marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(409回目)脱線:広島原爆投下から72年 広島での不思議な思い出

2017-08-06 18:26:13 | 日記
 本日は、広島原爆投下から72年 朝の8時15分 テレビに合わせ黙祷する。
原爆では14万人もの方が亡くなられた。歳を重ねると戦争が絶えないことを
ほんとに残念に思われてしかたなくなる。今、人が神の前に罪を犯す場面を
学んでいる。(創世記第3章)

 学生時代、広島にある大企業の実習が必修単位であったので参加した。それぞれが
日本の各地の企業に2週間ほど、泊まり込みでつとめ夏期レポートを提出する。
もらえるのは三単位だったかな。

 そこに行ったのは、友人と僕の二人だったのだが、休みを利用し原爆資料館を見に
行った。写真ではなく現物がそこにあり、記憶にあるのは一升瓶が飴のように
溶けていたもの、それから人影が石の階段にくっきりと焼き付けられていたもの
だった。
・・・不思議に思っていることというのは、原爆ドームを背景に友人に写真を
撮ってもらったのだが、当時はネガ写真である、その場面だけが現像すると一枚も
写っていなかったことである。

 それから、カトリックのお墓をお盆の前に写真を撮りにいったこと。ずいぶん古い
お墓もあったが女性のお墓にはマグダレーナ(マグダラのマリア)という受洗名が
掘られたお墓が多かったこと。
これはデジカメの時代となっていたが、ここでも不思議なこと。
それはそれらのお墓の写真を撮ろうとしたときいくらやってもシャッターがカシャと
押し込まれなかったことだった。他の場面では問題なかったのに。

 写真に撮られるのが嫌だった霊がたまたま居合わせたんだろうなぁとそれなりに納得。
こういうことが、何度かあった。

 広島に共に行った友人は、その後、僕と共に教育学部の単位を一緒にとり(僕らは
今の工学部だった)卒業してから企業就職をやめて一転地元に帰って、小学校の校長
まで務めあげて退職した。

 彼が、エドガー・ケーシーという人の本に出会い、キリスト教に興味を持って、イエス
を信じ、洗礼を受けた僕の知人の一人である。・・・ 

世界のベストセラーを読む(408回目)人類(個々人)の遺伝的欠陥の消滅と新しい命 〔創世記第3章〕

2017-08-06 02:00:00 | 日記
 また、たいそう小難しい題をつけてしまった。そんで、そういうときはカテゴリーも最近変えたりしている。
◆創世記第3章は、神に創造された人が罪を犯した場面となるが、それが人類に伝搬して、今も(この地上に人がいる限り)、神の国に帰還するまでの悪戦苦闘の歴史を歩んでいるのであるとまとめるとそういうことになる。それで、なかなか進まない理由は、全人類に関わるとされる当初のその話であるからなのだ。第一にキリスト教、つまり新約聖書の神学展開を始めた使徒パウロは、自分は主に、つまり復活したイエスの顕現に会い、異邦人に宣教するために召されたのだと命をかけたのですが、その神学の論点は、「イエスの十字架」にあると言える訳です。いろいろ議論はあるが少なくとも僕はそう思う。
◆そこで、全人類に関わるであろう、アダムの話、そしてその全人類が信ずる事においては、割礼(つまりイスラエルの選民族としてのいわれの儀式)を受ける前のアブラハムことに於いて、「主を信じたこと」を論ずるのは異邦人に適応できること、つまりは今やキリストは、全人類のために十字架に掛かられたとの議論を展開するのでした。
◆そこで、僕ら地上の人間は、この肉体の五感が満足するよう(つまるところ脳みその満足?)発展してきた欲求の充足を求めて、少しく世界に目を広げてみれば、それは経済(儲けること)の満足の追究でもあった。それはあくまで手段であったにも拘わらず、それが目的となってしまい、今や、そのことを追究し、安楽に一つの従属が手に入ることになり、最終結果として僕らの命が永遠には生きないであろうという予測があろうにも関わらず(※僕はいつも思うがプルトニウムの半減期はは2万4千年、他廃棄物が貯まるのにどうして原発は廃絶されないのだろう。地球は確実に汚染されている。地球には人類が将来確実に住めなくなるだろうなぁ。)、まさにまだ先があるとノアの大洪水の警告にも関わらず飲み食いしているのと同じ訳である。そういう人の欲求の中に罪の根が有るのか、言葉上の輝ける未来のエネルギーが、実は人類を滅ぼす極めて危険なものでもあるにも関わらず、まさにそれは軟弱な土台の上に漂っているのだ。
◆ですから、人が罪を犯したこと、そのことに神のもとでの自由が得られないこと、第一に神の霊との断絶が起こっていること。(3:22) われわれのひとりのようになり・・・神に対抗するようになってしまったこと。さらに、パートナーとして創造されたにも拘わらず、もっとも信頼されるべきこれぞわたしの骨からの骨、肉からの肉(2:23)とまで言ったパートナーまでに責任転嫁が始まり断絶が発生したということです。さらには、悲しいかな、生き物には優劣性の優位を保とうとして、他を排他しようとする気質がある、英雄主義と言えばいいか、それが無ければ進歩は無い・・・というのはかっこええかもしれないが問題はそこにも生き物としての弱点がある訳なのである。
◆神の無理難題のような戒めは、この肉(神の断絶から始まった生まれつきの人)は、それを守り切れないこと、さらには、その戒め自体を知らない(つまり選民以外)の人にはどうなのかということをパウロはローマ信徒への手紙で語るのである。
◆さらに、神からの断絶、つまり霊の断絶は、今も行われて完全なる回復は不可能な訳だから、といって死んだら再びこの地上にその本人の自覚のまま生き直すということは不可能な訳であるのだから(自覚のないまま生まれ変わっている人はいるのだろうけれど)、このまま当の本人の自覚で次の世界に生きるには、まずすべてお見通しの心の中まで(パウロにしてみれば律法を守り切れていない自分があらわになる訳であるから)、そこで今、生きている自分をキリストと共に十字架につけよ!と力説するのです。いつも喜べ、絶えず祈れ、すべての事感謝せよ、そして第一に互いに許し合えとよく教えられるのは次の世界での反映される事象だからと考えられます。
◆イエスを信ずることそれは次の世界に生きるときにあらわになるはずの恥が、キリストを着ることによって解消されてる、無効にされている、皆無になって消滅しているということなのです。・・・とすれば、次の永遠の世界で楽しく、何の苦労もなく、みんなと生きることになるということなのですね。 
無学で、犯罪人でイエスの右に共に十字架にかけられた男、イエスを認め、御国に行かれた時どうかわたしを思い出してくださいとイエスに言った男がこの地上でイエスと共に最も早くパラダイスに帰って行く保証を得られたことを僕らは決して忘れてはいけない。〔ルカ23:43〕・・・ 続く