軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

大阪の軽井沢

2018-01-26 00:00:00 | 日記
 高齢の母の見守りに、毎月大阪に来るようになって1年半ほどになるが、その機会を利用して大阪周辺の観光地や各種展示施設などを訪れている。私自身は大阪出身ではあるが、学生時代までを過ごしただけで、当時はまだ車を持っておらず、行ったことのない場所は結構多くあるし、この50年ほどで、大阪も大きく変貌しているから、見所は随分ある。

 今回、軽井沢を出るときに、妻から「大阪にも軽井沢がある」との情報を得た。渡されたプリントを見ると、「大阪の軽井沢」との文字が見える。とりあえず受け取って、移動の列車内で見ることにして出かけてきた。

 その場所は、大阪北部の豊野郡能勢町・豊能町と言うことで、両町内全域が標高200m地帯で、500mに及ぶ地域もあり、夏は大阪市内とは5~6℃気温差があり涼しいところから、このように呼ばれているということであった。

 いつごろからこう呼ばれるようになったのか、私が大阪で過ごした頃には聞いたことがなかったように思う。

 母は、毎週、月・水・金とデイサービスに行っていて、朝出かけて夕方には帰ってくる。火・木は自宅で過ごしているが、このどちらかの日に、毎月のように映画を見に行っている。

 先月などは、2回も見に行ったが、これは母が映画を見に行ったことを忘れてしまい、数日後にまた「映画を見に行きたい!」と言いだした結果である。

 週末は食料品の買い物などに出かけたり、外出したりすることが多いが、今回の「大阪の軽井沢」行きも日曜日になった。ドライブ好きの母も当然一緒に付いて来ることになる。

 車のナビに目的地のひとつ「豊能町中心部」をセットして、自宅のある堺から近畿自動車道に乗り茨木方面に向かった。吹田ICを出るとすぐそばに大阪万博記念公園や阪大病院の建物があり、その横を通り抜ける。

 就職のため大阪を離れる頃にちょうどこの大阪万博が開催され、見に出かけたのであったが、その頃とは周囲の様子が一変していることに少なからず驚いた。

 市街地を通り抜けて、坂道に差し掛かると、少し離れた場所に「ガラシア病院」という看板を掲げた大きな病院の姿が目に入った。この「ガラシア」という名前が、これから目指す「大阪の軽井沢」豊能町高山地区は、高山右近の生誕地であり、高山右近といえば、戦国時代のキリシタン大名として有名であったことを思い出させてくれた。

 ただ、帰宅後この「ガラシア病院」について調べたところでは、高山右近との関係については見出すことはできず、病院のウェブサイトには次のような説明があった。

 「ガラシア病院は1953年(昭和28年)11月、カトリック大阪大司教区および大阪聖ヨゼフ宣教修道女会を設立母体として、キリストの愛に基づいた医療奉仕を目的に大阪市西区に設立されました。 1969年 (昭和44年)4月、箕面市に移転し、現在は9の診療科をもって診療を行っています。
 各科ともレベルの高い専門医療を目指すとともに、近隣の医療・福祉施設や大学病院との連携のもと、地域の方々に安心していただける医療の提供に努力しています。」とある。

 さて、ここを過ぎてから道路標識を見ていると「勝尾寺」という名前がでてきて、この勝尾寺には中学生の頃、昆虫採集に行ったことがあるのを思い出した。

 阪急電車箕面線の終点・箕面駅で下車し、箕面滝まで途中昆虫館などに立ち寄りながら歩き、更にそこから奥に向かっていくと勝尾寺に出るのであった。

 今、車で逆方向から勝尾寺に向かっていることになるが、このあたりは周囲の景色から今でも昆虫採集にはいい場所ではないかと思える。道路は上り坂が続くが、日曜日ということもあって、多くの自転車に乗った人の姿を見かける。中には上のほうから小学校低学年と思える子供がヘルメット姿で坂道を下って来るのに出会い感心する。

 勝尾寺に着いてみると、予想以上の人出で、第一駐車場は「満」状態で停めることができず、更に上の方の立派な建物の内部にある第二駐車場に車を停め、参拝者出入口に向かった。ここで、一人400円也の入山料を払い、境内に入る。
 
 中学生の頃の様子を思い出そうとしたが、古い山門を見たような記憶しかなく、それも本当にこの勝尾寺であったのかどうか確信が持てない。今、目の前にある境内の様子は、広く手入れが行き届いている素晴らしい場所であった。

 ここまでは、千里中央からバスが出ていて、門前のバス停には多くの人がこのバスを利用している姿が見られた。


勝尾寺前のバス停、路線バスは千里中央駅との間を結んでいる(2018.1.21 撮影)

 山門には一対の仁王像があり、その向こう側の庭園には大きい池(弁天池)が広がっている。境内の案内用の地図を見ると、右手方向には勝尾寺霊苑という分譲墓地があって、それで多くの人がお墓参りを兼ねて来ているようであった。


勝尾寺の山門(2018.1.21 撮影)


勝尾寺の境内の様子(2018.1.21 撮影)

 境内の売店では寺の名前の「勝」にちなんで、縁起物の勝ちだるまが売られているが、このだるまの小さいものが境内のあちらこちらに置かれていて、なかなか楽しい雰囲気を演出している。


境内のあちこちに置かれているだるま(2018.1.21 撮影)

 勝尾寺で思いがけず時間を過ごすことになったが、簡単に昼食を済ませ、目指す高山地区に向かった。途中、箕面滝に向かう道と別れてからは急こう配の曲がりくねった道を登る。

 集落のある場所に出ると道路沿いに、「右近の郷」と書かれた看板を見つけたが、ちょうどそこがバス停の高山であった。

 車を移動させながら、プリントの「高山右近生誕の地」の石碑の案内を探していたら、プリントにはないが、「マリアの墓」という案内標識が見つかった。車を道路わきの駐車スペースに停めて、先ずこの「マリアの墓」を見に行くことにして、母を誘ってみたが、車で待っていると言う。


県道沿いに、掲げられている「マリアの墓」の案内標識(2018.1.21 撮影)


同上拡大(2018.1.21 撮影)

 この標識のある場所から、県道をそれて細い道を一人で歩き始めたが、道がしだいに険しくなり、どうもこの先いくら行っても「マリアの墓」にたどり着けそうにないと感じ、引き返した。母はこういう時なかなか感が鋭い。

 少し戻り、分かれ道を別の方向に行くと、ここで「マリアの墓」の案内板が見つかり、この後はスムーズに目的の墓に行くことができた。


「マリアの墓」の案内板 1(2018.1.21 撮影)


「マリアの墓」の案内板 2(2018.1.21 撮影)

 県道から入る最初の道を選び間違えたのが原因のようであった。人生、こういうことがよくあるな、など余計なことを思いつつ歩き、目的の場所に着いた。

 「マリアの墓」という名前に疑問を持ちながらやってきたが、この「マリア」とは高山右近の母親の洗礼名であった。ただしかし、ここに4基ある墓のどれかが、実際に高山右近の母のものであるというのは、墓碑の年代とも合わないし、墓の横にある説明板にも次のように記されていた。

 「墓碑は4基からなり、なぜか1基が離れている。墓碑には、江戸時代中期の元文・延享・寛延(1730~51)の年号が刻まれており、2組の夫婦の墓と伝えられている。
 当時、高山はキリシタン大名として名を馳せた高山右近の居城のあともあり、キリシタンとは関係の深い土地柄である。
 『マリヤ』の墓の所伝は不明であるが、明治時代の古老によると江戸幕府のキリシタン禁教後、キリスト教徒はほとんど姿を消したが、村には2軒が残り、やがて転宗したと言われている。所伝が正しければ、この2軒の夫婦が、墓碑2組の夫婦とも考えられ、江戸時代、高山でのキリシタンは寛延年間頃で後を絶ったことになる。
 平成5年11月    豊能町教育委員会」


「マリアの墓」を示す案内板(2018.1.21 撮影)


豊能町教育委員会が設置した、墓の由来の説明パネル(2018.1.21 撮影)


「マリアの墓」とされる4基の墓碑、そのうち1基は離れて木の陰に見える(2018.1.21 撮影)

 この道を下ったところに、本来の「マリアの墓」への案内板があった。


県道沿いに、掲げられている「マリアの墓」の案内標識(2018.1.21 撮影)
 
 ここから、もと来た道を少し戻ったところに、元小学校であったと思われる場所があり、「右近の郷」と書かれているので、そこに行ってみた。ここは現在「高山コミュニティーセンター」になっていて、建物の前には、地元産の御影石で作ったとされる高山右近夫妻の像と説明板があった。説明によると、この像は高山右近没後400年を記念して建立されている。


高山コミュニティーセンター、旧高山小学校(2018.1.21 撮影)


高山右近・志野夫婦像(2018.1.21 撮影)


像の横に立てられている、高山右近・志野夫婦像建立に寄せる碑文、平成27年(2015年)5月31日建立とある(2018.1.21 撮影)


「キリシタン大名・高山右近のふる里」の案内板(2018.1.21 撮影)

 旧高山小学校というこの運動場の反対側には、子供たちが作ったのであろうか、やはり高山右近夫婦のものとおもわれる胸像が残されていた。


旧小学校の校庭の一隅にある、高山右近夫婦のものとおもわれる胸像(2018.1.21 撮影)

 ただ、ここにはプリントにある「高山右近生誕地」の碑は見当たらなかった。

 建物から出てきた男性に、「生誕の地」碑のある場所を訪ねると、県道の反対側の小高い場所を指して、あの神社の中にあると教えてくれた。

 教えられた場所に行ってみると、神社入り口脇の整備された場所に目指す石碑が見えた。


八幡神社境内の一角にある「高山右近生誕の地」碑(2018.1.21 撮影)


碑の裏側に刻まれた説明文(2018.1.21 撮影)

 この碑の背面には次のように記されている。

 「キリシタン大名高山右近は西暦1552年(天文21年)是より西北に隔たること三百米高山城で、父高山飛騨守 母マリヤの長男として生まれ、幼名を彦五郎と称した。
 1573年 天性文武にすぐれ、乱世の中若くして高槻城主となる。また深くキリシタンを信奉し布教につとめ、厳しい弾圧の中にも、その節をまげず一貫してキリストの愛の教えに殉じた郷土ゆかりの偉大な人物であった。   
                                   1998年3月建立
                                                      寄贈 大西 昇」

  ここは、八幡神社のほか、稲荷神社、愛宕社、観音堂などの社が立っている場所で、石碑のある場所から高山の町が見通せる位置にある。


「高山右近生誕の地」碑から高山地区を望む(2018.1.21 撮影)

 この碑にはこれ以上の詳しいことは記されていないが、1552年から1615年までを生きた高山右近にとり時代は厳しいものへと変わっていった。

 16世紀末の日本人口に占めるキリシタンの割合は約10%とされていて、その普及ぶりが感じられるが、高山右近も当初は多くの大名をキリシタンへと変えている。

 しかし、その後豊臣秀吉によるバテレン追放令が施行されると、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てて、1588年には前田利家に招かれて加賀に赴いている。

 さらに、徳川家康の時代になると、キリシタン国外追放令を受けて、加賀を退去し、長崎から家族と共にマニラに送られる船に乗った。マニラではスペインの総督らから大歓迎を受けたとされているが、その後まもなく旅の疲れや慣れない気候のため病を得て、マニラ到着後わずか40日で、63歳の生涯を閉じた。

 島原の乱が起きたのは、それから22年後の1937年のことであり、日本は鎖国の時代に入るが、昨年上映され、母と見に行った映画「沈黙」の舞台になった時代はこの少し後のことである。

 高山右近が信仰のために、大名の地位を捨て日本を追われることになるが、「沈黙」が描くイエズス会の司祭で高名な神学者、クリストヴァン・フェレイラは、日本での過酷な弾圧に屈して、棄教する。その知らせを受けた弟子の2人が日本に潜入するが、一人は命を落とし、もう一人は師と同じように、日本人の命を救うために信仰を捨てたという話である。

 ところで、信州の軽井沢は、元々は江戸時代の5街道の一つ、中山道69次の宿場町であった。明治維新のあと一旦は寂れることになるが、日本に来ていたキリスト教の宣教師が、この地が故郷に似ていることを見出し、それ以降別荘地として発展してきた。

 冷涼な気候が、豊能町周辺を「大阪の軽井沢」と呼ばせていたが、信州の軽井沢とはもうひとつキリスト教というつながりがあったことに気がついた。

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