真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

りぼんの騎士 式根島事件

2006年10月11日 13時30分40秒 | 虫プロリボンの騎士
相変わらずのスケジュールの遅れ、梅雨の日が続き当時の道路は未舗装が多く、外注周りをすると泥んこになりぬれるだけではなく人も、悪いほうへ考えてしまう、そんな時でもあった。
いやな梅雨が終わり、夏が来た。不満はもう爆発寸前であった。誰が言い出したのかは分からないが、伊豆七島の式根島へ行こうよ、という話が出た。キャンプをすれば船賃だけで行けるし、と話が決まり、週に2回しかない船便の時間表を調べ、予定を立て始めた。うわさを聞いて制作事務の女性人や進行全員が行きたいという話しになり、いっそうのこと、大げさではなく、小柳さんを応援するためストライキをしてしまえという若気の至りで話がまとまってしまったのであった。
つまりプロデューサーに対して脅しをかけようとしたわけで、反逆であった。
夏の終わりみんなが4日から1週間の休暇願を出した。

残業が70時間で打ち切り残りは8時間で1日分の代休となっていたので、みんなが取りきれないほどの代休を持っていた。

それでも、休むにあたってはそれぞれの立場で、良心の呵責か支障のないように段取りをつけておいた。
 反乱は決行されたプロデューサーとAP以外の制作は竹芝から船で、新島経由で式根島へ向かった。バチがあたったのか船は台風の影響をもろに受けた大波で、大ゆれに揺れた。
それでも島に着くと、迎えの小船が出て、沖に停泊した船から乗り移って式根島へ上陸した。
 キャンプはしたものの、浜辺のキャンプ場は水道が2時から4時までしか出なく、最適とはいえなかったが、久しぶりの休暇を楽しんでいた。仕事を担当しているものは、先に帰らなくてはならなかった。しかし悲劇が起こった、台風が来たのであった。船が来ない、帰れない、島から出る方法はまったくない。
島の郵便局から電報を打った、「イマシキネジマ タイフウデカエレズ、シゴトタノム」
予定より2日遅れて帰ってきた、そのまま2スタへ戻った。一人一人が謝ったが、そこには机がなくなっていた。ほとんどのもの者は、3スタの「わんぱく探偵団」の準備室にまわされた。
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リボンの騎士

2006年10月10日 13時27分12秒 | 虫プロリボンの騎士
昭和42年4月2日 「リボンの騎士」がフジテレビで放映開始された
この作品で手塚先生は脚本と絵コンテの校閲をした。 そのためスケジュールは大幅に遅れ、スタッフは貫徹を余儀なくされたが、それなりに楽しい職場であった
第二スタジオがリボン班となったので、手塚先生は行きたいときに行くことができた。手塚先生のための動画机もおいてあった。 4月26日 にはモーニングショーに手塚先生が出演したが、このときもスケジュールが大幅に遅れた。
 手塚先生は五月のゴールデンウィークあとの(スタッフにはゴールデンウィークも何もなかったが)5月9日 から、漫画集団による世界一周旅行をした。モントリオール万国博等を見学して6月5日に帰国であった。
1ヶ月留守になるため、手塚先生の校閲は、中止せざるを得なかった。その間に制作の人事の問題がくすぶり始めていた。
手塚先生がいれば、深夜若い人たちと話をすることで、不満は解消できたと思うがそれがなくなってしまった。
問題はプロデューサーに対する不信感からから始まった。実験映画では制作をしていた渡辺忠美プロデューサーであったが
ほとんどのスタッフは、その名前さえ知らなかった。その人が「リボンの騎士」のプロデューサーといわれてもどんな人かわからず戸惑ったのであった。
そして一緒に連れてきた、若尾 博司さんをアシスタントプロデューサーにしたことから、制作スタッフの不満が爆発した。
W3で制作をしていた小柳朔朗さんが当然「リボンの騎士」ではアシスタントプロデューサーになると、誰もが思っていたからであった。
進行で小柳朔朗さに世話にならなかったものはいないほど、面倒見のいい人で制作一筋で来ていた、進行みんなの先輩であった。制作みんなの推薦があったにもかかわらず、無視された感があった。それが尾を引いていった。
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