真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

ふしぎなメルモ 4話

2007年01月31日 10時20分59秒 | ふしぎなメルモ
第4話「チチャイナ国のとりこ」
本来なら、ワレガラス先生の紹介の話なので、先の放送するべきところ、前後してしまった。
演出は西谷克美和さん、絵コンテの修正派、いけポンが清書してくれた。
手塚先生は、ワレガラスの、特徴付けとして、鼻毛を抜くのが癖、ということに、こだわっていた、子供から見て果たして、どうかと思い、ほかに何か良い特徴づけがないものかと、意見を述べたが、ほかに良いアイディアもなくスケジュールもない時なので、手塚先生の、好きなようにしてもらうことにした。そうして出来上がったのがワレガラス先生で、メルモを助ける大人としての役割を持ってもらうことになった。
 メルモが、チッチャイナ国から尋ねてきた(特別ゲスト出演)大臣に国にご招待という形で、拉致される。メルモが若返りの秘密を知っていると、思われてしまったためであった。
 チッチャイナ国(小さいという意味で疲れると名前まで考えられなくなる証拠)の宮殿に拘束されたメルモは、女将校に、若返りの秘密を話すようにと迫り、ワレガラスに打ち明けるようにと、命令する。

ワレガラスは、今の政権に批判的で、メルモに秘密は話すと、殺されてしまうから話すなという。
 メルモはそんなワレガラスにキャンディを飲んで、その秘密を見せる。
 女将校を赤いキャンディで子供にして、青いキャンディで大人になったメルモは、女将校の服を奪って、ワレガラスと宮廷から逃げ出す。

手塚先生は、突然子供になったり大人になったりするだけでは、面白くないので、動物などに変身できるようになると、面白いのでは、という話が出た。
 かなり設定には無理があるが、考えに考えて上で、動物の変化には幹がありどこかで突然変異が起こり変化の状態で、枝葉に分かれていった。だから細胞分裂の家庭では、人類になるまでの過程をたどる、もしその変化の状態で、とめることができれば、そのときの動物に変化できる、そんな、強引な説明で、赤いキャンディを2つと青いキャンディをひとかけら飲めば動物に変身できるという設定にしよう。ということになった。
 最後にはどうせ「漫画なんだから」良いにつけ悪いにつけ使われる言葉。
でも漫画は夢を追うもの、子供が、ほかの動物に変身できるという夢を与えられるのだから、屁理屈なんぞは、無用の介でいく事にした。

 窮地に追い込まれたメルモとワレガラスは、ワレガラスの指示で赤いキャンディを2つと青いキャンディをひとかけら飲んで、ねずみに変身して、貨物列車で逃げることに成功する。しかし捕まってしまった、ワレガラスは、拷問を受けてキャンディの秘密を喋ってしまった。
 手塚先生が、やってはいけないという拷問シーン、自白をさせるための機械を埋め込むのに、頭にドリルであなを開けるカットが出てしまった。ギャグのつもりでもこれはまずい、外国モノの漫画映画で、人物がモノにぶつかって、ばらばらになる、シーンがあるが、あれは,むこうでは、低俗だと軽蔑されるので、やめようとおっしゃっていた、チェックしきれなかった、その上なおしているスケジュールが全くない。仕方なくそのまま放送せざるを得なくなってしまった。

 メルモはまた捕まってしまった。キャンディの秘密を知った国王と大臣は、赤いキャンディと青いキャンディを間違えて食べ、余計に歳を取り老人になってしまった。
 この落ちは色盲だったという落ちであったが、現在では、色盲という言葉すら、使えなくなっているらしい。使ったほうに罪があるのか、使わせなくしたほうに罪が有るのか、歴史が、答えを出してくれるであろう。
 そしてチッチャイナ国に平和が訪れた。
声優さんは納屋悟朗さん、小原乃立梨子さん梶哲也さん、田の中勇さん、井上玄太郎さん、岩田安生さん本多晋さんベテランがそろった。作画監督山本繁さん作画はタマプロダクションとスタジオジョーク背景が水野尾純一さんと作画から背景に移った山守 博昭くんか手伝ってくれた。仕上は主にスタジオビッグが中心となり、進行は、やーさんこと芝野達弥くんが、担当してくれた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふしぎなメルモ 3話

2007年01月30日 11時26分30秒 | ふしぎなメルモ
第3話「男の子をやっつけろ」
手塚先生と演出家の上田耕介さんとの打ち合わせは、やはり雑誌との兼ね合いで、長いこと待たせた上に、手塚先生が、口頭で話を伝えることとなった。そのためラジカセを購入して、手塚先生の説明をカセットテープに録音して、演出の上田さんに、渡すことにして、日立の120分テープを用意した。
 (13話まではこのような形態を取りましたが、この時のテープは、回収して持っておりましたが、貧乏したとき、音楽をとるのにこのテープを使ってしまいました。今思えばとても貴重な、テープとなりましたのに、何ということをしてしまったのかと、後悔しております。)
 シナリオは作らなかった。テープを聴きながら、あの大きな絵コンテを書いてもらい、それを、手塚先生の校閲を受けて、なんども書き直してもらった。そして秒数をいれ、大目の25分ぐらいにして完成。それを今回は、手塚先生のキャラクターを描くのが一番うまいといわれていた、アシスタントのイケポンこと、池原成利さんに清書してもらい担当してもらった、進行の片山秀夫さんによって、スタジオビックとスタジオジョークに作画依頼した。
 男の子と女の子ではどっちがえらいか。
クラスで男の子と女の子の対立が始まった。メルモたちは上級生の女番長ナナメに、「男の子なんかに、負けてはダメ、」と激励された。
 男の子たちの応援には男番長のシカクが付いた。
男の子と女の子の対立は、どんどん大きくなって、ナナメとシカクの対立になった。
 ホームルームの時間メルモは男の子のいじめを先生に告げた。男の子たちはメルモに仕返しをしていじめた。そんなメルモを助けたのは、男番長シカクであった。弱いいじめはするなというのが、シカクの信念であったからだ。
 誤解したナナメはシカクを罵り、ついには男女のどちらが偉いかを、勝負で決めることとなってしまった。
 それぞれ作戦を立てる、男の子2人が女装してスパイとなるが、怪しまれ、ジュースをどんどん飲まされ、おしっこを我慢できなくなってばれてしまう。
女の子のスパイは、男装したナナメとメルモ、女の子たちに毛虫で脅かそうとしているのを、毛虫の入った箱に青いキャンディを溶かした水を入れる。
 ナナメとシカクはタイマンデ勝負をすることになる、いざ勝負というときに風が吹いて、ナナメの目にごみが入る。心配したシカクは、ナナメをおんぶして、ワレガラス先生の治療を受けにいく。ワレガラス先生から、男も女も、どっちがえらいということはない、どちらがいなくても、子供はできないのだ、という教えを貰い、二人は仲直りをする。
 一方男と女の勝負が始まろうとしていた。男の子が、毛虫の箱を開けると、そこから、きれいな蝶がたくさん飛び出した、これに女の子は、大喜びこれでは喧嘩はできない、駆けつけたナナメとシカクも仲直りしている。男の子と女の子は仲直りをした。

音響はグループタックの明田川進さん、虫プロ出身なので、気心も知れていてかなりのムリを聞いてもらった。効果はイシダ・サウンドが担当、録音が早稲田のアバコ・スタジオ、で行なわれた。
アフレコではメルモの武藤礼子さん、今回は学校の話なので声優さんも多く1話2話でも来てくれて、ワレガラス担当となった、北村弘一さんや 堀 絢子さん、富山 敬さん、 松尾佳子さん沢田和子さん新谷明さん川島ふじ子さんなど狭いスタジオがいっぱいになるほどお集まりになり、活気のあるアフレコとなった。この話は、次の話で、ワレガラスとの出会いがあるのであったが、スケジュールの関係で前後せざるをえなかった。
音楽取りも立ち会ったが、有名な、オーケストラの、楽団員が来ていた。楽譜一発で演奏できるのは良いのだが、楽譜どうりにしか演奏できず、融通が利かないなどという、愚痴が聞こえてきたりして、面白かった。ダビングは、見ていて余り面白くない、映像を見ながら作ってきた擬音を付けていく作業だか、納得いくまで何度も繰り返す、音楽を付けアフレコでとったせりふにかぶせていくのだが、徹夜続きには眠くなる作業で、隅で立ち会っているが、部屋も暗いし、プロジェクターの音が、心地よい子守唄に聞こえてくる。
 至福のとき。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふしぎなメルモ 

2007年01月29日 12時06分11秒 | ふしぎなメルモ
手塚プロ映画部には、設備が何もなかった。だから、必要な動画机などは、鎌田家具店に注文してあつらえた。虫プロのも作っているので、手間はかからなかったが、値段は手作りなので高価であった。
 演出家はせりふの秒数を計るのにストップウォッチが必要であった。これも稟議書を書いて20個注文してもらった。島方社長から、届けられたストップウォッチには、手塚プロダクション、と通し番号が彫られていた。早速No1のストップウォッチを、手塚先生にお届けした。
撮影出しをするためと、準備をするための、セルや、背景を置くための、棚が必要であった。これも鎌田家具店さんに作ってもらったが、請求書を見て、島方社長が、青くなるほどの値段であった。「今後、映画部が、放送を続けるための投資だと思って、長い目で見ましょう」と慰めたが、まさか後にあんなことになろうとは、想像だにしていなかった。

放送が近づくと、手塚プロ2階だけでは手狭となってしまった。そこで島方社長と、映画部として使える家を探し回った。探し回ったといっても、不動産屋めぐりをしたわけであった。

第5スタジオから少し離れた、南光幼稚園へ行く道の手前を左に入る道があり、突き当たり左に格子戸の門があってそこを入ると右に建物があった。左が大家さんで地元の広い家であった。1階は、ガラス戸で入ると土間になっており、部屋は上がるのには、少し高かった。板敷きで大きな押入れがあり押入れのふすま2枚分の広いトイレもあった。

 説明によると、縫製工場として使っていたとのことで、天井には配線プラグが都合よく着いていた。2階は2部屋あり、畳の部屋で有った、借りることにした。

一部屋を編集用の部屋として、もう一部屋は泊まりや、試写をするための部屋とした。
一階は撮影出しなど、進行が使う部屋とした。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふしぎなメルモ 2話

2007年01月28日 20時15分01秒 | ふしぎなメルモ
2話のときであった、美術監督の明石貞一さんは2階の部屋で背景設定などの仕事をしていた、背景は彼のスタジオで、彼のスタッフと描いていた。そのほかにも、前からの仕事で、ひろみプロの絵本作品も描いていた。

 ひろみプロは、虫プロ左正面の電気屋2階に有った。右の狭い階段を上がったところにスタジオがあり、手塚先生のアシスタントも出入りしていた、もちろん平田さんも手塚卓さんもひろみプロの役員でもあった。

 明石さんは伝える用事があったので、ひろみプロに寄った。仕上がったメルモ第2話の背景が、車のトランクルームに入れてあった。すぐなので、エンジンはかけたままであった。

 もどった目の前で車が盗まれた。追いかけても、車と人では追いつけない。すぐ先の交番で、急いで手配をしてもらったが、背景の価値がわからないので、緊急さに欠け、その日は発見されなかった。

 我々は真っ青になった。放送日も迫っている、撮影出しができない。その夜から、少年探偵団?が活躍する。まずは,逃走方向の石神井団地、駐車してある車をしらみつぶしに調べていく、その日は夜が明けて仕事場に戻った。
明石さんは、徹夜してでも、もう一度描き上げるといった。

 新宿方面の外注さんへ、打ち合わせをしに行くときも、目は明石さんの車を、車酔いするほど探した。

 人の慣性は面白いもので、新宿方面だと、フジテレビへ行くための裏の抜け道があるのであるが、何年も使っているものだから、気を抜くといつの間にか、そのうら道を走っている。 別の言い方をすれば、いつの間にかその道で、虫プロまで帰れるのである。

 その日も環七を突っ切り、裏道をいつものように中村橋から阿佐ヶ谷へぬける道を突っ切る、突き当たりに小学校が有り、少し広い道になる。そこを左折して富士見台駅前を通り手塚プロへと帰るのであるが、そこを右折すると左の歩道に片輪を歩道に乗り上げた乗用車が停めてあった。

 そのナンバーを確認するとビンゴである。すぐにまわりの様子を見て、ドアを開けてみる。ドアの鍵はかかっていなかったので、ボンネットを開けて、コンデンサーの一次コイルからの配線を抜いておく、これでエンジンはかからない。

 警察に連絡するために、公衆電話を探す。富士見台への向け道手前に新しくできた、うどん屋さんがあった。

 お店の公衆電話で110番をする。しかし相手の声は聞こえるのだが、こちらの声が聞こえない。そのうちに、相手が「お店の公衆電話の場合、お店の人から鍵を借りて、かけなおしてください」とのこと、そんなこと全く知らなかった不便である。

 話が通じるようになって、友人の盗難車を発見したので、すぐ来てくださいというのに、要領を得ない、いつの話ですかとか、など細かいことを聞かれる。

 それは、昨日届けを出した交番から盗難届けが上がっていなくて、110番しても、要領が得ないのであったのだ。
 説明するだけで、かなりの時間がかかってしまい犯人が車に戻っているのではと気がかりで仕方なかった。

 連絡がすんですぐに明石さんに電話を入れ、発見したことを伝えた。来るときに鍵がないので鍵を持ってきて欲しいことをも言った。

 車の中で見張りながら、かなり待足されて、パトカーが到着、盗難届けが上がっていなかったため、ここでも説明をする。

 鑑識が来て指紋など採取、車が粉だらけになる。
 助手席のドアにハンドバックが引っかかっていた、多分、ひったくりをして、捨てたのにドアに引っかかっていたのだろうと、被害者の手がかりを探していた。

 こちらはあとで、被害にあった方から、ハンドバック発見のお礼の電話を貰ったが、現金などはなくなっていたという。

 犯人が戻るかもしれないので、見張らなくても良いのですかと尋ねたが、明石さんが、鍵を持ってきたところで、練馬警察で調べるため、車で警察に向かった。

 あとで明石さんから聞いた話では、サンバイザーに鍵が隠してあったとのこと、犯人は、あとでまた戻って来るつもりだったのだ。

 少年探偵団としては、大人の警察官のふがいなさに、不信感ばかりが、増してしまった。

 それでも背景が、すべて無事で戻ってきたのは、うれしかった。
 何より疲れ気味の明石さんに、貫徹(完徹)をさせなくて済んだ事が喜びであったし、偶然にも盗難車が発見できたことに、神も仏もあったものだと感謝した。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふしぎなメルモ 2話

2007年01月27日 11時31分15秒 | 虫プロ
 手塚プロに平田のポンさんが2人。
1人は手塚先生のマネージャーをしている、平田昭吾さんで昭和33年手塚先生初めての専任アシスタントとして上京、初台からの手塚先生とは腐れ縁の、元祖ポンさん。
 もう1人は虫プロでは古株で、アトムからのスタッフで押しも押されもしない、手塚信者の一人、演出家である平田敏夫さんであった。

その平田敏夫さんも、何かやらせろといって駆けつけてくれた。あしたのジョーの演出を担当していて、虫プロと深く関わって、おいでだった。

 先生の意向なので,虫プロ関係者として当然丁重にお断り申し上げた。
 ところが馬鹿なこというのではない、私はフリーの立場にいる、私が何を演出しようと私の自由だ、というのである、涙が出るほどうれしかった。

 すぐに第2話の演出をお願いできることに決まった。

 第2話は手塚先生も大変気に入っていたお話で、実際に像のニュースが前にあった。そこからヒントを得た話で、演出のポンさんと、雑誌の合間に打ち合わせを重ねた。合間なので、待つ時間が多く、2階映画部で何日も無駄な時間を過ごさなくてはならず、一計を案じて、深夜手塚先生が手の空いたところで、手塚先生にストーリーを尋ねる、という形で、お話をカセットテープに吹き込み、そのテープから、絵コンテを書いてもらうことにした。出来上がった絵コンテは、さほどの直しも出ず、手塚先生自ら、大きな絵コンテに絵を清書して、作画がその絵を利用できるようにした上で、作画外注に回した。

第2話 「ブラ子どこへゆく」
 動物園に行ったメルモは、飼育係のおじさんから小象のブラ子の話を聞いた。体が弱かったブラ子は、心優しい権三爺さんに引き取られて雪国へ行き、今では元気に暮らしているとのこと。

(ここでは「小児麻痺」という言葉が使われている、当時ふつうに使われていた言葉であることは、承知していただきたい。「言葉狩り」が横行している現在、この「言の葉」は使用自粛、いや使用禁止となっている。すでに若者では、死語となっていて、意味が通じない。悲しいことである。)

早速メルモは雪国へ行き、ブラ子と対面する。しかしブラ子は元気が無い。権三爺さんは、ブラ子は思春期になり、恋人が欲しくて元気がないのだ、と言った。
 そこでメルモは、赤いキャンディを使い、ブラ子を卵にして雄象がたくさん住んでいるアフリカに連れて行くことにした。

 青いキャンディで大人になり、スチュワーデス採用試験に合格し、飛行機でアフリカに飛ぶメルモ。

(大人になりスチュワーデス試験に合格、すぐに飛行機に乗れるわけがない、などと、目くじらを立てていう、輩がいる。しかし、アニメの世界っていうのは、子供に夢を与える世界である。夢の中っていうのは、省略や、つじつまや設定がおかしい事など当然あるが、それにいちいち文句をいう人が、おかしいのではないか。)

 その足で象の住む地域へと行き、赤いキャンディを溶かした水に卵を浸してブラ子を元の姿に戻してやった。

(卵から細胞分裂のシーンの作画は、手塚先生がすべて描いた。枚数的にもスケジュール的にも、大変なことであったが、その撮影で、波ガラスを使うに当たって、撮影の菅谷正明さんは、大セルを持ってくるようにといい、撮影に立ち会った私の目の前で、セルをストーブの火にかざして、セルの形を変化させ、それを波ガラスとして使用した、回転させながら使用したそのカットは、普段の波ガラスを使用したときより、数段効果的で、手塚先生を喜ばせた。)

 まもなくブラ子は一頭の雄象に恋心を抱く、ところがその雄象は仲間たちとブラ子をいじめまくる。ブラ子とメルモを追いかけてくる、雄象たちを、青いキャンディで年寄りの象にしてしまう。

 日本に戻ったメルモとブラ子は、サーカスを見に行く、そこで活躍する雄象のジャンに恋をする。そしてジャンもブラ子に一目惚れした。

 ブラ子とジャンは、サーカスで結婚式を挙げる。そして新婚旅行で、船でアフリカへと旅立つのであった。


演出平田敏夫さんは本田 元雄という名前で演出を担当していただいた。この名前は、丸山さんが、「あしたのジョー」で平田さんにつけた、もうひとつの名前であった。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふしぎなメルモ 4

2007年01月26日 17時35分39秒 | ふしぎなメルモ
ほかのスタッフについて触れてみよう。
ひばりが丘駅から田無へ行く道がある、谷戸という場所の手前に団地ができて、通りに商店街ができていた、本屋さんや電気屋さんなどがあり、床屋さんも有ったが、その床屋さんが廃業したあとに、ジャックという麻雀屋ができた。
むかしからジャックという作画のスタジオがあったが、その雀荘の2階にそれまでひばりが丘北口狭いバスどおりを志木街道に突き当たるあたりに有った、1軒屋のスタジオから引っ越してきていていた、永樹さんの親父さんが雀荘をやっていた。
だから作画を依頼したついでに暇があると、下で、麻雀をした。
そのジョークの代表者として忙しかった、凡人さんに、手塚プロの2階に、机を置いて,ムリ無理チーフディレクターを頼み込んだ。麻雀で勝ったので、そのツケで無理やりやらせたのでは、けしてない。

親友のスタジオテイク正延さんには、やはり机を用意して、これまた社長として、また作画家を育てている最中にもかかわらず、強引に作画監督をお願いした。
同じ頃手塚先生の作品製作が開始されるとの噂を聞きつけて駆けつけてくれた、山本繁さんも、何か手伝いますよ、と来てくれ、手塚プロの2階で作画監督と作画をやってくれることとなった。

この3人がいれば1話の作画は楽にできるであろう、その上ジャックとテイクのスタッフが協力してくれたのであった、が当然絵コンテは遅れに遅れた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふしぎなメルモ 3

2007年01月25日 09時59分18秒 | ふしぎなメルモ
7月スケジュールはどんどん無くなり手塚先生の第1話の絵コンテは遅れに遅れた、さばどころかめざし、を読んでのスケジュールはすでに無いものとなっていた。

オープニングは、中村橋に手塚先生の実験映画を制作するため、待機していた作画家の中の中村和子さんに個人的に手塚先生が頼んだ。これは私に中村橋の人たちは、絶対に手伝わせないで下さいといった手前、私にナイショで、頼んだ形になって、正式には知らされていなかった。だからオープニングは手塚先生が一人で、作ってしまったと、信じていた。
 7月スケジュールはどんどん無くなり手塚先生の第1話の絵コンテは遅れに遅れた、さばどころかめざし、をよんでのスケジュールはすでに無いものとなっていた。
 そんな中、1話のためになんにとも寝ないで仕事をしていた。仕上も東映動画やタツノコの友人たちから紹介された、かなり遠くの外注さんを使っていた。三ヶ島農協のさき16号国道に近い、宮寺という所での農家で、彩色を手伝ってくれたグループの人たちなどは、遠いところを来てくれているというので、徹夜で枚数を上げてくれたことをありがたく覚えている。
 1話の撮影だし最終日には、撮影の菅谷さんの家まで届けに行った、その帰り道、いつものように裏の狭い道で、関越の下の道へ行こうと右折した、その先は下り坂であって、関越沿いに広い道がある、そこを突っ切って、裏道で、大泉学園のほうへ向けられる。
右折したまでは、覚えていた。そのあと熟睡してしまった。けたたましいクラクションの音で、目を覚ました。左を見ると車が迫っていた。思わず、アクセルを踏み込んだ。
 ものすごい衝撃を受けた。後ろを見ると、車とカーブミラーの支柱に挟まれて後ろの席に隙間はなくなっていた。もしアクセルを踏まなかったら、そこに私の体があったわけであった。
 警察での取調べがあったので、会社に知らせるのが遅れた。ギャランGTOは珍しかったので、通りがかった人から手塚プロに「あれでは大怪我か、死んでいるかもしれない」と連絡があった。すぐに島方社長が、現場に駆けつけた。車の状態を見て、気が遠くなったそうだ。取調べが済んで連絡をいれると迎えに来てくれた。会社に着くと手塚先生やスタッフ皆が心配して、出迎えてくれた。先生が島方さんに病院で検査を受けるよう付き添っていくよう指示してくれた。
 
 この事故は、不幸な出来事であったが、島方社長が、個人の車を使わせてもらって申し訳ない、せめて、保険を入っておいて貰おう、と言うので、事故の前日もう1台の軽自動車と保険に入っていた。だから余り出費しないですんだ。
 もうひとつは、言ってはいけないことなので、あえて書かないが、法的処分を受けないで済んだ、と言うことだった。

1話 「ミラクルキャンデーをどうぞ!! 」1971年10月3日  演出 手塚治虫

ある夜のこと、メルモの母親が酔っ払い運転の車にひかれ亡くなってしまった。
 お母さんは天国へ連れて行かれた。神様たちの前で、もう一度メルモたちに合わせて欲しいと、お願いした。そのとき、運命の知恵の輪が外れた。願い事がひとつだけ叶えられるという知恵の輪だった。
 生き返らせてもらえないのなら、残された3人の子供たちを大人にして欲しいと頼んだ。
 神様は十歳年をとる青いキャンディと、反対に十歳若返るキャンディを作る。
2階の物干し台で、悲しんでいるメルモのところに、母親が現れてそのキャンディのビンを渡す。


両親のいなくなった、メルモ、それにトトオ、タッチは、遠縁の遺産(保険金)目当ての意地悪な伯母さんに引き取られることになる。しかしメルモたちは、引き取られることを嫌がった。
 そこでメルモは青いキャンディーを食べて、大人になり、ママも服を着て母親になりすます。どたばたのあと、伯母を追い返すことに成功する。

 放送時間の関係で、もうひとつのエピソードとして、
運転が乱暴な男の話。まるで進行の「やーさん」を予言するような話を入れた。

 その話も解決してその夜、母親のまま、メルモは、トトオと一緒にお風呂に入っている。(ここは、サービスカットで、メルモの、裸を見せている、明らかに、話題になることをねらってのカットであった)
 トトオは「お母さんではない、お姉ちゃんだ、」と言って、メルモであることがばれてしまった。
「どうしてわかったの」のメルモノ問いに「だって目が違う、お姉ちゃんの目だ」といった。
キャンディの秘密をトトオに話し、これからは3人でこの家を守っていこうと誓うのであった。

手塚先生は、久しぶりのテレビアニメということで、乗りに乗っていた。いろいろなアイディアをだしたりもした。
この一話では多くの作画を描いている。
 特に伯母さんのしゃべりのシーンは、手塚 治虫ならではの表情としゃべりの表し方で、これがやりたかったのでは、と思えるほどであった。 アフレコのときに声優さんたちも、この表情の面白さに、乗りに乗ってアフレコをした。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふしぎなメルモ 2

2007年01月24日 11時24分18秒 | ふしぎなメルモ
この頃手塚先生は仕事を減らしていた。
「火の鳥 復活編」これはCOMの看板漫画
早川書房のSFマガジン「鳥人大系 」 を連載
小学館の 小学一年生 と よいこ に「ママァちゃん 」を連載
毎月10日と25日発売小学館のビッグコミックに 「きりひと讃歌」を連載
集英社の週刊少年ジャンプに毎回読みきりの「ライオンブックス」シリーズ
サンケイ新聞には、毎日「青いトリトン」を連載していた。
6月28日 月曜 秋田書店の週刊少年チャンピオン「アラバスター」最終回で連載終わらせた。
 
メルモをにらんでか、かなりの量を減らしたのであった。
減らしたと言っても、もともと多すぎたので、それでもかなりの仕事量であった。

 暇を見つけては、手塚先生と打ち合わせをした。スタッフはまた決まっておらず、仕上の池田さんと、背景の明石さんが、ひろみプロの仕事つながりで、付き合ってくれていた。

先生からのアイディアのひとつで、絵コンテを大きくして、一コマを動画用紙の大きさにする、そうすれば作画の人が楽になるし、キャラクターの統一もできる、「一石二鳥のアイディアだろう」と言うのである。このメルモに関しては、手塚プロ社長の島方さんと、手塚先生が虫プロで、できなかったことをメルモでやらせてあげたい。たとえ赤字になっても、と言うとても幸せな約束をしていた。通しの絵コンテがなくなることで、作業の面では話の全体を見ることが、大変になり、当然制作サイドの仕事は増えるけど、その覚悟をした。

一人では仕事が多すぎてんてこ舞いしているときに、総務課で仲の良かった井出康道君が進行に移っていた、その彼が制作のベテラン片山秀夫君を引っ張って、「メルモ」をやらせろと、押し掛けてきた。手塚先生から、虫プロには迷惑かけないというのが最低条件だから」とありがたいけどお断りしたが、すでに辞表を出してきて、受理されているのだから、ほかに行くところも無いんだぞ、と言われ、本来なら制作の実力者、片山君も進行をやってくれると言うので涙が出るほどうれしかった。

池田さんが、サイケと読んで可愛がっていた進行をやめた、吉田優一さんも引きつづいて来てくれた。4人入れば、何とか進行はまわせる、しかし、先生に付きっ切りなので、最低あと一人欲しく、島方さんに新聞広告を出して募集して、とてもおとなしくて何でも言うことをきく、頑丈そうな、芝野達弥君に来てもらうことに決めた。

のちに彼は、羊の皮をかぶった(いい意味では当時のスカイラインがそうであったが)悪い意味のオオカミであった。車のハンドルを握ると、ジギルとハイドのように、全く人格が変わり、「どけどけじゃまだ、コンニャロー」など、誰が同乗していようがお構いなしに、変身してしまった。池田さんが当然つけたあだ名は「やーさん」であった。

音響を担当してくれることになった、グループタックの明田川さんから、オープニングの楽譜が届けられた、母屋にいたときであった、放送時間枠が西崎さんから、知らせてきて、オープニングの曲は1分ちょっとと言うことになっていた。

奥の先生の机のその奥にピアノがあった。すぐに先生がピアノでその曲を弾いた、アトムやジャングルのときみたいなインパクトは無く、感激したとは行かなかったが、手塚先生からは、何も文句は出なかったので、この曲で行くことになった。

 まだ家に帰れていた、あさガードよりの狭い階段を上がりまずタイムレコーダーを押すことから仕事が始まる。一番はいつも私であった。

階段を登って行くと階段に腰掛けている影が見えた。そろそろ来るだろうと手塚先生が外で待っていたのだ。人がタイムレコーダーを押すのも待てぬようで腕を引っ張り、2階の制作室へと連れて行く、手には持ちきれないほどの動画用紙を持っている。

「見て」と、目の前に差し出して、ぱらぱらと見せる。つぼみが花開く動画が描かれてあった、「ふしぎなメルモ」のオープニングの初めの絵である。昨夜雑誌の仕事が終わったあとで、描き始め今朝書きあがったらしい。楽しくてだらかに見せたくて、待ち焦がれて階段に腰掛けて私が来るのを待っていたのだ。
 寝てないのに、目は爛爛と輝き、少年のいたずらっ子のような仕草であった。次々と出勤してくるスタッフに見せていく、そんな先生のためにもとスタッフは新たな覚悟を決めたのであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふしぎなメルモ

2007年01月23日 09時55分16秒 | ふしぎなメルモ
手塚先生に母屋へ来るようにと呼ばれた。
昔の社長室に入ると手塚先生の傍らに一人の男が立っていた。
「商亊の西崎 弘文氏です」と先生が西崎さんを紹介してくれた。
「実は西崎氏が「アポロの歌」2クールの放送を大阪朝日放送(ABC)で決めてきてくれたんだよ」
 先生の顔が喜びであふれていた。
そして私に「プロディースしてくれるよね」と言った。
 今まで虫プロでは、何度も手塚治虫原作のパイロットフィルムを作っていた、営業したが、誰も放送を決めて来なかった。今考えると営業の力不足だったように思えるが、力不足を隠すためか、手塚原作はもう古い、どこも買ってはくれない、と言う伝説まで作られていた。

 そんな事はない社員からは、ほかのプロダクションは、ああも簡単に放送を決めてくる、手塚原作のほうが、誰が見ても手塚原作だと視聴率が取れるのだから営業もしやすい筈なのに、不思議なことだ、と言う噂が蔓延していた。

 それを、目先を変え大阪のテレビ局へ、商亊へ入ったばかりの平の営業が決めてきた。だから西崎さんは、大英雄である、私も尊敬のまなざしで彼を見て、よろしくと固い握手を交わしたのであった。
 それが西崎氏と初めてお会いした出来事であった。
東京支社の人たちとは、忙しい先生の代理として、細かいことは、西崎氏と一緒に打ち合わせをした。
 スポンサーたちに見せるため、パイロットフィルムが必要だということで、急いでパイロットを制作した、手塚先生がアポロの歌の絵から新たに書いてくれた絵を、カメラワークで動いているように見せる、という、あまり時間とお金をかけないで作る方法にして、音をつけてパイロットフィルムとした。
 そして、その後手塚先生はアニメ化の準備としてアポロの歌の年齢層をさげるために新たに「ままあちゃん」の連載を始める。
虫プロでは手塚原作作品を作らなくなっていたので、版権収入が減り、資金がなくなって行った、その失敗を繰り返さないため版権問題は慎重に検討された。
調べてみると「ママァちゃん」は、すでに商標が登録されていたので使わないことになる。

マネージャーの手塚卓さんや平田昭吾さんが調べたが、いくつか提案された良い名前は、すべて登録されていた。日本語での良い名前はほとんど登録されてしまっていて、だめだと言う話であった。

 新たなネーミングを考えようと、母屋へ集り会議がなされた。こんな状況、前にもあった、と思ったのは、昭和41年の社長室の時にCOMの名前を決めるときにも同じように、喧々諤々と会議をした。そのときとダブる。
 雑誌の編集者やCOM の編集者校條 満さんか、石井 文夫さんまたは野口 勲さんの誰かが参加していた、そして手塚卓さん、平田昭吾さん西崎弘文さん鈴木紀夫さん須崎さんあたりであったと思う。
 何日か討論があり手塚先生が、ボードの黒板に(白板)ボードペンで、メルモと書いた、卓さんがメタモルフォーゼ変身ですねと言った。正直私には分からない言語であった、「メルモ」変な名前、名前としては異質に思えた。
結局ほかにも無くて、登録もされていない、言いなれればいい名前だよと言うことで「メルモ」に決まり、登録された。そしてタイトルは「ふしぎなメルモ」に決まった。
ふしぎなは、ふしぎな少年初め、多く冠用されていて、歌の題名の悲しきなどと同じで無難な題名であった。
スタッフ集めが始まる、手塚先生からは「虫プロには絶対に迷惑をかけないように」
「中村橋の人たちは、当てにしないで」
と言う条件が課せられた。
すでに昭和46年6月となっていて、放送までは4ヶ月を切っていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミースケ

2007年01月22日 01時19分10秒 | 虫プロ
ミースケとは、手塚先生のアシスタントの仇名であった。
イケポンという人も居たし、チーチャと言う人も居た。先生の主人公の名前にアシスタントの仇名や名前を使うことは有名であった。
 絵本などの出版モノを手塚先生のマネージメントをしていた、斉藤さん平田さん、そして先生の甥の手塚卓さんが、ひろみプロダクションを手塚プロの近くの電気やさんの2階に作っていた。手塚先生のマネージャーを兼任してであった。
平田マネージャーから、映画部の鈴木さんを紹介された。

 手塚先生が是非見てもらいたい作品があると言われ、先生の隠し部最上階の屋7階にある部屋で「氷の国のミースケ」を見せられた。音楽もよくお話も私の好きな話で、多分私は目をきらきらと輝かせて居たと思う。

「ヤマハのCM用フィルム、だけど、今年又注文が来たのだよ、一緒に作らないか」というのである。ことわれるはずも無い、一も二も無く、ことわりなんぞしたら地獄に落ちてしまうであろう。
当然お願いした。

今度は南国の話にしようと言う、
ミースケの家の戸棚からチーチャとイケボーが飛び出してきてふたりはお母さんを助けるため、神様ドンタンが出題する問題を解かなくてはならなくなる、ミースケに協力を求める、ミースケは戸棚を通って南の国へ行き チーチャとイケボーを助ける。

 絵コンテはやはり遅れたが、作画は正延さんのスタジオTAKEへ美術設定は西田稔さんに頼みムクオスタジオで描いて貰った。仕上は絵本でセルにトレス彩色をしていた、ベテランの池田径子さんに依頼彼女は、貫徹してまで仕上げを上げた。

音響は尊敬するタックの田代敦巳さん、打ち合わせのとき、アメリカでセサミストリートと言う番組が、子供たちの間で流行っているが、日本でも子供向けの良い番組を作るべきだ、と私に説明してくれた(のちにそのアイディアは日本昔話へと変化して行ったと、私は思っている)

撮影は鈴木制作部長の友人の菅谷さんを紹介され、使って欲しいと頼まれた。自宅を増築して、撮影機を取り付け独りで撮影外注としてやっていた。ギャランGTOMRを乗って珊瑚や、貝殻の輸入販売もしていた。

撮影出しの時になって、手塚先生が、背景のイメージが違う、もっとジャングルらしく羊歯類を書き込んで欲しいと、動画用紙に書き込んだ、確かに良くなる、しかし背景美術の西田稔さんにどのように直しを頼めばよいのか、すでに背景はすべて描き上がっていた。

先生のスケッチを持って西田稔さんに説明した、手塚プロの2階ですべての背景を修正し始めた、背景だけはお手伝いできない、筆を洗ったり、汚れを拭いたりぐらいしかできなかったが次の日から始まった撮影出しが終わるまでには、すべて独りでなおしてしまった。

これが虫プロの人たちの虫プロスピリットである、何事も無かったような顔押していた、見事であった。

ラッシュを見た、すっかり背景はジャングルらしくなった。でもお話は、「氷の国の」のほうが私は好きであった。
私の名前は出なかった。でも作ったのは私。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手塚治虫 虫プロ社長辞任

2007年01月21日 16時19分14秒 | 虫プロ
つい最近のこと、突然、編集部に、こんな挨拶状が舞い込んだ。(71年7月1日週刊平凡)

 小生このたび、思う所ありまして長年御愛願いただきました虫プロダクションの社長としての役職から、円満に退くことになりました。

虫プロの挫折は、何としても作品の失敗である。しかし、それと同時に、人事的なアクシデントが余りにも多いことが致命的だったと思う。
 「虫プロは儲かる」という噂で、利権を欲しい人間が、蟻のようにどっと虫プロへとびついてきたことは事実である。
 また当初にあったファイトや熱気が冷えるにつれ、いたずらに、合理化をかざして会社としての組織化、打算的な仕事の受注を始めたこともまずかったと思う。
 合理化はスタッフへの締めつけとなり、従来は思いもよらなかった動画プロの労組結成という結果を招いた。労組は、当然ながら労働賃金やサービスを要求する。ぼくは仕事より大衆団交の席に座らされるほうが多くなってきた。もちろん経営者としてである。

 ついにぼくは、すでに有名無実となっていた社長のポストを譲り、役員を辞めて虫プロを去った。
 さすがに、我が子のように思ってきた虫プロを離れるのは、何ともいえずさみしかった。だが、虫プロはぼくのヴィジョンとは全く別の方向へ、独り立ちしようとしていたのだ。そしてスタッフは資金力以外、ぼくをもう必要としなくなったことも確かだ。
手塚治虫

虫プロをアニメ作家集団として進ませるか、営利企業として発展させるかの問題で、社内の意見は二分され、何度も社員総会を開くという騒ぎになった。結局、川端栄一部長を中心に企業体制をかためることに決着がついたが、それによって中心スタッフに辞職者が増え、また労働組合なども結成されて、手塚社長も経営意欲を喪失し、それまでの、赤字を負担するという条件で辞任するという結果になった。
(日本アニメーション映画史)

手塚さんの退陣は、赤字とは関係ありません。しかし、この世界が苦しいことは事実ですよ。アニメーションは、近代産業じゃない、マアニュファクテュア(工場制手工業)ですからね。どのプロも倒産寸前じゃないんですか。うちでは一本360万円もかけて制作したフィルムが倉庫で眠ってるんです。外部の人に仕事を頼むことも多いし、いろいろ資金面の圧迫はありますよ。   虫プロ商亊 今井義章社長
昭和46年6月 手塚治虫は、株式会社虫プロダクションの社長を退陣した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さすらいの太陽

2007年01月20日 11時55分41秒 | 虫プロ
虫プロには変な伝説があった。

手塚の漫画は売れないというものであった。
出所は、営業か、役員あたりからであったと思う。
つまりパイロットフィルムを作っても、営業できないのであった。

その言い訳にテレビ局側が「視聴率が取れなきゃ、うちは。困るんですよ。いまは、劇画のブームです。手塚先生の丸っこいキャラクターは子供たちも、もう飽きちゃったんですよ。 手塚先生の原作以外だったら、話を伺いましょう。」
と言われた。というのである。

営業自分たちの無能のせいで、セールスできないのを、手塚先生のせいにする、最低の者たちであった。

東京のテレビ局はNHKを含めると6局あったが、そのすべてをまわることすらしていない。ましてや、大阪や名古屋など、地方に目を向けるものなど皆無であった。

手塚治虫の原作を制作すると、校閲で直しが出て、スケジュールの遅れが出る。

これも、手塚アレルギーとして,役員に定着していた。

調べるまでもなく、手塚先生が、手を出した作品は、少ない。それなのにこのような、伝説が生まれ、定着してしまっていた。

何度も役員会が開かれ、手塚先生原作抜きで虫プロを、経営していく方針に決まった。そして、組合もでき、社長としての手塚治虫をさらに苦しめていった。

虫プロは、アニメの夢集団から、単なる漫画制作工場の道を選び、一企業としての虫プロとなり、合理化が叫ばれ、力のある人たちが、大挙してやめて行くこととなってしまった。

手塚治虫が虫プロ社長としての最後の作品「さすらいの太陽」が放送された。

さすらいの太陽
「少女コミック」誌で連載された同名コミックを原作に、1971年に放送されたアニメーション作品。

 昭和29年,同じ病院で二人の赤ちゃんが生まれる。一人は大財閥の令嬢、もう一人は下町の貧しい屋台のおでん屋の家の娘だった。
 だが、ひねくれた看護婦の野原美智子は、私怨から二人をすり替えてしまう。

 成長した令嬢、香田美紀は貧しい峰のぞみをいじめるが、二人は歌手になりたいという同じ夢を抱いていた。実は、香田美紀は、峰のぞみの歌手としての才能に嫉妬していたのである。

香田美紀が親の財力によって難なく芸能界デビューを果たしたのに対して、峰のぞみは、流しの歌手として下積み生活を続けることになる。

 やがて、苦しい下済みの中で先輩歌手のいじめにあったのぞみは、心を癒すために、芸能界を離れて日本中を放浪する旅に出た。

 素直な性格で誰にも優しいのぞみの行動は、時々披露される自作の「心の歌」とともに旅先で出会った人々に強烈な印象を与えることになる。

 その後、峰のぞみが芸能界から去り、一安心していた香田美紀は、奇妙な噂を聞くことになる。ラジオの深夜番組に心の歌のリクエストが殺到しているというのである。

 この噂は芸能関係者の間で「謎の歌手峰のぞみ」「幻の心の歌」として、あっというまにひろがった。

 相変わらず地方を旅していた峰のぞみは、音楽祭に参加するというあるバンドグループと知り合った。

 このバンドと一緒に参加することになった峰のぞみは音楽祭という思いがけない大舞台で、心の歌を熱唱することになる。
会場は大感動の渦に包まれた。

 大財閥令嬢としての幸せを奪い、さまざまな試練を見ること生きがいにしていた野原美智子にとって、峰のぞみが芸能界に衝撃的デビューを飾ったことは最悪の展開であった。

 追い詰められた美智子は最後の行動に出るのであった。

「さすらいの太陽」
昭和46年4月8日

4月 8日 第 1話 すりかえられた運命 脚本 雪室俊一・星山博之 演出 林 政行
4月15日 第 2話 二つの誕生パーティー 脚本 山崎忠昭 演出 高橋良輔
4月22日 第 3話 盗まれたメロデー 脚本 藤川桂介 演出 斧谷喜幸
4月29日 第 4話 私には歌がある 脚本 雪室俊一 演出 北島満章
5月 6日 第 5話 始めてのアンコール 脚本 鈴樹三千夫 演出 斧谷喜幸
5月13日 第 6話 訪ずれたチャンス 脚本 山崎忠昭 演出 北島満章
5月20日 第 7話 歌を忘れたカナリヤ 脚本 藤川桂介 演出 斧谷喜幸
5月27日 第 8話 二人のちかい 脚本 山崎忠昭 演出 北島満章
6月03日 第 9話 さようならファニー 脚本 山崎忠昭 演出 北島満章
6月10日 第 10話 あすへの旅立ち 脚本 鈴樹三千雄 演出 斧谷喜幸
6月17日 第 11話 ひびけ!トランペット 脚本 山崎忠昭 演出 斧谷喜幸
6月24日 第 12話 泣くな花笠 脚本 鈴樹三千雄 演出 北島満章
7月 1日 第 13話 ふまれた野の草 脚本 藤川桂介 演出 徳丸海太郎
7月 8日 第 14話 涙のワンピース 脚本 山崎忠昭 演出 徳丸海太郎
7月15日 第 15話 めざせチャンピオン 脚本 鈴樹三千雄 演出 徳丸海太郎
7月22日第16話夕陽にうたえ脚本山崎晴哉星山博之演出徳丸海太郎
7月29日 第 17話 海女の特訓 脚本 伊東恒久 演出 徳丸海太郎
8月 5日 第 18話 港にこだまする歌 脚本 山崎晴哉 演出 徳丸海太郎
8月12日 第 19話 遠い歌手への道 脚本 伊東恒久 演出 徳丸海太郎
8月19日 第 20話 帰ってきたファニー 脚本 鈴樹三千雄 演出 徳丸海太郎
8月26日 第 21話 海に歌えば 脚本 山崎晴哉 演出 徳丸海太郎
9月 2日 第 22話 のぞみのデビュー 脚本 伊東恒久 演出 徳丸海太郎
9月 9日 第 23話 まぼろしの歌手 脚本 山崎晴哉 演出 徳丸海太郎
9月16日 第 24話 知らされた秘密 脚本 伊東恒久 演出 徳丸海太郎
9月23日 第 25話 父との別れ 脚本 沖島 勲 演出 徳丸海太郎
9月30日 第 26話 心の友・心の唄 脚本 沖島 勲 演出 徳丸海太郎

ほとんど参加したスタッフがわからなくなってしまったが、11話のスタッフが、少し判明した。
 
脚本 山崎忠昭  演出 斧谷善幸
作画協力 スタジオ・テイク
美術監督 半藤克美
背景   スタジオ・ユニ
撮影監督 大岩久剛
撮影   宮内征雄
編集   伊藤 叔
音響監督 左近允 洋
効果   月岡 弘(イシダサウンドプロ)
録音   アオイ・スタジオ
現像   東京現像所

声の出演
藤山ジュンコ
平井道子

「こころのうた」
山上路夫 作詞
いずみたく 作曲
堀江美都子 唄

誰かに踏まれた 野の草も
いつか空を 振り仰ぐ
涙でなにも 見えないときも
私たちも 生きているのよ
さすらいながら 傷つきながら
明日の太陽 探しているの

原作             藤川桂介 すずき真弓
プロデューサー        岸本吉功
チーフディレクター      勝井千賀雄
アニメーションディレクター  野辺駿夫
美術監督           半藤克美
撮影監督           大岩久剛

声の出演 
藤山ジュンコ
嘉手納清美
平山道子
井上真樹夫
富田耕生
来宮良子

その後岸本 吉功 伊藤 昌典 伊藤 昌典 岩崎 正美、渋江 靖夫、沼本 清海、米山 安彦の七人は、独立してサンライズを創業することになる。

初代社長である岸本 吉功、二代目の伊藤 昌典、三代目の山浦 栄二と続いていくのであった。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アンデルセン物語

2007年01月19日 01時57分36秒 | 虫プロ
昭和45年は9月に 「クレオパトラ」公開 され
10月には日本テレビでの日本誕生第5話「 英雄になった河童 」が放送された。
そして12月27日 ムーミン最終回 第65話 おやすみムーミンが放送され幕をおろした。

あけて昭和46年1月 3日 「アンデルセン物語」が放送開始された。

原作はいわずと知れたアンデルセン。ハンス・クリスチャン・アンデルセン である。
放映期間は昭和46年の1月3日から12月26日まで52本。
毎週日曜日の19時30分から20時まで の時間フジTV系でカラー放送 された、一本は約 22.5分であった。
 
製作 株式会社虫プロダクション
提供 カルピス食品株式会社
主要スタッフ

プロデューサー  岩崎 正美
制作補      野崎 欣宏
妖精設定     牧野 圭一
作画設定     関 修一  波多 正美
美術監督     竹内 俊英
撮影監督     原屋 楯男
編  集     尾形 治敏
音  楽     宇野 誠一郎
音響監督     田代 敦巳
効  果     柏原 満

キャスト
キャンティ    増山 江威子
ズッコ      山田 康夫

サブタイトル一覧

第 1話 みにくいあひるの子(前編)脚本 田代 淳二  演出 藤田 一郎
第 2話 みにくいあひるの子(後編)脚本 田代 淳二  演出 藤田 一郎
第 3話 イーダちゃんの花      脚本 伊藤 恒久  演出 吉良 敬三
第 4話 鉛の兵隊         脚本 吉田 喜昭  演出 杉山 卓
第 5話 がんばれママ        脚本 加藤 有芳  演出 小杉 信雄
第 6話 空とぶカバン       脚本 山本 護久  演出 神田 武幸
第7話親指姫(ケロケロ花ムコさん)脚本 藤川 桂介  演出 吉良 敬三
第8話親指姫(ぶんぶんコンテスト)脚本 藤川 桂介  演出 吉良 敬三
第9話親指姫(モックラ花ムコさん)脚本 藤川 桂介  演出 上梨 満雄
第10話親指姫(スキスキ花の王子)脚本 藤川 桂介 演出 吉良 敬三
第11話ナイチンゲール(王様のお気に入り)脚本雪室俊一演出水沢わたる
第12話ナイチンゲール(涙でニッコリ)脚本雪室俊一演出水沢わたる
第13話じゃじゃ馬エレン(しあわせは青空に脚本多地映一 演出杉山 卓
第14話じゃじゃ馬エレン(すてきなクリス)脚本多地映一演出杉山 卓
第15話 絵のある広場 脚本 松岡 清治  演出 神田 武幸
第16話魔法の火うち箱(とびだした怪獣)脚本山崎忠昭演出西谷克和
第17話魔法の火うち箱(一番ステキな宝物)脚本山崎忠昭演出西谷克和
第18話 ぼくの父さん世界一 脚本 吉田 喜昭  演出 吉良 敬三
第19話 オレの影はどこにいる 脚本 松岡 清治  演出 上梨 満雄
第20話 なかよしはいつまでも 脚本 多地 映一  演出 中村 和子
第21話 沼の王の娘(呪われた親子)脚本 山崎 晴哉  演出 中山 等
第22話 沼の王の娘(ヘルガの秘密)脚本 山崎 晴哉  演出 中山 等
第23話 沼の王の娘(愛のかがやき)脚本 山崎 晴哉  演出 中山 等
第24話 ねむりの精オーレ    脚本 多地 映一  演出 小杉 信雄
第25話 イエンスの冒険(謎のベアグル島)脚本加藤有芳 演出西谷克和
第26話 イエンスの冒険(たたかいの船出)脚本加藤有芳 演出西谷克和
第27話 旅の道づれ(ふしぎな少年)脚本 雪室 俊一  演出 杉山 卓
第28話 旅の道づれ(動きだした人形)脚本雪室俊一 演出杉山 卓
第29話 旅の道づれ(友よ!さらば)脚本 雪室 俊一  演出杉山 卓
第30話 とても信じられないこと 脚本 多地 映一  演出 神田 武幸
第31話 人魚姫(あこがれの王子さま)脚本 西川 清之 演出 上梨 満雄
第32話 人魚姫(魔女とのちかい)脚本 西川 清之  演出 上梨 満雄
第33話 人魚姫(かなしいお別れ)脚本 西川 清之  演出 上梨 満雄
第34話 王子さまはブタの番人 脚本 伊藤 恒久  演出 杉山 卓
第35話 三つのクルミ(ちっちゃな約束)脚本田代淳二演出 神田武幸
第36話 三つのクルミ(めぐりあい)脚本田代淳二 演出神田 武幸
第37話 裸の王様     脚本 鈴木 良武  演出 石黒 昇
第38話 氷姫(ルーディは人気者)脚本伊藤恒久演出 石黒 昇
第39話 氷姫(フェローネのなやみ)脚本 伊藤 恒久  演出 石黒 昇
第40話 氷姫(かなしみのバベッティ)脚本 伊藤 恒久  演出 石黒 昇
第41話 小クラウス大クラウス 脚本 吉田 喜昭  演出 神田 武幸
第42話 赤いくつ(旅のおんぼろ一座)脚本 山崎 忠昭 演出 棚橋 一徳
第43話 赤いくつ(花のコミックホール) 脚本 山崎 忠昭 演出 棚橋 一徳
第44話 天使とみつばち   脚本 城 健二    演出 上梨 満雄
第45話 野の白鳥(呪われたお城)脚本 吉田 喜昭  演出 神田 武幸
第46話 野の白鳥(イラクサのひみつ) 脚本 吉田 喜昭 演出 神田 武幸
第47話 野の白鳥(がんばれエリサ) 脚本 吉田 喜昭 演出 神田 武幸
第48話 二人の秘密     脚本 出崎 哲   演出 小林 三男
第49話 プシケ        脚本 多地 映一  演出 崎 枕(出崎 統)
第50話 雪の女王(あくまの鏡)脚本 鈴木 良武  演出 棚橋 一徳
第51話 雪の女王(死の国のたたかい) 脚本 鈴木 良武 演出 棚橋 一徳
第52話 マッチ売りの少女 脚本 雪室 俊一  演出  杉山 卓

魔法の国の妖精キャンティが魔法大学に入学するには、魔法カードを百枚集めなければならなかった。
魔法カードは、 良い行いをひとつする度に魔法大学から送られてくるカードである。
キャンティは相棒のズッコを伴ってアンデルセンのお話の世界に現れ、何か良いことをする
チャンスを探しはじめる。はたしてキャンティとズッコは百枚のカードを集めることができるだろうか?
 というのが全体の設定であった。
なお一説には魔法カードは百一枚集めるという説もある、これは、お話を良く見なければ判らないでしょう。

もうひとつの、楽しみに、演助(制作進行)に付いた者が挿入歌のシーンの絵コンテを書かせてもらえる(演出をさせてもらえる)
という楽しみもあった。これは演出家によってであったが、将来は演出もしたいという夢を持った者にとって、非常な喜びと楽しみと、夢を持つことが出来、
やりがいのある仕事として、希望に満ちたものとなった。
このことは、制作のいわっちゃん(岩崎 正美)が指導権を得ていたことが、大きな要因で、制作の気持ちが良く判っていたからだと思う。ディレクター(総監督)
がいなかったとは、思っていなかったが、演出面でいわっちゃんを助けていた、野崎ちゃん(野崎 欣宏)がいたから、といえるのではないか。
スタッフから脚本のアイディアを募集したりもして、石神井スタジオを、やる気の出る職場にしたのであった。

結果たくさんの挿入歌もできた。

「いい子になった わたし」 堀 絢子  宇野誠一郎 宇野誠一郎
「いとしのヘルガ 」     小原乃梨子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「うわー赤い靴が踊ったよ」 堀江美都子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「エントツと空」        増山江威子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「王子様に恋をしてしまった」 平井 道子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「おしゃれの好きな王様 」 増山江威子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「おやすみおやゆび姫」ヤング・フレッシュ 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「カサンドラの子守唄 」     増山江威子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「片足の兵隊」     ヤング・フレッシュ 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「カボカボおじさん 」    増山江威子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「紙のバレリーナ」   堀江美都子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「かわいい おひめちゃん」 堀 絢子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「ギャングが強盗するときのうた」 辻村 真人 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「きれいな赤い靴」      増山江威子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「クリスとエレン」     堀江美都子 豊岡 晋 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「しゃべれないけどしあわせ」 堀江美都子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「白い雪」     ヤング・フレッシュ 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「ぜんぜん姫 」   増山江威子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「空とぶカバン 」    堀江美都子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「ナイチンゲールのうた」   平井 道子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「にせもの ほんもの 」   山田 康雄 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「はだかの王様 」 富田耕生ヤング・フレッシュ 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「一人ぼっちのボク 」   堀江美都子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「びんぼうなおいらだけど」 桜井 妙子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「不思議な少年」    田の中 勇 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「ベットのお船 」    藤田 淑子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「ボクの大事なパパ」    堀 絢子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「まちこがれるあなた」   増山江威子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「マッチのようにあたたかいお母さん」増山江威子 宇野誠一郎宇野誠一郎
「魔法使いのお婆さん 」    堀 絢子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「ママの羽根の下 」   増山江威子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「マルコの子守唄」  増山江威子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「みにくいアヒルの子」  山田 康雄 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「みんなで悪魔をやっつけた 」ヤング・フレッシュ 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「ルンペンとお父さん 」      堀江美都子 宇野誠一郎 宇野誠一郎
「ルンペンは幸せだというお話し」 辻村 真人 宇野誠一郎 宇野誠一郎

うわー・調べたらこんなにもあった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チャージマン研 スーパータロム

2007年01月18日 10時18分25秒 | Weblog
昭和47年秋、私は杉山卓さん演出作画による「スーパータロム」と言う パイロットフィルムを制作している。当時ナックと言うアニメ制作会社が、青梅街道沿いの中野にあった。ナックと言う会社は、ワンダースリー、リボンの騎士が終ってしばらくして、月岡貞夫さんや、小柳朔郎さん西野 清市さんら同じ志をもった人たちが独立して作った会社だと記憶している。
 当時はすでに社長の西野 清市さんだけだった。
手塚先生の今までの版権が、騙し取られ今後一切使用できないことで、今までの手塚原作アニメの制作が不可能となっていた時であった。

 西野 清市社長は、鉄腕アトムはもう作れないけど、このままにはしておけない。スーパータロムで、アトムの夢を引き継ぎたいのだ、と言うことを説明して、制作担当を頼んできた。

初めの約束では、10分のパイロットと言うことであったが、杉山卓さんが、演出と作画を担当した、と言うことで、どんどん作画が、上がってきてしまい、その手配にてんてこ舞いした。
 気がつけば、23分と言うテレビ番組1話分の作品に仕上がってしまった。

 西野 清市社長は、10分なら1ヶ月もあれば作れるだろうぐらいに考えていた。
それが2ヶ月にもおよび、作品も23分になってしまった。予算が倍以上に膨れ上がり、真っ青になってしまった。もう給料が払えないと言うので、パイロットが完成すると同時に会社を去ったが、その後、売り込みに成功したと言う情報は得ておらず、私にとって、幻の作品となってしまった。

最近になって、ある情報を頂いた。ナックという会社が、倉庫にある何でもかんでもを、DVDにして販売している、その中にスーパータロムのパイロットも入っている。と言う情報であった。今ヤフーのオークションに出ている、との情報も頂き見に行くと、1,200円からの受付となっていた、買いたかったが、登録していないので、買うことができないでいる。情報を得るために、検索をしてみると、新宿などで、100円で売り出されたことが、有ったことがわかった。手に入れる可能性が増えたので、カードを作り、ヤフーに登録して、オークションで競り落とす、と言う面倒なことはやめにすることにした。それに値段がずいぶんと高すぎる。

 「アニメ王国チャージマン研」と言うものに「スーパータロム」が入っていると言う、スーパーなどの、特設会場などで、よく売っていたよ、と言う情報も教えてもらっているので、気がついた人などおいでならば、教えていただきたい。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

氷の国のミースケ

2007年01月17日 00時27分44秒 | 虫プロ
7月ヤマハのPRアニメ「氷の国のミースケ」が公開されている。

氷の国のミースケはヤマハエレクトーン教室の生徒募集用に作られた短編アニメでした。

冷蔵庫から飛び出してきた子犬のポコに連れられて冷蔵庫から氷の世界へと冒険に出るミースケ少年。

氷の世界ではあたたかな食べ物を欲しがる少女ナリーがいた。彼女のためにあたたかな食べ物を見つけようとするのだが氷の世界ではすべてがすぐに凍ってしまう・・・・・

 手塚プロへ行って手塚先生からこの作品を見せられるまで、このようなすばらしい作品があることを知らなかった。

シーツをぬらして凍らせて、それを折って大きな紙飛行機を作り、さらにそれに乗って飛んでいく、そのすばらしさと、音楽の心踊るメロディー、私がもっとも作りたい作品の1つとなった。
1970年7月 ヤマハエレクトーンのPR映画 16分でカラー

手塚プロダクション制作

企画 日本楽器製造    (ヤマハ)

原案、構成、製作   手塚治虫

作画監督       杉井ギサブロー
仕上         池田 径子 (片山)
背景         ムクオスタジオ
撮影         菅谷 正昭
作曲         横山 菁児
音響         田代 敦巳


ミースケ        松島  みのり
ナリー         三輪  勝恵
ポコ          堀  絢子

                    
そして,のちに続編を作ったそれが 南の国のミースケ(南へ行ったミースケ)であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする