真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

展覧会の絵 虫プロフェスティバル

2006年09月30日 17時32分25秒 | 虫プロ展覧会の絵
11月11日 都市センターホールで「虫プロダクション・フェスティバル」が行われました。 
「展覧会の絵」の35ミリのフィルムはやはり開演ぎりぎり、東洋現像所へ取りに行った進行さんによって都市センターホールに運ばれた。

この日、手塚治虫先生はひとつの試みをしようとしていました。音響の田代さんが先生と何回も社長室で打ち合わせをしていました。
「それはとても無理です、素人の人にそんなことはできっこありません」
などと言う、田代さんの声が聞こえていました。
 それでも田代さんは、純真な先生の目を見ながら、その大冒険の話しを聞かされると、最後にはうなずいて「やってみましょう」と言うしかなかったのでした。

 その日手塚先生はホールの後ろに立っていました、隣で先生を見守っていました。
田代さんは開演の数時間前から、音響の連中や照明さんとめまぐるしく打ち合わせをしていました。

時間になって、都市センターホールには虫プロ友の会を中心とした観客が入り始めた。これから行われようとすることに対して莫大な費用がかかるが、観客動員数に対して換算すると、とても採算の合うという数字にははるかに遠い数字であるが、お客を喜ばせたり、驚かせたりすることに喜びを感じて、いつも金銭には換算しない手塚先生であった。

開演時間が来て、「展覧会の絵」が上映された、思った通りに観客に受けていた、映写が無事続いて、クライマックス。凱旋門の肖像たちが門を支えに戻り、安心した母子の像に涙、観客みなが感激していると、画面が実写にオーバーラップして、シンバルをたたくと同時に実際のオーケストラの演奏が始まった。
観客の驚きとどよめき、指揮者の秋山 和慶氏や演奏者にスポットライトがあたっていく。
そして短いエンディングがとても長く感じて、映写と演奏が終了。

 物音しない静けさに会場は包まれ、ぱらぱらという拍手がし始める、それが突然大砲でも撃ったかのような大音響になる。
手塚先生は私の両手を取り喜びを体いっぱいに表わした。大成功であった、手塚先生の目にも、とどめなく涙があふれていた。
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展覧会の絵 アニメーションフェスティバルへ

2006年09月29日 17時14分40秒 | 虫プロ展覧会の絵
エンディングの実写の撮影は、ムンムンする暑いさなか、杉山卓さんが立会い、東京交響楽団に冬の正装で、舞台に上がって演奏してもらって、撮影をした。
手塚先生とスタッフはラッシュ試写でその演奏場面を見たが、暑苦しい演奏はとても作品に使える代物ではありませんでした。 そこで今度は、秋風が吹く頃また全部を取り直しました。
これはほんの一例で、予算はどんどん食っていったのです。
手塚先生は、アニメーション・フェスティバル’66 の 「かいせつ」文に「いろいろな方面のかたがたにいろんなふかいご援助を頂いたが、そのご好意が無になったのではないか、と本番を見ながら首をすくめている。映画の結末については、おそらく反撥する方が多いと思うが、ぼくの好みとしてこうしたまでである。」と 書いております。

「展覧会の絵」は10月21日から11月4日まで東京草月ホールで始まる「アニメーション・フェスティバル」に間に合わせるために突貫作業となる。手塚先生の息子さんの手塚 真さんが通う南光幼稚園の園児に絵を描いてもらいキャラクターの参考にしたり。作画の女性をモデルにしてデッサンをし、過熱しすぎて、その女性を泣かせてしまったり。夜間戸外へ大きく描いた絵を立てて、 10メートル以上レールをひいて、トロッコでその絵をトラックバックで撮影したり、その撮影が1日がかりで撮影しても終わらなかったので、どこにしまおうかと苦労したり。などなど...。 それでも何とか、当日東洋現像所から上がった35mmのフィルム缶を「アニメーション・フェスティバル」会場に上映時間ぎりぎりに届けたりしました。会場ではまたまた、久里洋二さんに冷やかされたりしてしまいました。それでもアニメーション・フェスティバル」は楽しかったのですが。その日から、すぐに、11月11日 都市センターホールで行われる、「虫プロダクション・フェスティバル」に向け徹夜の修復作業とリテークが続いたのでありました。
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展覧会の絵 オーケストラが先でした

2006年09月28日 16時53分14秒 | 虫プロ展覧会の絵
まず、音楽が先に必要であった。そこで、手塚先生は、虫プロで一番音楽センスのある、音響の田代 敦巳さんに音響監督をまかせられた。
手塚先生の妹さんが嫁いだ旦那さんが東京交響楽団の方であったので、そのつてで、東京交響楽団の指揮者 秋山 和慶氏にオーケストラの演奏をお願いすることができた。
 田代さんは、手塚先生とイメージを暇を見ては打ち合わせをして、(こんな時田代さんは何時間でも辛抱強く手塚先生の手があくのをお待ちになっていた、そして先生の意を汲みいつも先生のイメージより良いものに仕上てきて、先生の絶大な信用を得ていました)
オーケストラの演奏を録音したものを先に、家庭用のテープレコーダーにダビングして、楽譜から、タイムシートに、タイミングを書き写し、タイミングシートを演出家や作画に渡しテープを聞かせました。 作画はそのタイミングシートにあわせて作画すれば、動きのタイミングが合うのでした。
田代 敦巳さんは、その作業は、大変な作業であるにも関わらず、ほとんど一人でなされたのには驚きました。そばで見ていて、そのタイミングシートに変える技術?を盗ませていただき、のちの「やさしいライオン」の時には、それを、役立たせることができました。

「展覧会の絵」は大きく分けると三つのヴァージョンがあります。

芸術際や劇場公開した、最初の作品。これはエンディングの部分が実写のオーケストラ演奏になっております。

二つ目は エンディングの部分をアニメに変えたもの。

三つ目が 富田さんが編曲したものです。

ビデオは パイオニアから発売されているもので「手塚治虫アニメワールド・ベストセレクション2)です
 何か特典が入っていて、三つのバージョンの解説でもあると勝手に解釈して、わざわざ注文して購入しましたが、見事期待を裏切られました。  富田さんのもので,何の解説もありませんでした。値段も3500円と買ってみると高いものでした。(ある街角の物語も買ったので)

最近杉並アニメーションミュージアム
http://www.sam.or.jp/index.php
へ行きましたが、そこの 視聴覚室ではライブラリーの映像を見ることが出来ました。
そこで見せていただいた 手塚治虫実験作品のDVDは内容的にも値段的にも良いと思いました。「展覧会の絵」のエンディングの実写版も入っていました。

収録作品は(本編157分)
01. ある街角の物語 (1962年/38分)
02. おす (1962年/3分)
03. めもりい (1964年/6分)
04. 人魚 (1964年/8分)
05. しずく (1965年/4分)
06. 展覧会の絵 (1966年/39分)
07. 創世記 (1968年/4分)
08. ジャンピング (1984年/6分)
09. おんぼろフィルム (1985年/6分)
10. プッシュ (1987年/4分)
11. 村正 (1987年/9分)
12. 森の伝説 (1987年/30分)
13. 自画像 (1988年/13秒)
()内は(制作年/収録時間)
となっておりました。値段的にも内容もこちらのほうが良かったですよね(¥6000以内で買えます)
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展覧会の絵 イラストレータ大塚清六氏

2006年09月27日 16時30分33秒 | 虫プロ展覧会の絵
 朝早めに出勤していた、須崎さんも早く来ていて、部屋のカーテンを開けるのが日課になっていた。その日いつも遅刻ギリギリの宮下さんが、速く来ていた。そんな宮下さんを見て2人は「今日は雨が降るね」などと、影口を叩いていた。すると、本当に雨が降ってきて、おもわず二人は顔お見合わせ、笑ってしまった。そんな日であった。 2階から週刊誌を持って手塚先生が降りてきた、開いてあるページを見せて「電話してありますので、この方に会って来て下さい」と言うのである。 その週刊誌の小説にイラストを描いていたのが、大塚清六さんで、手塚先生の目にとまったのであった。「電話で住所も聞いてあります」とメモを渡された、そのイラストの絵を見ながら、ここの描き方がとか、この線がなどと解説する手塚先生は、少年が、大発見をしたときのように、目をきらきら光らせていました。
 さっそく、住所を頼りに大塚清六さんの家へ行きました、13間道路(新目白通り)を下落合駅の踏切を渡って早稲田通りへ、13間道路を使ったのは、この頃まだ都電が走っていて早稲田通りは使いたくなかったからで、小滝橋には都電の車庫もあったころです。

その早稲田通りを中野へと戻る感じで右折、すぐ左の郵便局の道を入っていくと、住所の場所に着いたが、高いコンクリートの塀があるだけ、周りを回ってみたが、家があるのかどうかわからない。もう一度、一回りしても、門らしき物も、入り口すらも見当たらない。 困り果てて、電話をかけようと公衆電話を探したが、近くに見つからず、1度戻って大通りから電話をする。「その塀の所へ来てください」とのことで塀のところまで行くと、塀の外で大塚さんが、待っていてくださった。なんと塀と入り口が見分けがつかないようになっていて、塀の一部が入り口になっていたのでありました。

 応接間に通されると、その客室は和室の佇まいがあって、障子の向こうには和風な庭園が見えました、明かりが取り入れられるよう、大きな窓があり、庭には、竹が植えてあり、高い塀に囲まれているせいなのか、とても静かで何処か温泉宿へ来ているような、錯覚に陥ったほどでした。

 「大まかなことは手塚先生からの電話でお話してあると思いますが、週刊誌のイラストを見て、先生がとても気に入りまして、いま制作をはじめた、ムソルグスキーの「展覧会の絵」の戦場の場面に、大塚清六さんのイラストを使いたいと先生が是非にと申しておりまして。」
と依頼の趣旨をお話ししました。大塚清六さんは漫画映画にと言うことに大変興味を持たれようで、すぐに、承諾を得ることができ、社に戻って先生に「承諾を得られました」と注げました。

大塚さんは、第5スタジオに何度も足を運ばれ、手塚先生や若い作画家たちと、最後まで、参加していただきましたが、お金については、何も契約しなかったので、雑誌のイラストを描いていたほうが生活には、良かったはずだったのではと思っておりました。しかしこの頃の、もの作りの方は、「損得勘定なんてものは、まったく無かった、」よき時代であったのですね。
大塚さんは最後の打ち上げにもおいでくださり、「展覧会の絵」でたくさんの賞をもらえたことを、たいへんお喜びになって下さっていました。
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展覧会の絵 2

2006年09月26日 15時52分58秒 | 虫プロ展覧会の絵
スタッフの改編により社長室にも変化があった。
島方部長を社長室長として迎え、その下に秘書の宮下さん、長年、運転手兼秘書の須崎さん、現場のわかる人ということで、富岡 厚司さんの後任としてW3進行の下崎さん、募集で新たに入社した事務の大島さんで母屋の漫画部があった部屋に作られた。
この部屋は漫画部と使用していたが、漫画部は、中村橋駅北側線路沿い池袋方面へ、道路が突き当たりとなる、2階建ての2階に引っ越していた。

この頃手塚先生は眼鏡を作り直していた。そのめがねの度があわないせいなのか、はたまた、仕事がはかどらないせいか、いらだつことが多かった。手塚先生が原稿を描き解きは、顔を原稿に極端に近づけて描いていた。手塚先生が仕事するのは食堂側の壁際にあるピアノのそばの机か、疲れると、螺旋階段を上がった1階から丸見えの2階のへや部屋であった。社長室はいつもピーん、と張り詰めた空気が漂っていた、
 電話恐怖症であったがその時には、電話のなる音にも気を使い、電話がなる前に、受話器をとるようになった、(ふしぎに思うかもしれないが、静かな部屋だと、ベルがなる前に、リレーが入る音が、かすかに聞こえ、そのカチャというかすかな音で、受話器をとるので、音の鳴る前に出ることが出来、初めは手塚先生を驚かしました)

その眼鏡を島方室長の計らいで、再度作り直している頃だった。


前夜お話のあったムソルグスキーの「展覧会の絵」のオーケストラを注文したので、新宿伊勢丹近くのレコード店へ買ってくるように言い使った、この日は眼鏡をしきりに気にしていて、いまの仕事も遅れていて、機嫌が良いとはいえなかった。
新宿までは、フジテレビへ行く時の裏道を使って、あまり時間をかけないで買って来ることができた。手塚先生はレコードを受け取ると、すぐに螺旋階段を上って2階へ行き、レコードをかけた、すると、そのレコードは、ピアノ曲であった、「オーケストラのほうを買ってきてと言ったのに、と不機嫌そうに言うか言われないうちに、レコードを受け取り部屋を飛び出し交換に走った。
レコード店でにつくと、ムソルグスキーの「展覧会の絵」と言われたので間違っていない、一度針を通したので交換は出来ないという、それは、この頃常識となっていた。しかし負けずに、オーケストラのほうと言ったでしょう、と言い返したが、言った言わないで、小一時間も押し問答する始末であった、「ムソルグスキーの「展覧会の絵」というとピアノ曲のことで、オーケストラが欲しいのならラベル編曲と言うべきだった」と言うことまで勉強させられた。手塚先生はオーケストラのものと言っているのでこちらも引き下がれない、そこでしかたなく事情を説明して、「手塚治虫が今度アニメに使うためで、先生はピアノ曲のほうはお持ちなのだ、オーケストラが必要なのでわざわざ買い求めたのです」と説明した、しかしこんどは、手塚先生が注文したと言うことを、信用してもらえない、 「信じないなら電話を貸してください」と、最後の手段で手塚先生に電話をかけ、事情を説明、まったく信用していなかった店員も、初めは疑っていたが、やっと信じて「本来なら交換は出来ないのですよ」といいながら交換してくれたと。眼鏡の件で機嫌が悪かったので、仕事中に迷惑な電話をかけて怒られると覚悟して社に戻ったが、手塚先生はニコニコして「ご苦労さん」とねぎらってくれた。
 その夜そのレコードは壁に埋め込まれた大きなスピーカーから流れたことは言うまでも無かった。
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展覧会の絵

2006年09月25日 15時19分39秒 | 虫プロ展覧会の絵
「展覧会の絵」
手塚治虫先生は、「デズニー映画の「ファンタジア」のようなクラッシック音楽をアニメにしたい」と夢を語っていた。
そして「ぼくはねぇ、つねづね映画化したいと考えているクラッシック音楽が三つあるんですよ、それは一つはチャイコフスキーの「白鳥の湖」でして つぎには、団伊玖磨先生の 「夕鶴」 それとこのムソルグスキーの「展覧会の絵」なんですよ」と雑誌の締め切りが終わった、ある晩のこと、貧乏ゆすりをしながら、楽しそうに手塚先生は私に語った。 そのレコードを聞かせてくれたが、ピアノ曲のその曲は、まだ聞いたことがなかった。「オーケストラに編曲されているので、あしたにでも、レコードを、買ってきてください」昭和41年初秋の頃であった。
 
「展覧会の絵」はさかのぼる事、昭和40年5月に手塚先生は、「虫プロ自主作品」として、企画書を「虫プロ役員会」に提出していた。制作費は1000万円、制作日数6ヶ月、スタッフ延120名というものであった。
この企画は子供向けテレビアニメの制作で手一杯で、「こんな無謀極まりないプランは、虫プロの現状を考えると机上の楼閣だ」と当然不採用になり、この企画書は手塚先生の引き出しの中で色あせていたのでありました。
昭和41年5月末W3の終了により、スタッフの編成替えが行われた。するとスタッフに余裕が出来たので手塚先生は無理やり、何人かのメンバーを引っこ抜いた。第5スタジオにはまだ空き部屋があった。ラッキー! といったかどうか知らないが、そこに「展覧会の絵」の準備室を設けてしまった。
スタッフが決まると手塚治虫先生のアイディアはどんどん膨らんでいくのでした。
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悟空の大冒険

2006年09月21日 14時25分36秒 | 虫プロ悟空の大冒険
第5スタジオでは「ぼくの孫悟空」のパイロットフィルムの制作が始まっていた。チーフディレクターに杉井 儀三郎、制作担当が、手塚先生の連絡役をしていた、富岡 厚司さん、演出には出崎 統さん、作画は山本 繁さん、や吉川 惣司さんと、近くのスタジオアートフレッシュが全面的に協力していた。
5月には完成 次の虫プロの放送予定として題名が「孫悟空がはじまるよー 黄風大王の巻」として6月12日の 虫プロ友の会の映画大会で上映し、アンケートをとった。
 その後も東京都内の小学校で試写会を開き、やはりアンケートをとった。その結果は「キャラクターがおとなし過ぎて優等生だ」と言う意見が多いと、手塚先生に報告された。
しかし、子供がそんな難しい意見を筈があるであろうか、疑問が残る。「手塚が口出しするとスケジュールが遅れてしまう」これはもう、うえの者といわれる人たちの恐怖にさえなっていた。だから、「手塚治虫先生の口出しを封印する、」複線であったのだ、(言い切っていいのであろうか?)手塚先生は気づかなかった。

 そして、放送に向けては、手塚先生のキャラクターではない2頭身の悟空のキャラでタイトルも「悟空の大冒険」と替えて、プロデューサー 川端 栄一さんで準備が始まっていった。
 このキャラクターを見た私たちは、ずいぶんと、東映動画的なキャラクターだなぁと思った。
それは、アニメーターにとって、手塚治虫先生の丸みを帯びた、キャラクターより、数段、角ばったキャラクターのほうが、作画にとって、やりやすいからであり。東映動画もそうであったが。あの、ディズニープロでさえ、角ばったキャラクターになってしまった。
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第5スタジオと外注さんの思い出

2006年09月18日 14時08分32秒 | 虫プロ
第5スタジオというのは、今までのスタジオと違い、少し離れた、西武線の踏切を渡った、離れたところにあった、「悟空の大冒険」が作られたスタジオであった。
先生の長男、まこちゃん が通う、南光幼稚園の方であった。
 ここはもと、幼稚園で、広めの庭もあった。
 虫プロの西に、外注の波多正美さんの作画プロが、その幼稚園の、東側の教室に移ったのが最初 かと思っていた、しかし、手塚プロ作画のきばボーさんは、高校生の時代(昭和40年はじめ)作画を教わりに5スタへ来ていたと語っており、既に5スタは使用されていたということが最近になって確認された。

 外注さんには依頼する仕事は進行が運ぶのであるが、 その第5スタジオの近くには、アートフレッシュが一戸建ての家を借りてスタジオにしていた。
(株式会社アートフレッシュ、1967年、杉井ギサブローさんが設立した。スタッフに、杉井儀三郎さん出哲さん、弟の出崎統さん、(別名「崎枕」「さきまくら」「斉九洋」「松戸完」「矢吹徹」など。)奥田誠治さん、吉川惣司さんなど)のちには、ジャガードもそこに入った。
(1966年に作画スタジオ「ジャガード」荒木 伸吾や斎藤博ら仲間数人で発足後にアートフレッシュの部屋へ入った)
そのほか、作画の外注さんは、虫プロから独立した人や、東映動画から独立した人が、多かった。
 高木 厚さんのスタジオもその一つで、中村橋駅東の踏み切りを渡り通りの商店街を抜け、13間道路を突っ切り、旧街道を渡り、坂を下ると突き当たった、田んぼの向こう岸に埋立地の2階建ての家がみえた。信じられますか?昭和41年練馬区中村橋には、まだ田んぼか存在していたのですよ、今では、思い浮かべる事さえ、不可能でしょう。
 冬場は、その「あっちゃんのスタジオ」へ向かう田んぼ道が、ぬかってしまい、車がスリップして、入っていけないため、歩いて、スタジオまで行った。 所々に、炭俵が敷いてあったが、ぴょンぴょんと、飛び跳ねながら伝っていっても、革靴は、泥だらけになってしまい、そんな靴で車を運転するものだから、車のアクセルペタルにドロがこびりついて、ペタルは泥に埋まって、ガソリンスタンドで洗いながらそのドロを落とすのに苦労しました。

 炭俵は、雑貨屋さんが炭を売っていて、炭は炭俵に入っていたが、一表買う人はいないので、俵をばらしていた、その炭俵は、ただでもらえていたと思う。ただといえば、昔は、机代わりにしたりした、りんご箱も みかん箱も、八百屋さんで、ただでもらえたよね。 そして今買うと高いらしいが、服など保存するのに良い、茶箱 も順番待ちはしたが、昔はただだったような気がしてる。

 また話がずれたが、他にも高円寺には、岡迫さんらの ベフプロがあった。

仕上の外注さんもたくさんあった。
トレスも出来る 木のプロさん、は大泉にあり、今も活躍している。久米川には住宅の奥さんが集まって、「鉄道弘済会」ならぬ「鉄道紅彩会」ともじった彩色の外注さんもあったし、小金井団地には団地の奥さんが中心となって、「きららプロ」なる彩色の外注さんもあった。いずれにしろ、依頼や、集めに行くのは進行さんの役目で、把握している外注さんの数でよい進行さんなどと言われた。
良い進行といわれるために、外注を待たせないよう、セルの準備や穴あけ、絵の具の準備と、たくさん準備しておく仕事があり、また金額の交渉、出金伝票おこし、など、雑務も多く人が寝た後からの仕事がおおかった。
 それでもすべてのパートを把握し、進めていく自分が倒れたら変われるものがいないのだという責任ある仕事に、成し遂げたあとの快感は、苦しみぬいて完走したあとのマラソンのように、充実していた。
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ジャングル大帝 挿入歌

2006年09月17日 17時37分04秒 | 虫プロジャングル大帝
ジャングル大帝 では、挿入歌が ジャングル大帝を見る楽しみの一つであった、 山本 暎一さんが数々の曲の作詞をなされていた。
お馴染の梓みちよさんが歌った 「星になったママ 」 コミカルで楽しい 川久保 潔さんと熊倉一雄さんとで歌っている、 「ディックとボウ」そのほか、 
「ジャングル工事 」 は フランク赤木 さん
「三匹の死神 」 世良明芳 さん
「ぼくに力をお父さん 」うたうのは 太田淑子 さん
動物学校では「アイウエオ・マンボ」
「たまごの赤ちゃん 」弘田三枝子とコロムビア合唱団
「ふくろうの子守歌 」デューク・エイセス
「ブラック フォア(4ひきの黒ひょう) 」デューク・エイセス
「フンワカマーチ 」中山千夏
「サル忍者 」熊倉一雄とコロムビア合唱団
などなど、10曲もの作詞をなさっているのであります。

のちにジャングル大帝の、LPレコードもコロンビアから発売された。
 社員からは、「たくさん作詞した、暎一さんは、版権料がたくさん入って良いな」 そして「チャンスがあったら作詞して、版権料を私ももらおう」なんて声が上がっていました。

しかし山本 暎一さんには一銭も支払われていないことを知っている者は、当時も今も、ほとんどいませんでした。

コロンビアレコードが、LPレコードを出すに当たって、暎一さんとの契約がなされましたが、支払い先は、虫プロダクションになっていたのです。
手塚先生の原作料や版権が、虫プロに入る。だから当然暎一さんも、虫プロに入れる。という、をけのわからない論理であった、 現在では、とても信じられないことであり、作家の作品を無視する暴挙であったといえるのではあいだろうか。
 当然手塚先生が、そのことを知っていれば、役員を怒鳴りつけたであろうが、そんなことがなされた事を、忙しい手塚先生が知る由もなかったのだ。
そして倒産するまで、あらためて山本さんに支払われた、と言う事実は存在していないのである。
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ワンダースリー 最終回

2006年09月15日 17時02分24秒 | 虫プロW3
昭和41年1月2日日曜日午後7時からTBSで『ウルトラQ』が放送された
『W3』はそれまで視聴率20%以上をとっていたが『ウルトラQ』の放送で10%台まで落ちてしまった。 息子、「手塚 眞も「ウルトラQを」」の逸話が残っているが、家族とテレビを見ながら食事していた師が、気になる『ウルトラQ』を、まこちゃんと見た と言うのが本当なのではないか。あくまで師は作家である。

その日が来た W3の最終回のアフレコが行われそれにたちあった。
カット
544 円盤上昇し遠ざかる    (F・O)
545 (F・I) 山端から登太陽
546 花々しずくがキラリ
567 花 キラリ
568 倒れている少女(ボッコ)にしずくがポトリ
549 少女 眼を開ける、
560 起き上がる少女     少女「どうしたのかした 私」
561 少女の胸にペンダント  少女「私、どこからきたのかしら 」
562 ふたの開いたペンダント 少女「真一さん........。」
553 立ち上がる少女
554 歩いていく少女
555 歩く少女
556 歩く少女の足
557 少女
558 山々
559 丘の上の少女
    彼女の行く手には1本のみちが・・・・・・・・。
     end
映写機の音だけが響き、フイルムの終わりがリールに巻き取られて、パタパタという音が響く。映写機のスイッチが止められ、シーンとする 。誰かが拍手をすると、次々拍手が起こり、隣同士が手を握り合っている。

せりふ台本を差し出すと、その裏に愛川 欽也がサインする。すると、そのうえに、光一 金内 吉男、 プッコ 近石 真介、ノッコ小島 康男、ボッコ 白石冬美、 真一君よ! さわだかずこ、最後に石井 敏郎 さんがサインをしてくれた。いまでも宝物。
 少しのお菓子と、ジュースで慰労、これでこのスタッフでは会う事がなくなる、そんな感傷が胸を刺した。

 この最終回の放送は少し待たなければならなかった。名残を惜しむためか、または放送枠の関係でか
6月 6日(月)は 「ワンダースリー」の再放送 で「死の自動車レース」 6月13日 は 「謎の発明家」 6月20日 「フェニックス物語」 と再放送をして。
6月27日 この 52話「さよならW3 」最終回が放送されたのでした。
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ワンダースリー メモリー

2006年09月14日 16時13分45秒 | 虫プロW3
昭和41年スケジュールの苦しい中続けてきた師の講習会であったが、年をあけると、スケジュール調整がどうにもならないところまで来ていて、中止となり、そのまま再開されることは、2度と無かった。
貫徹続きで、地獄のような、W3班であったが、なれてくると、忙しい中にも、自分の時間が取れるようになった。 その思いでは苦しい中の楽しさだったので、良い思い出となり、この年になっても鮮明に残っている。
 貫徹でふと気がつくと夜が明けていた、誰かが「行こうか」というのがあいずで、進行が運転する車で近くの石神井公園に行った。日の出前の湖面には、霞がかかり、岸辺の柳の翠(みどり)が眼に優しい。三宝寺池まで足を伸ばすと、そこはまったく違う歴史の世界、今にも伝説のお姫様が湖面から現れるような錯覚に陥る。 何日も寝ていないためか、そんな幻想を見たような気がする。

 そして働く意欲が湧き出た。
虫プロには、火曜会という組合があった。労働組合というより、親睦会といったものであった。会費は、300円で入会は自由であった。冬季にはスケート大会やスキー旅行。夏季は海の家を一月借り、予約して宿泊することができた。
火曜会でスキー旅行が1月にあるため昭和39年12月22日に開設されていた狭山スキー場のスキースクール、初級へ軍曹と通った。7時から9時までなので、仕事の時間を空けて、1週間通っていた、翌年のスキー旅行の前にも初級へ通っていたところを見ると、旨くはならなかったのだろう。 スキー旅行は、志賀高原の丸池であった。たくさんの思い出ができた。
 スケート大会は、池袋のマンモスプールが、冬季はスケート場になっていて、夜間貸切でスケートを楽しんだ。
そのころ池袋駅前には、都電や、トロリーバスが走っており、駅前には靴磨きの人たちがまだ大勢いた。虫プロまでの道は泥道もあり、ドロだらけになった革靴を、よく磨いてもらった。 ボーリングが流行り始めると、火曜会主催のボーリング大会も開かれた。

 西部劇(ララミー牧場や、ロウハイド)やアクション(007ーこの映画が公開されたとき身分証明でも車の車検証でも007が入っていると映画代が半額になった)ものが流行り、モデルガンも流行っていて、2スタの駐車場で、子供のように撃ちあいごっこをしていた。多くの男性社員がアメ横まで買いに行き、モデルガン持っていた。 このころ、テンガロンハットを買ってかぶっていた、軍曹がまねをすると、アメ横へ買いに行った。次の日彼がかぶっていたのは、ドイツ軍の鉄カブト、コンバットが流行っていた頃、オヌシが軍曹というあだ名をつけた。今でも呼ばれている。
 同じ趣味の人が集まって、スポーツ関係(野球、ピンポン、バレーボール、バーベルなどを使った運動などや、エレキバンドなどが作られ、月賦でキーボードを買ってバンドへ入れてもらった。 手塚先生のお父さんの北風さんの部屋で、モデルさんを呼んで、デッサンの勉強会をしていた。 カンちゃんが入っていた写真クラブはお父さんの部屋で現像室を使って、写真の現像をした。
先生のお母さんに呼ばれて、お母さんのグランドピアノの伴奏で、うたを歌ったりもした。

APの黒川さんとトレスチーフの進藤さんが、テレビ結婚式を挙げた。スキーが上手なお二人のなりそめを、有志による結婚させる委員会が16mm撮影機で2人をスキー場などロケをして、一スタ3階で上映会をした。そのフィルムは二人が出演した「テレビ結婚式」でも使われた。そして全スタッフの祝福を受けた。

 1年経つとワンダースリー班がなくなると言うことに気がつき始め、学生時代の卒業前の寂しさが胸を締め付け始める春の終わりの頃であった。
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第5回草月アニメーションフェスティバル

2006年09月13日 13時25分50秒 | 虫プロ
10月に第5回草月アニメーションフェスティバルが開かれた。ここに師が作られた、「しずく」が出品されている。
 師が制作費を出すと言うことで、参加したのは月岡 貞夫さん、1人だけで「タバコと灰」と言う作品を出品した。この時制作協力した、渡辺 忠美さん(口の悪い人たちは、ハゲなべさんと呼んでいた)は後に「リボンの騎士」のプロデューサーと,なられたが,この頃虫プロでは、誰なのか知られていなかった、謎の人であった。師も出品したので、スタッフも見に行ったが、ロビーにいた九里 洋二先生は
(当時11PM と言う、番組の中で、麹町のむじなが作った短編漫画と言う紹介で毎回上映され手板)
虫プロ社員を見つけては「大会社は良いよなぁ、金があるから良い作品が出来るもんなぁ」など、話しかけていた。
 むきになって反論したりしたが、今思い返せば、九里先生も若い人が好きだったんだなぁと理解できるようになった。
ロビーで九里先生といろんなことを、話し合ったが、とても楽しかった。
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新宝島

2006年09月12日 16時23分55秒 | 虫プロ
昭和40年は2クール(26本)の1時間番組「虫プロランド」の企画で制作された「新宝島」が正月の3日6時半から7時半までフジテレビで放送された、
『新宝島』はもともと、全26話のテレビアニメシリーズ『虫プロランド』の第1話になる予定でした。
『虫プロランド』は、手塚治虫のさまざまな原作マンガを、毎回1時間枠で1作ずつアニメ化していこうという企画でありました。
ほかに『リボンの騎士』『0マン』『魔神ガロン』『漫画天文学』『オズマ隊長』などが挙がっていました。
昭和38年8月、虫プロとフジテレビとの間で仮契約が交わされ、年末より『新宝島』の制作がスタート。フィルムは昭和39年6月に完成しましたが、昭和39年4月、制作体制上の行きづまりなどから、第2話以降の制作中断が決定してしまい、本作はお蔵入り状態になりました、昭和40年正月の単発番組として放映されたのでありました。
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W3 ちょうちょ

2006年09月11日 16時18分23秒 | 虫プロW3
 W3班は制作進行さんが貫徹続きで、見ていられないと、人員の増加がされた。
プロデューサー は池内 辰夫さんであったが、実質的に現場を動かし、指揮していた、アシスタントプロデューサーの黒川 慶二郎を中心にして今までの進行の古参 小柳 朔郎、下崎 闊、神田 武之、吉村 昌輝、 中島 浩、 に新たに丸山 正雄、金沢 秀一、山田 和夫、本橋 誠、斉藤 一郎、秋沢 宏、牧元 悟、吉田 孝雄が、次々と、入社してきた。
そこで運転免許を持っていない神田 武之は演出助手、小柳 朔郎、下崎 闊は持ち前の器用さから演出助手を兼任した。

 そのご吉村 昌輝は寝る間も惜しんで作画の勉強をし、社内試験に合格して、当初の夢、作画班に移った。彼は一度作画で入社試験を受けていた、諦めきれずに、運転免許を持っていたので制作進行として、試験を受けなおし、虫プロに入ってきていた。初心を忘れず、貫徹続きのなか、寝る間を惜しんで、作画の勉強を続けていたのであった。

丸山 正雄、は自転車すら乗れなかったので演出助手出あったがすぐに頭角を現し持ち前の器用さから、文芸を兼ねた。
山田 和夫、金沢 秀一 が演出助手
本橋 誠、斉藤 一郎、秋沢 宏、牧元 悟、吉田 孝雄は進行にきまった。

一人前になるまでには時間がかかったので最後まで楽にはならなかった、それでもみな覚えは早かった。

ワンダースリー班にも、いくつかの語り草(エピソード)が残っている。何せ仕事場は戦場であった、娯楽など、ほとんど無い、制作進行はスタッフの精神的なケアーもしなければと考えていた、まじめに仕事ばかりでは、精神的にまいってしまうからで、笑いが必要であった。
ギターが弾けるものは、休憩時間にギターを弾いて、みんなでうたを歌った(このころ歌声喫茶なるものが流行っていた)またお酒が入ると必ず、泣く娘が居た、皆が面白がるので、悲しいマイナーの曲をする。するとすぐに泣き出し、また泣かすといって男お泣きして、皆を笑わす。
 丸山 正雄さんは、入るとすぐに、皆からかわいがられて、まるたんと呼ばれていた、ある日3スタの急な階段に足を滑らせ、顔をすりむいてしまった、 すぐに一スタに手当てをしに行った、とても痛い思いをしたが、彼はただでは起きなかった。
おおげさに、顔中赤チンをつけてきて、戻ってくると、おどけた表情でおどりだした、つらい仕事が続いていた時、みんなを、大笑いさせた。 この時のことは、今でも昨日のことのように、よく覚えている、つらくて、くじけそうになっているとき、大笑いさせてくれた、まるチャンのおかげで、雰囲気が、ぱっと,明るくなったのだ。でもそのことで覚えているのではなく あの時のまるたんの目を見たが、けして笑っていなかった、きらりと光るものがありこいつは、只者ではないと直感みたいなものを感じていた。
 彼はのちに、あしたのジョー班で、実質的に現場を取り仕切った、アシスタントプロデューサー、網田靖夫の影となりささえていた、そして、あしたのジョー班でマッドハウスを作った、その人が今のマッドハウスの丸山 正雄その人である。

ほかにもとつぜん、変な声で「あっ!赤いチョウちょがとんでいる~、あっ!青いチョウちょもとんでいる~......。黄色いチョウちょもとんでいる~、あ~ぁ、赤、青、黄色、きれいだな~」と気が、ふれたような声で突然やるのだ! これはうけた。
つねずね、気のふれるようなスケジュールだ!など言っているものだから、とつぜんのこれは、大うけするのであった。 仕事だけこなせば良いではなかった。あの手この手を考え、いろいろなことをやり、張り詰めた空気をなごませた、それがW3の進行であった、このことは苦しい仕事の中、楽しい思い出になったと今でも、語り継がれている。
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W3 先生を囲んで

2006年09月10日 16時49分23秒 | 虫プロW3
ジャングル大帝の第2話が放送された、 
2話の試写会の時、ディックとボウの登場には拍手が起きた 川久保 潔さん 熊倉一雄さんの歌が良く、音楽にあわせて踊ってい動きも、実に楽しくて良かった。話の中でもう1度聞きたいと思ったし、曲も1度聞くと覚えることが出来てしまう良い曲であった。
 しかし途中からアクションシーンに変わり銃撃戦のシーンと、サブキャラが亡くなってしまうシーンは、暗い話となってしまっていたのが残念との意見が多かった。

その後も視聴率は伸びなかった........。

あるとき深夜ワンダースリーに作業に来ていた手塚先生は、集まってきていた、若い人たちにそれとなく意見を聞いた。
 第3スタジオ2階の手塚先生の作業机(動画机)は杉山 卓さんと、中村 和子さんの机の間にあり、いつ見えても作業が出来るようになっていた。
周りには松尾 信吾さん、三輪 孝輝さん大貫 信夫さん、など原画家の机が並び、先生の机を中心に少し広めにスペースを取ってあった。
それは手塚先生が見えたとき、若い動画家や、ほかの、パートの人たちまでが、時間を調整して、集まってくるからでいつの間にか広くなっていたのであった。
手塚先生から、何かを盗もうと(良い意味で)眠い目を輝かせて集まってきた。
手塚先生は、若い人たちと、話をするのが、好きだった。そこから若の者の感性を探り自分の作品に生かすため、などと、穿った見方をするものもいたが、そうではなく、手塚先生は若者の心を持ったままなので、会話をするのが好きだったので、青年のように純粋であった。
話題が「ジャングル」の視聴率になって、屈託の無い意見が出た、すでに無礼講となるのであた。
「話が、大人にはわかるが、子供には、難しい、」
「独り善がりで、場面変わりが早く子供にはわかりづらく、ついていけないのでは」
「作品の質が、例えば、絵や動かし方が下手であっても、お話が面白ければ、子供は見てくれると思うのですよ、子供の空想力って、たとえ動いていないものでも、空想力できれいに動かしていますよね、私が、小さい頃先生のマンガを見ましたが、アトムもレオも、頭の中ではちゃんと動いていました」
など、遠慮の無い意見が出た。
「ウチは貧乏なので、カラーテレビは買えません、学校で、カラーテレビを持っている家の子が、やっぱりカラーテレビは良い、きれいだ、と自慢する、カラーで見られないから、劣等感を感じてしまい、だったら最初から見ないという子が増えた。親もカラーテレビをねだられても買うことは不可能、カラーテレビ、カラーテレビ、と宣伝するものだから、親もカラーの番組は見せないのだ」
などと言う意見まで出た。

「やはり手塚先生がお話を作るのが、子供の心を知っているので一番良いと思う、せめて先生が校閲して意見を言うのが良いのではないでしょうか」
と言う意見になってしまった。
W3のスタッフは、こんな風に手塚先生と話が出来ることが、幸せだと思い、話すうち、ますます手塚先生を好きになってしまっていた。
「いっそうのこと演出家のための講習会を開くことが出来れば良いのに、時間的には不可能でしょうが、実現すれば、私たちも是非参加させていただき、教えを頂きたい」と言う無鉄砲な意見まで出た。
 「講習会を」の要望に手塚先生はしばらくの間悩んでいた。役員に相談しても「講習会なんて、とんでもない」と頭から否定されるのはわかりきっていた。でも手塚先生の心には、長くそのことが気になっていた。
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