選手が機能しない、だがポシションや使い方は完全固定だ
「ハリルは特定の戦い方に拘泥しない。戦況に応じて柔軟に策を打つ監督だ」
こんな声がある。主にブラジル・ワールドカップでハリルが率いたアルジェリア代表での戦い方を根拠としている。だが本当にそうだろうか?
確かにチーム戦術に関してはその通りだ。現に東アジアカップでも、北朝鮮戦はハイプレス&ショートカウンター、韓国戦はリトリートからのロングカウンター、最後の中国戦ではポゼッション・スタイルとタテへの速さの融合にトライした。
「チームとしてどう戦うか?」に関しては確かにバリエーション豊富だ。1試合の中で戦況に応じてシステムを変えたり、それに応じた選手交代を行う。例えばハリルが好むシステムは4-2-3-1だ。だが試合の流れを見て4-3-3に変え、インサイドハーフを攻撃的に使ったり、アンカーにバイタルを見させたりする。チーム戦術についてはかなり柔軟だといえる。
だが一方、各ポジションに置くそれぞれの選手の「使い方」については、頑固そのもので完全固定だ。あらかじめハリルが描いた青写真通りの起用法にこだわり、絶対にポリシーを曲げようとしない。「この選手は◯◯な使い方をするつもりだったが、機能しないぞ。それなら、ポジションを変えてこういう使い方に変えよう」という柔軟さが、まったくない。
鋳型にハメ込まれた川又が輝けないワケ
具体的に説明しよう。
特に顕著なのが川又と永井、宇佐美の起用法だ。今大会、彼らはまったく機能しなかった。だがハリルは自分があらかじめ作っておいた鋳型にこだわり、途中で修正せず同じ使い方を続けた。川又はワントップ、永井は右SH、宇佐美は左SHでしか使わなかった。
ではハリルの「鋳型」とはいったい何か?
まず大前提としてハリルは4-2-3-1または4-3-3を基本にしている。集めた選手にそのシステムが向く向かないに関係なく、両システムを使い続ける。これはフィロソフィ型(過去記事参照)の監督ならではだ。自分の哲学を優先する。ゆえにまずシステムや戦術ありきで、選手の特性に合わせて鋳型を変えることはない。
加えて前々回の記事で解説した通り、ハリルにとってのワントップは「ポストプレイヤーであること」が戦術的な絶対条件である。ゆえにハリルは川又に、彼の苦手なポストプレイを強要し続けている。なぜならハリルは、もとから用意してある鋳型に選手をハメ込むタイプだからだ。
人並みはずれたフィジカル(高さと強さ)で選ばれた川又は、強靭なカラダと高さを生かしたヘディングシュートや自由奔放でワイルドなプレイが身上だ。にもかかわらず窮屈そうに(本来の持ち味でない)ポストを行儀よくこなす川又のプレイぶりは実に痛々しい。彼が本領を発揮できないのは、いつもなら本能でプレイする野獣が「ハリルという檻」の中に幽閉されているからだと容易に想像できる。
川又のヘッドを生かすクロスからのフィニッシュがない
そもそも川又の高さを生かすなら、サイドからハイクロスを入れるフィニッシュの形をチームの共通理解として持っておくべきだ。だが川又にそんなボールが入った記憶はほとんどない。これでは彼が生きるはずがない。つまりハリルは川又の特徴を生かす形で使ってない。
技術ではなく川又のフィジカルに惚れて選んでおきながら、いざ本番となるとフィジカルが武器になる起用法をしない。それどころかまさに技術が要求される「ポストプレイをやれ」と自分の鋳型にハメ込む。選手の持ち味とちがう使い方をする。つまり選んだ選手の特徴と、実際の起用法が矛盾しているのだ。
この点が前回、前々回の記事で指摘した「ハリルはフィロソフィ型の監督であるにもかかわらず、リアリズムに徹し切れてない」という問題点だ。
ハリルの考えるサッカーを実践したいなら、ポストのできない川又やボールコントロールの荒い永井、オフ・ザ・ボールがだめで運動量が少なく守備のできない宇佐美をそもそも(1)選ぶべきでない。逆に彼らを選ぶなら、(2)彼らの武器が生きるような使い方をすべきだ。だがハリルは(1)も(2)も、どちらもやってない。前回の記事で指摘したとおり、完全などっちつかずである。
永井はスピードを生かす起用法をされてない
永井に関してもまったく同じだ。川又案件と同様、ハリルは永井のフィジカル(スピード)に惹かれて選んでおきながら、そのスピードが生きる形で使ってない。
もし私が監督で、どうしても永井を使えと川淵サンに強制されたら(いや私ならそもそも選ばないので)、苦肉の策で永井をワントップにする。で、(中国戦の後半に永井が実行したように)前からガンガン、プレスをかけさせる。
彼のスピードと運動量、身体的強さは驚異的だ。チーターの快速を持つキングコングみたいなものである。敵のバックラインは、悠長に最終ラインでボールを回していられない。永井が寄せるスピードは相手にとって未体験の速さであり、「ここでボールを離せば、寄せに間に合う」という目測を狂わせる。そんな相手に追われたら、簡単にボールを失ってしまう。
しかも永井に続き、二の矢、三の矢でトップ下が寄せてはパスコースを限定し、ボールサイドのSHがタテを切り、とやれば、強力なハイプレスでボールを前から奪取できる。で、ショートカウンターで敵を蹂躙する戦術が成立する。
よしんばボールを取れなくても、パスコースを切られて寄せられた相手は苦し紛れで前にロングボールを放り込むしかない。つまり永井を中心とするフォアプレッシャーで、相手は最終ラインから丁寧にビルドアップできなくなる。結果、必然的に攻めが荒くなる。この効果は絶大だ。
ワントップの永井がライン裏を引き裂く
一方、攻撃面でもメリットは大きい。ワントップの永井の眼前には、広大なバックライン裏のスペースがある。そのスペースめがけ、持ち前のスピードを生かして前に飛び出すプレイができる。ラインで駆け引きし、マーカーと「よーい、ドン」で競争になれば、永井に勝てるヤツなんていない。たちまちGKと1対1になり、おもしろいようにゴールが取れるだろう。
とすれば裏のスペースを狙うキラーパスが出せる柴崎のような選手も生きてくる。例えば永井に前で精力的にダイアゴナルランをさせ、そこに柴崎がスルーパスを出せばカンタンに裏のスペースを突ける。つまり永井のワントップ起用は複数の選手を生かし、生かされ、「Win-Win」の関係を築くことができる。
となれば相手のディフェダーは裏のスペースを作るのを怖がり、今度は不用意にラインを上げられなくなる。永井の足を警戒し、ラインを高く保てなくなる。ズルズル下がる。こうなればしめたものだ。今度は逆に、相手の最終ラインと中盤の間にスペースができる。
つまり「永井をワントップに置く」という戦術によって、バイタルエリアがガラ空きになる。トップ下やSH、前に飛び込んだボランチがこのスペースをうまく使えば、おもしろいように点が取れるだろう。
ハリルは自分との戦いに勝てるか?
こんなふうにちょっと考えればいくらでも彼らを生かす使い方ができるのに、なぜハリルは策を打たないのか? 繰り返しになるがそれは彼がフィロソフィ型の監督であり、上にあげたような柔軟な起用法はハリルの辞書にないからだ。
それは無能という意味ではない。
目の前の現実に合わせ、前述したような修正策を取るのはセレクション型の監督だ。だがハリルにとってサッカーは、自分の内なるフィロソフィを実現するためにある。自分のポリシーにない起用法をするなどまさに「辞書にない」。それで勝っても自己実現できないし、彼の「芸術」は完成しない。
しかしそれなら内なる芸術作品の完成を目指し、そもそも自分のポリシーに合う選手だけを選ぶべきなのだ。だがそれもできずに、川又や永井、宇佐美のような自分が考えるサッカーのコンセプトからはずれた「規格外」の選手にホレて手を出してしまう。
繰り返しになるが、ハリルに必要なのは、自分のサッカーに合わない宇佐美を絶対に招集しなかったアギーレがもっているようなリアリズムだ。あるいは逆に、セレクション型の監督のような選手の特性に合わせた柔軟なチーム作りである。さてハリルは自己を抑制し、現状を修正できるか? これは自分自身との戦いだ。
はたしてハリルは今後のチーム運営で、自分に勝てるか?
ここが勝負どころである。
「ハリルは特定の戦い方に拘泥しない。戦況に応じて柔軟に策を打つ監督だ」
こんな声がある。主にブラジル・ワールドカップでハリルが率いたアルジェリア代表での戦い方を根拠としている。だが本当にそうだろうか?
確かにチーム戦術に関してはその通りだ。現に東アジアカップでも、北朝鮮戦はハイプレス&ショートカウンター、韓国戦はリトリートからのロングカウンター、最後の中国戦ではポゼッション・スタイルとタテへの速さの融合にトライした。
「チームとしてどう戦うか?」に関しては確かにバリエーション豊富だ。1試合の中で戦況に応じてシステムを変えたり、それに応じた選手交代を行う。例えばハリルが好むシステムは4-2-3-1だ。だが試合の流れを見て4-3-3に変え、インサイドハーフを攻撃的に使ったり、アンカーにバイタルを見させたりする。チーム戦術についてはかなり柔軟だといえる。
だが一方、各ポジションに置くそれぞれの選手の「使い方」については、頑固そのもので完全固定だ。あらかじめハリルが描いた青写真通りの起用法にこだわり、絶対にポリシーを曲げようとしない。「この選手は◯◯な使い方をするつもりだったが、機能しないぞ。それなら、ポジションを変えてこういう使い方に変えよう」という柔軟さが、まったくない。
鋳型にハメ込まれた川又が輝けないワケ
具体的に説明しよう。
特に顕著なのが川又と永井、宇佐美の起用法だ。今大会、彼らはまったく機能しなかった。だがハリルは自分があらかじめ作っておいた鋳型にこだわり、途中で修正せず同じ使い方を続けた。川又はワントップ、永井は右SH、宇佐美は左SHでしか使わなかった。
ではハリルの「鋳型」とはいったい何か?
まず大前提としてハリルは4-2-3-1または4-3-3を基本にしている。集めた選手にそのシステムが向く向かないに関係なく、両システムを使い続ける。これはフィロソフィ型(過去記事参照)の監督ならではだ。自分の哲学を優先する。ゆえにまずシステムや戦術ありきで、選手の特性に合わせて鋳型を変えることはない。
加えて前々回の記事で解説した通り、ハリルにとってのワントップは「ポストプレイヤーであること」が戦術的な絶対条件である。ゆえにハリルは川又に、彼の苦手なポストプレイを強要し続けている。なぜならハリルは、もとから用意してある鋳型に選手をハメ込むタイプだからだ。
人並みはずれたフィジカル(高さと強さ)で選ばれた川又は、強靭なカラダと高さを生かしたヘディングシュートや自由奔放でワイルドなプレイが身上だ。にもかかわらず窮屈そうに(本来の持ち味でない)ポストを行儀よくこなす川又のプレイぶりは実に痛々しい。彼が本領を発揮できないのは、いつもなら本能でプレイする野獣が「ハリルという檻」の中に幽閉されているからだと容易に想像できる。
川又のヘッドを生かすクロスからのフィニッシュがない
そもそも川又の高さを生かすなら、サイドからハイクロスを入れるフィニッシュの形をチームの共通理解として持っておくべきだ。だが川又にそんなボールが入った記憶はほとんどない。これでは彼が生きるはずがない。つまりハリルは川又の特徴を生かす形で使ってない。
技術ではなく川又のフィジカルに惚れて選んでおきながら、いざ本番となるとフィジカルが武器になる起用法をしない。それどころかまさに技術が要求される「ポストプレイをやれ」と自分の鋳型にハメ込む。選手の持ち味とちがう使い方をする。つまり選んだ選手の特徴と、実際の起用法が矛盾しているのだ。
この点が前回、前々回の記事で指摘した「ハリルはフィロソフィ型の監督であるにもかかわらず、リアリズムに徹し切れてない」という問題点だ。
ハリルの考えるサッカーを実践したいなら、ポストのできない川又やボールコントロールの荒い永井、オフ・ザ・ボールがだめで運動量が少なく守備のできない宇佐美をそもそも(1)選ぶべきでない。逆に彼らを選ぶなら、(2)彼らの武器が生きるような使い方をすべきだ。だがハリルは(1)も(2)も、どちらもやってない。前回の記事で指摘したとおり、完全などっちつかずである。
永井はスピードを生かす起用法をされてない
永井に関してもまったく同じだ。川又案件と同様、ハリルは永井のフィジカル(スピード)に惹かれて選んでおきながら、そのスピードが生きる形で使ってない。
もし私が監督で、どうしても永井を使えと川淵サンに強制されたら(いや私ならそもそも選ばないので)、苦肉の策で永井をワントップにする。で、(中国戦の後半に永井が実行したように)前からガンガン、プレスをかけさせる。
彼のスピードと運動量、身体的強さは驚異的だ。チーターの快速を持つキングコングみたいなものである。敵のバックラインは、悠長に最終ラインでボールを回していられない。永井が寄せるスピードは相手にとって未体験の速さであり、「ここでボールを離せば、寄せに間に合う」という目測を狂わせる。そんな相手に追われたら、簡単にボールを失ってしまう。
しかも永井に続き、二の矢、三の矢でトップ下が寄せてはパスコースを限定し、ボールサイドのSHがタテを切り、とやれば、強力なハイプレスでボールを前から奪取できる。で、ショートカウンターで敵を蹂躙する戦術が成立する。
よしんばボールを取れなくても、パスコースを切られて寄せられた相手は苦し紛れで前にロングボールを放り込むしかない。つまり永井を中心とするフォアプレッシャーで、相手は最終ラインから丁寧にビルドアップできなくなる。結果、必然的に攻めが荒くなる。この効果は絶大だ。
ワントップの永井がライン裏を引き裂く
一方、攻撃面でもメリットは大きい。ワントップの永井の眼前には、広大なバックライン裏のスペースがある。そのスペースめがけ、持ち前のスピードを生かして前に飛び出すプレイができる。ラインで駆け引きし、マーカーと「よーい、ドン」で競争になれば、永井に勝てるヤツなんていない。たちまちGKと1対1になり、おもしろいようにゴールが取れるだろう。
とすれば裏のスペースを狙うキラーパスが出せる柴崎のような選手も生きてくる。例えば永井に前で精力的にダイアゴナルランをさせ、そこに柴崎がスルーパスを出せばカンタンに裏のスペースを突ける。つまり永井のワントップ起用は複数の選手を生かし、生かされ、「Win-Win」の関係を築くことができる。
となれば相手のディフェダーは裏のスペースを作るのを怖がり、今度は不用意にラインを上げられなくなる。永井の足を警戒し、ラインを高く保てなくなる。ズルズル下がる。こうなればしめたものだ。今度は逆に、相手の最終ラインと中盤の間にスペースができる。
つまり「永井をワントップに置く」という戦術によって、バイタルエリアがガラ空きになる。トップ下やSH、前に飛び込んだボランチがこのスペースをうまく使えば、おもしろいように点が取れるだろう。
ハリルは自分との戦いに勝てるか?
こんなふうにちょっと考えればいくらでも彼らを生かす使い方ができるのに、なぜハリルは策を打たないのか? 繰り返しになるがそれは彼がフィロソフィ型の監督であり、上にあげたような柔軟な起用法はハリルの辞書にないからだ。
それは無能という意味ではない。
目の前の現実に合わせ、前述したような修正策を取るのはセレクション型の監督だ。だがハリルにとってサッカーは、自分の内なるフィロソフィを実現するためにある。自分のポリシーにない起用法をするなどまさに「辞書にない」。それで勝っても自己実現できないし、彼の「芸術」は完成しない。
しかしそれなら内なる芸術作品の完成を目指し、そもそも自分のポリシーに合う選手だけを選ぶべきなのだ。だがそれもできずに、川又や永井、宇佐美のような自分が考えるサッカーのコンセプトからはずれた「規格外」の選手にホレて手を出してしまう。
繰り返しになるが、ハリルに必要なのは、自分のサッカーに合わない宇佐美を絶対に招集しなかったアギーレがもっているようなリアリズムだ。あるいは逆に、セレクション型の監督のような選手の特性に合わせた柔軟なチーム作りである。さてハリルは自己を抑制し、現状を修正できるか? これは自分自身との戦いだ。
はたしてハリルは今後のチーム運営で、自分に勝てるか?
ここが勝負どころである。