軽井沢からの通信ときどき3D

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一乗谷朝倉氏遺跡

2018-10-19 00:00:00 | 日記
 大阪から車で軽井沢に戻ることになり、さて道中どこかに寄り道をしていこうということになって、場所を探していたが、福井県の一乗谷はどうだろうかということになった。

 ここは、私も以前から一度行ってみたいと思っていた場所で、朝倉氏の居城跡が発見され、発掘が進んでいるというニュースを、もうずいぶん前に何かで読んだことがあった。それではということで、福井市内に一泊して、翌朝この一乗谷朝倉氏遺跡に行くことに決めた。

 この一乗谷朝倉氏遺跡は、福井市街の東南約10kmにあり、北東から南西方向に伸びる細長い谷あいに広がっている。ここには、戦国大名朝倉氏の城下町の跡がそっくり埋もれていた。この遺跡の発掘調査は、昭和42年から進められ、昭和46年には、一乗谷城を含む278haが国の特別史跡に指定され、さらに平成3年には諏訪館跡庭園、湯殿跡庭園、館跡庭園、南陽寺跡庭園の四庭園が特別名勝に指定されるなど、重要な史跡が多く存在している場所である。


一乗谷周辺地図(福井市発行、一乗谷朝倉氏遺跡パンフレットより)

 現地で説明を聞いて驚いたのであるが、戦国時代、この一乗谷には当主の館を中心に、家臣たちの住まい、寺院、町屋などが建ち並び、約1万人が暮らしていたとも言われている。城下町の外には、人々の暮らしを支える商業地があり、この一帯は全国有数の大都市であったとされる。

 ちなみに、当時の都市人口を見ると、京都10万、博多3.5万、堺3万、という数字があるので、現地で聞いた「日本では当時3番目の大都市」という説明には少々身びいきの感があるとしても、かなりの規模の都市がこの地にあったことは間違いなさそうである。次の図は、現地で配布されていた資料にある街並みの復元画である。


一乗谷復元画(文化庁発行、歴史の証人より)

 では、なぜこれほどの規模の都市が地中に埋もれ、そして長い間忘れ去られていたのかという疑問が起きる。そのことについては、遺跡の少し手前に、「福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館」があり、詳しい説明展示が行われていたので、まずここに立ち寄って、予習をしてから現地に向かうように配慮されていた。


福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館(2018.9.16 撮影)

 資料館内の展示室入り口には、この遺跡からの出土品約170万点のうち、2,343点が重要文化財に指定されているとの説明がなされているのだが、その数の多さに驚く。

 重要文化財指定品で、最も多いものは、土器・土製品の1,246点、続いて金属製品456点、木製品267点とあるが、ガラス製品も1点含まれている。


重要文化財指定書の写しが展示されている(2018.9.16 撮影)

 資料館では、年配のボランティアの方が付き添ってくださって、発掘された品々や、県内の他場所に保管されてきた資料などの説明をしていただいたが、それによるとこの一乗谷朝倉氏遺跡の歴史は次のようであった。

1428年(正長元年)・・・初代朝倉孝景(1428~1481)が、越前守護であった斯波氏の家臣、朝倉家景の子
            として生まれる
1471年(文明 3年)・・・朝倉孝景が、応仁の乱で功績を挙げ、一乗谷に居城を移す
1481年(文明13年)・・・朝倉氏景(1449~1486)が家督を継ぐ
1486年(文明18年)・・・朝倉貞景(1473~1512)が家督を継ぐ
1506年(永生 3年)・・・朝廷絵師の土佐光信に京を描かせて都市の景観を手本とし、一乗谷に理想の都
            市建設をしようとした。九頭竜川の戦いで、加賀の一向一揆を撃退
1512年(永生 9年)・・・朝倉孝景(1493~1548)が家督を継ぐ
1548年(天文17年)・・・朝倉義景(1533~1573)が家督を継ぐ、一乗谷は近隣諸国に比べ安定して一大
            文化圏となる
1568年(永禄11年)・・・織田信長、上洛
1570年(元亀元年)・・・姉川の合戦
1573年(天正元年)・・・刀根坂の合戦で大敗、朝倉義景自害。一乗谷の町は戦火により焼土と化す
            その後、400年以上の間、そっくり埋もれて現在まで残されることとなった

 朝倉氏は現在の兵庫県養父市八鹿町の豪族で、南北朝時代に朝倉広景が主君の斯波高経に従って越前に入国した。朝倉孝景の代に、1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに一乗谷に本拠を移し、斯波氏、甲斐氏を追放して越前を平定した。

 以後、五代103年間にわたって越前の中心として繁栄し、この間、四代孝景は、近江、美濃などの隣国にたびたび出兵し、また京や奈良の貴族・僧侶などの文化人が下向し、北陸の小京都とも呼ばれたという。

 五代義景は、足利義昭を一乗谷の安養寺の御所に、また南陽寺に迎え観桜の宴を催し歓待したが、義昭を奉じて上洛することはしなかった。

 五代義景の時代、「義景の殿は聖人君主の道を行い、国もよく治まっている。羨ましい限りである」と讃えられていたが、織田信長からの「上洛して従え」との書状を無視したため、1570年(元亀元年)信長は義景を討つべく、大群を率いて越前に侵攻したとされる。しかし、この時は、一乗谷への侵攻を目前に、浅井長政の謀反の知らせにより急遽撤退している。

 その後、義景と信長の対立は続き、遂に1573年(天正元年)、両雄衝突の後、義景軍退却途中の「刀根坂の戦い」で大敗を喫することとなった。

 このとき、最後は、一族朝倉景鏡(かげあきら)の裏切りにあっている。そして、信長から本領を安堵された景鏡が越前を治めることとなったが、これに反発した他の家臣団との間で戦となり景鏡は討ち死にする。

 このことに激怒し、押し寄せた織田信長の軍勢により、一乗谷は火を放たれ、瞬く間に巨大な炎の海と化した。これにより、約100年にわたって華麗な文化の華を咲かせた戦国大名・朝倉氏の城下町は、三日三晩燃え続け、その後放棄された場所は自然に、あるいは人の手で埋められて畑地や田の下に隠れていき、次第に人々の記憶からも消えていった。

 このような、事前の勉強をして、資料館を出て現地に向かった。最初の遺跡は、城下町の入り口に当たる下城戸。これは、谷が最も狭い地点に、土塁を45t以上の巨石を用いて築き、城門としたもの。外側からは町の中を見ることができないように、矩折(かねおれ)状につくられていた。尚、城下町の南西端には同じく上城戸が築かれている。


下城戸跡(2018.9.16 撮影)

 ここを過ぎて駐車場に向かったが、この日、現地では小雨の中、戦国歴史街道を行く「朝倉トレイルラン2018」が開催されている最中で、交通規制がされ、臨時駐車場も設営されていた。


広場に設けられた「朝倉トレイルラン」のゴール付近の様子(2018.9.16 撮影)

 我々は、休憩所脇の駐車場に車を停めて、すぐそばにある「町並立体復原地区」から見学した。ここには、発掘調査の結果明らかとなった戦国時代の武家屋敷や町屋など、京都を見習ったとされる当時の町並が忠実に再現されている。

 
一乗谷遺跡の全体配置図(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館の資料より)

 復元された建物の一部は、食べ物やみやげ物を売る場所としても利用されていて、販売している人達も当時の服装と口調で、「お父さんは戦になるとそこの鎧を着けて、槍を持って出かけるのですよ・・・」などと話し、我々を煙にまくのであった。また、当時の服装で歩く若い女性や、百姓や商人姿の格好をしたエキストラもいて、雰囲気を盛り上げていた。


復元された武家屋敷の庭と井戸(2018.9.16 撮影)


復元町並の中央の道路(2018.9.16 撮影)



当時の姿で復元町並を歩く若い女性(2018.9.16 撮影)


町屋(2018.9.16 撮影)


復元町並に再現された商店と、商人姿の店員(2018.9.16 撮影)

 復元町並の、道路を挟んで東側には領主の館群があった。現在は建物跡だけで、まだ建物は復元されていないが、朝倉館の復元模型は資料館で見ることができる。また、ここには、後年江戸時代の初め頃造られたとされる朝倉義景の墓所や、江戸時代中期頃に、朝倉義景の菩提を弔うため建てられたという松雲院の山門である唐門などを見ることができる。


唐門(2018.9.16 撮影)

 さらにその後方、一段高い所にある、4つの庭園跡は大きな石組みが残されていて、組み直された姿は、当時を偲ばせるものであった。


岡本太郎が飽かず眺めていたとされる湯殿跡庭園(2018.9.16 撮影)


諏訪館跡庭園(2018.9.16 撮影)


観光客と黄色い彼岸花(2018.9.16 撮影)

 遺跡から出土したものの中には、ちょっと面白いものも含まれていた。資料館に展示されていたが、現在の物とは異なる駒数の将棋や、ガラス器の破片などである。


朝倉象棋に見られる駒「酔象」(2018.9.16 撮影)

 将棋の方は、「朝倉象棋」と呼ばれ、現在の将棋に「酔象」という駒を玉将の前に配置する。「酔象」は裏が「太子」で、敵陣3段目までに行くと「太子」になれる。「酔象」、「太子」は玉将と同じで再利用はできず、「酔象」は真後ろ以外の方向に1マス動くことができ、「太子」は全方向に1マス動くことができる。

 「太子」となれば、玉将と同じ働きとなり、玉将を取られても「太子」が残っていれば、勝負は続行となるルールとされる。

 もう一つの出土品のガラスについては、これまでに150点以上のガラス遺物が見つかっているが、その多くは小玉と熔解ガラス片である。その中で、2個のガラスについては、詳しい研究がなされ、組成が明らかにされるとともに、復元が試みられている。

 一つは、長くこの小破片がどのようなガラス器の一部であったのか、謎のままであったが、最近ある人がイギリス・ロンドンのビクトリア&アルバート博物館の展示品の中に、その形状と類似したベネチア産の高脚杯があることに気づき、ようやく長年の疑問が解けたと説明されていた。


出土品の透明ガラス片(戦国時代の金とガラス《福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館発行》より)


迫田岳臣氏により復元された有リブ高脚杯(戦国時代の金とガラス《福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館発行》より)

 もう一つは、マンガン着色の赤紫色ガラス片であるが、こちらは金属製鋳型による型押(プレス)成形による皿の一部とされている。


出土品の赤紫色ガラス片(戦国時代の金とガラス《福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館発行》より)


迫田岳臣氏により復元されたガラス皿(戦国時代の金とガラス《福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館発行》より)

 発掘品の中には、この地方で製造されたガラス器は含まれていなかったのであるが、ガラスの製造場所跡が町外れで見つかっているとボランティアの案内者から聞いた。まだ詳しいことが判っておらず、それ以上の情報は得られなかったのであるが、この地方で作られたガラス器が発見されるかもしれないと期待している。

 今回訪れたこの一乗谷朝倉氏遺跡は、全国的にも珍しい場所で、すでに様々な方法で採りあげられ、コマーシャルの撮影で使用されるなど、広く知られるようになっているようであるが、先ごろ開通した北陸新幹線が、2023年には現在の金沢から更にその先の敦賀まで延長されるとの予定が発表されているので、そうなるとこの一乗谷遺跡へのアクセスがよくなり、一層多くの観光客が訪れる場所になるのであろうと思われた。





 







  

 


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