marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

息抜き:海風にあたりにサイクリング、ちょとそこまで

2017-08-19 18:00:57 | 日記
 毎年、夏の連休に行っていることですが、昨年と同様、今年も掲載します。昨年とほぼ同じ場所かな、そうこれは、春のブログにも掲載しましたので捜して見てください。昨年の使用のリコーのコンパクトデジカメを落として壊してしまい、これはその後、ハードオフから購入のニコンコンパクトデジカメで撮影しました。
◆僕のブログは、頭のボケ防止もかねて文字だらけですが、今の仕事が完全オフになったらいいカメラまじで購入して、詩的な写真を多く掲載したいなと思っています。
  ・・・・・2017年終戦記念日の晴れた日に・・・・ 

世界のベストセラーを読む(418回目) 「わたしは主によって男子を得た」とエバは言った  〔創世記第4章1節〕

2017-08-19 09:05:10 | 日記
 僕らは、宗教云々関係なくても、新しい命が誕生したときに、誰でも喜びを感ずるものである。(これは正規な結婚でのこと、ここではなにぶんすべてバージンの世界の事であるから、それ以降のいろいろなドラマは考えないことにしてください。)
◆そして、これは僕だけかもしれないのだが、「この地上に命を授かって、君もいろいろな人生をこれから歩んで行くのか・・・と頑張るんだよ、出来るだけのことはするからね。人生は、楽しいことばかりではないからね。」と・・・僕は思ってしまうのだ。
◆表題は旧約聖書創世記第4章1節のエバが神から離れてからの第一子が授かった時に言った言葉である。
 産むという行為に於いて改めて、エバはこの言葉を吐いたのだろう。聖書というのは感情的なあらわし方をしていないが、これ以上もない喜びにあふれていたに違いない。そして、この言葉は、心情的にそして肉体的には意識はされないが暗いシミ、汚点(罪を犯して神の霊から離れてしまうきっけを作ってしまった失敗)
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  (創世記3:13)主なる神は女に向かって言われた。
         「何ということをしたのか。」
          女は答えた。
         「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
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 を覆い隠す神の許しを伴ったものと彼女は、感じていたに違いないのだ。だから、これ以上に赦され命を授けてくださったことに喜びと感謝を伴った叫びだったに違いないのだ。
◆この言葉は、今の僕らも新しい命が誕生したときに誰でもが語っている思いなのではないだろうか。・・・
 そして、彼女のそれまでの神に対する言い訳ではない、自らの赦しを得ているという積極的なことばとなっているのである。このことからして、旧約においても子供が授かることは、女にとって神から祝福された者として名誉なことだった。以降学ぶ、アブラハムのサラとハガルの子供たちにおいてのやりとりのその女たちの心情が理解される。
◆エバは、神に対して「蛇がだました・・・」言った。しかし、だましたのだろうか。神は、「必ず死ぬ」と言ったはずなのに、人はその時点で生きているではないか。ここで、エバは、だましたという言葉を使っているが、その意味をただ、神からの叱責に対する自己弁護としてのみ使って言っているのだ。だまされたというその失敗のダメージは、肉体的には何も損傷を受けていない。ただ、神からの叱責に対してのみ心の恐れを持ったのだ、少なくともこの時点で。
◆しかし、確実に食べてはいけないと神から命じられた木の実を体内に入れたことによる罪の汚染は、そのとき以降、人が地上に生き続ける限り消えないものとなったのである。
 それが、カインとアベルの事件にもなっていくのである。・・・ 続く