引っ越しはさまざまな都合で已むを得ず行うことが多いと思うのだが、時にはその引っ越しが学生の場合には転校を伴うことになり、そのため近所にいた友達や、一緒に幼稚園(保育園)や学校で過ごした友と離ればなれになり、その後2度と会うことがないということが起きる。そうした中で、自分でも少し不思議に思う経験をしてきているので紹介させていただく。引っ越しといっても、私が子供のころ経験したのは、狭い範囲の中でのことなので、とくに驚くような事ではないのかもしれないが、どうだろうか。
画狂老人と自ら名乗る江戸時代の天才浮世絵師・葛飾北斎は、生涯で93回もの転居・引っ越しをしたと言われる。また、一日に3回引っ越したこともあるという。75歳の時には既に56回に達していたというから、90歳で亡くなるまでの15年間にはさらに37回の引っ越しをしたことになり、なかなかの数字である。
北斎が転居を繰り返したのは、彼自身と、離縁して父のもとに出戻った娘のお栄(葛飾応為)とが、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからとされる。また、北斎は生涯百回引っ越すことを目標とした百庵という人物に倣い、自分も百回引っ越してから死にたいと言ったという説もあるそうだ。
北斎とは比べるべくもないが、私もこれまでに30回近くの引越しを経験している。多いほうだと思う。ただその割には、嬉しくない転校は1回だけで済んだ。子供の間は当然両親の事情によったが、就職してからはもっぱら会社都合の転勤や転属によるものであった。そして、自身の転勤に際しては、多くは単身で赴任をした。
幼い頃の記憶の始まりは3歳ころだが、その時に住んでいた家は大阪市内の南方にあり、2階建ての長屋であった。すでにここに来るまでに、私は3回の引越しをしていたと後で両親から聞かされた。
この時の記憶をたどると、大阪はジェーン台風の襲来を受けた時で、2階の部屋の土壁が崩れ落ちて、外が見えていたことを覚えている。
このジェーン台風のことを調べてみると、「昭和25年(1950年)9月3日~4日 大阪湾で顕著な高潮、大阪兵庫、和歌山などで大きな被害。」とある。昨年2018年の台風21号では、関西国際空港が高潮で滑走路や旅客ターミナル1階が数十センチ冠水するという被害が出たが、過去にも類似の被害が出ていたようである。
さて、ここを出て次に移った住まいは天王寺駅の近くで、この時「望之門(のぞみのもん)保育園」というキリスト教系の保育園に入園している。
保育園時代の記憶はあまり多くはないが、担任の先生のお名前は覚えていて、「ゆうむら先生」といった。後年小学校に通うようになってから、自宅を訪ねてくださったことがあり、お会いしているが、その後結婚されて東京に住むようになったと母から聞かされている。
保育園時代に、もう一度引越しをした。引越し先は園からかなり離れていたので、通園バスなどない時代のこと、5歳児が通うには遠いと考えたのであろう、両親から近くの別の保育園に移るかと聞かれたが、友達と別れるのがいやで、このまま同じ保育園に通いたいと答えている。
自宅で仕事をしていた父はよく自転車の後ろに私を乗せて、坂の下まで送ってくれた。私はその後階段を登り、園まで歩いていったが、途中いつもNY君の家に立ち寄り、一緒に登園していた。
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保育園のクラスメートNY君の家の前で(右筆者)
園での生活でもうひとつ記憶に残っているのは、学芸会で「シンデレラ」の劇をしたことで、私は王子様役をすることになり、シンデレラ役はMMさんであった。この時のことは後々母から何度も聞かされることになったのだが、私が使用したマントは、母が使っていたミシンのカバーを利用したもので、豪華に見え、なかなか好評であったらしい。
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保育園の学芸会(橙〇MMさん、青〇筆者)
こうして、引っ越しをしたにもかかわらず保育園を無事卒園することができた。
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保育園を変わることなく無事卒園(青〇筆者)
保育園を卒園して通うようになったIM小学校は保育園からだいぶ離れていたので、当然、保育園のクラスメートは誰も来ていなかったし、NY君ともその後2度と会うことがなかった。しかも、この小学校に通ったのは1学期だけであった。又引越しをしたのである。従って、このIM小学校のクラスメートのことは何も覚えていない。ただ、担任の先生のお名前「にえかわ先生」だけは記憶にある。大阪城に遠足に行ったことは、写真を見て確認した程度である。
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IM小学校入学時の集合写真(青〇筆者)
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IM小学校の遠足で大阪城に(青〇筆者)
次に住んだのは大阪の南東部のまだ周囲には田や畑が広がっている場所で、父が家を新築したのであった。さすがに引越しには懲りていた私は、「もうこれで引越しをすることは無いね」と父に言っている。
新しい住まいからそれまでのIM小学校には通える距離ではなかったので、前述の通り転校することになった。私が経験した唯一の転校である。1年生の夏休みのことで、母に連れられて、夏休み中の転校先のIG小学校に挨拶に出かけた。担任のM先生が会ってくださり、先生と母が話をしている間に窓の外に見えたアサガオの花の記憶が鮮明である。
このIG小学校ではそれ以上転校することもなく無事卒業した。1年生から2年生になる時にクラス替えがあっただけで、その後2年生から6年生までクラス替えがなく、5年間同じクラスメートと過ごすことになった。
おかげで、このメンバーは互いにとても仲良く、還暦を期に再開した同窓会を今も年1回開催している。
一番遠方に住んでいる私が、現地大阪の男女数名からなる幹事グループに連絡をして、開催日の決定や会場の選定をお願いしてきたのであるが、開催に一番熱心なのは私だと皆から言われている。離れて住んでいるだけに同窓生への思いが特に強いのかもしれない。
1年生の時、私とちょうど入れ替わるように転校して出ていったA君がいた。私とはほとんど接点もなく、当時の記憶は全くない。ただ、転校後すぐに仲良くなったAT君からだったと思うが、A君はとても(頭も)よい子だったという風に聞かされていた。もちろん、それに引き換え君はなんとも「やんちゃ」だなという意味が含まれていたのであるが。
その頃、遠足でどこかのお寺にでかけたようで、集合写真が残っている。A君の姿も写っている。ただ、写真が出来上がって配られたころにはもうA君は転出していてクラスにはいなかったので、A君の手元にはこの写真は、届いていないのではないかと思う。
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IG小学校転校後すぐの遠足(橙〇A君、青〇筆者)
話は少しそれるが、二人いる私の孫娘のことである。数年前のこと、鎌倉に住んでいた娘夫婦が、婿の仕事の都合で2年間の期間限定で札幌に転勤することになり、家族で引っ越しをしていった。そこで、私たち夫婦がそれまで住んでいた東京から鎌倉に引っ越して、留守居役を務めることにした。
年上の孫娘は当時鎌倉市内の私立小学校に通っていたが、やむなく転校することになり、1年生の夏休みに札幌の公立小学校に移った。私の場合とよく似た時期の転校であり、この符合にはやや不思議を感じさせられた。
その孫娘は、予定通り2年後、元の鎌倉のS小学校に復学する事ができて、今年無事ここを卒業した。このS小学校は、小・中一貫校であったが、札幌の小学校にいる間に出会ったクラスメートの影響を受けたとのことで、孫娘はその後猛烈に勉強するようになり、受験をして横浜市内にある私立の中学校に合格する事ができ、今はその女子中学校に通っている。
私たち夫婦は、この間に軽井沢移住を決め、娘たち家族が鎌倉に戻る時に、軽井沢に引っ越ししてきている。
さて、私の話に戻るが、6年生の時に、クラスメートのOSさんという女子が生徒会長に立候補するという話になり、私が選挙参謀を務めることになった。学校中の各クラスの教室を廻り、選挙応援演説をするのであった。
OSさんとは母親同士が年も同じで仲良く付き合っていたこともあり、お宅に伺って何度か選挙の相談をした。
母が90歳になったころ、このOSさんのお母さんに会いたいというので、母を連れて1度は伊丹のお宅に、もう1度は、伊丹駅近くのホテルで食事をご一緒したことがある。OSさんのお母さんは3年ほど前に、私の母も昨年亡くなってしまった。
次の写真は、卒業アルバムに載っているIG小学校の全景であるが、私の入学当時はまだできて間もない頃で、周りは田んぼや畑であった。
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IG小学校全景
中学校への進学の時、ほとんどのクラスメートは同じN中学校に進んだが、中の数名は私立の中学校に入学した。OSさんも私立の女子中学校に行った。
中学1年生の年末、父が自宅を手放すことに成り、私の願いも空しくまた引越しをした。今度は最寄の近鉄南大阪線で4駅ほど離れた場所であった。
そのころ、私は縁あって近くの市場の米屋でアルバイトをしていたが、その最中の引越しということで、私は引越しには立ち会うことができず、その日はアルバイト先のN宅に泊めていただき、翌日大晦日の仕事を終えてから、暗くなった夜道を自転車で引越し先に向かうことになった。
この時は、本来ならば転校しなければならないはずであった。しかし、両親がどのように話をつけたのか、そのままN中学校に通うことができた。私自身ももちろん転校は望まなかったので幸いであった。
中学校の修学旅行は東京・鎌倉・箱根方面で、専用の貸し切り列車「きぼう号」での往復であったが、帰りの列車で事件が起きた。夜行列車だったと思うが先生方もみな寝ている時に、誰だったか今はもう思い出せないが、担任のS先生が持っていたウィスキーの小瓶をそっと持ってきて口をつけた。もちろん飲むわけではなく、飲む真似をした程度であって、私もその仲間に加わったが、それがS先生に見つかってしまった。
先生にこっぴどく叱られることになったが、その時「君は越境してこの学校に来ている。本来行くべき中学校に行ったらどうか!」と言われてしまった。その場限りの話で、転校には至らなかったが、先生は越境通学のことをご存知だったのだと改めて知ったできごとであった。
この時の同学年にYT君がいた。彼もまた越境してN中学校に通ってきていた。恐らく、同じ駅で乗り降りするということで親しくなったのだろうと思うが、彼に誘われて乗降駅に近い英語と数学の学習塾に行くようになった。彼はT高校を目指して、越境してN中学校に来ていた。彼の家はお兄さんも二人のお姉さんもみなT高校卒であった。
クラスは違っていたが、成績のよかったYT君とは、彼の家に行きよく一緒に勉強をした。そして、私もYT君と一緒に無事T高校に入学することができた。
次の写真も卒業アルバムにあったN中学校の全景である。宅地化が進み、高速道路や地下鉄が近くを通るようになり、今はすっかり周囲の様子などが変わってしまっている。
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N中学校全景
高校に進学するとともに、YT君と一緒に通っていた学習塾で、今度は逆に数学を教えるアルバイトをするようになった。それまでこの学習塾で数学を教えていたやはりT高校の先輩KTさんが遠方のF大学に進んだため数学の先生がいなくなったのである。英語の方は大阪駅で通訳をしていた父親のKHさんが継続して務めていた。この学習塾は主に英語を学ぶところであった。
高校1年生の頃、仲のよかったIG小学校の同級生と時々同窓会を開いて近郊の山や海に出かけていた。中高一貫の女子高に進学していたOSさんもこの同窓会に参加していて、久しぶりに会った彼女に、保育園時代にMMさんという女子がいて、その子が「シンデレラ」の役をしたことがあるという話をしたところ、そのMMさんなら自分と同じ学校にいる人だろうという返事が返ってきた。
卒園以来10年もまったく会うこともなかったMMさんのことを、何故この時OSさんに話そうと思ったのか、今となってはその理由はわからないが、ともかくOSさんはMMさんと親しくしているということで、T高校の秋の運動会の応援に、お弁当を作り二人そろって来てくれることになった。
MMさんはその頃、TVで、化粧品会社がスポンサーになっているインタビュー番組のアシスタントの仕事をしていて、定期的にTV出演をしていると知り、二度ほどTV出演中のMMさんをまぶしく見た覚えがある。何とも不思議な再会であった。
高校時代にはもう一つ不思議な出来事があった。IG小学校に1年生で私が転入していくとほぼ同時に、転出していったA君がいたことを先に書いた。彼とは何かを話をした記憶はないが、AT君が随分褒めていたので名前だけはしっかりと憶えていた。また、遠足の時の集合写真も手元にあったので、風貌はそれとなく頭に入っていた。
高校3年になった時のことだったと思う。高校では、毎年クラス替えがあったのだが、YT君とは3年間同じクラスであり相変わらず親しくしていた。そして、やはり同じクラスの仲の良いメンバーにST君がいて、彼とも親しく付き合っていた。その彼に、何を思ったのか、私が小学校時代に、自分と入れ替わるようにして転校して行ったA君という人がいたことを話した。すると、ST君が、それは自分のことだよと言う。今の名前が違っているのは、当時両親が離婚をして、お母さんと共に転居していったからで、旧姓に戻っているのだという。
何故、STくんにそのような話をしたのか。多分それは、私の記憶に残っていた、あの集合写真に写っていたA君と、目の前のST君が重なって見えたからだと思う。それにしても不思議な出会いという気がしてならない。
その後、YT君と私はO大学に、秀才の誉れ高いST君はK大学の理学部・物理に進んだ。
高校時代には、引越ししなかったが、大学に進学した頃にはまた引越しをしている。しかし、もちろんもう転校することはない。ただ、近鉄南大阪線沿線のこの家に住んだのは2年ほどで、更に引越しをして今度は南海高野線の沿線の家に移った。
大学にはその後ずっとこの家から通っていたが、当時の自身の体調のことなどを考えて、大学院に進むことにして4年生の時に所属していたF研究室にそのまま残った。
高校1年の時から続けていた、学習塾の数学の講師のアルバイトは大学に進学してしばらくして、塾が閉鎖になったので終わっていたが、その後は家庭教師のアルバイトをしていた。そしてさらに、大学院の2年目になり奨学金がもらえるようになった事と、実験で帰宅時間が遅くなりがちであることを考えて、大学のすぐそばに下宿することにした。これは引越しと言うほどのものではない。
この年、また偶然が重なった。同じF研究室に、あのK大学にいるはずのST君が入ってきたのであった。聞くと、彼も前年大学院の試験を受けたが、K大の理学部・物理の学生の多くは大学院に進むため、競争が激しく、この年は大学院浪人をしたとのこと。そして、今年は私のいるO大学のF研究室も受け、合格してきたのだという。恐らくその頃彼はこのF研究室に私がいることは知らなかったと思う。
彼とは1年間共に同じ研究室で過ごす事になり、卒業と共に私は民間企業に就職をして神奈川県に引っ越した。
その後は賀状だけの付き合いになり、ST君はその後大学院を卒業して、O大学の別の学部の助手になったと知った。少し後のことになるが、私が勤務先の人事部からの依頼で上司と共にST君を大阪に訪ねて、学生の就職の依頼をしに行ったことがあった。久々の再会であった。
最近の情報では彼はO大学の名誉教授になっているという。YT君は若くしてO大学医学部の助教授になり、現在も大阪の病院長をしていると聞いている。YT君は卒業後一時期札幌の病院勤務をしていたと聞くが、その後は大阪に戻っている。ST君も大阪にとどまり、年賀状の住所から判断する限りほとんど引越しはしていないようである。
企業に就職してからの私は、社員寮、アパート、社宅を経て自宅を持ったが、その後2回引越しをした。親の子というべきか。その後も、仕事場の関係や転勤と転属もあり、神奈川県から広島県・三次市、新潟県・上越市に単身赴任し、それぞれの場所でも数回の引越しを経験した。
最近では東京、鎌倉と住まいを移し、ようやく4年前に当地軽井沢に終の棲家とも言うべき家を求めて引っ越してきた。さて、これが本当に最後になるかどうか。
今回この話を書こうと思って、古い写真を探し出して見ていたら、ここに名前が出てきたAT君、YT君らと高校3年のころキャンプに出掛けた時の写真が見つかった。懐かしさのあまりここに掲載させていただく。
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峯山高原キャンプ(左からYT君、NH君、AT君、筆者)
画狂老人と自ら名乗る江戸時代の天才浮世絵師・葛飾北斎は、生涯で93回もの転居・引っ越しをしたと言われる。また、一日に3回引っ越したこともあるという。75歳の時には既に56回に達していたというから、90歳で亡くなるまでの15年間にはさらに37回の引っ越しをしたことになり、なかなかの数字である。
北斎が転居を繰り返したのは、彼自身と、離縁して父のもとに出戻った娘のお栄(葛飾応為)とが、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからとされる。また、北斎は生涯百回引っ越すことを目標とした百庵という人物に倣い、自分も百回引っ越してから死にたいと言ったという説もあるそうだ。
北斎とは比べるべくもないが、私もこれまでに30回近くの引越しを経験している。多いほうだと思う。ただその割には、嬉しくない転校は1回だけで済んだ。子供の間は当然両親の事情によったが、就職してからはもっぱら会社都合の転勤や転属によるものであった。そして、自身の転勤に際しては、多くは単身で赴任をした。
幼い頃の記憶の始まりは3歳ころだが、その時に住んでいた家は大阪市内の南方にあり、2階建ての長屋であった。すでにここに来るまでに、私は3回の引越しをしていたと後で両親から聞かされた。
この時の記憶をたどると、大阪はジェーン台風の襲来を受けた時で、2階の部屋の土壁が崩れ落ちて、外が見えていたことを覚えている。
このジェーン台風のことを調べてみると、「昭和25年(1950年)9月3日~4日 大阪湾で顕著な高潮、大阪兵庫、和歌山などで大きな被害。」とある。昨年2018年の台風21号では、関西国際空港が高潮で滑走路や旅客ターミナル1階が数十センチ冠水するという被害が出たが、過去にも類似の被害が出ていたようである。
さて、ここを出て次に移った住まいは天王寺駅の近くで、この時「望之門(のぞみのもん)保育園」というキリスト教系の保育園に入園している。
保育園時代の記憶はあまり多くはないが、担任の先生のお名前は覚えていて、「ゆうむら先生」といった。後年小学校に通うようになってから、自宅を訪ねてくださったことがあり、お会いしているが、その後結婚されて東京に住むようになったと母から聞かされている。
保育園時代に、もう一度引越しをした。引越し先は園からかなり離れていたので、通園バスなどない時代のこと、5歳児が通うには遠いと考えたのであろう、両親から近くの別の保育園に移るかと聞かれたが、友達と別れるのがいやで、このまま同じ保育園に通いたいと答えている。
自宅で仕事をしていた父はよく自転車の後ろに私を乗せて、坂の下まで送ってくれた。私はその後階段を登り、園まで歩いていったが、途中いつもNY君の家に立ち寄り、一緒に登園していた。
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保育園のクラスメートNY君の家の前で(右筆者)
園での生活でもうひとつ記憶に残っているのは、学芸会で「シンデレラ」の劇をしたことで、私は王子様役をすることになり、シンデレラ役はMMさんであった。この時のことは後々母から何度も聞かされることになったのだが、私が使用したマントは、母が使っていたミシンのカバーを利用したもので、豪華に見え、なかなか好評であったらしい。
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保育園の学芸会(橙〇MMさん、青〇筆者)
こうして、引っ越しをしたにもかかわらず保育園を無事卒園することができた。
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保育園を変わることなく無事卒園(青〇筆者)
保育園を卒園して通うようになったIM小学校は保育園からだいぶ離れていたので、当然、保育園のクラスメートは誰も来ていなかったし、NY君ともその後2度と会うことがなかった。しかも、この小学校に通ったのは1学期だけであった。又引越しをしたのである。従って、このIM小学校のクラスメートのことは何も覚えていない。ただ、担任の先生のお名前「にえかわ先生」だけは記憶にある。大阪城に遠足に行ったことは、写真を見て確認した程度である。
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IM小学校入学時の集合写真(青〇筆者)
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IM小学校の遠足で大阪城に(青〇筆者)
次に住んだのは大阪の南東部のまだ周囲には田や畑が広がっている場所で、父が家を新築したのであった。さすがに引越しには懲りていた私は、「もうこれで引越しをすることは無いね」と父に言っている。
新しい住まいからそれまでのIM小学校には通える距離ではなかったので、前述の通り転校することになった。私が経験した唯一の転校である。1年生の夏休みのことで、母に連れられて、夏休み中の転校先のIG小学校に挨拶に出かけた。担任のM先生が会ってくださり、先生と母が話をしている間に窓の外に見えたアサガオの花の記憶が鮮明である。
このIG小学校ではそれ以上転校することもなく無事卒業した。1年生から2年生になる時にクラス替えがあっただけで、その後2年生から6年生までクラス替えがなく、5年間同じクラスメートと過ごすことになった。
おかげで、このメンバーは互いにとても仲良く、還暦を期に再開した同窓会を今も年1回開催している。
一番遠方に住んでいる私が、現地大阪の男女数名からなる幹事グループに連絡をして、開催日の決定や会場の選定をお願いしてきたのであるが、開催に一番熱心なのは私だと皆から言われている。離れて住んでいるだけに同窓生への思いが特に強いのかもしれない。
1年生の時、私とちょうど入れ替わるように転校して出ていったA君がいた。私とはほとんど接点もなく、当時の記憶は全くない。ただ、転校後すぐに仲良くなったAT君からだったと思うが、A君はとても(頭も)よい子だったという風に聞かされていた。もちろん、それに引き換え君はなんとも「やんちゃ」だなという意味が含まれていたのであるが。
その頃、遠足でどこかのお寺にでかけたようで、集合写真が残っている。A君の姿も写っている。ただ、写真が出来上がって配られたころにはもうA君は転出していてクラスにはいなかったので、A君の手元にはこの写真は、届いていないのではないかと思う。
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IG小学校転校後すぐの遠足(橙〇A君、青〇筆者)
話は少しそれるが、二人いる私の孫娘のことである。数年前のこと、鎌倉に住んでいた娘夫婦が、婿の仕事の都合で2年間の期間限定で札幌に転勤することになり、家族で引っ越しをしていった。そこで、私たち夫婦がそれまで住んでいた東京から鎌倉に引っ越して、留守居役を務めることにした。
年上の孫娘は当時鎌倉市内の私立小学校に通っていたが、やむなく転校することになり、1年生の夏休みに札幌の公立小学校に移った。私の場合とよく似た時期の転校であり、この符合にはやや不思議を感じさせられた。
その孫娘は、予定通り2年後、元の鎌倉のS小学校に復学する事ができて、今年無事ここを卒業した。このS小学校は、小・中一貫校であったが、札幌の小学校にいる間に出会ったクラスメートの影響を受けたとのことで、孫娘はその後猛烈に勉強するようになり、受験をして横浜市内にある私立の中学校に合格する事ができ、今はその女子中学校に通っている。
私たち夫婦は、この間に軽井沢移住を決め、娘たち家族が鎌倉に戻る時に、軽井沢に引っ越ししてきている。
さて、私の話に戻るが、6年生の時に、クラスメートのOSさんという女子が生徒会長に立候補するという話になり、私が選挙参謀を務めることになった。学校中の各クラスの教室を廻り、選挙応援演説をするのであった。
OSさんとは母親同士が年も同じで仲良く付き合っていたこともあり、お宅に伺って何度か選挙の相談をした。
母が90歳になったころ、このOSさんのお母さんに会いたいというので、母を連れて1度は伊丹のお宅に、もう1度は、伊丹駅近くのホテルで食事をご一緒したことがある。OSさんのお母さんは3年ほど前に、私の母も昨年亡くなってしまった。
次の写真は、卒業アルバムに載っているIG小学校の全景であるが、私の入学当時はまだできて間もない頃で、周りは田んぼや畑であった。
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IG小学校全景
中学校への進学の時、ほとんどのクラスメートは同じN中学校に進んだが、中の数名は私立の中学校に入学した。OSさんも私立の女子中学校に行った。
中学1年生の年末、父が自宅を手放すことに成り、私の願いも空しくまた引越しをした。今度は最寄の近鉄南大阪線で4駅ほど離れた場所であった。
そのころ、私は縁あって近くの市場の米屋でアルバイトをしていたが、その最中の引越しということで、私は引越しには立ち会うことができず、その日はアルバイト先のN宅に泊めていただき、翌日大晦日の仕事を終えてから、暗くなった夜道を自転車で引越し先に向かうことになった。
この時は、本来ならば転校しなければならないはずであった。しかし、両親がどのように話をつけたのか、そのままN中学校に通うことができた。私自身ももちろん転校は望まなかったので幸いであった。
中学校の修学旅行は東京・鎌倉・箱根方面で、専用の貸し切り列車「きぼう号」での往復であったが、帰りの列車で事件が起きた。夜行列車だったと思うが先生方もみな寝ている時に、誰だったか今はもう思い出せないが、担任のS先生が持っていたウィスキーの小瓶をそっと持ってきて口をつけた。もちろん飲むわけではなく、飲む真似をした程度であって、私もその仲間に加わったが、それがS先生に見つかってしまった。
先生にこっぴどく叱られることになったが、その時「君は越境してこの学校に来ている。本来行くべき中学校に行ったらどうか!」と言われてしまった。その場限りの話で、転校には至らなかったが、先生は越境通学のことをご存知だったのだと改めて知ったできごとであった。
この時の同学年にYT君がいた。彼もまた越境してN中学校に通ってきていた。恐らく、同じ駅で乗り降りするということで親しくなったのだろうと思うが、彼に誘われて乗降駅に近い英語と数学の学習塾に行くようになった。彼はT高校を目指して、越境してN中学校に来ていた。彼の家はお兄さんも二人のお姉さんもみなT高校卒であった。
クラスは違っていたが、成績のよかったYT君とは、彼の家に行きよく一緒に勉強をした。そして、私もYT君と一緒に無事T高校に入学することができた。
次の写真も卒業アルバムにあったN中学校の全景である。宅地化が進み、高速道路や地下鉄が近くを通るようになり、今はすっかり周囲の様子などが変わってしまっている。
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N中学校全景
高校に進学するとともに、YT君と一緒に通っていた学習塾で、今度は逆に数学を教えるアルバイトをするようになった。それまでこの学習塾で数学を教えていたやはりT高校の先輩KTさんが遠方のF大学に進んだため数学の先生がいなくなったのである。英語の方は大阪駅で通訳をしていた父親のKHさんが継続して務めていた。この学習塾は主に英語を学ぶところであった。
高校1年生の頃、仲のよかったIG小学校の同級生と時々同窓会を開いて近郊の山や海に出かけていた。中高一貫の女子高に進学していたOSさんもこの同窓会に参加していて、久しぶりに会った彼女に、保育園時代にMMさんという女子がいて、その子が「シンデレラ」の役をしたことがあるという話をしたところ、そのMMさんなら自分と同じ学校にいる人だろうという返事が返ってきた。
卒園以来10年もまったく会うこともなかったMMさんのことを、何故この時OSさんに話そうと思ったのか、今となってはその理由はわからないが、ともかくOSさんはMMさんと親しくしているということで、T高校の秋の運動会の応援に、お弁当を作り二人そろって来てくれることになった。
MMさんはその頃、TVで、化粧品会社がスポンサーになっているインタビュー番組のアシスタントの仕事をしていて、定期的にTV出演をしていると知り、二度ほどTV出演中のMMさんをまぶしく見た覚えがある。何とも不思議な再会であった。
高校時代にはもう一つ不思議な出来事があった。IG小学校に1年生で私が転入していくとほぼ同時に、転出していったA君がいたことを先に書いた。彼とは何かを話をした記憶はないが、AT君が随分褒めていたので名前だけはしっかりと憶えていた。また、遠足の時の集合写真も手元にあったので、風貌はそれとなく頭に入っていた。
高校3年になった時のことだったと思う。高校では、毎年クラス替えがあったのだが、YT君とは3年間同じクラスであり相変わらず親しくしていた。そして、やはり同じクラスの仲の良いメンバーにST君がいて、彼とも親しく付き合っていた。その彼に、何を思ったのか、私が小学校時代に、自分と入れ替わるようにして転校して行ったA君という人がいたことを話した。すると、ST君が、それは自分のことだよと言う。今の名前が違っているのは、当時両親が離婚をして、お母さんと共に転居していったからで、旧姓に戻っているのだという。
何故、STくんにそのような話をしたのか。多分それは、私の記憶に残っていた、あの集合写真に写っていたA君と、目の前のST君が重なって見えたからだと思う。それにしても不思議な出会いという気がしてならない。
その後、YT君と私はO大学に、秀才の誉れ高いST君はK大学の理学部・物理に進んだ。
高校時代には、引越ししなかったが、大学に進学した頃にはまた引越しをしている。しかし、もちろんもう転校することはない。ただ、近鉄南大阪線沿線のこの家に住んだのは2年ほどで、更に引越しをして今度は南海高野線の沿線の家に移った。
大学にはその後ずっとこの家から通っていたが、当時の自身の体調のことなどを考えて、大学院に進むことにして4年生の時に所属していたF研究室にそのまま残った。
高校1年の時から続けていた、学習塾の数学の講師のアルバイトは大学に進学してしばらくして、塾が閉鎖になったので終わっていたが、その後は家庭教師のアルバイトをしていた。そしてさらに、大学院の2年目になり奨学金がもらえるようになった事と、実験で帰宅時間が遅くなりがちであることを考えて、大学のすぐそばに下宿することにした。これは引越しと言うほどのものではない。
この年、また偶然が重なった。同じF研究室に、あのK大学にいるはずのST君が入ってきたのであった。聞くと、彼も前年大学院の試験を受けたが、K大の理学部・物理の学生の多くは大学院に進むため、競争が激しく、この年は大学院浪人をしたとのこと。そして、今年は私のいるO大学のF研究室も受け、合格してきたのだという。恐らくその頃彼はこのF研究室に私がいることは知らなかったと思う。
彼とは1年間共に同じ研究室で過ごす事になり、卒業と共に私は民間企業に就職をして神奈川県に引っ越した。
その後は賀状だけの付き合いになり、ST君はその後大学院を卒業して、O大学の別の学部の助手になったと知った。少し後のことになるが、私が勤務先の人事部からの依頼で上司と共にST君を大阪に訪ねて、学生の就職の依頼をしに行ったことがあった。久々の再会であった。
最近の情報では彼はO大学の名誉教授になっているという。YT君は若くしてO大学医学部の助教授になり、現在も大阪の病院長をしていると聞いている。YT君は卒業後一時期札幌の病院勤務をしていたと聞くが、その後は大阪に戻っている。ST君も大阪にとどまり、年賀状の住所から判断する限りほとんど引越しはしていないようである。
企業に就職してからの私は、社員寮、アパート、社宅を経て自宅を持ったが、その後2回引越しをした。親の子というべきか。その後も、仕事場の関係や転勤と転属もあり、神奈川県から広島県・三次市、新潟県・上越市に単身赴任し、それぞれの場所でも数回の引越しを経験した。
最近では東京、鎌倉と住まいを移し、ようやく4年前に当地軽井沢に終の棲家とも言うべき家を求めて引っ越してきた。さて、これが本当に最後になるかどうか。
今回この話を書こうと思って、古い写真を探し出して見ていたら、ここに名前が出てきたAT君、YT君らと高校3年のころキャンプに出掛けた時の写真が見つかった。懐かしさのあまりここに掲載させていただく。
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峯山高原キャンプ(左からYT君、NH君、AT君、筆者)
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