今回はガラス工芸技法のひとつ、パート・ド・ヴェールの話。この技法には不思議な魅力があるのだろうか、その魅力に取りつかれた人は多い。
これまでにも何度か紹介している由水常雄氏が監修した「世界ガラス3500年史」の中にも「古代中国1世紀『劉勝の耳盃』」として採り上げられている。
その説明には次のように記されている。
「古代漢代の名将劉勝の墓から出土した耳杯を復刻。パート・ド・ヴェール技法(ガラスを型の中で熔融して成形した後、型から取り出しだし研磨する技法)は、由水常雄氏が17年前に再発見したもので、杯はその古代技法で作られています。」
由水常雄氏監修による「世界ガラス3500年史・ぐい吞みコレクション」
上記コレクションに含まれている、パート・ド・ヴェール技法による「古代中国1世紀『劉勝の耳盃』」 高さ3.0cm
NHKの教育テレビで放送された(平成6年8月~10月)、趣味百科のテキスト「ガラス工芸への招待」(講師 由水常雄 1994年 日本放送出版協会発行)には、第9回と第10回の2回にわたる講義内容として、パート・ド・ヴェールが、実際の製作過程の写真や由水氏の作品を交えて詳しく解説されている。解説記事の一部を抜粋すると次のようである。
NHK趣味百科のテキスト「ガラス工芸への招待」(講師 由水常雄 1994年 日本放送出版協会発行)
「パート・ド・ヴェールとは
パート・ド・ヴェール(Pate de verre)とは、フランス語でガラスの練り粉、という意味です。・・・フランス以外の国でも、この技法の呼称として、同じパート・ド・ヴェールというフランス語がそのまま使われています。わが国でも、昭和初年に石井柏亭や岡田三郎助がフランスのパート・ド・ヴェール作品を紹介した折に、この言葉をそのまま使いましたので、以来今日に至るまで、この言葉が一般に通用しています。
この技法は今から三千五百年ほど昔に古代バビロニアで考え出されて、約千五百年間、古代ガラスの技法として使われてきましたが、手間のかかる面倒な技法でしたので、前一世紀後半に、便利な吹きガラス技法が発明されたときに、消失してしまいました。
その後、十九世紀末に、フランスの陶芸家アンリ・クロ(1840~1907)が、陶芸技法によってガラス作品をつくる技法として考え出したのが、この技法です。この呼称も、そのときに初めて使われるようになったものです。
フランス語の意味が示しているように、パート・ド・ヴェールはガラスの粉末を糊で練って型に充填して、ゆっくりと温度を上げて、ガラス粉を型の中で熔かして、型どおりのガラス作品を作る技法です。・・・
この技法は、原理は極めて単純ですが、その応用と展開の可能性は大きく、従来の熔けた熱いガラスを鉄パイプの先端につけて膨らませる吹きガラス技法とは、比べものにならないほど多種多様な表現と、複雑な構成、あるいは人の手で持つことのできないような大型の作品に至るまで、自由自在に作り出すことが出来ます。
色、形、透明感、色文様、レリーフ、大きさなど、どの分野でも自在にコントロールして創作することができる技法です。・・・
しかし、・・・パート・ド・ヴェールでは、つくりたいものの原型を作る必要があります。それから耐火粘土や耐火石膏で型取りをしなくてはなりません。・・・この手間のかかる点が、この技法の最大の欠点です。
・・・生産性の悪さの故に、二千年前にこの世から消失してしまった技法なのです。しかし、生産性の悪さを除くと、これほど豊かな表現を行うことが出来るガラス技法は他にはありません。
・・・芸術作品の創作にはうってつけの技法なのです。・・・」
前記、「劉勝の耳盃」の解説にもあったように、二千年前にいったんは消失してしまったといわれるこのパート・ド・ヴェールの技法を、由水氏は再発見したという。
そのいきさつについて、同じく「ガラス工芸への招待」の中で由水氏は次のように述べている。
「・・・正倉院に伝わるガラス器の源流を追跡してゆくうちに、いろいろな謎や疑問点が浮かび上がってきました。そこで、各作品の厳正なコピーをつくる実験考古学を始めました。 ・・・ところが古代メソポタミアでつくられていたガラス器類は、従来のガラス知識では、とても考えられないような、不思議なガラス器類でした。
・・・実験の成果をまとめてみると、古代メソポタミアのガラス技法が、極めて高度な科学知識や物理学知識を持っていたことが分かってきました。それにもまして、ガラスの粉末を熔かしてつくる技法が、実に便利で、簡単な原理によっている技法であることが分かってきました。・・・
パート・ド・ヴェールの技法には、十九世紀末から二十世紀初めにかけて、フランスのガラス作家たちが、独自に開発した秘伝的な技法もありました。それらの秘法は誰にも公開されないまま、作家の死とともに、消失してゆきました。数人のパート・ド・ヴェールの作家たちが、それぞれ異なった技法を考え出していましたから、私は彼らの作品を分析して、その技法を解明してゆきました。・・・
最終的に行きついたのは、医療用の下剤糊や先端産業で使う耐火石膏、あるいは耐熱石膏という特殊な石膏が、最も合理的で、使いよいということでした。値段も安価で、誰でも自由に手に入れることができる材料です。
この技法を公開して、1977年に、初めて教え始めたのでした。」
パート・ド・ヴェール技法に寄せる由水氏の情熱はなかなかのもので、実際この「ガラス工芸への招待」の中でも多くのぺージを割いていることからも伺うことができる。
二千年間忘れ去られていたパート・ド・ヴェール技法を現代に蘇らせるきっかけを作ったのは、フランスのアール・ヌ―ヴォー時代のガラス作家であるとされているが、その点について由水氏はさらに詳しく述べている。
「十九世紀末から二十世紀初めにかけて、フランスを中心に、全ヨーロッパに広がっていったアール・ヌーヴォー運動の中心的な牽引役を果たしたのが、こうしたガラス作家たちだったのです。
ガラスは魅力的な素材でしたが、高温を使わないで、何か別の方法でガラス作品をつくることはできないだろうか、と考えた人たちもいました。その中に、彫刻家のアンリ・クロ(1840-1907)がいました。クロは、エジプトやローマ時代のガラス彫刻に触発されて、ガラス彫刻をつくる実験を始めました。型づくりは、彫刻の型取りに慣れていましたから、すぐに解決しましたが、ガラスとの格闘は、失敗と試行錯誤の連続でした。従妹の肖像レリーフを、やっとのことでガラスでつくり上げることに成功したのが、実験を始めてから数年後の1884年頃でした。1885年のサロン展に作品『凍れる春と太陽』を出品しました。この作品は現在、パリのオルセー美術館に展示されています。
このクロの試みに、刺激された多くの工芸家たちが、独自にパート・ド・ヴェールへの挑戦を試みました。そして、アルベール・ダムーズ(1848-1926)、ジョルジュ・デプレ(1853-1952)などが登場して、作品を発表していきました。彼らの技法もまた、クロとは異なった独自のパート・ド・ヴェール技法でした。そして、彼らの後を追って、フランソワ・デコルシュモン(1880ー1971)、アルマリック・ワルター(1870-1932)、アージー・ルソー(1885-1953)などの巨匠が出現し、フランスのパート・ド・ヴェールの黄金時代を現出しました。
しかし、どの作家も、自らの技法を公開せず、息子にも教えず、弟子たちも取らないという徹底ぶりでしたから、それらの技法も、今日では亡失してしまいました。」
ようやく二千年ぶりに復活したパート・ド・ヴェールはこうして再び埋もれていったようである。
これを再発見したのが由水常雄氏ということになるが、これに先立って、日本では戦前の昭和十二年(1937年)にパート・ド・ヴェール技法開発の動きがあったことが知られている。
これについては、「ガラスの旅」(佐藤潤四郎著 1976年 芸艸堂発行)の1節に「パート・ド・ヴェール」の項が設けられていて、そこにはこの技術に取り組んだ岩城硝子のことが、次のように紹介されている。
「ガラスの旅」(佐藤潤四郎著 1976年 芸艸堂発行)
「・・・岩城硝子の歴史は古い・・・その年(1938年)にパート・ド・ヴェールの発表会があった。この技法については私は全く知らないので、その時のリーフレットを全文引用して、多くの方々に資料としていただきたい。
『パート・ド・ヴェール推薦の言葉 沼田一雅
邦語ではパート・ド・ヴェールにぴったり、当て嵌る言葉は一寸見当らない。従来斯の種の作品は、仏蘭西の特技であって、同国ではパート・ド・ヴェールは恰し宝玉の加工品の如く尊重せられて居る様である。
是れは勿論其の光沢、色彩の豊潤と全体の申分なき味ひとにも因るものであるが、同時に製作の点でも、普通の硝子作品とは比較にならぬ困難さが存することにも因るのである。
我が国では岩城硝子の工芸部で、数年来此のパート・ド・ヴェールを苦心研究中であったが、遂に独自の技法を以て其の製作に成功し得た事は、我工芸界に一生面を拓いたものと謂えやう。其の作品を見るに相当見るべきもの多く、殊に立体のもの、製作は、仏蘭西よりも一歩先んじて居る点もある。
同部では尚更に研究に精進して居るが、斯様な結構な研究には汎く一般の理解と後援が必要で、私も江湖の声援によって、其の研究の成果が益々多彩ならん事を切望する次第である。』
『パート・ド・ヴェール 岩城硝子株式会社 工芸部
パート・ド・ヴェール(Pate de Verre) は英語の Paste of glass 即ち「硝子の練り物」と謂ふ意味でありますが、之れは製品の外観又は製作法から名附けられたものかと思はれます。
この硝子は普通の硝子の様な原料を熔融して、飴状としたものを、種々の形に吹込んだり、鋳型に流し込んだりして作るものとは、全然異なった方法で作られた硝子でありまして、外側が半透明で、けばけばしくなく、全体に落付いた深味のある、恰も砡の如き感じのするもので、其の特徴とする処は局部的に任意の着色が出来、しかも其の色は内部に浸透して豊潤なる色彩を呈すると云ふ、普通硝子製品に於ては、企て及ばぬ味を持たせることが出来る点であります。・・・
抑もこのパート・ド・ヴェールは其の起源非常に古く、古い文献に「ミューラン」は「東邦より来る、其の光沢は強からずして、輝かしと謂はんよりは寧ろ艶かなりと云ふ可く、世人は何よりも先づ其の色合変化を特に賞美す」とあります。このミューランは現今のパート・ド・ヴェールだと謂はれて居りますが、羅馬滅亡と同時に其の製法も亦煙滅して全く伝はつて居りません。
其後十九世紀に及んで、優れた彫刻家であり、画家であった仏蘭西人アンリー・クロー氏がルーブル博物館に現存する古代の作品を見て、其の製法の発見を企て、鉱物学や化学を研究すると共に、幾多の実験を重ねて遂に一八九三年其の完成を見たのが、近世に於けるパート・ド・ヴェールの始めでありまして、現在ルクセンブルグ博物館所蔵の L'Histoire de L'Eau は即ち彼の創始時代の作品であります。爾来彼の流れを汲む諸作家が輩出致しましたが、其の製法は何れも父子相伝的に極秘にされた為、今日これの作家は仏蘭西に於ても僅々数名に過ぎぬ現状で、その製品も少なく、一般に普及されて居らぬ為め、吾国人の中でも之れを識って居る方は甚だ少数であります。
弊社に於きましては、・・・数年前其の研究に着手致しましたが、何分此のパート・ド・ヴェールによる作品は、製法の研究と工芸的精進の万全を期さなければならぬものでありますのに、其の製法は前述の様に全く判明して居らず、何等の文献なく、口伝も聞き及ばないのでありますから、恰も水天一如の大海で小舟が陸地を探し求める体の、容易ならぬ苦心を致したのであります。終わりに臨みまして、本品の製作に就き多大の御指導と御援助を賜りました岡田三郎助、沼田一雅両先生の御好意に対し深甚なる感謝を表します。』
パート・ド・ヴェールは、岩城硝子の矢口工場の処分と同時に再び誰もその技術を確かに伝える人は一人もいなくなった。・・・
推薦文を書かれた沼田一雅は私の恩師で、学生時代には彫刻をそして昭和二十一年(1946年)にはパート・ド・ヴェールの会社を計画した折、ほんとうに短い時間であったが一緒に仕事をしたことがある。・・・それ以後沼田先生とは遂に逢うこともできない運命になってしまった。
岩城硝子の本来の実態は今はなくなって、全然別のガラス製品を生産する会社となり、今は船橋にアメリカのコーニング社と提携して、パイレックスやテレビのブラウン管を生産している。・・・」
この当時岩城硝子・工芸部が製作したパート・ド・ヴェール作品の一つが「GLASS」ガラス工芸研究会誌15号(1983年発行)の口絵に紹介されていて、当時の作風を伺い知ることが出来る。
その解説文は次のようである。先の佐藤氏の文章と重複するところもあるが、そのまま引用させていただく。
「口絵解説
鷹 置 物
岩城硝子工芸部
昭和十三年以降の戦前作
高さ 二十二・三cm
岩城硝子がパート・ド・ヴェール(Pate de Verre)の技法に着目してその研究を始めたのは昭和八年であった。フランスでこの技法を見聞した画家の岡田三郎助や、陶芸家の沼田一雅によって伝えられた知識をもとに試作をはじめたもので、同社でこれにたずさわった清水有三、小柴外一、そして沼田の弟子でもあった小川雄平らが、その制作に成功したのは昭和十三年であったという。
現在でもお元気な清水氏の話しによれば、戦前、岩城硝子でパート・ド・ヴェールの素材に使われたガラスは、含有率が三十%位の鉛ガラスで型の素材は、石膏にマイカを混ぜたものだったそうである。また、ここに紹介する作品にみられる緑色の呈色剤は、酸化クロームであろうとのことであった。・・・」(樋田豊次郎)
この時、同じ「GLASS」15号(1983年10月発行)に記事
・パート・ド・ヴェール-技法と鑑賞ー黒崎知彦・三橋寿恵子・友部 直・中村 裕・井上暁子
が掲載されており、その後「GLASS」21号(1986年10月発行)には、
・パート・ド・ヴェール技法の受容-岩城硝子工芸部とフランソワ・デコルシュモンー樋田豊次郎
が掲載されている。
また、この岩城硝子が研究開発し製作したパート・ド・ヴェールについての詳しい解説記事が2回にわたり日本ガラス工芸学会誌「GLASS」に掲載された。
・旧岩城硝子のパート・ド・ヴェール(一) 山口 勝旦 37号(1995年6月発行)
・旧岩城硝子のパート・ド・ヴェール(二) 山口 勝旦 38号(1995年12月発行)
このように過去には謎めいた話のあるパート・ド・ヴェール技法であるが、最近のガラスに関する書籍などにはガラスの製法の一つとして多くの本に紹介され、広く知られるようになっている。
・ガラス器を楽しむ 岡本文一監修 1993年 講談社発行
・カラー版 世界ガラス工芸史 中山公男監修 2000年 美術出版社発行
・すぐわかる ガラスの見わけ方 井上暁子監修 2001年 東京美術発行
こうした現代の日本におけるパート・ド・ヴェールの普及には、由水常雄氏の公開教育が大きく貢献しているのではと思えるが、前出の「ガラス工芸への招待」の記述は次のように続いている。
「こうしたパート・ド・ヴェールの衰退現象の中で、1975年に再発見した私は、77年から公開教育を始めました。その新しい方式によるパート・ド・ヴェール教育の中から、多くの優秀な作家たちが輩出してきました。そして1986年に、パリで盛大な「日本のパート・ド・ヴェール展」を開催しました。参加者百十名、出品者四十五名という大世帯によるパート・ド・ヴェール展は、世界でも初めての試みで、ヨーロッパ各地から、ガラス作家を始め、教育機関の先生方、陶芸家や彫刻家、画家たちで満員となるという成功を収めました。
これを契機にして、急速にこの技法に挑戦するガラス作家たちが増えてきました。今日では、わが国では百人余のプロ作家がこのパート・ド・ヴェール技法によって作品を制作しており、千人に余るアマチュア作家も、この技法を楽しんでいます。」
こうした作家の作ったものだろうか、私の手元には、軽井沢に来て間もない頃に当地で買い求めた2個のパート・ド・ヴェールのぐい吞みがある。独特の温かみのある手触りの物で、冷酒用として愛用している。
パート・ド・ヴェールのぐい吞み2個(H69mm,D45mm)
本家ともいえるフランスではというと、アール・ヌーヴォー期に創業したドーム社では、パート・ド・ヴェール技法をやはり1968年に「再発見」し、現在も製品を作り続けている。ドーム社ではパート・ド・ヴェールという表現は用いずに、パート・ド・クリスタルと呼んでいる。
このドーム社の技法については、ノエル・ドーム著の”Pate de Verre"(1984年発行)の一部を翻訳した記事が、日本ガラス工芸学会誌「GLASS」に2回にわたり紹介されていて、次のようである。また、3回目は前2回の内容を補完するために、日本で活躍中の黒崎知彦氏、岩崎五郎氏の二人の作家にインタビューした内容の紹介になっている。
・パート・ド・ヴェールの技法(一)ノエル・ドーム著、研究委員会訳、34号(1993年12月発行)
・パート・ド・ヴェールの技法(二)ノエル・ドーム著、研究委員会訳、35号(1994年3月発行)
・パート・ド・ヴェールの技法(三)研究委員会、37号(1995年6月発行)
ドーム社が作品に添付しているパンフレットには次のように記されている。
「石膏型にガラスの粒を入れ、焼成するという古代エジプトで用いられていた製作技法を1968年にドームが再発見し、クリスタルで再現。彫刻的な造形が可能であるだけでなく、毎回石膏型を壊して作品を取り出すことから生まれる一品性が特徴」
Daum社のパンフレットから
ドーム社の製品のひとつに次の作品Collection ROSEがある。先日入手したものであるが、高さ約30cm、径約25cmの大作である。
ガラス特有の透明感があり、バラの花びらや葉の色と形状が美しく再現されていてみごとである。
Daum社のパート・ド・クリスタル製品、Collection ROSE(H30cm,D25cm)
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