昭和39年に「ジャングル大帝」の企画の放送が決まった。 昭和40年初めに「鉄腕アトム」と「ジャングル大帝」との班わけでスタッフ入れ替えプロデューサー会議が開かれた、「ジャングル大帝」が必要な人員、150人を取った。「鉄腕アトム」班は最小限必要な人員90人を選んだ。そうすると25人が余ったので、これをどうするかで会議はいきずまり、 その25人の対策で手塚先生はワンダースリーの放送企画が決まった。これもまた伝説となった。
鉄腕アトムで 手塚先生が校閲することで、スケジュールが遅れてしまい、結果貫徹続きの生活が続く、体を壊したり辞めて行ったりする人も出た。 始めは手塚先生をしたって入ってきた人たちも、背に腹は変えられなくなり、手塚先生を呪う人まで出てきた。虫プロを企業として成り立たせるには。手塚先生の校閲待ちを、なくせば良いことは分かりきっていた、そこでその方法を試みたのが「ジャングル大帝」であった。社内には公然と手塚派を名乗る者が出てきた。 ほんらい手塚先生を慕って入った社員、全員が手塚派のはずなんだが、現実は違っていた。その手塚派と思われるものたちが、スタッフ選びからはずされた。手塚派は疎外されたのである。 ワンダースリーは、もとはナンバーセブンの企画であった。事情で中止となったが、その放送枠で、急遽「ワンダースリー」を放送することになった。 これは雑誌に連載し、脚本からすべて手塚先生のやりたいようにする ものであった。「W3」は最初、「少年マガジン」の昭和40年3月21日号より連載が開始された。その時点でTV化も決まっており、人気も相当なものであった、にもかかわらず、第6回で何の予告もなく、突然終わってしまい、どうしたわけか「少年サンデー」誌上で連載が開催された。
不評の漫画がこれからというときに終わってしまうことはあるが、なぜこんな事件が起きたのかは、謎とされている」と言うのが当時の事情であり社員もこのように思っていた。
また手塚先生はこの件についてはかなりの間、口外しなかったが伝説は生きていた。
鉄腕アトムで 手塚先生が校閲することで、スケジュールが遅れてしまい、結果貫徹続きの生活が続く、体を壊したり辞めて行ったりする人も出た。 始めは手塚先生をしたって入ってきた人たちも、背に腹は変えられなくなり、手塚先生を呪う人まで出てきた。虫プロを企業として成り立たせるには。手塚先生の校閲待ちを、なくせば良いことは分かりきっていた、そこでその方法を試みたのが「ジャングル大帝」であった。社内には公然と手塚派を名乗る者が出てきた。 ほんらい手塚先生を慕って入った社員、全員が手塚派のはずなんだが、現実は違っていた。その手塚派と思われるものたちが、スタッフ選びからはずされた。手塚派は疎外されたのである。 ワンダースリーは、もとはナンバーセブンの企画であった。事情で中止となったが、その放送枠で、急遽「ワンダースリー」を放送することになった。 これは雑誌に連載し、脚本からすべて手塚先生のやりたいようにする ものであった。「W3」は最初、「少年マガジン」の昭和40年3月21日号より連載が開始された。その時点でTV化も決まっており、人気も相当なものであった、にもかかわらず、第6回で何の予告もなく、突然終わってしまい、どうしたわけか「少年サンデー」誌上で連載が開催された。
不評の漫画がこれからというときに終わってしまうことはあるが、なぜこんな事件が起きたのかは、謎とされている」と言うのが当時の事情であり社員もこのように思っていた。
また手塚先生はこの件についてはかなりの間、口外しなかったが伝説は生きていた。