軽井沢を外から見ていた頃、堀辰雄の小説に登場する「サナトリウム」という語がとても印象的であった。
堀辰雄の小説「風立ちぬ」と「美しい村」には2つのサナトリウムが登場する。美しい村には主人公の「私」が毎日のように軽井沢を散歩をする様子が描かれるが、4本の道筋があるとされる主な散歩コースの一つが、「サナトリウムの道」である。
堀辰雄著「風立ちぬ・美しい村(新潮社 昭和二十六年発行・平成二十三年改版)」のカバー表紙
このサナトリウムの道は、軽井沢銀座通りを観光会館の横の道に折れて、さらにテニスコート沿いに東に進むと矢ケ崎川にかかる橋(中村橋)に出る。橋の手前の道を右に折れて川沿いに進むと、途中からやや狭い道になるが、これを進んでいくと、万平通りに架かる橋(森裏橋)のたもとに出る。橋を渡ってすぐ右に折れると、再び川沿いの道になるが、この道が現在「サナトリウムレーン」または「ささやきの小路」と呼ばれる道で、「美しい村」に登場する場所である。
この道がサナトリウムの道と呼ばれるのは、万平通りから入ってすぐ左手に「軽井沢サナトリウム」または「マンロー病院」と呼ばれていた病院がかつて存在したからである。
この病院は、当時軽井沢に別荘を建て暮らしていた避暑客の会である軽井沢避暑団と、やはり別荘を借りるなどして診療を行っていたマンロー医師が提携し、1924(大正13)年に設立したものであり、小説「美しい村」には「レエノルズさんの病院サナトリウム」として登場する。マンロー医師がモデルと思われる人物は、「いつもパイプを口から離したことのないレエノルズさん」「レエノルズ博士」として描かれている。
また、ある日のこととして、「・・・向こうの小さな木橋を渡り、いまその生垣にさしかかったばかりのレエノルズ博士の姿を認めた。すぐ近くの自宅から病院へ出勤して来る途中らしかった。片手に太いステッキを持ち、他の手でパイプを握ったまま、少し猫背になって生垣の上へ気づかわしそうな視線を注ぎながら私の方へ近づいて来た。が、私を認めると、急にそれから目を離して、自分の前ばかりを見ながら歩き出した。そんな気がした。私も私で、そんな野薔薇などには目もくれない者のように、そっぽを向きながら歩いて行った。そうして私はすれちがいざま、その老人の焦点を失ったような空虚(うつろ)な眼差しのうちに、彼の可笑しいほどな狼狽と、私を気づまりにさせずにおかないような彼の不機嫌とを見抜いた。」と自らの目で見たレエノルズ博士を描いている。
更に次は、宿の爺やの話として紹介されるレエノルズ博士の話であり、思いがけないことが述べられている。軽井沢でこうした火災が起きたという記録はなく、後に移住した北海道でのことと思われるが、これがどこまでマンロー博士の実像であるかどうかは判らない。
「・・・それはあの四十年近くもこの村に住んでいるレエノルズ博士が村中の者からずっと憎まれ通しであると言うことだった。ある年の冬、その老医師の自宅が留守中に火事を起こしたことや、しかし村の者は誰一人それを消し止めようとはしなかったことや、そのために老医師が二十数年もかかって研究して書いていた論文がすっかり灰燼に帰したことなどを話した、爺やの話の様子では、どうも村の者が放火したらしくも見える。(何故そんなにその老医師が村の者から憎まれるようになったかは爺やの話だけではよく分からなかったけれど、私もまたそれを執拗に尋ねようとはしなかった。)---それ以来、老医師はその妻子だけを瑞西(スイス)に帰してしまい、そうして今だにどういう気なのか頑固に一人きりで看護婦を相手に暮らしているのだった。
・・・私はそんな話をしている爺やの無表情な顔のなかに、嘗つて彼自身もその老外人に一種の敬意をもっていたらしいことが、一つの傷のように残っているのを私は認めた。それは村の者の愚かしさの印であろうか。それともその老外人の頑な気質のためであろうか? ・・・そう言うような話を聞きながら、私は、自分があんなにも愛した彼の病院の裏側の野薔薇の生垣のことを何か切ないような気持になって思い出していた。」
サナトリウムの建物の様子についての記述もあり、次のように紹介されている。
「・・・、それらの生垣の間からサナトリウムの赤い建物が見えだすと、私は気を取り直して、黄いろいフランス菊がいまを盛りに咲きみだれている中庭のずっと向うにある、その日光室(サンルウム)を彼女に指して見せた。丁度、その日光室の中には快癒期の患者らしい外国人が一人、籐椅子に靠れていたが、それがひょいと上半身を起して、私たちの方をもの憂げな眼ざしで眺め出した。・・・」
さて、堀辰雄のもう一つの小説「風立ちぬ」には、別のサナトリウムが舞台として登場する。八ヶ岳山麓にあるサナトリウムであり、実在した富士見高原療養所(現在の富士見高原病院)がモデルであるが、次のように描かれている。
「八ヶ岳の大きなのびのびとした代赭色の裾野が漸くその勾配を弛めようとするところに、サナトリウムは、いくつかの側翼を並行に拡げながら、南を向いてたっていた。」
この小説「風立ちぬ」では、主人公と節子が最初に出会った場所は軽井沢であるが、節子の結核の療養のために二人が入院するのは八ヶ岳高原にあるサナトリウムであり、節子の死後主人公が滞在するのはふたたび軽井沢という設定になっている。
しかし、これらの小説をもう随分前に読んでいた私などは、結核を患った堀辰雄も、「風立ちぬ」の節子のモデルとされる綾子も、軽井沢のサナトリウムに入院していたとの誤解をしていた。そして軽井沢に住むようになり、改めて堀辰雄とサナトリウムのことを調べなおして、その誤りに気がついたのであった。
さて、ふたたび軽井沢のサナトリウム、すなわちマンロー病院のことに話を戻そうと思う。
軽井沢に本格的な西洋式の病院ができたのは、このマンロー病院が最初ということになるが、マンロー博士ははじめ、婦人アデールと来軽してタッピング別荘を借りてクリニックを始めた。その後、京三度屋(現坂口医院)の裏で、さらに萬松軒(現軽井沢郵便局)の別館を買い取り診療所としている。
その頃の様子を桑原千代子氏の大変な労作「わがマンロー伝」(桑原千代子著 1983年新宿書房発行)から引用すると次のようである。
桑原千代子著「わがマンロー伝」(1983年新宿書房発行)のカバー表紙
「・・・諏訪の森の近くの外人タッピングの別荘を借りて診療開始、次に京三度屋裏、一、二年後に萬松軒別館を買い入れ、改装してクリニックを開設した(現在のテニスコートの近く)。それはかなり手を加えて白塗鎧窓の瀟洒な建物となった。・・・で、兎も角もクリニック開設資金はみんな大貿易商の岳父から出たし、またアーデル名義で軽井沢町国際病院隣地三千坪も購入する。」
そして、つづいてマンロー病院の建設である。
「外人別荘が増えるにつれて、岳父の援助で萬松軒別館を買い取り開設したクリニックは、マンローの優れた技術と良心的な治療で大繁昌であった。一方、軽井沢避暑団(KSRA、日清戦争後できた軽井沢避暑人会が発展改名したもの)はこれまで再三にわたって、直営の国際病院(内実は診療所程度)」の院長兼任を頼んできていた。マンローは夏季(七、八、九月)三カ月だけ大正十年からこれを引き受けることになった。この時兼任を引き受ける条件として、自分のめがねにかなった優秀な婦長を就任させることがあった。マンローは神戸クロニクル社の社長と懇意であったので、神戸の万国病院からスカウトしてきたのが木村チヨ婦長であった。・・・
この軽井沢の病院は呼称がいろいろと変化した。ナーシングセンターから出発して、国際病院、マンロー病院、軽井沢病院等とさまざまに呼ばれたが、大正十三年マンローの正式院長就任後からは、『軽井沢サナトリウム』が正しい呼称となる。」
マンロー博士は軽井沢滞在中に、関東大震災に遭遇した。急ぎ、自宅や勤務先の病院があった横浜に駆けつけるが、惨禍は東京よりもひどかったとされる。横浜全市は廃墟と化し、山手町の病院も新居、夫人の実家も同様消失した。
以下、「わがマンロー伝」からの引用を続ける。
「震災のあとマンローは、横浜の病院の復興に力を尽した気配がない。夏だけの兼任ではなく年間を通じての国際病院の院長になるため、横浜の病院へは年末までと限って辞表を出している。ところが軽井沢避暑団は日本屈指の経済人の集まりだった。夏期七月から九月までの最も収入の多い期間は避暑団の経営で、患者が激減する他の長い季節はマンローの個人経営にするという、何とも虫のいい一方的な条件をおしつけたのだった。
そして1924(大正十三)年一月から、『軽井沢サナトリウム』として発足するのだが、避暑団はあまり施設には手をかけない主義で、病室を増やすことに熱心だった。
しかしシーズン・オフの軽井沢は全く寂しい。別荘は皆空き家となり、患者は土地の人々がほんの時折来るだけで、それに加えてマンローは貧しい小作人や木こり達からは相変わらず治療費はとらない。医薬品代、看護婦人件費、患者給食費等支出超過は多く、以前のように豊かな生活ではなくなった。そうした生まれて初めての経済的苦痛は次第に夫妻を苛々させることになった。
夫人のアデールにとってはそれだけではなく、その以前から夫の背信に悩まされ続けていた。神戸からスカウトした木村婦長と夫は、すでに親しい関係に陥っていたのであった。・・・
アデール夫人は悩んだ。だが悩んだあげくサナトリウムに隣接した自分名義の三千坪を避暑団に売り、マンローの負債を補って国外に去ってゆく。・・・
三千坪を買い取った避暑団は病棟や外気小屋(軽症患者の開放療法室)を増築した。何のために院長を引き受けたのか、マンロー側の大きな誤算に終わり、昭和三年に入ると院長は加藤伝三郎博士に切り替えられた。・・・」
名誉院長という、実質的には退職に追い込まれて、悶々の日々を送っていたマンロー博士は、この後ロックフェラー財団からの研究奨励金を得て、これまでも時々訪問していたアイヌの人々の研究のため、北海道に渡ることを決意した。1930(昭和5)年のことである。
マンロー博士は、北海道に渡ってからも、殆んどの夏には軽井沢サナトリウムに出張診療を行っていた。それは生活のためであったとされる。そして、マンロー博士が1942(昭和17)年に北海道・二風谷で亡くなり、現地に埋葬されたのち、チヨ夫人は再びマンロー博士の分骨を抱いて軽井沢に戻り、軽井沢サナトリウムで婦長として職につき、1952(昭和29)年に69歳で退職するまで働いている。マンロー博士の分骨された遺骨は、百か日目に六本辻の外国人墓地に埋骨された。
マンロー博士が去ってしばらくしてからの「軽井沢サナトリウム」については、「軽井沢病院誌」(1996/平成8年軽井沢病院発行)の中の「軽井沢町の医療の変遷」の冒頭部分に次の記述がある。
「軽井沢病院誌」(1996/平成8年軽井沢病院発行)の表紙【軽井沢図書館蔵】
「1951(昭和26)年10月、医療法改正に伴い、名称が軽井沢診療所と変わり、翌1952(昭和27)年10月、加藤先生は退任されている。
1953(昭和28)年から8年間は慶応内科の医師が交代で夏期3か月の診療に当たった。この間、昭和29年に長年婦長を勤めたチヨ夫人が辞め、昭和34年から歯科診療も行った。・・・
昭和42年5月には赤字が嵩み廃止が決定された。跡地は旧軽井沢ビラとして宿泊施設に利用されたが、平成7年末に取り壊され、現在はすでになく、昔日の面影のある建物は見ることが出来ない。・・・」(片山氏)
こうしてマンロー病院は姿を消すことになるが、それ以前に一時期、現在の軽井沢病院の前身である町営診療所がマンロー病院の一室を借りて診療を行っていたことがある(1949/昭和24年から)。初代所長の高嶺 登医師が「軽井沢病院誌」に次のように書き記している。
「河合外科医局より軽井沢へ行く話があったのは昭和24年初夏の頃でした。・・・当時、軽井沢町では既に国民健康保険を施行しており、従って直営の診療所も欲しかったと思います。私の仕事は、その診療所を主として、その外、週一日小諸保健所での診察と、随時連合国関係の労務者の健康管理の三種でした。
町の診療所は、旧道万平通りから矢ケ崎川にそってささやきの径に入って左手にあった通称軽井沢会診療所あるいはマンローサナトリウムと呼ばれていたベンガラ塗りの赤い木造洋館の一部屋を借りて、診療を始めました。
この建物は、大正末期に軽井沢避暑団が設立して、日本の文化人類学のパイオニアといわれるマンロー博士がサナトリウムとして使っていたとのことでした。博士の没後、一時ペンションになったりしていたらしいですが、私の赴任した時にはイギリス帰りの加藤伝三郎先生が内科をしておられました。マンロー未亡人は婦長さんとして・給食係りとして活躍しておられました。病室はオープンで、町の先生方も自由に利用できましたので、アッペやヘルニアの手術後の面倒は専らマンロー夫人がやってくれました。・・・」
ここでは、「軽井沢サナトリウム」がマンロー博士の没後一時期ペンションになり、その後再び病院機能を取り戻したことが書かれているが、このことに関しては他の資料には記載が見当たらず、詳しいことは判らない。
高嶺医師が軽井沢に赴任したのは1949(昭和24)年のことであるが、「サナトリウムは」その後1967年まで継続し、ついに廃院とされ、さらに建物は「軽井沢ヴィラ」として1995年まで利用されたのち、築後71年目に解体される。
マンロー病院の建物の写真は多く残されていて、文章にもあるようにベンガラ塗りの赤と、白い窓枠などの外観を見ることが出来る。古いものとしては、建設時に近い大正13年頃のもので、周囲にまだ何もない荒野に建つ姿が絵葉書として残されている。
ただ、建物のあった場所について調べようとすると、今年で解体後26年目ということもあり、周囲の人に聞いても正確に覚えている人は少なくなっているし、先に示した資料を読んでも明確なことは判らない。
そうした中、「心の糧(戦時下の軽井沢)」の著書のある大堀聰氏のホームページにマンロー病院の敷地図が紹介されていることを知った。これは国会図書館蔵の資料で、原所蔵機関は米国国立公文書館とされる。
この敷地図と、現在の軽井沢の地図とを見比べていて、「サナトリウムレーン」に面した一角とぴったり一致することがわかった。次のようである。敷地の広さはアデール夫人名義で購入し、後に避暑団に売却したとされる三千坪とよく一致する。
マンロー病院の推定所在地
この土地に、前記の敷地図にある建物を配置すると堀辰雄の書き残した野薔薇の生垣の植えられていた場所や日光室の籐椅子に休む患者の姿も次第に浮かんでくるように思える。
現地の現在の様子は次の写真のようであり、軽井沢会のテニスコート専用駐車場として利用されていることが判る。撮影場所は配置図の①、②の2地点からである。
撮影ポイント①からの現在の様子(2021.12.22 撮影)
撮影ポイント②からの現在の様子(2021.12.22 撮影)
このように、マンロー病院の歴史と、かつて建物の存在した場所、建物の配置が私なりに明らかになった。これまで紹介したマンロー病院の歴史と今回のこの物語に登場した人物について一覧表にすると次のようである。
マンロー病院とマンロー博士、チヨ夫人、堀辰雄、桑原千代子の年表
来年2022年はマンロー氏没後80年にあたる。我が家からもほど近い軽井沢外国人墓地を訪ねると、少し傾きかけたマンロー博士の墓を見ることが出来る。外国人墓地の入り口に設けられた石碑には次のように刻まれている。
軽井沢外国人墓地
軽井沢ゆかりの外国のひとびとがここに眠る
この共同墓地は外国人避暑客による公益委員会と
村人たちによって大正2年に設立された。同年
公益委員会は軽井沢避暑団となり、のち昭和17年
に財団法人軽井沢会と名称を改め、現在に至る
財団法人 軽井沢会
軽井沢外国人墓地の入り口に設けられた説明文の刻まれた石碑(2021.12.18 撮影)
マンロー博士の墓は、外国人墓地入り口から入って少し先を左に折れたところにある。
南西側から見た外国人墓地の全体(丸印がマンロー博士の墓 2021.12.11 撮影)
墓石表面は相当読みにくくなっているが、次のように刻まれている。
表には、
NEIL GORDON
MUNRO
M.D. & C.M.
BORN JUNE 16 1863
EDINBURGH
DEAD APRIL 11 1942
NIBUTANI
右横には、
醫学 并
考古学者 満郎 先生墓
裏には、
妻 千代子 建
と刻まれている(チヨ夫人の名はここには千代子とある)。
次の写真は、雪の降った日の午後に改めて出かけて撮影したものであるが、マンロー博士の墓にはどなたかが先に来ていたようで周囲には足跡が見られた。
マンロー博士の墓正面(2021.12.18 撮影)
マンロー博士の墓右側面(2021.12.18 撮影)
マンロー博士の墓背面(2021.12.18 撮影)
この墓所からは北西方向に浅間山を望むことができる。
外国人墓地から浅間山を望む(2021.12.18 撮影)
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