marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世耕経産相「根拠が不明」韓国の対抗策に

2019-08-13 16:37:46 | 日記

あの国の気質・・・WTOに訴えるどうのこうのと、それから韓国が仲裁に米国に入ってもらおうとしたことがありましたでしょ。禁輸品目などは、欧米で共有事項なのですから韓国は理解している筈なのですがね。国内向けのポーズなのでしょうか。◆中国も、香港での100万人以上のデモでも、僕らはよくよくその原因とそれから党が何を恐れているのか、人の気質、個人とその集団について歴史の上の教訓からも考えて見ないといけないね。無論、消費大国アメリカ、日本の戦時中の精神気質についてもね。◆韓国のクリスチャン人口は大変な数。それが儒教精神とあいまってうまくいってしまったと見えるところがある。工業製品について「軒下貸して母屋を乗っ取る行為」と僕はブログで書いたけど、キリスト教採用にあたっては、精神性において「軒下借りて反省無く母屋の主張を声だかにいいはる」気質について反省しなくてはいけないと思いますよ。◆戦後、日本がその国の再建の為に多くの支援をしたことなどを忘れてはいけない。

世界のベストセラーを読む(585回) 日常生活の流れの中で・・・又、戦争を考える時が訪れた

2019-08-13 07:17:38 | 日記

◆再び帰ってくる   昨日11日、毎年担当にもなった教会の永眠者記念礼拝後の愛餐記念会での司会を仰せつかった。毎年、敗戦8月15日に近い、前の日曜日に永眠者記念の礼拝を行っている。礼拝のメッセージ箇所はヨハネ黙示録第21章1節から4節。(後ほど掲載)今年は天に召された方もおられ親族の方も来会されていた。多くのキリストを信じて亡くなった方々の写真を前に、その方々の時代に時代にどのような思いで信仰を持ち、生きて過ごされたか、しばし個人の愛称賛美歌を歌い、故人を偲んだ。 

◆NHKスペシャル”激闘 ガダルカナル” を見た。あの人がまた出てきた。あの人、陸軍の丸眼鏡の。大本営の陸海軍のメンツまったく場違いな合理的な思いだけでの 最強と言われた一木支隊の全滅について、原因の追及、情報の確認の甘さ、勝手な人命軽視のそれぞれの軍の思い込み戦略。思いだけの指令で突っ込めと・・・全滅した多くの遺体。組織の管理 指揮権限の声だかに正論を通せばそれがまかり通る。相対的に自分の位置が見えない。高みに登った総じての合目的性の為に遂行の為の組織のあり方が構成できない。海軍陸軍の協力という名目も、お互い勝手な論理で議論もされていなかったというのが実情とか。この戦争もしかり、この戦い名で検索すると多くの記事を見ることができる。今も世界のあちこちで起こっている紛争。人という生き物は一体何なだろう。

◇第二次世界大戦後に東京裁判が行われた。何十年も前、僕はその映画も見たし、大きなポスターも今での僕の部屋に掲げている。ところで、敗戦となっても戦争を指揮した人たちが本土で生き延びてるのは、どうしてなのだろう。戦地であれだけの犠牲を出しながら、これも不思議でならない。あの辻政信は、戦後議員にもなっていて僕が生まれて10年以上も生き延びている。東南アジア方面で失踪事件もおこし、何処かの国で処刑されたんではないだろうかと言われているそうだ。石川県加賀市には彼の銅像も建てられているから、不思議でならない(ウィキペディア参照)。何を元に人を評価するのだろう。秀才であり思弁が立てば戦争という多くの犠牲を起こしても英雄視されるのか、自己肯定が激しければそれで偽りであっても正義がまかり通るという理屈になるのだろうか。この人の事は、以前ブログにも載せた作家西木正明が、再び調査し本に著す作業が行われているそうだ。

  ***************************************************************************

 今、このときにも、僕らはこの地上でうめき苦しんでいる多くの人々がいることを知っている。世界のベストセラー、キリスト教は宗教ジャンルの横並びのひとつではない、人の世界では一応そうはなっているけれど。人を創造した神(つまり僕らはその作者を決して乗り越えられない)が人々に再び(天に)帰るようにとその道を開示されたものなのである。この地球は終わるだろうけれど、彼(イエス)が示した世界は、永遠の世界なのだ。そのに到達せんとして僕らは今日も悪戦苦闘して生きていくのだ。

◆わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫の為に着飾った花嫁のように用意を整えて、神の元を離れ、天から下ってくるのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共に居て、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(ヨハネ黙示録第21章1節から4節)・・・Ω  


世界のベストセラーを読む(584回) 今年も「永眠者記念礼拝」が訪れた

2019-08-11 08:10:49 | 日記

 毎年、この暑い夏に訪れる日本でいうところのお盆  キリスト教会では「永眠者記念礼拝」が行われる。そのまま読めば、キリストが再びこの地上に目に見える形で来られる時まで、今まで信じて亡くなった人々は眠っているのであるという意味。

◆ あの戦争、ノモンハン事件、誰もが馬鹿な戦いだったと誰もが今では言う。必然的にあの戦争は起こらねばならなかったのだろうか。日本を巻き込んだのはあの「空気」だったのだろうか。日本はどうしてこうも常識を外れた戦争をおこなったのだろうか。戦争に関するものでも少しく目を通せば、馬鹿な戦争だったとどの本にも書かれているのが不思議、というかその根は、何も変わっていないのではないか、というか我々は、過去のそのような出来事をとおして何を変わらず持ち続け、何を変えなければいけないかを真剣に考えなくてはいけないと思う。しかし、待て。

そもそも僕らは、その時代に生きていた訳でもなく、当事者でも無い。過去の出来事に一見平和な今の時点から、安穏と評価しているだけではないのか、そう思う判断資料は何なのか。時代を映し出すメディアか。僕らは、もっと高みに登った物の見方が出来るのではないか。しかし、やはり理想か、豊かになれば民主的にもなろうの筈が、援助すればそれをいいことに、攻撃武器を持つようになり、昔の恩など何処吹く風。

 ◇◇教会で毎年、日本のお盆の時期に行われる「永眠謝記念礼拝」

  ◆今までの亡くなられた沢山の信者の写真が飾られる中でノモンハンで亡くなった戦時中の服を着て帽子をかぶられた方の写真がひとつ掲げられる。太田一男(1939、8、21 永眠)それだけが分かり、若くして亡くなられた顔立ち、他のことは何も分からない。戦時中に相手国の情報も自分の国の力量も理解せずに、ただ精神力だけで無謀な戦争に突き進んだのか不思議でならなかった。額の後ろにノモンハンで戦死とだけ書いてある。  

◆昨年2018年昨年15日のNHKスペシャルで「ノモハン 責任なき戦い」を見たことを思い起こす。たいそう聡明な辻政信というエリートの戦略が頑なに押し通されたいったという内容であるが、頭が切れ、物言いが強く、主張し続ければ、内地のこの国の例の人的関係で情実(理性的で合理的ではない心情で、主張を通せばそれがまかり通ってしまうこの国の組織のあり方を考えさせられた。止めさせ様とする天皇陛下も、現場強しで飾りと成り果てていた。20000人の日本兵が無駄な死を遂げているのである。ロシアやアメリカの映像も取り入れ、当の日本では間違ってもこういう記録は出た来ないだろうと思わされる多くの遺体の場面。しかも撤退を指揮した現地の部隊長にはしめしが付かないと、銃をわたし自決を促しているのである。これ不思議、軍部上層部の一部は自分のメンツを保つために兵を独自判断で待避させた現場の上位に拳銃を密かに渡し、自決を迫っているのだ。こういうことがすでに内輪で行われて居ることにすでに勝敗は決まっていたと思う。かの、司馬遼太郎も馬鹿な戦争をしたとTVであからさまに言う。「組織とは何か、責任とはなにか」・・・その言葉で番組は終わる。

◆同様な軍部の独走。作家澤地久枝が長年追求してきた2.26事件。軍部上層部がいかにも天皇の許しがでたように換え、政治家を暗殺するクーデターを若手将校にけしかけ、あからさまに天皇が側近暗殺に不満を述べるとその決起した若手将校らを死刑処罰したというとんでもない実情だったという話。そもそも日清、日露の勝利は日本だけの力ではない、それを分からないところが天皇をバックしにした皇軍と呼ばれた軍隊組織での上層部の阿呆さ加減であった。個人と組織、人という生き物が持つ、優位性、排他性、覇権主義、それらは国単位でも起こりうるし実際、見渡せばそうなのである。神の似姿に創造されたという人と言う生き物は、いかなるものなのか・・・

 


世界のベストセラーを読む(583回) 猛暑のこのとき、涼やかな風の吹く木陰の下で

2019-08-10 06:21:31 | 日記

 雑感 若干、言葉使いが理科的で気にかかる方もあるだろうけれど、論理的というか、ゴテゴテと書き綴り表現主義などというか、詰まるところ適当なのだが、世の中には自己実現する世界が未知に広がっていると思われていたころ、自分の将来には何の障害もないと信じていたあのころ。

◇そのイメージと言えば、数年前では映画「スタンバイ・ミー」とか、作家庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」のイメージとか、中村紘子というピアニストが奥さんだった(「チャイコフスキーコンクール」という本は作家薫くんがゴーストライターではなかろうか・・・と)。「大人になるということは可能だと思っていたことが不可能だったと気づいていくことに他ならない」というような彼の言葉が記憶に残っている。学祭に招かれた時の講演題はその後、出版した「バクの飼い主めざして」だった。これからの世界は想像力を駆使して行かなければ、楽しい世界は訪れない、だから、夢を食べるという動物バクの飼い主になるのであると。

◇学生運動が下火にむかいつつあるころ学祭には、「されど我らが日々」を書いた柴田翔 という作家、この方は大学のドイツ語だかの若き先生だったと記憶しているが、自分のその作品が大学の試験に出て、その問題に、そもそも答えを出すような読み方が自分の作品には求めていないのだが・・・、といような反論をしていたのを思い出す。

◇夏が来ると思い出す。僕の中学時代、夏休みにN君の家に泊まる。ささやかな木漏れ日のあるビルの谷間、早朝、涼しい一番町を散歩する。まだ、人通りのない東北の地、杜の都仙台の一番町の通り。僕らは太陽の登る方角に向かい勾当台公園から藤崎デパートに向かい歩く。それはずうと昔、僕の中のスタンバイ・ミーである。

◇今では一番町のこの辺のどこかの喫茶店で作家伊坂幸太郎がパソコンを叩いているのだろう。佐伯一麦という作家も仙台のひとだったな。ひとつぶの麦だから、彼の著作からはなんとも推察出来ないが、名前をつけた誰かはきっとクリスチャンに違いないと思っているのだけれど。女優と結婚された作家伊集院静も奥さんの地元の仙台に住まわれていたな。篠ひろ子という方ではなかったか。僕は中学時代から車に興味があって武道館で車の展示会が開かれていたある日、その女性のサイン会をやっていたのを覚えている。きれいな人だなぁとは思っていたけどあれから知られる女優さんになろうとは思わなかった。音楽といえば、東北学院大学出のハウンドドック。ボーカルの彼は大学の礼拝堂で結婚式を挙げたのではなかったかな、確か。そういえば、後で思えばなのだけれど青葉城恋歌のさとう宗行という歌手も一番町のレコード店の前でサイン会を行っていたのを覚えているけれどまだ知名度がなかったのか、人は殆ど気を止めず通り過ぎていくのだった。・・・それからまもなくNHKの紅白に出ようとは。今は100万都市になってとても広くなった。地下鉄も出来たし、大きなビルも立ち並んだし。・・・なんかみんなせかせかして来たようでゆっくり時間が流れていたころが懐かしい。

◆高校時代は、実に暗かった。確かに「大人になるということは可能だと思っていたことが不可能だったと気づいていくことに他ならない」。しかし、僕には、もっと自分の存在に漠然とした不安を感じ初めていたのです。・・・その後、僕は親父の仕事の都合で青森の高校に転校した。 


世界のベストセラーを読む(582回) 映画『この世界の片隅で』と『野火』を見た(八月になると思い出すこと)

2019-08-09 06:00:41 | 日記

 また、戦争の記憶を呼び起こす8月となった。1945年8月6日広島に、そして8月9日に原子爆弾が落とされた。毎日、ネットでニュースを見ているけれど、「今日はその日である」ともっと大々的に訴えてもいいのではないかと思うけれど、気にとめない人はそのままの日常を行き過ごしてしまうのではないかと思われるほど、それが流れないのは何故なんだろう。

◆そんな中、今週、2件戦争に関する映画をBSで見る機会があった。「この世界の片隅で」と「野火」である。「この世界の片隅で」はアニメーションなのだけれど、日常の生活が素直に淡々と描かれて、戦時中、広島の呉に嫁いだ”すず”という女性の半生が描かれる、最後にそこから広島に落とされた原爆の様子が描かれる。淡々と自分の人生を受け入れて素直に生きていこうとする姿が、今の世の中から考えているからなのか、実に切なく思えて仕方がなかった。当時の人々の生活はそのような毎日だったのだ。核は、敵味方などに関係なく人類の愛憎劇土台自体を完全に破壊する。

◆「野火」は大岡昇平の小説である。塚本晋也監督は、少しリアルそのものなのだと文句が言えない程に(グロテスクに)、兵士の死、戦争の悲惨を描いている。生き延びる為に自分らの兵をも殺して食うという極限が、これはフィクションで無く事実だったということは、映画ほどにもは無かったかもしれないが大岡昇平の体験から分かる。塚本晋也監督は、あの映画「沈黙」で村の隠れキリシタンの役で、荒磯に建てられた十字架に貼り付けにされ、満潮になり溺死させられるという刑に掛けられるという配役で出ておられた。

◇八月になると、いつも思い出す。

お袋の自分の兄のこと。お袋は23歳の若さで中隊長となり中国山西省太原で連帯を引き連れて終戦間際に亡くなった兄のことをよく話してくれた。全国の高校から優秀学生が選ばれて天皇陛下に接見する機会に預かり、宮城でのお言葉の時は涙がとまらなかったと話していたと。こういう親族が居るとお袋のでは代々、兄のことが語り種となり一目置かれたそうである。全国から選ばれたというその名簿は記録にあることだろうから見てみたいな。お袋の父親、兄の父親でもあるが、昔、そのちょび髭をはやしたその父親が軍服に身を固め、足を広げ椅子に座り、股の間に立てた軍刀の柄に両手を組んで映って撮られた写真を見たことがある。早くに連れ合いを亡くし連れ子のある後妻をもらって子どもが増えて、家は貧しかったようで、兄は大学に行きたかったが、当時はみなそうだが優秀な兄も戦争にいって亡くなった。当時、親族を戦地に送ることは当然、名誉な事とされていたから。・・・しかし、

◆他方、僕の父親方の爺さんは、僕の親父も若者らが誰しも憧れた戦争勇者に鼓舞されて兵役の試験場に行ったその場に「母危篤すぐ帰れ」と嘘の電報をうち、試験をやめさせたと。僕の親父は試験場に駆けつけた爺さんにかなり頭をぶん殴られたらしい。「命を粗末にするな」と。僕をかわいがってくれた田舎のその爺さんは、樺太に渡り、の人を呼び寄せ多くの仕事を与えたそうである。それで、樺太から帰る時はの人みんなが提灯をもって出迎えたという話を聞いている。このブログを読むみなさん。どうか自分の中のDNAを引き継いできた昔の世代の人々がどういう人生を歩んで、自分の命まで繋げてきたか、この時期に考えて欲しい。この爺さんは、よく囲炉裏の前に座って、毎日、まめに辞書を引きながら日記をつけていた。樺太から引き上げてから自分で建てたというあの木造の家に、僕はその田舎の家で生まれたのだが爺さんの座っていた背後の壁には、何処で手に入れたのか分からないが僕の生まれる前から、ミレーの「晩鐘」の絵が掲げられていた。親父の仕事で僕の一家が田舎から離れて暮らすようになった。僕が小学生に上がり、飛行場の絵を描きそれを送ると囲炉裏の自分の座る壁の後ろに貼ってくれていた。そして、僕が親父にもらった小さな英語の辞書を爺さんにあげると喜んでもらってくれた。反体制側にも立っていたであろう僕をかわいがってくれた爺さんは、あの時代「アメリカには自由がある」と何とは無く語っていたように思えてならなかったのである。

◇樺太から帰ってくる時、あの事件、北海道に引き上げる貨物船がソ連潜水艦で撃沈され1700名をも犠牲者を出したという事件に遭遇したのだ。三船殉難事件と呼ばれている。家財道具一式を積んだが人が満員で乗れなかった爺さんと親父は結局そのあとの船にのり命だけは助かったと。このとき親父が死んでいれば、僕は今、こうして生きてはいない。・・・続く