際はホームレスの集団。貧しく食にも事欠く日々に耐えなくてはならない。そのため弟子入りに際しては、それまでの人間関係も含めて、すべてを捨てる覚悟が必要不可欠の条件とされた。こうした入門事情は、イエスを師とする学塾にもそのまま当てはまる。(「ナザレ派のイエス」前島誠 著<春秋社> 弟子の身分とその実情からp115)
◆イエスの死後、弟ヤコブはエルサレム教会の指導者となった。(使徒言行録15:13-21)そして、教会の柱となる三人の内の一人となった(ガラテヤの信徒への手紙2:9)、その他の兄弟も、それぞれの妻と共に信徒になっていたことがパウロの手紙にあります。
(コリント信徒への第一の手紙9:5)「私たちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファ(ペテロのこと)のように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。」
◆僕らは、せっかくの命のことばが提示されたのにも関わらず、確かに全世界に福音は述べられつつある(・・・そして終わりが来る)。そういうなかで、僕らは、命のことばを了解し、納得し、それに立ち、契約を結ぶ一人になりたければ、喉に支えのある聖書の箇所の解消を、今の時代にこそ、よく彼に聞かねばなりません。これほどまでに、そういう尋ね人を捜しておられ、どれほどまでに人を自分の元に帰らせ愛しておられたかというようなことを少しでも感ぜられると、驚きを感ずるのです。神の言葉・・・聖書恐るべし。

◆終わりに、今までの事から次のイエスが最後に残した言葉をよく考えて見るべし*************************
 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」 
 そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして聖書の言葉が実現した。(ヨハネによる福音者19:26-28)
   *******************************************************  ・・・Ω  

世界のベストセラーを読む(415回目)脱線:「憎む」とか「捨てろ」とか、この言葉がキリスト教を遠ざけている理由でもある様に思うが・・・

2017-08-16 01:00:00 | 日記
 前回から続けてお読みください。宗教における恐ろしさといえば、若い頭脳が洗脳されて日本の国ばかりで無く、お隣の国や戦後にに宣教師を送ってくれた今はどうにかなったと思われる米国に於いても事欠かず家族を泣かせる言葉は、まずはここにありやと思われます。無論、イエスの言葉を分かりきってしまったようになってしまう事は、まずはあり得ないことですが(第一、僕らはその時代にその場所に生きていなかった訳ですから)盲信(よく分からず他力にて盲目的に信じる)という言葉もあるくらいですから要注意なのです。・・・
◆聖書は、旧約、新約の重要な神との「契約」の「約」という言葉(文字)があるわけで、これは一方的に了解するというのではなく、お互いが自分の言葉で納得し、了解し、約束をすることですから、この地上に、たった一人しか現存しない自分の言葉で納得、了解するために聖霊のサポートを受けながら、無論、試練、困難、目的不明の危機も多々受けながらの人生行路を精進していく旅でもある訳だ。さて
問題は次の箇所、イエスの言葉です。先の新共同訳(ルカ18:28-30)が新改訳では・・・、
 すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従って参りました。」 イエスは彼らに言われた。「まことにあなた方に告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者で、誰一人として、この世にあってその行く倍かを受けない者はなく、後の世で永遠の命を受けに者はありません。」
◎同じ記事が他の福音書にありますので、読んでみます。〔以下 新改訳で〕
◆(マルコ10:29-31)<イエスの言葉31節が突いている>
 ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従って参りました。」イエスは言われた。「まことにあなたがたに告げます。わたしのためにまた、福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今、この時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠の命を受けます。しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」
◆(マタイ19:27-30)<少し長い、マタイはユダヤ人向けに福音書を書いたことがここからも分かるなぁ>
 そのとき、ペテロは、イエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました。私たちには何がいただけるでしょうか。」そこで、イエスは彼らに言われた。「まことにあなた方に告げます。世が改まって人の子がその栄光の座につくとき、私に従ってきたあなたがも12の座について、イスラエルの12の部族を裁くのです。また、わたしの名のために家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍も受け、また永遠の命を受け継ぎます。ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」
◆並べて読むといろいろ考えさせる、なぜ、「妻」という文字が、ルカにしかないのか少し気になるところだが、ペテロは奥さん同伴だったのにね。(ルカ4:38)以下、今回の言いたいことで重要なこと。
◆結論を述べます。まず、第一に「憎む」(訳では「捨てる」)などという日本語では非常にきつい意味が、ユダヤ人の語り手のヘブライ語の意味のニュアンスは「より少なく」「2番目に」なるという意味であるということです。(ヘブル語サネー<SNA>)これは、旧約においても見られます。ヘブル語には、形而上学的なファジーな言葉の使われ方をすることが無いように思われてしまうことも読みにくい理由かもしれない。
このイエスの真意は「神の国とその義とをまず第一に求めなさい(求め続けなさい)<マタイ6:33>」なのです。 ・・・ 続く 

世界のベストセラーを読む(414回目)脱線:日常の事 汝の父、母を敬えと言うが・・・〔旧約聖書 十戒から〕

2017-08-14 15:40:25 | 日記
 このブログのカテゴリーは、「日記」なので 本来、日常の淡々した生活の綴りがふさわしいように思います。でも、開いてくれる人がカテゴリー「日記」では多そうだ。いきなり、小難しいオタクのような内容で面食らう人がいるかもですが・・・。今日は、休息も込め日常のことを少し書きます。
◆高齢のため、からだが思うように動かせなくなった父からそろそろ庭の草むしりをしてくれと依頼された。土いじりや草木の世話は、親父の趣味だったので、ほとんど僕は手を出さない。自分の事は、どこまでできるかな、そろそろ出来なくなりつつあるかなぁと日々の観察のように両親の事を見てきました。今年は全然、体が動かないようで庭の雑草(何をもってそう言うかは不明だが)たいそう無闇に生えてきて、このまま行けば庭木の自然淘汰が見られそうにもなった。で、庭の草木の名前も僕はほとんど知らないのだが、少なくとも歩くところににょきにょき生えた草を抜いてきれいにすることに。庭と言っても30畳もあるかないかの小さな庭だが。
◆共に生活すると突然の要求や、予定外の事がありと気が休まりませんが、とにかく食べることと排泄は人の生にとっての基本ですので、このことへの注意と、とにかく基礎代謝どうのこうのは既に遠い過去に過ぎさった方々でありますから、あとは、自分の事の自覚がどこまで理解し限界が来たかの自覚をどのように現されるかです。時折、かなり心配な兆候をしましますが、問えば本人達は、至っていつまでもこの生活が続くかのようです。
◆さて、世界のベスト・セラー聖書を読んで、日常生活とは関係ない、宗教趣味のオタクに近い人たちが、こういうブログなりに投稿するのかな・・・と思われる人がいるかもしれない。弁護する訳ではないが、少なくともキリスト者はそれは違うと返答しないといけない。
というのは、文字に現れない日常の時間にそれこそ、おおおく彼(つまりイエス)に教えられていることがあるからです。・・・と、僕は一応答えることにいたします。これは護教でもなんでもない・・・そうでなく恣意的に、ブログのためのブログ作成であれば、彼から教えられることは受け取る側の限界を知るはずであると思うので・・・つまり続かない。
◆本筋に戻り、創世記第三章の人が「罪」を犯した話から、時代はたいそう下り集団でのありかたとしての戒めモーセの「十戒」の中に「あなたの父、母を敬え。そうすればあなたはあなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」(出エジプト20:12)とあります。ところが、新約聖書にイエスが、どういう意味かと考えさせる文言があるのを、実は多くの人が恐れを持って知っているかと思います。それは、「脱出」と「前進」などといかめしい言い方で書いてきましたが先のブログ(412回)には「自分からの脱出」それが、親族関係者(血縁者、家族)までもからの離脱を勧めていると思われるイエスの言葉です。(ルカ18:29-30)
◆脱線と言って又、小難しいことに頭を突っ込むが 僕らの心理的なありように挑戦をするようなイエスの言葉は、当然、日本語だけではなく世界中の言語に訳されている訳だから、おいおい待ってくれよという、イエスの言葉に出会ったときはその真意を知りたくなってくるのである。こういう言葉にであった時は、他の福音ではどうなっているか、他の聖書の訳ではどうなっているかを調べることです。そして何より、言葉の意味を確認することです。
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(ルカ18:28-30)「すると、ペトロが「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。イエスは言われた「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」(これは現在、一番読まれている”新共同訳”です)
   *******************************************************・・・ 続く 

世界のベストセラーを読む(413回目)パウロの手紙にはところどころ分からんところがあるけれど 〔ローマ信徒への手紙&創世記第3章〕

2017-08-13 01:00:00 | 日記
 すべての人に公開されて来たが、見出す人は少ない・・・ それである。今もそうである。「狭き門より入れ」これはイエスの言葉である。小難しい聖書、聞いたことがあるけれど誰が読むもんかいと多くの人たちの声が聞こえそうだ。日本には、それなりの代替えがあるではないか・・・と。
◆一度、疑問を持つと、本当に奥が深くて、多くの人は品行方正、律儀で清さを求めて・・・いずれ、ひ弱な感じのイメージを持つのを免れ得ない。ニーチェなどは、自分の弱さをただ、それを覆うべく(つまりごまかすべく)傷をなめあっているだけではないか、ルサンチマンの解消にキリストの愛とやらを持ち出して自己肯定しているだけではないかと「アンチクリスト」を書いた。彼は、牧師の息子であり、相当に優秀であった。彼が発狂したのは、バチがあたったようにいう人もいるが、彼はキリスト・イエスを否定したのでは決して無く、ご都合主義の受け取る人間を批判したのであった。
◆僕は唯一の(イエスの)神は、すべての人間が考えるべく今ある宗教以前のもっと高い次元での大本(おおもと)と考えている。(たまたま僕には、イエスの父なる神が唯一の神であるとそう考えざるを得ない訳で・・・理由を書くと長くなる・・・というか今までの欧米のあらゆる、思想、政治、哲学、教養書などの本筋に乗っ取っているのは<怪しいのもあるが正統派で>、この揺るぎない命を与えている唯一の神というお方のベースの上に積み上げられていることが察せられると思っているからなのだが)
◆旧約聖書を少なくともそういう一般人間の品行方正、律儀という先入観で読んでも(読んで分かる筋書きのところを探して読んでも)なんだこれは何を言いたいのか・・・で、そういう先入観はすっ飛ぶ。これが世界のベストセラーにしてはあまりに分からん。お尋ねしたいところが沢山あって、これは何やら洗脳されているのではあるまいか・・・と逆に言われそうだ。確かにそうなのだ・・・おまけに新約聖書の最後の黙示録など読むと、救われる人は14万4千人なのだそうだ。え~えっ!少ねーぇじゃん。
◆さて「罪」ということについて考えてきた。様々の広い意味に捉えることが出来る概念のようだった。何らかの生きている間の、不品行や道徳的最低限の常識も含まれているようで、パラダイスから放り出された人は、もとの世界ので神との関係のある霊的世界からの脱落によって、肉における律法からの逸脱を罪と考えるようになった。それは部分であるが、表層の一部であることがらである。律法の真の核となるべく意味はこれがまさに、それが通常通りに行われれば「的外れではない」ということになり、恣意的にではなく内なる事柄の肉からの当たり前の促しとしての行為になるということが「的どおり」という訳だ。
◆だから、イエスを信じる「義」に対して、それが完全であれば、律法を成就することになるというのだ・・・ということになる。今回の表題は、ペテロの手紙に書かれている言葉である。(→ペトロの手紙Ⅱ第3章16節) ペテロが実際、パウロのどの手紙を読んでそう考えたのかは詳しく分からないけれども、パウロの神学的展開となるような手紙においておそらくそう思ったに違いない。例えば、イエスを信ずる事さえ行えば、律法はどうでも良いというようなことが起こったに違いないのだ。(今もそうかもしれない)。そのことへの戒めも、パウロ、ペテロの手紙に見受けられる。つまり、「罪」と同様に「律法」に対する概念も大きく理解しにくいものになって来ていたということだ。
◆富める青年が、イエスに向かい「先生、永遠の命を得るにはどんな良いことをすればいいか」「どの掟ですか」と尋ねる。イエスの答えに対して「そのようなことは、みな守ってきました」という。彼は、本来の「罪」の意味からではなく、肉なる外側からの規定、先祖伝来の言い伝え、戒めに沿って、自己診断し答えを得、満足しようとしたのだった。(マタイ:第19章16節)詰まるところ、律法を行おうとしても心の霊的な満足は決して得られずかえって富めるが故に、その満足をその富でどうにか出来ないものかとイエスに尋ねた理由であったのだ。イエスは言われる「もし、完全になりたいのなら行って持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい。それから、わたしに従いなさい。」と言われたのです。
◆肉なる外の人に関する充足の手段は、内なる人の霊的充足を与える物とはならないことをこの富める青年は理解していなかったのである。・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(412回目) それで改めて”信仰義認”を考えてみます 〔ローマ信徒への手紙&創世記第3章〕

2017-08-12 01:00:00 | 日記
 キリスト教で言われるところの「罪」ということを旧約聖書の中の律法(出エジプト記:モーセさんの”十戒”創世記第20章~24章あたり)と創世記第3章から少し考えてきました。そこで、僕ら一般の人々が思っているベールを少し剥ぎたいと思うのです。このブログの主旨は、初めから変わっていません。すべてのしがらみを脱ぎ捨てて、命のことばであるイエスのことばを自分のものに、つまり日々会話をすることです。
◆それで、”すべてのしがらみ”の中に自分も入るのですが、これが、又、大きなベールに包まれて自分で気がつきそれを剥ぎ取るということは、簡単な事ではないのです。ところがです・・・。時代が降り、新約聖書の時代を生きてきて、それを読むとどうも、さらにそれを突き詰めて自分の内の何かからも脱出を図るように促す文書の薦めが見られるように感じられる人も多くいるのではないかと思います。だいぶ以前に書いたこと、聖書は、”脱出”と”前進”であると、その理由は、永遠の命への帰還であると、そして、生き方の手法は”契約”に示されてあると言うことになります。それが、律法を通して、それを採用するとことの媒介、つまりそれが採用されて用いられる人というものの、その本来からにしてそれを採用して、いいとか悪いとかの全くそれ以前のベースたる人自体がもともと根が腐ってんじゃんという突き詰めまで我々に、内面まで深く掘り下げられて迫ってくる訳です。
◆自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。自分を愛することの困難さもあるが、命に関しては、つぎのイエスの言葉が迫ってくる、それは、命は誰しもこの地上で終わるのが必然なのだということ、それを乗り越える、つまり自分の自分では選択できないこの地上に生命を受けた、その肉との決別、脱出。(ヨハネによる福音書12章25節)「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」なのである。
◆それが、神の選民族たるイスラエル人の律法が与えられる以前の異邦人にも適応される、つまりは全人類の創造されたアダムの罪の汚染が以降の全人類に適応されるのだというのが、パウロの手紙なのでした。それは、アブラハムが選民族以前のしきたり、いわれの前に行為としてではなく、神を信じた・・・そのことが 信仰を第一にとの信仰義認、神に義と認められるということの証拠であると言うのです。
我々は、神の律法によりこの不完全な肉をそれに従わせきるということの不完全さを知らされる。この肉をキリストと共に十字架につけて自分の「罪」に死ぬのであるというのである。
◆キリスト教において、もっとも信者が少ない理由はここにありというところの通奏低音が、きらびやかな崇高な上昇志向の中においていつも糸の切れた凧にならにようにといえばよいか、そのアンカー(錨)となっているそのものが、自分自身の欠陥に気づくということになってくるのです。それが、2000年前この地上に立てられたイエスの十字架ということなのであると。不完全さの自覚、それに伴う個々人の人生の宿題、課題・・・「自分の十字架を負って我に従え」と言われたイエス。
◆(ローマ信徒への手紙第3章20~26節)「律法を実行する事によっては、だれひとり神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないからです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより。信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには、何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただ、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今、このときに義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」・・・・ Ω