写真は2024年元旦の入院時のもので本は膝にあげて撮ったので下は、病衣である。診察してまさかすぐ入院とは思わなかったが、持っていったのは待合室で読もうとした本とスマホと財布のみだった。牧師に電話をかけて年度替わりの聖日は礼拝できないお詫びをして、ついでにスマホの充電器を購入して来て貰い、病室で祈っていただいた。
それはそれとして、掲載の本は学生時代に読んだずいぶん古い本である。『精神身体医学』という精神のありようが身体に影響を及ぼすという医学的な初期の頃の話である。この類いの本を読もうとしていたのは、やはり精神と身体の違和感、不調、漠然とした不安を僕はいつも抱えているところからなのだろう。その後の脳みその話も同じ・・・。自分とは何か? 人とは何か?
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年越し。雪も無く、寒いが天候も晴れやかな日で合った。それから一週間入院。静かな病院で、といっても室内には、奇声を上げる人もいたけれども。昔、ジャーナリストの知の巨人などと言われた立花隆が、脳についての本を書いたことがあって、そこに最先端の医療器機についてのことを調べた場所にここ脳研と言われたこの病院が書かれてあった。昔、○○県脳血管研究センターと呼ばれていたが、現在は○○県循環器・脳脊髄センターと呼ばれている。
脳内の様々な物質の動きを捕まえて、画像化することができる。それによって、脳波などでは絶対とらえられない脳活動のケミカルな側面を捉えることができるポジトロンCT(陽電子放射断面撮影装置、以下PET)を手作りで作成し、開発した世界でも数台という当時最先端の機器を設置されているとの研究所ということであった。
この当時は、自分の阿呆さ加減もあってずいぶん、自分のことを知りたいとこの手の本を読んだ。退院し自宅に戻ってから、引っ張りだして本を読んだ。1996年5月の発刊(朝日新聞社)p127~。理解したかはどうか別にして。僕が見て見たのはMRI(核磁気共鳴断層撮影装置)。もともと被験者はどのような気持ちなのかを体験できて、画像もみることが出来て良い?体験だった。
**************第一章から
「脳について知ることは、自分自身について知ることである。悩の知覚作用について知ることは、自分の知覚能力について知ることであり、悩の認識作用について知ることは、自分の認識能力について知ることである。同じ事が、行動、意識、記憶、学習、情動など、人間の持つすべての能力について言える。脳を知ることは自分を知ることであると同時に、人間を知ることである。いずれ、人間科学は、脳科学を抜きに語れなくなるだろう。・・・
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彼らはどこにいるのだろうか。彼等と言っても、それはすでに限界があるから何といえばいいかなのだが・・・。僕らが一般に宇宙人やUFOというものはまだ、彼らの世界では初歩の人らなんだ。そうではなく、もっとはるかに進んだ彼らの世界は・・・
もっととてつもなく科学が進んでいて、僕ら人をも創造して、それを今の僕らのように進化させ、さらに彼等自身が目には見えない霊と一般に呼ばれているものだが、それらに化身して、人となって我らの生活に関与している、そういうものまでに進化しているといったらいいか。そこまでも進んでいる彼らの世界といえばいいか。
僕ら「人」をまったく創造できたという、それほどまでに進んだ彼らの世界。つまり、あなたでもあり、僕でもあるとう、その生存する今に同期して関与している世界の人たちと言ったらいいか。
彼らは今、僕らのどこにいるのか、考えてみようと思うんだ。第一に次元についてだが、今の世界は三次元とういうのは分かるかと。。。X,Y,Zの、それに時間tを考えると4次元。それから僕らは空想という、頭の中での創造する領域がありそうだ。これは個人にしか、わからない。他人からは言葉で語らない限り内を空想しているかはわからない世界。それを足すと5次元。
本来は、それさえにも細かな次元があるだろうけれど、思いはとぎれとぎれできちんとは追求できないからそれを一つの次元としよう。それにも時間があるだろう。それは、つまり、同じ空想するといっても時間によって細かな違いがあるだろう。考える母体がすでに時間という制限の中に生きているのだから。当然、それに準じて空想世界はあるという意味でだ。これで6次元だ。
僕らが屁理屈つけて次元を追いかけてもこの辺あたりが限界か。以上が物理他的次元である。これは数式表現で追求できる話でもありそうだ。
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今度は思考のレベルでどうなのか。僕らは多様な世界にあると言われるけれど、これは宗教的次元ではというより、そういう世界があるとよく示される。
仏教では六道と呼ばれる。涅槃、人間、地獄、餓鬼、畜生、修羅。階層順は忘れたけれど、人は今生(生きている間)の心がけによって、生まれ変わると本来、上位界の涅槃に入るが、人間界よりひどい階層に落とされて地上の苦しみを何度も生まれ代わりながら、涅槃を目指すとされる。
キリスト教の場合はどうだろう。使徒パウロは第三の天にまで挙げられたと体験を語るが、第一、第二は何なのだろう。これはあくまで霊的世界のことなのであろうが、詳しくは書かれていない。第三の天とは召天されたキリストの居られる世界なのだろう。とすれば、第二は我らのいるこの地上の霊界のことか。第一は死後の世界(といっても肉体の死であって霊的には生きてあるいは眠っている世界)、「陰府(よみ)」と呼ばれる世界であろうか。
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次に思考の階層をレベルを考えて見たい。彼らは、その次元では多く存在する。そして、現世でそうだったように思考の階層のレベルの中に浮遊する。我らを取り巻いているのだが、僕らは気がつかない。しかし、それらとやりとりしている。脳の前頭葉が働き意識化され、会話が始まれば、まさにそこに存在するのである(脳の前頭葉と松果体の間あたりにあるような気がするんだが)。・・・その動きは固定化される言葉では表現しきれないものである。一端を垣間見ることしかできないのである。霊とのやりとりといえばいいか。・・・