★急に雰囲気が変わって、今までに書いた宿題のこと。キリスト教会の礼拝で説教を話す機会があって、今までに感じて、今という歳で感じたことを原稿なしで45分ほど語らせてもらった。(7月31日)以下は、それを話すまでの個人の内面のことである。話した内容は次回以降に。
ブログを書き始めた主旨でもあるんだが、それは実に単純で重い内容でもある。よって、ある程度、求める思いがない人にはさっぱり面白くも何ともない話になってしまうもの。けれど、これは人が言葉をもち、生きている間に(つまり意識がはっきりしている間に)人それぞれがきちんとそのことを自覚しておいた方が、よいと願っていることなのだ。死亡率100%の僕らにとって。
しかし、それも結局のところ地上の人からの促しによるものではない、ということらしい。ましてや、事件となる霊感商法とかなどでは決して無く、そもそも何の条件、沢山の神学書でもなく一切の媒介物なしに直接の上からの啓示によるものである、ということが大切なのであると。では、どのようにして、それを待つのか、しかも、その促しは外からの言葉では無く、内からの自覚として言葉が生まれるというのに。それが、祈りというものであろうが、まず、想像しつづけるべく物語を地上に残された彼、キリストのことを思い、会話をなすべしとされる。
上からの啓示の霊的センターは、人類が存在する限り無くなることのない霊的クラウドである。人は、その霊的クラウドとコンタクトを取っているのだ。霊的クラウドも様々ある。よって、キリスト者が述べるのは、途切れない、消滅しない、創造の起源以前からの霊にコンタクト(繋がり)を付けるように、切れないようにとの強い促しなのである。キリスト者が示されたのは『聖霊』という、命の源泉ともなる霊根源のそれにコンタクトし続けよ、との促しである。これは、創造者が実になりふり構わず、求めよ!と促しているものである。
ここまで読んで何のことやら、であれば先に意識しておくこととして、第一に今、僕らはこの瞬間も生きているということを思う。当り前のことだ、で済ますこと無く、キリスト者は誰でもが通過する関門である。それには、誰でもが霊を持って生きている、ということ。この辺から人の考えが分かれてくるらしいが、まず、それを信じている、感じていると書いた方がふさわしいかもしれないが、その人を対象に語られる。今月は先祖の霊が帰ってくる月でもあるらしいから。
次に、人の脳みそを超えた至高の存在があるということ。創造されたものは創造者を超えることはできない。創造者、それは神とも呼ばれる人を創造された存在。創造者が人を創造し、息(霊)を吹き込み生きるものとなった、ということ。人が誕生し、その人(子供)にふさわしい生命エネルギーの霊を吹き込まれ、地上に誕生する。上に述べた『聖霊』のセンターのクラウドにコンタクトがされない霊は、肉体が消滅すると霊も消滅する。コンタクトがとれ続けた霊は、地上で受信機であった肉体が消滅しても個人の霊として、そのクラウドに生き続ける、それが永遠の命と呼ばれるものである。それは、そこに霊的受信機としての朽ちない肉体も備えられる。
この内容は、本当は実に単純であることを信ずることなのだが、事実そうなのだ。ここで一切の媒介物なしにと書いた事は、心情的媒介物それが牧師や司祭や霊媒師などであっても、究極は、それらを参考にするにおいても、第一次的に霊的仕組みはどうなのかという意味である。そこには契約がある。
個人が直接、結びつけられないとそのことが分からないし、求めればこの地上の死亡率100%の僕ら個々人にとっても、しかり!このことなのか、と何らの肉体的条件、知能、能力、体力、年齢、性別・・・・諸々無関係に、命ある人すべてに当てはまる受け身となる受信機の「わたし」をこの地上においても感ずることができる、と思われる。
しかし、だからこそ、受け取る、聞き取る私自身の判断の土台の基礎がどこにあるのか、ということが大切になると思わないか?少なくとも、すべてにおいて目覚めると思考がリセットされる僕にとっては、起きがけにその土台の確認から行わなければならなかった。
うまい文学というのは、文章のきれいさもあるだろうけれど、実際、”絵にも描けない美しさ” という言葉があるくらいだから、どうなのか、実際、文字でかいてもわからない、体験した人に聞く以外にない、しかし、体験した人でもそのものの実態は、語っても言葉には表現できない。現に今もその事実は”ある”ということなのである。今も聖霊としてのキリストの霊は、生きて働き、私に繋がれと促しているのである。
結論、聖霊につながれ、繋がりつつけよ。キリストの死を思え、キリスト者は彼と共にこの地上の肉体は死んでいるのであるから。残るはこの地上の生涯が終われば、霊が永遠の霊のクラウド『聖霊』センターに運ばれ永遠に生き続けるのである、と。・・・