真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

2月9日(土)手塚治虫を偲ぶ会

2019年02月09日 23時59分20秒 | 手塚治虫
 6時目を覚ましたが、体調不良。
大事な日であるしそのまま寝ている。
トイレが近いのが悩み、
7時、天気予報など見る。
 夜は雪は降らないようだね。
 「べっぴんさん」を見逃す。
 7時38分、やっと気が付き「まんぷく」
 8時から再度見よう。

 天気予報を見る。
 8時06分、慌てて、チャンネルを変える、
 今日はダメだね。
 9時、石油ファンヒーターをつけ、体重を量り着替えをする。
 9時15分、母屋へ行く。
長男の姿がなく、妻がいた。
休みかどうか聞いている、と聞いたが、わからないって。

部屋に戻りそのまま寝ている。

10時45分、何か食べておこうと、薬を飲んで8枚切りをトースト。
 お茶を入れて、消息。
11時過ぎ母屋へ行く。長男はまだ起きてこないとの事。
妻の薬の持って来ていない。
妻に薬を取りがてら、長男の様子を見てきて、と言う。
 長男が、降りてきてお休みだって。
部屋に戻り、寝ている。

13時30分、下に行き、朝食準備。
 肉まんを温める。
お茶を入れ、下の部屋、こたつに入って、昼食。

13時50分、2階に行き、着替えをする。

14時20分、母屋へ行き、行って来るからと言い家を出る。
14時30分、免許証入りの財布を、忘れた、
 家に戻る。 
14時45分、再度行って来るよ。

14時57分、新さんの家の近くの顔馴染みのご夫妻宅、救急車が来て、家に。
 心配だね。・
 イオンへ行く。
タッチポイントなどする。

 体調が悪いので、ラウンジへ行き休んでいこう。
込んでいるね
15時15分、ラウンジへ。

15時44分のひばりが丘行バスで行こうと、ラウンジを出て、A口から向かう。
 声を掛けられ、少しお話し。
15時46分、バス停に行く、少し雪が降って来た。
待っている人が、だれもいない。
 次は16時02分、
15時57分、バスが来た、
 雪の日、かなり遅れたのだね。
ひばりが丘駅
各駅停車で練馬駅へ。
練馬駅に着く、乗り換えて。
16時38分、大江戸線。

16時42分に乗る。

17時、都庁前で、乗り換える。
17時07分、新宿西口駅。
17時12分、信号を渡って、大ガードへ。
17時15分、ドン・キホーテにつく
エレベーターで6階、会場に行く。
まだ、手塚治虫を偲ぶ会の幹事の人しかいなかった。
17時25分、座っていて良いと言うので、一番奥に座る。
17時45分になると、皆さんが来始める。
先生のお墓参りに行ったとの情報で、心配していた、のりみさん、
18時05分、見えたよ。

18時20分、会が始まる。
 あまり、顔なじみが居ないので、少し寂しい思いを覚悟していたが、
目の前に座られた方が、手塚プロの、石渡部長。
たぶん年寄りを気遣って、話しかけて頂いた。
おかげで、とても楽しい、偲ぶ会の思い出になった。
お隣にいられた、初対面の小林様、湯浅様、伊藤様、など、お話しもできた。

21時から2次会を同じ場所でと言う事であったが、家に帰れない時間になるので、
帰ることにした、
石渡部長さんには、お土産などまで頂き、大感激。
 
口を掃いていると、取材を受けた秋田書店のお二人が駆け付け、ご挨拶をいただいた。
宣伝の許可もいただいた、

21時24分、新宿西井槌駅
21時29分の電車に乗る。
21時46分、練馬駅に着く、
21時47分、の織り替え時に、次男に電話して、
お風呂には入らないから、母屋のかぎ閉めて良いよと言う。

21時50分、西武線練馬駅。
21時58分の、各駅停車に乗る。
22時17分、ひばりヶ丘駅。
22時18分、バス停に行くと丁度バスが来た。
22時22分、バスが出る
22時30分、イオンモールバス停、
雪が降ったのだね。
車の屋根に雪が積もっている。

食パンを切らしていた、イオンに行く。

食パンなど、何もなかった(涙)

23時、部屋に、静かに戻る。
パソコン。
 取り込みなどして、

 23時59分、投稿する。
病気が、悪化しないうち、寝よう。
㋁10日21時10分、書き上げる。
4,145位 / 2,854,901ブログ 、昨日5502歩、起床5:55分、血圧:124.69脈拍:83、体温:36.1、体重:57.9、天気:雪
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12月15日(土) 手塚治虫フアン交流会

2018年12月15日 23時59分49秒 | 手塚治虫
 5時40分、目を覚ます

 7時15分、「べっぴんさん」
 7時30分、「まんぷく」
 7時45分、旅番組など。

 8時、下に行き朝食など。
起きて、なんとなくせむしの仔馬の事を思い出す。
 パソコンで、「せむし仔馬」見る。
 小学生のころ、埼玉会館で行われた、子供映画大会で、見たことを、
手塚先生と、話したことがあった。

今、見直すと、当時のロシアで、こんなアニメを作れたのだと感心する。
 手塚先生に見せて頂いた中国アニメの孫悟空も、良く動いていたが、
雲とチューリップなど日本も含め、なかなかの技術があったのだね。

 9時45分、何を着て行こうかと準備。
10時、家を出る。
ひばりヶ丘駅へ
 大江戸線で新宿。
新宿線で、小川町で降りる。
すでに12時40分を過ぎていた。

会場に着くとすでに大勢来ていたね。
 小林さんが送れ、開催が少し遅れたが、1年ぶりに待っていた、手塚先生のフアンの方々会える楽しみ。

あっという間立った2時間半でお別れ時間。
来年、また会えることを、願うばかり。
 生き延びなければ。
16時、小川町。
新宿、練馬駅、ひばりヶ丘駅、
 バスでイオン、
イオンに行き17時、タッチポイントをしておこうと、
すると妻と次男が、タッチポイントの機械の所にいた。

 妻に買い物時間を任せたら、こんな時間になってしまったと次男。
別れて、ラウンジで休憩する。

18時、部屋に戻り、着替えなどしていると、妻が来て「お風呂が沸いたよ」
 お風呂に入るが疲れているので、カラスの行水。
18時30分、部屋へ戻る。
 みりん干し2枚をオーブンレンジで焼く。

19時15分、1枚を、次男に届ける。

20時30分、ブログを書き始める。
21時、六仙公園、パトロール。
 疲れているので、少しつらい。
22時30分、部屋に戻る。
 行くとき、西口広場に少年が3人いたが、今帰って来る時にもまだいた。
22時すぎ、まずいのでは?
 ブログの續木
23時59分、ブログを投稿する。



3,251位 / 2,849,730ブログ 、昨日21680歩、起床:5時40分、血圧:110.57、脈拍:60、体温:35.7、体重:65.2、天気:晴
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4月5日(木) 新宿へ

2018年04月05日 23時57分47秒 | 手塚治虫
 6時、目を覚ます。

 7時15分、「マッサン」
 7時17分、血圧体温を記録。
 7時30分、「半分、青い」
 7時45分、「こころ旅」

 8時20分、朝食。
 9時、ゆで卵、9個を作る。

時計を見たら、9時35分、外に出てみると、長男のバイクがない。
出かけて行った事に、気が付かなかった。
 
新宿、へ行く予定。
パソコンで、ルートを調べる。

 バスで、新宿西口へは、イオン東久留米から、中央通りで降り、田無駅入り口まで歩いて、吉祥寺駅。
中野駅行きで、東高円寺駅前か、杉並車庫前で、乗り換え、都営バス、宿91で、新宿駅西口までシルバーパスで行ける。

そのためには、10時40分のバスに乗らなくては。
 時計を見たらすでに11時、検索していて時間が過ぎてしまった。
11時30分、昨日買っておいたお弁当を温め早めの昼食。
12時着替えをする。
12時10分、母屋へ行き、妻に行ってくるからと言って、六仙公園前。
 お昼に、帰って行く人たち多くて、講演に来ている人たち73人。

12時30分、イオンモール東久留米のバス停。
武蔵境行きが遅れてきたので乗れた。

12時56分、田無駅。時間が早かった。
13時の、各駅停車で座って行こう。
13時35分、新宿駅に着く。

14時の約束。
13時50分、待合場所で、待たせてもらう。
 すでに、見えていて挨拶。
14時、お三人と、お話。

途中で店を変える。

19時、お別れして、西武新宿駅へ。
20時40分、急行に乗る。
田無駅で降りる。
雨が降っている。
10時34分のひばりヶ丘駅行き、
イオンモール東久留米で降り、イオンへ寄る。

20時56分、麻婆豆腐丼しかなく、2つセルフレジで買った。
 雨なので、最短コースで家に。
21時10分、部屋に戻る。
着替えをして。
21時20分、母屋へ行きお風呂。

21時50分、風呂から出て、部屋に戻る。
 パソコン電源を入れる。
メールのチェックや、写真の取り込みなど。
22時17分、ブログを書き始める。
23時57分、ブログを投稿する。
 :2,968位 / 2,816,659ブログ ,昨日8496歩、起床6時00分.血圧:119.61、脈拍:57.体温:35.5、体重:66.0、天気:晴/雨
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12月9日(土)手塚 治虫ファン大会

2017年12月09日 23時59分07秒 | 手塚治虫
 

 
 6時、目を覚ます。
トイレと、歯磨き、布団に戻る。
 6時45分、血圧、体温を記録えうる。
 7時15分「花子とアン」「和露天下」
 7時45分、体重を量り、着替えて、下に行きストーブをつける。
湯たんぽのお湯で顔を洗う。
 パソコン。
 資料のプリントアウトなどする。
 8時30分、8枚切りで朝食、資料を整理しながら。
帰って来て、布団が温かいように、湯たんぽを2階の布団に入れて置く、
 9時15分、2つ目の湯担オ歩を持って、2階に行き布団に入れる。
出かけるための着替えをする。
 資料を、ブリーフケースに入れる。
靴下と靴をおろす。
 9時35分、妻に声をかけ家を出る。
 9時50分、イオン、タッチポイント4件。
10時、イオンモール東久留米バス停に行く。
10時04分、時間表を見る。
     
土曜日なので、10時7分だね。
10時11分、バスが来る。平日の時間だね。
     
10時24分、ひばりヶ丘駅、プラットホーム。
     
10時23分、準急で、練馬駅は停まる。
 練馬駅で、降り、大江戸線に行く。
10時49分、ホーム。
 電車は10時54分、新宿駅へ。
11時14分、新宿駅、新宿線に乗り換えのため降りる。
小川町は、各駅、11時23分だね。
     
 小川町で降り、お釣りの無いように準備してと言うので、手前のファミリーマートに寄る。
11時45分、温かい缶コーヒーと、ハムチーズたまごサンドウィッチを買う。
 会費の準備ができた。
     

     
 3階に向かう。
     
 受付に行く。

手塚治虫ファン大会。

17時、懇談会


19時50分、会場を一人出る。
 小川町利用する人いないね。
19時35分、ホームへ
     

19時57分、新宿へ向かう
     
20時10分、新宿。
大江戸線に乗り換え
     

20時29分、練馬駅西武線に乗り換える。
     
 各駅の保谷行きに乗る。
石神井駅で降りる。
     
20時44分、石神井駅で急行を待つ。
20時46分、20時50分の急行が来る。
     
20時52分、ひばりヶ丘駅で降りる。
     
20時55分、バス乗り場に行く。
      
21時、イオンモール東久留米で降りる。
21時14分母屋へ寄り、妻に戻ったことと、お風呂は良いかあらと言い、部屋に戻る。

ストーブをつけ、紅茶を入れる。
21時20分、サンドイッチ食べなかったので、夕食替わり。
パソコン電源を入れる。
メールのチェックや取り込み。
22時ブログを書き始める。
 0時、ブログを投稿する。   

 :10,660位 / 2,788,204ブログ ,昨日16572歩、起床:6時00分.血圧:111.48、脈拍:56.体温:35.5、体重:62.7、天気:晴
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8月28日(日)手塚治虫、フアンの方々と、楽しいひととき。

2016年08月28日 23時59分52秒 | 手塚治虫
 1時、六仙公園、見て来る、雨が降っているので、無人。

戻って、名刺が無い事に気が付く。
 名刺を持って行かないと、いつも必要になる。
仕方ない、今から作ろう。

 面白いもので、名刺を準備すると、いつも出ない。
まあ、おまじないと思って、作って行こう。
 これで、名刺が、必要とはならないであろう。
 3時に寝る。
 6時40分、眠いが、起きる。
歯磨き洗顔、体重を量る。
天気予報など。
 8時11分、血圧、体温を計り終え記録する。
今まで、作って置いた、説明文章、Wさんが一緒に説明するなら、もっと、説明時間を減らしておこう。
その作業。
 9時50分、虫プロ、バージョンと、手塚プロバージョンを作り、印刷して置く。
着替えをする。
10時03分、約束なのでWさんに電話を入れる。
「これから家を出る」との事。
妻に行って来るからと言い、家を出る。

イオンに向かう。
 イオンA口を入り、タッチポイント。
雨が降っているのでC口に向かう。
10時56分、5小前から、ひばりが丘駅行バスに乗る。
 ひばりが丘で、カードにチャージする。
各駅停車に乗る。
11時21分、富士見台駅。
 改札口手前で、Wさんが来るのを待つ。
11時50分、Wさんが来て、改札口を出る。
 すると外に、Tさんたち、今日の主催者の方々から、声をかけられた。
 石田ビルなど見学しながら、
12時10分、虫プロダクション(株)に着く。
 打ち合わせなど。
私とWさんが、1グループと、2グループを担当。
13時過ぎ、見学会開始。
 事前にKさんから、注意されていたが、Wさん思ったより、挨拶が長い。
担当者たちが合図するが気が付かなかった、

 私の説明は、無し、として、すべて、アドリブにするしかなかった。
第2グループでは、なを、時間を押してしまう。
 椎名町へ行く予定の人たちを、中止させてしまった。
スタジオ前で、写真など取って、富士見台まで、石田ビルを見学する事に。
越後ビルで、みなさん記念の写真など取っていると、駅方面から、手塚プロ社長と、清水真理さんが来る。
挨拶などする。

 石田ビルに行く。
時間なので戻ることに。
 越後ビルに行く。
清水真理さんの、音頭で開会。
 漫画元、編集者お三方に寄る、講演。
終わって、私にも、メルモ当時の話をさせてもらう。

 会費を払わなくては、行けないのに、今回も、
そして、お持たせまで、

こんなに楽しいひとときを頂いたのに。
 おんぶに、だっこだね。
 どこかで、恩返ししなくてはね。

閉会、外に出ると雨が、Wさんと富士見台駅へ。
 別れて、20時09分の所沢行、各駅に乗る。
後ろの準急が遅れているので、石神井駅で準急に乗り換える。
 準急って、石神井から、各駅停車であった。
せっかく、座っていたのにね
 ひばりが丘駅で降りる。
雨が、ひどくなった。
20時30分、バスに乗る。
 イオン東久留米で降りる。
20時50分、家に戻る。離れで着替え。
 母屋に行き、夕食はいらないと言い、風呂に入る。
21時20分、風呂から出る。
離れでパソコン。
メールチェックなど。

22時、ブログを書き始める。
 0時、ブログを投稿する。
  5,389位 / 2,586,319ブログ ,昨日:4247歩.起床:6時40分.血圧:129、73.脈 拍:62.体温:35.1.体重:70.8天気:雨.  
コメント (3)
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12月5日(土) 手塚治虫フアン大会2015

2015年12月05日 22時25分08秒 | 手塚治虫
 4時近くになってしまい布団に入る。
オンタイムを、オフにしていた。入れる。
 5時30分、オンタイムで目を覚ます、真っ暗なので、電気をつけ、布団に入ったままでいる
 6時、歯磨き、洗顔をして来る。
 体重を測る。
 6時30分、血圧、体温を測る。目を瞑っている。
 7時15分、テレビを見る。
 7時50分、温かくして、母屋に行く。
 8時30分、朝食を済ませる。
離れに戻り、出かける支度。
 9時、着替え終わり、資料など、やはり、カバンを持って行こう。
 9時20分、家を出る。
 9時30分、イオンモール、東久留米、バス停に。
なんと、新爺も、バスを待っていた。
 バス、新爺と2人、座れたが、あとで乗ってきた、老婦人のため、新爺は立って席を譲った。
(後れを取った、若さの違い)
 ひばりヶ丘駅、新爺は、池袋までなので、急行に乗る、
私は練馬駅なので、普通の鈍行。
 行き先の地図が入ったファイルを持って来ていない、セリフ台本に入っていると思っていたが、違うファイルだった。
去年は、お茶の水で、降りたが、今回は、練馬片、都営地下鉄で行く。
 新宿で、新宿線に、乗り換えるのは、覚えている。どこの駅で降りるのだっけ、
淡路町2丁目も思えているが、そんな駅はない。
10時30分、小川町駅が、思い当たったので、降りて見る。
 地図を見ると、淡路町は、A5出口。
外に出ると、大通。こんな道、あったっけ?
 冷静になり、太陽の影を見る、
右に太陽、左が、影。
交差点を左に曲がり、行ってみる。
しばらく歩くと見覚えのある、タワービルが、そびえている、
ビンゴ良い感、しているね。
「WATERRAS」早々、横文字であった。
エスカレーターで正面玄関。
確か、3階だった。
 左入り口に、案内の看板が出ていた。
それに沿って、入って良く。
10時40分、11時の約束には十分間に合った。
会場に着いた。
 T田さんが、席などに案内してくれる。

私たちの番は、貰っていた、案内では、14時52分からであったが、入れ替えて、最初になったとの事で12時40分予定に変更。
それで、11時までに来てほしいと言う事だった。

11時、杉山卓先生が、まだ来ない。
先に、打ち合わせと、リハをしておく。
11時30分、まだ見えないとスタッフさんが心配し始める。
11時31分、私も、心配なので、携帯に電話をする。
10回呼んだが、出ない。
昔の家の番号にもかけて見るが、現在使われていません

11時52分、杉山さんから、電話が入る、T田さんからの電話だと思ったらしい、そばにいた、T田さんに代わる。

12時、限度なので、お客さんを入れた。
そして、秘蔵ラジオドラマ音源 なるものを、聞かせた。
12時15分、杉山さんが、奥さんと一緒に見えられた。
12時30分、開演。小林準治さんの、描き下ろし映像で、オープニング。
12時35分、松谷手塚プロ社長のご挨拶。
12時40分「ワンダー君の初夢宇宙旅行」11分、バージョンの上映。
12時50分、私と杉山卓さんで
「ワンダー君の初夢宇宙旅行 制作の秘密」
NHKの小西さんも、お見えになって呉れていた。
 今回苦労していただいたと、ご紹介する。
14時、終わって10分間の休憩。

その後は、森さんに聞け!
 今年ほとんど会っていなかった、森室長が、手塚フアンの質問に答えるコーナー。
 元、手塚番の編集者。
橋本一郎氏、黒川拓二氏、岡本三司氏。
かなり時間が押してしまう。
などがある、
抽選会などもあり、
16時30分、終了の予定であったが、遅れた。
17時過ぎ、ワテラス コモン ホールから、隣接するCAFE/カフェに移り懇談会。
18時30分、アトムの声優、清水マリさんと、杉山卓夫妻を挟んで、写真を撮ったよ。     

私は、アトムとのかかわりはなかったが、
わんぱく探偵団で、マメたんの声優を担当していただき、アフレコでお会いしている。
 また浦和出身で、現在も浦和に住んでいると言う事で、私も浦和出身なので、お話できた。
そのほかにも大阪からお出でのTご夫妻にも会えたりと、十分、楽しんできました。
20時過ぎ、会場を出て、
20時07分、小川駅地下鉄、
20時26分、新宿で乗り換え、
練馬で乗り換え。
 ひばりヶ丘からバスで、イオンモール前
さすがに疲れてまっすぐ家に。
 妻に、夕食も、お風呂も良いからと言い
すぐに離れに行く。

22時、ブログをやっつけなくてはね。
パソコンの電源を入れる
22時25分、ブログを書き始める。
 0時30分、ブログを投稿する。
 5,143位 / 2,329,995 ブログ 昨日:8435歩, 起床5時30分, 血圧:142、76,脈 拍:63, 体温:35.8,体重:71.0kg 天気,晴 
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10月28日(水) バス小旅行?

2015年10月28日 22時58分49秒 | 手塚治虫
 5時30分、起床。

 7時15分、母屋でテレビ。
 8時、朝食、
 8時15分、六仙公園、
 
 9時50分、長男が、出かけていくのを外で見送る、
検索しようとすると、ネットが繋がらない。

ノートパソコンを持って母屋で、検索など、

10時45分、離れで着替え。
11時25分、家を出る。
11時40分、 イオンモール、東久留米から、ひばりが丘駅行きバスに。
中原小学校前で、降りて、三鷹駅行きを待つ。
11時58分、遅れてきた三鷹駅行きに、乗る。
12時31分、三鷹駅を渡って、バス停3番の乗り場へ。
深大寺行きは、12時43分、10分以上待つが、1時間に1本しかないとは、
 これを逃していたら、次は13時33分だったとは、背筋が、寒くなった。
検索では、西原で乗り換える事になっていたが、運よく、バスの乗客は、私だけ。
運転手に、つつじヶ丘北口バスは、ここで降りればよいですか、と聞いた。
バス停が、かなり先になると言う、神代植物園で乗り換えたほうが、寂しくなくて良いと言う。
 
13時03分、バスは、少し遅れたが、つつじヶ丘北口行きに乗れた。
13時半前には、つつじヶ丘駅に着き、ガストが3階にあることを確かめ、
13時34分、杉山卓さんに、電話をした。
 ガストで事は、まだ知っていなかったよ、

13時37分、世話人のTさんに、つつじが丘に着いていることを電話する。
移動中というので、電車の中でしょう。
13時49分、Tさんから、電話が入り、着いたとのこと、もう一方の人が、すでにガストで席を確保していると言う。
ガストに行く。

13時55分、Tさんと、杉山さんが来て、お話、ファン大会の打ち合わせなどする、

17時居すぎ終わり、改札口までTさんらを見送り分かれる。
 杉山卓さんと、別の目的があり、少し、お話をした。

やはり、記憶から消えていたとのこと、驚いていたよ。解決しそうだ。

17時10分、バスに乗る。
神代寺植物園で降りたが、人気が無い、何せ、降りたのが私一人、
 そして次のバスで、最終。
 通りに出てみると、こちらにもバス停があった、
吉祥寺と、三鷹行きがある。
 吉祥寺行きが来てそれに乗った、三鷹駅のほうがいいかなと、三鷹市役所で降り、乗り換えた、
武蔵境行きに乗る。
18時16分、武蔵境駅に着き北口に行く。
ひばりが丘駅行き、イオン経由が無い、仕方が無いので団地経由に乗る。
19時04分、中原小学校で乗り換え、イオンモール東久留米で降りる。
19時14分、中華ドラゴンで、弁当を買う、
19時30分、家に戻る、歩行計を忘れていた。

着替えて、母屋へ、
夕食
19時30分、風呂。
20時、風呂から出る、長男が帰ってくる。
離れに戻りパソコン、やはり、ネットが繋がらない。
ランケーブルを伝って行き点検。
20時30分、ケーブルが切れているのを発見。

21時、ノートパソコンで作業をしよう、どうやら無線は、使えそう。
三味線が届いていたので、連絡と評価を、しなければ、

22時50分、ブログを書く努力、
23時58分、ブログを投稿する。

修正は、後日、ということで、
 文字が小さく、見づらいの出、目がちかちか
 そろそろ限度かな。
5,342位 / 2,304,226 ブログ 昨日:10767歩, 起床5時30分, 血圧:129、64,脈 拍:59, 体温:35.2,体重:69.7kg 天気,晴 
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10月22日(木) 手塚先生フアンの来客あり

2015年10月22日 23時34分29秒 | 手塚治虫
 5時45分、目を覚ます。
昨日、動悸が早く、体調不良で、早めに、布団に入り、目を閉じていた。
 0時ぐらいに、屋根の上で物音。
前から、何かが、通って行く、足音が聞こえておるので、階段の窓から、外を見る。
 懐中電灯で、照らしていると、母屋の屋根の上に、大きな猫ぐらいの動物の目が、こちらを向いて光っている。
外に出て、母屋の屋根を見るが、見えない、道路に出て、何気なく上を見ると、電線を伝って、イタチぐらいの動物が、南へ行く。
追って行く。
 前から、長男が、天井に何かいると、気していた、これに間違いないと、長男を呼ぶが、何も起こらない。
次男を読んでみる。
玄関の明かりがつき、出てきた。
 ハクビシンかな?
南へ、4件ほど行ったところで、電話線を伝って、道路を渡り、1階の屋根に降りて消えた。
 次男と家に戻る、妻も出て来ていた。
 長男は、疲れているのか、起きてこなかったとの事。

 そんなことがあり、1時過ぎに、なってしまう。

 5時45分、目を覚ます。
歯磨、洗顔。体重を測る。掃除途中で、やめたので、玄関先のごみだけまとめる。
 ジェイコムの、ウォーキング、金爺に渡そうと、チラシを持って、六仙公園に行く。
ごみを捨て、みはらし広場。ヒコーキを飛ばしている。
増爺が来ていないと言うのが気になる。
 金爺とお話。
案内を、渡す。
 7時17分になっていた、急いで母屋に戻る。
 7時29分、テレビを見る。
 7時30分、妻が、出かけて行く。
 8時16分、離れに行く。
 階段の掃除。
お勝手、掃除機をかける。
 6畳目間の清掃。
 玄関を清め、玄関先の掃除、
掃除機のごみを捨てる、などなど。
 ごみを捨ててくる。
 9時35分、母屋に行く。長男に、下の部屋だけ、片付いたよ、と言う。

 9時48分、ごみを取り、きれいになった掃除機で、掃除をしていると、長男がのぞきに来る。
何かにおうね、なんだろうと言う。
 お客さんが来るので気になる。アロマをトイレと、玄関先にたくことにする。
 長男が出かけて行くのを外で見送る。

10時、車を、洗車しておく。
お風呂場の、残り湯を利用する。

バケツ、2杯使う。
11時10分、終わったら、汗だく、シャワーを浴びようかな。
12時、お弁当を温めていると、次男が降りてくる。
 テレビを見ながら、昼食。
13時、次男が、部屋に戻る。
13時02分、ファンクラブ、武田さんから、電話を頂き、15分ぐらい、遅れてしまう事と、砂さんが来られない事の連絡がある。

14時、次男に、駅近くで待っているので、と言い車で駅に向かう。
駅の近くで、待機している。
14時17分、電話が入る、すぐに迎えに行く。

 離れに案内して、お話などする。

19時25分、家を出て、ひばりヶ丘駅まで、お送りする。

 本当に接待下手、昔からだが、リップコーヒー入れておいて、出すのを忘れているし、
おなかがすいたろうに準備がしていない、などなど。

19時35分、家に戻り、借りていた、折り畳みテーブルを、離れに取りに行く。
 コーヒーの電源入れたまま、おいしいかなと、飲んでみたら、」冷え切っていた。
当然だよね。
 夕飯を種る。
20時45分、風呂に入る。
21時15分、離れに戻る。片付けと掃除、
21時35分、パソコン、
21時46分、ブログを書き始める。
23時35分、ブログを投稿しておく。
 6,115位 / 2,302,894 ブログ 昨日:11762歩, 起床5時30分, 血圧:123、65,脈 拍:66, 体温:35.4,体重:68.9kg 天気,曇 
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7月16日  手塚治虫と黒澤明の関わり 2

2010年07月16日 22時20分43秒 | 手塚治虫
昨日の歩数:31歩
起床時間 :5時50分
血圧   :108    72
脈拍   :65
体温   :35.5℃
体重   :65.6kg
-----------------------
7時半からテレビをみる、体温と血圧を測る。


昨日の続きである
原正人さんの証言から、手治虫と黒澤明の映画化、より現実味があったことがわかりました。
そしてもう一つの証言を求めて、竹熊健太郎のブログ「たけくまメモ」に行き、その中の手治虫と黒澤明の記述の日時を探しました。探し当てその記述を下記に記します。
黒澤・手塚 幻の合作映画
「『テヅカ・イズ・デッド』を読む(4)」のコメント欄で、いつの間にか黒澤明の話になり、「そういえば…」という感じで俺が「昔、黒澤明と手塚治虫が映画を合作する話があった」ということを思いだし、その旨を書きましたら漫棚通信さんがブログでこれを取り上げていただきました。
 http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/
 当方のはコメントでのやりとりであり、しかもエントリの本筋とは関係ない話です。このまま埋もれてしまうにはもったいないネタなので、改めてこちらにアップします。コメントの詳しい前後関係は、当該のコメントを参照してください。
 まずはAaさんの「黒澤明が大平洋戦争中にディズニーの『白雪姫』を見た」というコメントを受けて、俺がこのようなレスを返したところから始まります。
------------------------------------------------------------
Aaさん
戦時中に「白雪姫」を黒澤が見ていたというのは、何か出典がありますか? 当時の映画関係者が米軍から接収したアメリカ映画を見ていたというのは、僕も読んだ記憶がありますが、黒澤が見たというのは初耳でした。もちろん、見ていても不思議はないんですが。
これも出典はあやふやなんですが、戦後に関しては、黒澤がディズニーファンだったという話は聞いたことがあります。(女優ではマリリン・モンローが好きだったらしい。意外)
そのうちエントリ化できればと思いますが、黒澤と手塚治虫が協力して、ポーの「赤き死の仮面」を実写+アニメ合成で映画化する企画もありました(脚本は完成していた)。一種のミュージカル映画で、ミュージカル場面がアニメーションになる予定だったそうです。
晩年、黒澤が宮崎駿を高く評価し、自ら接触していたのも、この企画が念頭にあったのかもしれません。
 すると、これを読んだ本ブログでも常連の長谷邦夫先生が、「黒澤プラス手塚・シナリオ!そんなものが存在したとは!よみてぇ~っ!!」との反応をされ、これに対して俺がレスしたのが以下のコメントでした。

-----------------------------------------
長谷先生
シナリオは黒澤明が執筆したもので、実際に存在します。黒澤としては、本当は「デルス・ウザーラ」の後に、引き続きソ連で監督する希望だったようです。
ですが「デルス」がソ連政府の期待に必ずしも応えるものではなかったので、この企画はなしになり、黒澤は例によって舞台を日本の戦国時代に移した翻案ものとしてシナリオを書き直しました。ミュージカル+一部アニメ映画にするプランがどの段階で生まれたかは知りませんが、最終稿ではそうなっているようです。
僕がなぜそれを知ったかというと、「影武者」完成後に、週刊誌のインタビューで次回作を問われて「赤き死の仮面」と黒澤自身が答えているのです(結局それは「乱」になりましたが)。
そのときの記事が手元にないんですが、「戦国を舞台にしたミュージカル映画になる。真っ赤な夕陽をバックに、無数の鎧武者が舞い踊る幻想的な場面を撮る予定だ」と話していました。
その記事では「アニメ」の話は出ていなかったんですが、手塚さんの死後、僕が『一億人の手塚治虫』を編集していたときに、77年頃のインタビューで「実は、今、黒澤監督からオファーがあって」という手塚さんが話していた記事を発見しました。
それでそのとき、「そういえば手塚先生のお通夜のとき、一番目立つ場所に黒澤明の花輪があったな」ということを思い出したわけです。
そこで、よもやと思い、後日手塚プロの関係者に聞いてみたら、「よくご存じですね。たしかに黒澤監督からオファーがあり、『赤き死の仮面』のアニメパートを演出する予定でした」という返事が返ってきました。
という次第です。
------------------------------------------------
 すると、以上のやりとりを読んだ漫棚通信さんが、ご自分のブログでこのネタを受けて実際のシナリオ(黒澤明全集に入っている『黒き死の仮面』)を参照されながら、「手塚さんがアニメにする予定だったのは、このあたりだろうか」と推理されている、という流れです。
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_e434.html  
漫棚通信ブログ版
  (このページの内容を書いておきます)
( 竹熊健太郎氏のブログ「たけくまメモ」のコメント欄を読んでいたら、どっひゃー、黒澤明が脚本・監督、手塚治虫がアニメパート担当の映画が企画されてたと知ってびっくり。
 こりゃ知らなかったなあ。「たけくまメモ」によると、
そのうちエントリ化できればと思いますが、黒澤と手塚治虫が協力して、ポーの「赤き死の仮面」を実写+アニメ合成で映画化する企画もありました(脚本は完成していた)。一種のミュージカル映画で、ミュージカル場面がアニメーションになる予定だったそうです。
 以下、長い引用で失礼します。
僕がなぜそれを知ったかというと、「影武者」完成後に、週刊誌のインタビューで次回作を問われて「赤き死の仮面」と黒澤自身が答えているのです(結局それは「乱」になりましたが)。
そのときの記事が手元にないんですが、「戦国を舞台にしたミュージカル映画になる。真っ赤な夕陽をバックに、無数の鎧武者が舞い踊る幻想的な場面を撮る予定だ」と話していました。
その記事では「アニメ」の話は出ていなかったんですが、手塚さんの死後、僕が『一億人の手塚治虫』を編集していたときに、77年頃のインタビューで「実は、今、黒澤監督からオファーがあって」という手塚さんが話していた記事を発見しました。
 そして、それは手塚とジョン・ギラーミンとの対談記事であったと。
 ディノ・デ・ラウレンティス製作、ジョン・ギラーミン監督の「キングコング」リメイク超大作は、日本ではお正月映画として1976年12月に公開されました。キネマ旬報1977年1月下旬号での手塚治虫と石上三登志の対談「キングコングがどうした!」(「定本手塚治虫の世界」所収)によると、1976年10月にギラーミンが来日した際、手塚とギラーミンの対談がおこなわれたそうです。
 ギラーミンとの対談記事は読めませんが、この石上三登志との対談では、手塚の黒澤に対する言及があります。
・たとえば、黒澤明さんも、コンテを大切に描く人でしょ。
・(ジョン・フォード「ドノバンサンゴ礁」の話題を受けて)やっぱり西部の荒野には、そういう海洋的なムードがあるんじゃないなか。ああいう空間が開放されたシーンは、すごく好きなんでしょうね。黒澤さんもそんな気がする。『デルス・ウザーラ』はもちろんそうだけど『七人の侍』にしてもそうだし、『隠し砦の三悪人』も。あれだけの野外シーンを撮れる監督は、世界にもちょっといないと思う。
 かなり黒澤のことを気にしてるみたい。黒澤明から手塚治虫にオファーがあったのは、1976年ごろのようです。
 このころの手塚といえば、1975年に日本漫画家協会賞特別優秀賞(「ブラック・ジャック」)と文藝春秋漫画賞(「ブッダ」「動物つれづれ草」)受賞。 1977年には原案のアニメ「ジェッターマルス」(アトムのリメイク)放映。「三つ目がとおる」「ブラック・ジャック」で第1回講談社漫画賞受賞。ほぼ同時に講談社版手塚治漫画全集刊行開始。てな時期でした。
 一方の黒澤明は、不遇の時期を経て、1975年8月にモス・フィルムで撮った「デルス・ウザーラ」の公開。1976年に「乱」第一稿の脱稿。同年文化功労者に選ばれています。1977年には「黒き死の仮面」のシナリオを完成させていますが、実際に彼の次作となったのは1980年公開の「影武者」でした。
 「全集 黒澤明」は1987年から1988年にかけて岩波書店から6巻刊行。黒澤のシナリオを集めたものです。そして没後の2002年、「夢」「八月の狂詩曲」「まあだだよ」などを収録した最終巻が刊行されました。この中に「黒き死の仮面」も収録されています。
 原作はもちろんエドガー・アラン・ポーの「赤き死の仮面」(「赤死病の仮面」)。文庫本で10ページほどの短篇です。)
----------------------------------------------------------
 黒澤シナリオの中で、漫棚さんの推理というのが以下の部分。
(手塚治虫が担当するはずだったアニメシーンというのは、クライマックス前の、魔物のバレエだと思われます。室内のバレエシーンと、屋外の混乱が交互に描かれます。
(1)頭は鳥、下半身は馬。頭は馬、下半身は鳥。頭は豚、下半身は獅子。頭は魚、下半身は鼠、等々。
この頭と下半身の奇妙な組合せの扮装とその動きには、ユーモラスなところは少しもなく、変に生々しく、人間性のグロテスクな面を見せつけられる思いがする。
(2)頭は犬、足は帚木──親衛隊の紋章がラインを組み、奇怪なリズムで踊り出てくる。
(3)犬の頭と帚木の足のダンスが退場し、奇怪で醜悪な巨大な魚が登場する。
そして、その腹を引き裂いて、踊り手達が出て来る。それは、蒼白い裸体に、様々な人間の欲望の仮面を被った醜怪な群舞である。
(4)牡牛の仮面に僧侶の頭巾を被った男達、豚の仮面に尼僧の頭巾を被った女達が、上半身は天使、下半身は悪魔の衣装をつけた堕天使を中心に、輪を描いて乱舞している。
(5)終幕らしく、これまでの登場人物が入り乱れて踊っている。ただ、彼等はそれぞれ、背中に真赤な布の炎を背負い、矢を眼に、刀を胸に、あるいは首と首を縄でくくられ、腹と腹を長い槍で串刺しにされた、異様な扮装で乱舞している。
それは、まるで異端の秘密宗派の祭壇画の様に、奇怪で悪魔的な光景である。
 これは物語内では侯爵が計画したバレエでしたが、実際には黒澤明自身がこう描いているわけです。この悪夢のようなイメージは、登場人物たち、さらには観客である私たちの象徴でもあります。
 この毒々しいバレエを、黒澤と手塚はどのようにアニメとしてイメージしていたのでしょう。アニメ背景の前で実写の人間とアニメキャラが踊るのか。それとも実写背景とアニメキャラか。すべてアニメで描くつもりだったのか。(ただし、このバレエシーンの演出を、黒澤はフェリーニに持ちかけたこともあったそうです)
---------------------------------------------------------------------------------
 ただしこれはソ連で映画化する予定だったポオの原作に忠実ヴァージョンのシナリオですので、日本の戦国時代を舞台にしたヴァージョンでは、この部分がどうなっていたのかわかりません。ただ、戦国ヴァージョンが全集に載っていないところを見ると、実際には決定稿は執筆されていない可能性もあります。
 本当はもう少し調べてからエントリ化しようと考えていましたが、それだといつになるのかわからないので、現時点で俺が知っている範囲の話を補足的に書いてみます。
○まず上の俺のコメントの補足ですが、黒澤が「赤き死の仮面」を「次回作」として雑誌インタビューで「予告」したのは「影武者」完成直後ですから、1980年のはずです。雑誌は週刊誌で、「週刊朝日」か「週刊読売」だったような……うろ覚えですいません。なお舞台を戦国時代に移す、というのはその記事の中で本人が発言していました。
○で、手塚治虫と『キングコング』のジョン・ギラーミン監督との対談は「週刊プレイボーイ」の76年12月7日号でした。その部分を引用してみます。
(手塚 その黒沢さんね。日本では作れなくて、ソ連で『デルス・ウザーラ』を作ったけれど、また今度、ソ連で映画作るんです。そのとき、ぼくは黒沢さんと仕事をすることに…。
ギラーミン え? じゃ、黒沢さんがSF映画を?
手塚 いや、それが恐怖映画なんだ。エドガー・アラン・ポオの短編を画化(ママ)するんだ。どの短編かはまだ秘密だけど。)
 ○手塚先生が亡くなったのが1989年2月9日。お通夜がTVニュースで中継されたんですが、その一番目立つところに黒澤明監督からの花輪が飾られており、竹熊は当時、黒澤監督と手塚氏の関係を知らなかったので、「あれ?」っと思ったのをよく憶えています。
 ○先生の死後、JICC出版(現宝島社)からの依頼で資料本『一億人の手塚治虫』を竹熊が編集。その作業中に上のプレイボーイの記事を見つけ、大いに驚く。
 ○90年代中頃、手塚プロ出身の石坂啓さんの家でアニメーター小林準治氏、マンガ家でアニメ監督でもある故・坂口尚氏と俺の4人で飲んだことがあります。小林氏・坂口氏ともに虫プロ出身で、手塚アニメでは重要スタッフとして参加。そこで俺が『赤き死の仮面』の話をふったら、小林氏が驚いて「よく知ってますねえ。確かにその話はあった」という返事。これで黒澤明と手塚治虫が合作予定だったという話が俺の中で事実として確定。
 ○手塚先生と黒澤監督は最後まで交流があったようです。まだ黒澤監督が存命中の話ですが、息子・黒澤久男の夫人(当時)だった林寛子がTVで「うちのおじいちゃん、孫によく漫画を描いてあげるんですよ。アトムとか…」と聞き捨てならない発言を。
 ○その後、映画雑誌の何かのコラムで、黒澤組のあるスタッフが黒澤家で黒澤本人が描いたアトムの絵を発見し、驚愕した話が紹介されていた。その人がおずおずと「あの、いただいてもよろしいでしょうか。大変、珍しいものなので…」と言うと、監督が「ダメだ!」と怒ってその紙をクシャクシャに丸めてクズカゴに放りこんだとか。このことと林寛子発言から、黒澤明がアトムの模写を自宅でしていた事実が、ほぼ確定。
 ○その後別の手塚プロ関係者から、講談社の手塚全集が黒澤明に寄贈されている事実を確認。黒澤家の書棚に全巻が置かれていたようです。
 ○黒澤明はもと画家志望で、たいへん絵がうまいです。後年の「影武者」などのストーリーボードはゴッホ風のタッチなんですが、昔の『七人の侍』のコンテを見ると、まるで白土三平が描いたかのような達者なマンガ風タッチで驚きます。このことから、アトムの模写などお手のものであったと考えられます。
←市川崑版『火の鳥』(1978,東宝)映画パンフ。アニメパートの演出は手塚だが、主人公を襲う狼の群れがいきなりピンクレディの「UFO」を歌い出すなど、例によって悪い癖が…。
 ○余談だが、ソ連版の『黒き死の仮面』(共産圏であることを配慮して、黒澤がタイトルを赤から黒に変えていた)は1977年頃には中断していたと考えられます。その後、78年8月に市川崑監督の実写版『火の鳥』が公開されたんですが、これの本編には随所に手塚プロによるアニメーションが合成されていました。アニメ部分は見事な1~2コマ打ちのフルアニメーションで、原画を担当したのが「オバQの小池さん」ことスタジオ・ゼロの鈴木伸一氏。
 ○時期的に考えて、黒澤企画が流れた直後に、市川崑の企画が持ち上がった可能性が高い。俺が昔から疑っているのは、もしかすると『赤き死』のために手塚が集めていたスタッフが、そのまま『火の鳥』に流れたのではないかということ。鈴木伸一氏に聞けば、あるいはそのあたりの事情が判明するかもしれません。
何が映画か―「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって
←黒澤と宮崎、二人の相互ヨイショと、黒澤の果てることなき自慢話が楽しめる『何が映画か』
 ○ところで手塚先生の死後、黒澤明は今度は宮崎駿に急接近。「ボクはトトロが大好きでねえ」とリップ・サービスを始めただけでなく、遺作となった『まあだだよ』の予告編製作まで宮崎本人に依頼。宮崎さんも、昔のインタビューでは「『影武者』で黒澤さんは堕落した」と例によって毒づいていたわけですが、そんなことはケロっと忘れたかのように黒澤監督に協力。もしかすると…黒澤は『赤き死』をまだ撮るつもりでいて、手塚治虫なき後は宮崎駿にアニメパートを依頼するつもりだったのでは……と邪推。
 とまあ、こんなところなんですが、どなたか幻の黒澤映画『赤き死の仮面』について、もっと詳しい話がありましたら、お教えくだされば幸いです。
編集家・竹熊健太郎の雑感雑記&業務連絡
たけくまメモ
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_bd61.html
以上今回手治虫と黒澤明のかかわりというアンケートに対して私が調べたものでしたが、たけくまメモにある通り、1990年代中頃、手塚プロ出身の石坂啓さんの家でアニメーター小林準治氏、マンガ家でアニメ監督でもある故・坂口尚氏と俺の4人で飲んだことがあります。の件(くだり)で
小林氏・坂口氏ともに虫プロ出身で、手塚アニメでは重要スタッフとして参加。そこで俺が『赤き死の仮面』の話をふったら、小林氏が驚いて「よく知ってますねえ。確かにその話はあった」という返事。これで黒澤明と手塚治虫が合作予定だったという話が俺の中で事実として確定。
とありました。灯台下暗し、苦労して調べたどり着いたのが友人である小林準治先生とは、何かとても大回りしたような気がして気が抜けてしまいました。かなりの長文となった。文章や資料でしたが、パソコンが自動でサービスパック2をインストールし始め、途中でインストールが停止いてしまいエラーのままになってしまいました。結局はリカバリーするしか方法がなくなり、リカバリー用に作っておいたDVD3枚も後でわかった原因はウィルス一つが削除できずにあったためで、ただの箱と変わってしまい、すべての資料が消失してしまいました。
何とか修復資料とする無駄な努力に何日も費やし、そのどさくさに無くさないようにとどこかにしまったアンケート用紙まで無くしてしまい三日ばかり探しても、もうあきらめていたものは出てきても、探し当てることができす、締め切りの17日が過ぎてしまいました。
コメント (2)
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7月15日  手塚治虫と黒澤明の関わり 1

2010年07月15日 23時44分26秒 | 手塚治虫
6821 位 / 1437674
昨日の歩数:4027歩
起床時間 :6時45分
血圧   :104    65
脈拍   :63
体温   :35.1℃
体重   :65.6kg
-----------------------

10時20分 虫プロ伊藤社長から電話を頂く。もと虫プロ撮影監督の山浦さんの訃報、
柴山先生たちが存じているか心配なさせていた、
昨日柴山先生から連絡を受けていたので,存じておりますと返事をする。
10時35分河合先輩に虫プロ伊藤社長から心配の連絡があったことを伝える。

1973年から続いている同人誌「月刊広場」ここには,小林先生や、樋口先生などが貴重な文章を書かれている。
 私も入りたいのだが、年金生活者にとって安い会費すらもったいながって未入会。
それでも、花見の会等お誘い頂いて僅かな交流を持っている。
 前に手塚治虫のアンケートを小林先生経由で短く書いた、その縁で,このたびは黒澤明監督特集をするのでと丁重な文章でアンケートの依頼があった。
10時20分 虫プロ伊藤社長から電話を頂く。もと虫プロ撮影監督の山浦さんの訃報、
柴山先生たちが存じているか心配なさっていた、
昨日柴山先生から連絡を受けていたので,存じておりますと返事をする。
10時35分河合先輩に虫プロ伊藤社長から心配の連絡があったことを伝える。

1973年から続いている同人誌「月刊広場」ここには,小林先生や、樋口先生などが貴重な文章を書かれている。
 私も入りたいのだが、年金生活者にとって安い会費すらもったいながって未入会。
それでも、花見の会等お誘い頂いて僅かな交流を持っている。
 前に手塚治虫のアンケートを小林先生経由で短く書いた、その縁で,このたびは黒澤明監督特集をするのでと丁重な文章でアンケートの依頼があった。それが6月13日の事。
 その中に気になる文章があった。黒澤明と手塚治虫の関わりに付いて。
この件は、前に何かで読んで、少し勉強した。そこでこれを中心にしてアンケートに答えようと考えた。
 しかしそれは生半可のことではないと思いしる。まずはどこに書いてあったかである。
私の周りの本から調べる。老眼が気になりだしてから文章を読むのがかなり辛くなっている。その上右目と左目の見える角度が違うので2つの画面が見えてしまう。一昨年図書館で手塚治虫生誕80周年記念として東久留米図書館で貯蔵している図書をまとめて展示した。その時も何冊も借りている。家のほんだけでなく図書館も探さねばならぬ。
 私の,悪い癖で、直ぐに横道にそれてしまう。東久留米市の図書館にはビデオで黒澤明監督作品があったのである。凝り性の私は、黒澤明監督の作品を見もしないで書くのは失礼な事だと思った。そこで図書館に在る,黒澤明監督作品をまずは見てからアンケートを書くべきだと考えた。
そんな中,ラッキーなことが起きた。6月20日のことであった。2007年春モデルの富士通のパソコンFMVをとても安い値段で手に入れることが出来た。WindowsのVistaで Officeも2007が入っている。
不具合が出て前の持ち主が手放したらしいが、私の知識でも、何とかこれを修理して使えるようにできた。
すると使い勝手が良く、今まで調べたことを、ワードに書き込んでいった。
そしてエクセルで、私が持っている手塚治虫の関連本リストとあわせて東久留米図書館にある手塚治虫関連本のリストも作った。
その合間にも黒澤明作品を次々見た。
1943年つまり戦時中の作品「姿三四郎」
1944年女優さんを実際の工場に勤労奉仕をさせて作った作品「一番美しく」
1945年敗戦の年「續姿三四郎」「虎の尾を踏む男達」 3作品飛ばして
1948年の作品「醉いどれ天使」
1950年松竹での作「醜聞スキャンダル」 大映の「羅生門」
1951年松竹で「白痴」
1954年東宝で「七人の侍」
1955年「生きものの記録」
1957年「蜘蛛巣城」「どん底」
1961年黒澤プロ「用心棒」
1962年「椿三十郎」
1963年「天国と地獄」
オリンピックの年を挟んで
1965年「赤ひげ」
1970年四騎の会「どですかでん」
1980年黒澤プロ「影武者」
1985年ヘラルドの「乱」
1990年黒澤プロ「夢」
1993年「まあだだよ」
31作品中21作品を見だしたのであった。
そんな中、たくさんの手塚治虫,関係本の中から、やっと手塚治虫と黒澤明の関わりの文章を探し出すことが出来た。
6月29日の事、所蔵の中の一冊「一億人の手塚治虫」という本であった。
その393ページ「アニメの情熱③」の記事である。
{手塚  その黒澤さんね。日本では作れなくて、ソ連で「デルス・ウザーラ」を作ったけれど、また今後、ソ連で映画を作るんです。そのとき、ぼくは黒澤さんといっしょに仕事をすることに・・・。
ギラーミン(ジョン・ギラーミン映画監督) え?じゃ、黒澤さんがSF映画を?
手塚 いや、それが恐怖映画なんだ。エドガー・アラン・ポオの短編を画化(ママ)するんだ。どの短編かはまだ秘密だけど。}

というこの短い文章であった、
 週刊プレイ・ボーイ1976年の12月7日号の中「キングコングと鉄腕アトム、もし戦わば!?―日米異色ムービー対談」 手塚治虫 ジョン・ギラーミン に乗った記事でした。
この「一億人の手塚治虫」という本は1989年8月に発行されており、一億人の手塚治虫編集委員会というのが編集している。その委員会のスタッフは佐山哲郎,近藤十四郎、川崎ぶら、香川眞悟、竹熊健太郎、であった。
このうち竹熊健太郎の名前に見覚えがあった、前に手塚先生のことが書いてあるプログの中で{竹熊健太郎のブログ「たけくまメモ」}というのを見ていた。ここはまた後で調べることにして、「乱」がヘラルド配給ということが気になり,色々と検索を試みた。
すると千夜一夜物語でお世話になった、原正人氏が対談で手塚先生と黒澤明監督の幻の企画を語っているページを探し当てた。
日本ヘラルドという会社は1966年私がワンダースリーの制作が終了して、社長室勤務となった。社長室と言っても社長室長の島方部長が映画部のことが判らないということでそれを補佐するという意味合いがかなりの部分を占めていた。もちろん漫画部で手塚治虫先生がホテルなどへ缶詰になる時など泊りがけで側に付いてお世話をする仕事もある。芸術祭と,アニメーションフェスティバルに出品する実験映画を作るという企画に当然参加した。そして制作にあたっても人手不足になり制作経験ということで、睡眠時間を削って手助けした。
アニメーションフェスティバルが終わり見事、芸術祭の表彰を受け、大藤賞の授賞式にも島方室長と共に出席っする栄誉を得た。その後、そんな作品をそのままにしておくのはと、島方室長は作品のセールスに動きだした。
手塚治虫のマネージメントの仕事の合間を縫ってなので私が車を運転して付いて行った。
 そして松竹系三館渋谷のパンティオン、新宿ミラノ座、松竹セントラルでのロードショー封切が決まった。「天地創造」と一緒であった。
その収益があり、欲のない手塚治虫は虫プロ全社員に手塚治虫が是非見てもらいたい作品として再度封切られたデズニーの「ファンタジア」の切符を購入して社員に配ることになった。私が日本デズニーまで切符600枚を買いに行っている。それが直ぐに足りないことになり追加をしたのだが追加した枚数は覚えていないが当時すでに虫プロ関係者が600人以上いた事がうかがえるエピソードである。
その後全国館になったがその後も引き合いがあり、千代田区内幸町の日本ヘラルド映画株式会社に島方室長と行って当時の関東支社長の沖本忠治氏はじめ多くの役員の方々とお会いしている。
そのことが、きっかけとなったかどうかわからないが、日本ヘラルド映画で自主作品を作ろうと計画した時に漫画映画の話が出て、「展覧会の絵」を思い出さなかったとは私は思わない、現に私はそのあと35mmの「展覧会の絵」のフイルムを届けに行っているしその後16mmの「展覧会の絵」をお借りできないかということで、これも届けに行っているからである。
大人のための漫画映画を日本ヘラルドで企画決定して虫プロで「千夜一夜物語」に決まったが、その時原正人氏のお名前も存じていた。
その方がのちに黒澤明監督の「乱」と大いにかかわっておりその対談ページを見つけたのであった。
原正人氏は1975年「デルス・ウザーラ」の実現に協力し、1985年の「乱」ではプロデューサーを務めた、
黒澤作品2作を世に送った。年譜上、「デルス・ウザーラ」は黒澤監督が失意の底から抜け出す契機になった作と言われ、「乱」は、黒澤映画最後の超大作と言われている。
以下その内容。
司会と構成は谷口智彦明治大学国際日本学部客員教授です。

黒澤明監督(左)と原正人氏。1975年 映画『デルス・ウザーラ』の上映劇場前(写真・原正人氏提供)


浜野保樹氏
浜野保樹(はまの・やすき)
東京大学大学院新領域創成科学研究科教授。
1951年生まれ。工学博士。コンテンツ産業や制作に関する研究開発に従事する。主な著書に『偽りの民主主義』(角川書店)『模倣される日本』(祥伝社)『表現のビジネス』(東京大学出版会)などがある。現在、『大系 黒澤明』(講談社)全4巻シリーズが刊行中。(財)黒澤明文化振興財団理事、(財)徳間記念アニメーション文化財団評議員、文化庁メディア芸術祭運営委員ほか。


原正人氏
原正人(はら・まさと)
映画プロデューサー。
1931年埼玉県熊谷市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科中退。独立プロなどを経て、58年ヘラルド映画入社(61年日本ヘラルド映画に社名変更)。81年ヘラルド・エースを設立、映画製作に乗り出すと共に、ミニシアターブームの基礎を作る。95年角川書店と提携し、96年エース・ピクチャーズに社名変更。98年住友商事子会社のアスミックと合併、アスミック・エース エンタテインメントと社名変更、同社長就任。ほかに東京国際映画祭評議員など。主な受賞暦に日本アカデミー企画賞、日本映画テレビプロデューサー協会賞、藤本賞、淀川長治賞、日本映画ペンクラブ賞、フランスの芸術文化勲章オフィシェなど。
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浜野 原さんが初めて黒澤監督に会った経緯というのが面白い。映画の世界では黒澤明、そしてマンガとアニメの世界でだったら、手塚治虫でしょう、天空高くそびえる峰という意味では。原さんは、確かこの巨匠2人に、合作させられないかと思われたんでしたね。

原  シロウトの怖さ、でね。あれなどは。戦争終わったとき、わたしは14でした。みなそうだったと思うが、映画抜きでは青春時代を語れない、そういう世代でね。独立プロの現場を経て、27になる年でしたが昭和33(1958)年、「ヘラルド」という、洋画配給会社に入るんです。洋画の配給としちゃ後発の会社でした。

   でも後発だから物怖じしないところがあってね、手塚治虫さんに劇場用のアニメをつくってもらおうということになりました。「大人の鑑賞に堪える」初めてのアニメを、という意気込みで、69年のことです。

手塚アニメの大入り満員が発端


原   できたのが『千夜一夜物語』で、それは大盛況を取りました。大きな映画館が立ち見客で両脇、後ろの通路ともギュウギュウ詰め、扉が閉まりきらないから外の光が漏れて入るくらいというくらいの(今と違って総入替制でなく、映画館は切符を客席定員に構わず売った。客は上映中でも入って立ち見し、終わると空いた席に座って最初から見直すという、当時はそんな鑑賞スタイル)。

    それだけ当たりを取ったということと、かたっぽうでは、黒澤さんがしきりに「平家物語」をやりたいと言ってて、でも日本の技術やスケールじゃできないと、ぼやいてらっしゃるという話を聞いた。
そこで思ったのは、実写で無理なものも、アニメでだったらできるだろう、なんてね。これが勉強不足だったんだ。

    ただもうひとつは、その話にかこつけて、まだお会いしたことのなかった黒澤監督に会えるやと思って。なんといっても戦時中から戦後にかけて、『姿三四郎』(43年)や『素晴らしき日曜日』(47年)を見て育ったわけですからね。黒澤明シナリオ・演出、手塚治虫撮影・監督というのは面白いんじゃないか、と。
黒澤監督現れ、「そりゃあ素敵だよ」
原   会ったんです。赤坂プリンスホテルの旧館。黒澤プロの事務所がこう、階段上がって右んとこにありましてね。そこで、先方のプロデューサーをしていた松江陽一さんに話してたら、黒澤監督がひょっこり現れた。初対面です、それが。
「平家物語ができたら、そりゃあ素敵だよ」とかなんとか、監督はおっしゃいましたかな。
よし黒澤さんにも興味をもっていただけたのだからと、手塚さんのところへ勇んで話をしにいったら、「そんな、鎧(よろい)の直垂(ひたたれ)ひとつひとつ手で描くようなことできないよー、きみー」と怒られるような始末で。幻に終わるわけです、この企画は。
司会  いまの技術でだったら…
原   できただろうね、それは。
浜野  ただ、その企画、ゴーになってたとしても絶対どっかの段階で黒澤監督、介入して、「これは俺の思ってたのと違うんだ」なんて、その2人は大喧嘩になってたと思いますよ。

原   あはは(笑)。手塚さん自身も、もう、凝り屋だからね。千夜一夜物語の時も、結局誰にも任せきれなくて、1枚1枚セルを自分で描いてたくらいですから。
アニメってのはいくらでも直せますでしょ。実写だったらセットをバラして役者がいなくなったらそれでおしまいだけど、アニメはその気になればいくらでも、ね。だから大変だったですよ。訪ねていったら、手塚さんが、こーっ、机に向かってやってたなあ。
黒澤家の愛犬、名前の由来
浜野  黒澤監督って犬が大好きで、セントバーナードのでっかいのがいた。優秀な犬で、日本中のドッグショーを総なめしたっていう。これにつけてた名前が、実は「レオ」なんですよ。「ジャングル大帝」からとったんですね。これは、それくらい手塚治虫のことを買っていたという話です。

原   2人はそのあと、会う機会あったんだと思うけどなあ。僕はそういう機会を用意できなかったんだ。

浜野  『デルス・ウザーラ』つくったあと、次の作品考えているとき、一部分アニメを使おうかという話があって、これは手塚先生に頼もうってことになったんでしょう、黒澤・手塚は一度中華料理屋で会合もったらしいんです。そのとき今の手塚プロ社長の松谷孝征さんが同行しててね。
それは面白い、今度の本(『大系・黒澤明』)にぜひ載せるから、写真くださいって言いました。そしたら松谷さんが言うのに、「みんな緊張していて、監督の言うことをただじーっと聞いてたから、写真なんか撮れなかったんだよ」って。

司会  セントバーナードとはまた、当時非常に珍しい犬種だったでしょうね。

浜野  世田谷区の松原っていうところに、400坪からある豪邸を構えていた時期があるんですよ。その頃のことのようです。

原   ぼくはその豪邸知らないんだよね、監督を知ったのは(家屋敷を)手放したあとだから。
ぼくが知った頃は代官山にツインタワーがあって、そのマンションに居られました。(一人娘の)和子さんが確か、大学生くらい。

「富裕を描く」ためには…
原   昼食を出して下さるんだけど、これが近くの小川軒から取り寄せたもんなんです、老舗の洋風レストランだよね、小川軒っていったら。
当時ぼくは貧乏してたから、すげえもんだな、て思った。黒澤さんもけして楽ではなかったはずなんだけども、たとえ貧乏してても、いつも一流でなきゃだめだって主義だから、ね。
司会  それは衣食住すべてで…?
原   衣食住すべて一流。
浜野  着るものについても若い人に言ってたのは、「創造とは記憶だから」と。貧乏は、日本人みんな貧乏だからよく知ってて、演出ができる。
でも富裕ということは、やってみなければその感じがつかめない。贅沢を描く映画が撮れないじゃないかといって、「借金してでもいいものを着ろ」って言ってましたねえ。そりゃ無理というもので、20代の若者に借金して贅沢しろといっても…。そんなふうでした。
司会  監督自身は若い頃からそんなだったんでしょうか。
乗っていた外国製セダンは
原   若い頃から一流主義だったんじゃないですか。というのは、当時の監督、昭和の20年代後半から30年代にかけてですよね、映画スタジオの全盛期。その頃の監督は、ギャラが良かった。名実ともエリートですよ、当時はね。経済力があったみたいです。
浜野  『用心棒』(61年)とか『椿三十郎』(62年)を撮っていた頃ですよね。当時黒澤監督はジャガーのセダンを買って、しかも運転手つきだったといいますから。
原   いまの映画監督には考えられない。
浜野  とてもとても…。
http://wedge.ismedia.jp/articles/print/755
以上上記ページ参考させていただきました。
コメント (1)
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