昨日の歩数:31歩
起床時間 :5時50分
血圧 :108 72
脈拍 :65
体温 :35.5℃
体重 :65.6kg
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7時半からテレビをみる、体温と血圧を測る。
昨日の続きである
原正人さんの証言から、手治虫と黒澤明の映画化、より現実味があったことがわかりました。
そしてもう一つの証言を求めて、竹熊健太郎のブログ「たけくまメモ」に行き、その中の手治虫と黒澤明の記述の日時を探しました。探し当てその記述を下記に記します。
黒澤・手塚 幻の合作映画
「『テヅカ・イズ・デッド』を読む(4)」のコメント欄で、いつの間にか黒澤明の話になり、「そういえば…」という感じで俺が「昔、黒澤明と手塚治虫が映画を合作する話があった」ということを思いだし、その旨を書きましたら漫棚通信さんがブログでこれを取り上げていただきました。
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/
当方のはコメントでのやりとりであり、しかもエントリの本筋とは関係ない話です。このまま埋もれてしまうにはもったいないネタなので、改めてこちらにアップします。コメントの詳しい前後関係は、当該のコメントを参照してください。
まずはAaさんの「黒澤明が大平洋戦争中にディズニーの『白雪姫』を見た」というコメントを受けて、俺がこのようなレスを返したところから始まります。
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Aaさん
戦時中に「白雪姫」を黒澤が見ていたというのは、何か出典がありますか? 当時の映画関係者が米軍から接収したアメリカ映画を見ていたというのは、僕も読んだ記憶がありますが、黒澤が見たというのは初耳でした。もちろん、見ていても不思議はないんですが。
これも出典はあやふやなんですが、戦後に関しては、黒澤がディズニーファンだったという話は聞いたことがあります。(女優ではマリリン・モンローが好きだったらしい。意外)
そのうちエントリ化できればと思いますが、黒澤と手塚治虫が協力して、ポーの「赤き死の仮面」を実写+アニメ合成で映画化する企画もありました(脚本は完成していた)。一種のミュージカル映画で、ミュージカル場面がアニメーションになる予定だったそうです。
晩年、黒澤が宮崎駿を高く評価し、自ら接触していたのも、この企画が念頭にあったのかもしれません。
すると、これを読んだ本ブログでも常連の長谷邦夫先生が、「黒澤プラス手塚・シナリオ!そんなものが存在したとは!よみてぇ~っ!!」との反応をされ、これに対して俺がレスしたのが以下のコメントでした。
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長谷先生
シナリオは黒澤明が執筆したもので、実際に存在します。黒澤としては、本当は「デルス・ウザーラ」の後に、引き続きソ連で監督する希望だったようです。
ですが「デルス」がソ連政府の期待に必ずしも応えるものではなかったので、この企画はなしになり、黒澤は例によって舞台を日本の戦国時代に移した翻案ものとしてシナリオを書き直しました。ミュージカル+一部アニメ映画にするプランがどの段階で生まれたかは知りませんが、最終稿ではそうなっているようです。
僕がなぜそれを知ったかというと、「影武者」完成後に、週刊誌のインタビューで次回作を問われて「赤き死の仮面」と黒澤自身が答えているのです(結局それは「乱」になりましたが)。
そのときの記事が手元にないんですが、「戦国を舞台にしたミュージカル映画になる。真っ赤な夕陽をバックに、無数の鎧武者が舞い踊る幻想的な場面を撮る予定だ」と話していました。
その記事では「アニメ」の話は出ていなかったんですが、手塚さんの死後、僕が『一億人の手塚治虫』を編集していたときに、77年頃のインタビューで「実は、今、黒澤監督からオファーがあって」という手塚さんが話していた記事を発見しました。
それでそのとき、「そういえば手塚先生のお通夜のとき、一番目立つ場所に黒澤明の花輪があったな」ということを思い出したわけです。
そこで、よもやと思い、後日手塚プロの関係者に聞いてみたら、「よくご存じですね。たしかに黒澤監督からオファーがあり、『赤き死の仮面』のアニメパートを演出する予定でした」という返事が返ってきました。
という次第です。
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すると、以上のやりとりを読んだ漫棚通信さんが、ご自分のブログでこのネタを受けて実際のシナリオ(黒澤明全集に入っている『黒き死の仮面』)を参照されながら、「手塚さんがアニメにする予定だったのは、このあたりだろうか」と推理されている、という流れです。
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_e434.html
漫棚通信ブログ版
(このページの内容を書いておきます)
( 竹熊健太郎氏のブログ「たけくまメモ」のコメント欄を読んでいたら、どっひゃー、黒澤明が脚本・監督、手塚治虫がアニメパート担当の映画が企画されてたと知ってびっくり。
こりゃ知らなかったなあ。「たけくまメモ」によると、
そのうちエントリ化できればと思いますが、黒澤と手塚治虫が協力して、ポーの「赤き死の仮面」を実写+アニメ合成で映画化する企画もありました(脚本は完成していた)。一種のミュージカル映画で、ミュージカル場面がアニメーションになる予定だったそうです。
以下、長い引用で失礼します。
僕がなぜそれを知ったかというと、「影武者」完成後に、週刊誌のインタビューで次回作を問われて「赤き死の仮面」と黒澤自身が答えているのです(結局それは「乱」になりましたが)。
そのときの記事が手元にないんですが、「戦国を舞台にしたミュージカル映画になる。真っ赤な夕陽をバックに、無数の鎧武者が舞い踊る幻想的な場面を撮る予定だ」と話していました。
その記事では「アニメ」の話は出ていなかったんですが、手塚さんの死後、僕が『一億人の手塚治虫』を編集していたときに、77年頃のインタビューで「実は、今、黒澤監督からオファーがあって」という手塚さんが話していた記事を発見しました。
そして、それは手塚とジョン・ギラーミンとの対談記事であったと。
ディノ・デ・ラウレンティス製作、ジョン・ギラーミン監督の「キングコング」リメイク超大作は、日本ではお正月映画として1976年12月に公開されました。キネマ旬報1977年1月下旬号での手塚治虫と石上三登志の対談「キングコングがどうした!」(「定本手塚治虫の世界」所収)によると、1976年10月にギラーミンが来日した際、手塚とギラーミンの対談がおこなわれたそうです。
ギラーミンとの対談記事は読めませんが、この石上三登志との対談では、手塚の黒澤に対する言及があります。
・たとえば、黒澤明さんも、コンテを大切に描く人でしょ。
・(ジョン・フォード「ドノバンサンゴ礁」の話題を受けて)やっぱり西部の荒野には、そういう海洋的なムードがあるんじゃないなか。ああいう空間が開放されたシーンは、すごく好きなんでしょうね。黒澤さんもそんな気がする。『デルス・ウザーラ』はもちろんそうだけど『七人の侍』にしてもそうだし、『隠し砦の三悪人』も。あれだけの野外シーンを撮れる監督は、世界にもちょっといないと思う。
かなり黒澤のことを気にしてるみたい。黒澤明から手塚治虫にオファーがあったのは、1976年ごろのようです。
このころの手塚といえば、1975年に日本漫画家協会賞特別優秀賞(「ブラック・ジャック」)と文藝春秋漫画賞(「ブッダ」「動物つれづれ草」)受賞。 1977年には原案のアニメ「ジェッターマルス」(アトムのリメイク)放映。「三つ目がとおる」「ブラック・ジャック」で第1回講談社漫画賞受賞。ほぼ同時に講談社版手塚治漫画全集刊行開始。てな時期でした。
一方の黒澤明は、不遇の時期を経て、1975年8月にモス・フィルムで撮った「デルス・ウザーラ」の公開。1976年に「乱」第一稿の脱稿。同年文化功労者に選ばれています。1977年には「黒き死の仮面」のシナリオを完成させていますが、実際に彼の次作となったのは1980年公開の「影武者」でした。
「全集 黒澤明」は1987年から1988年にかけて岩波書店から6巻刊行。黒澤のシナリオを集めたものです。そして没後の2002年、「夢」「八月の狂詩曲」「まあだだよ」などを収録した最終巻が刊行されました。この中に「黒き死の仮面」も収録されています。
原作はもちろんエドガー・アラン・ポーの「赤き死の仮面」(「赤死病の仮面」)。文庫本で10ページほどの短篇です。)
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黒澤シナリオの中で、漫棚さんの推理というのが以下の部分。
(手塚治虫が担当するはずだったアニメシーンというのは、クライマックス前の、魔物のバレエだと思われます。室内のバレエシーンと、屋外の混乱が交互に描かれます。
(1)頭は鳥、下半身は馬。頭は馬、下半身は鳥。頭は豚、下半身は獅子。頭は魚、下半身は鼠、等々。
この頭と下半身の奇妙な組合せの扮装とその動きには、ユーモラスなところは少しもなく、変に生々しく、人間性のグロテスクな面を見せつけられる思いがする。
(2)頭は犬、足は帚木──親衛隊の紋章がラインを組み、奇怪なリズムで踊り出てくる。
(3)犬の頭と帚木の足のダンスが退場し、奇怪で醜悪な巨大な魚が登場する。
そして、その腹を引き裂いて、踊り手達が出て来る。それは、蒼白い裸体に、様々な人間の欲望の仮面を被った醜怪な群舞である。
(4)牡牛の仮面に僧侶の頭巾を被った男達、豚の仮面に尼僧の頭巾を被った女達が、上半身は天使、下半身は悪魔の衣装をつけた堕天使を中心に、輪を描いて乱舞している。
(5)終幕らしく、これまでの登場人物が入り乱れて踊っている。ただ、彼等はそれぞれ、背中に真赤な布の炎を背負い、矢を眼に、刀を胸に、あるいは首と首を縄でくくられ、腹と腹を長い槍で串刺しにされた、異様な扮装で乱舞している。
それは、まるで異端の秘密宗派の祭壇画の様に、奇怪で悪魔的な光景である。
これは物語内では侯爵が計画したバレエでしたが、実際には黒澤明自身がこう描いているわけです。この悪夢のようなイメージは、登場人物たち、さらには観客である私たちの象徴でもあります。
この毒々しいバレエを、黒澤と手塚はどのようにアニメとしてイメージしていたのでしょう。アニメ背景の前で実写の人間とアニメキャラが踊るのか。それとも実写背景とアニメキャラか。すべてアニメで描くつもりだったのか。(ただし、このバレエシーンの演出を、黒澤はフェリーニに持ちかけたこともあったそうです)
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ただしこれはソ連で映画化する予定だったポオの原作に忠実ヴァージョンのシナリオですので、日本の戦国時代を舞台にしたヴァージョンでは、この部分がどうなっていたのかわかりません。ただ、戦国ヴァージョンが全集に載っていないところを見ると、実際には決定稿は執筆されていない可能性もあります。
本当はもう少し調べてからエントリ化しようと考えていましたが、それだといつになるのかわからないので、現時点で俺が知っている範囲の話を補足的に書いてみます。
○まず上の俺のコメントの補足ですが、黒澤が「赤き死の仮面」を「次回作」として雑誌インタビューで「予告」したのは「影武者」完成直後ですから、1980年のはずです。雑誌は週刊誌で、「週刊朝日」か「週刊読売」だったような……うろ覚えですいません。なお舞台を戦国時代に移す、というのはその記事の中で本人が発言していました。
○で、手塚治虫と『キングコング』のジョン・ギラーミン監督との対談は「週刊プレイボーイ」の76年12月7日号でした。その部分を引用してみます。
(手塚 その黒沢さんね。日本では作れなくて、ソ連で『デルス・ウザーラ』を作ったけれど、また今度、ソ連で映画作るんです。そのとき、ぼくは黒沢さんと仕事をすることに…。
ギラーミン え? じゃ、黒沢さんがSF映画を?
手塚 いや、それが恐怖映画なんだ。エドガー・アラン・ポオの短編を画化(ママ)するんだ。どの短編かはまだ秘密だけど。)
○手塚先生が亡くなったのが1989年2月9日。お通夜がTVニュースで中継されたんですが、その一番目立つところに黒澤明監督からの花輪が飾られており、竹熊は当時、黒澤監督と手塚氏の関係を知らなかったので、「あれ?」っと思ったのをよく憶えています。
○先生の死後、JICC出版(現宝島社)からの依頼で資料本『一億人の手塚治虫』を竹熊が編集。その作業中に上のプレイボーイの記事を見つけ、大いに驚く。
○90年代中頃、手塚プロ出身の石坂啓さんの家でアニメーター小林準治氏、マンガ家でアニメ監督でもある故・坂口尚氏と俺の4人で飲んだことがあります。小林氏・坂口氏ともに虫プロ出身で、手塚アニメでは重要スタッフとして参加。そこで俺が『赤き死の仮面』の話をふったら、小林氏が驚いて「よく知ってますねえ。確かにその話はあった」という返事。これで黒澤明と手塚治虫が合作予定だったという話が俺の中で事実として確定。
○手塚先生と黒澤監督は最後まで交流があったようです。まだ黒澤監督が存命中の話ですが、息子・黒澤久男の夫人(当時)だった林寛子がTVで「うちのおじいちゃん、孫によく漫画を描いてあげるんですよ。アトムとか…」と聞き捨てならない発言を。
○その後、映画雑誌の何かのコラムで、黒澤組のあるスタッフが黒澤家で黒澤本人が描いたアトムの絵を発見し、驚愕した話が紹介されていた。その人がおずおずと「あの、いただいてもよろしいでしょうか。大変、珍しいものなので…」と言うと、監督が「ダメだ!」と怒ってその紙をクシャクシャに丸めてクズカゴに放りこんだとか。このことと林寛子発言から、黒澤明がアトムの模写を自宅でしていた事実が、ほぼ確定。
○その後別の手塚プロ関係者から、講談社の手塚全集が黒澤明に寄贈されている事実を確認。黒澤家の書棚に全巻が置かれていたようです。
○黒澤明はもと画家志望で、たいへん絵がうまいです。後年の「影武者」などのストーリーボードはゴッホ風のタッチなんですが、昔の『七人の侍』のコンテを見ると、まるで白土三平が描いたかのような達者なマンガ風タッチで驚きます。このことから、アトムの模写などお手のものであったと考えられます。
←市川崑版『火の鳥』(1978,東宝)映画パンフ。アニメパートの演出は手塚だが、主人公を襲う狼の群れがいきなりピンクレディの「UFO」を歌い出すなど、例によって悪い癖が…。
○余談だが、ソ連版の『黒き死の仮面』(共産圏であることを配慮して、黒澤がタイトルを赤から黒に変えていた)は1977年頃には中断していたと考えられます。その後、78年8月に市川崑監督の実写版『火の鳥』が公開されたんですが、これの本編には随所に手塚プロによるアニメーションが合成されていました。アニメ部分は見事な1~2コマ打ちのフルアニメーションで、原画を担当したのが「オバQの小池さん」ことスタジオ・ゼロの鈴木伸一氏。
○時期的に考えて、黒澤企画が流れた直後に、市川崑の企画が持ち上がった可能性が高い。俺が昔から疑っているのは、もしかすると『赤き死』のために手塚が集めていたスタッフが、そのまま『火の鳥』に流れたのではないかということ。鈴木伸一氏に聞けば、あるいはそのあたりの事情が判明するかもしれません。
何が映画か―「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって
←黒澤と宮崎、二人の相互ヨイショと、黒澤の果てることなき自慢話が楽しめる『何が映画か』
○ところで手塚先生の死後、黒澤明は今度は宮崎駿に急接近。「ボクはトトロが大好きでねえ」とリップ・サービスを始めただけでなく、遺作となった『まあだだよ』の予告編製作まで宮崎本人に依頼。宮崎さんも、昔のインタビューでは「『影武者』で黒澤さんは堕落した」と例によって毒づいていたわけですが、そんなことはケロっと忘れたかのように黒澤監督に協力。もしかすると…黒澤は『赤き死』をまだ撮るつもりでいて、手塚治虫なき後は宮崎駿にアニメパートを依頼するつもりだったのでは……と邪推。
とまあ、こんなところなんですが、どなたか幻の黒澤映画『赤き死の仮面』について、もっと詳しい話がありましたら、お教えくだされば幸いです。
編集家・竹熊健太郎の雑感雑記&業務連絡
たけくまメモ
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_bd61.html
以上今回手治虫と黒澤明のかかわりというアンケートに対して私が調べたものでしたが、たけくまメモにある通り、1990年代中頃、手塚プロ出身の石坂啓さんの家でアニメーター小林準治氏、マンガ家でアニメ監督でもある故・坂口尚氏と俺の4人で飲んだことがあります。の件(くだり)で
小林氏・坂口氏ともに虫プロ出身で、手塚アニメでは重要スタッフとして参加。そこで俺が『赤き死の仮面』の話をふったら、小林氏が驚いて「よく知ってますねえ。確かにその話はあった」という返事。これで黒澤明と手塚治虫が合作予定だったという話が俺の中で事実として確定。
とありました。灯台下暗し、苦労して調べたどり着いたのが友人である小林準治先生とは、何かとても大回りしたような気がして気が抜けてしまいました。かなりの長文となった。文章や資料でしたが、パソコンが自動でサービスパック2をインストールし始め、途中でインストールが停止いてしまいエラーのままになってしまいました。結局はリカバリーするしか方法がなくなり、リカバリー用に作っておいたDVD3枚も後でわかった原因はウィルス一つが削除できずにあったためで、ただの箱と変わってしまい、すべての資料が消失してしまいました。
何とか修復資料とする無駄な努力に何日も費やし、そのどさくさに無くさないようにとどこかにしまったアンケート用紙まで無くしてしまい三日ばかり探しても、もうあきらめていたものは出てきても、探し当てることができす、締め切りの17日が過ぎてしまいました。