11月11日 都市センターホールで「虫プロダクション・フェスティバル」が行われました。
「展覧会の絵」の35ミリのフィルムはやはり開演ぎりぎり、東洋現像所へ取りに行った進行さんによって都市センターホールに運ばれた。
この日、手塚治虫先生はひとつの試みをしようとしていました。音響の田代さんが先生と何回も社長室で打ち合わせをしていました。
「それはとても無理です、素人の人にそんなことはできっこありません」
などと言う、田代さんの声が聞こえていました。
それでも田代さんは、純真な先生の目を見ながら、その大冒険の話しを聞かされると、最後にはうなずいて「やってみましょう」と言うしかなかったのでした。
その日手塚先生はホールの後ろに立っていました、隣で先生を見守っていました。
田代さんは開演の数時間前から、音響の連中や照明さんとめまぐるしく打ち合わせをしていました。
時間になって、都市センターホールには虫プロ友の会を中心とした観客が入り始めた。これから行われようとすることに対して莫大な費用がかかるが、観客動員数に対して換算すると、とても採算の合うという数字にははるかに遠い数字であるが、お客を喜ばせたり、驚かせたりすることに喜びを感じて、いつも金銭には換算しない手塚先生であった。
開演時間が来て、「展覧会の絵」が上映された、思った通りに観客に受けていた、映写が無事続いて、クライマックス。凱旋門の肖像たちが門を支えに戻り、安心した母子の像に涙、観客みなが感激していると、画面が実写にオーバーラップして、シンバルをたたくと同時に実際のオーケストラの演奏が始まった。
観客の驚きとどよめき、指揮者の秋山 和慶氏や演奏者にスポットライトがあたっていく。
そして短いエンディングがとても長く感じて、映写と演奏が終了。
物音しない静けさに会場は包まれ、ぱらぱらという拍手がし始める、それが突然大砲でも撃ったかのような大音響になる。
手塚先生は私の両手を取り喜びを体いっぱいに表わした。大成功であった、手塚先生の目にも、とどめなく涙があふれていた。
「展覧会の絵」の35ミリのフィルムはやはり開演ぎりぎり、東洋現像所へ取りに行った進行さんによって都市センターホールに運ばれた。
この日、手塚治虫先生はひとつの試みをしようとしていました。音響の田代さんが先生と何回も社長室で打ち合わせをしていました。
「それはとても無理です、素人の人にそんなことはできっこありません」
などと言う、田代さんの声が聞こえていました。
それでも田代さんは、純真な先生の目を見ながら、その大冒険の話しを聞かされると、最後にはうなずいて「やってみましょう」と言うしかなかったのでした。
その日手塚先生はホールの後ろに立っていました、隣で先生を見守っていました。
田代さんは開演の数時間前から、音響の連中や照明さんとめまぐるしく打ち合わせをしていました。
時間になって、都市センターホールには虫プロ友の会を中心とした観客が入り始めた。これから行われようとすることに対して莫大な費用がかかるが、観客動員数に対して換算すると、とても採算の合うという数字にははるかに遠い数字であるが、お客を喜ばせたり、驚かせたりすることに喜びを感じて、いつも金銭には換算しない手塚先生であった。
開演時間が来て、「展覧会の絵」が上映された、思った通りに観客に受けていた、映写が無事続いて、クライマックス。凱旋門の肖像たちが門を支えに戻り、安心した母子の像に涙、観客みなが感激していると、画面が実写にオーバーラップして、シンバルをたたくと同時に実際のオーケストラの演奏が始まった。
観客の驚きとどよめき、指揮者の秋山 和慶氏や演奏者にスポットライトがあたっていく。
そして短いエンディングがとても長く感じて、映写と演奏が終了。
物音しない静けさに会場は包まれ、ぱらぱらという拍手がし始める、それが突然大砲でも撃ったかのような大音響になる。
手塚先生は私の両手を取り喜びを体いっぱいに表わした。大成功であった、手塚先生の目にも、とどめなく涙があふれていた。