真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

ジャングル大帝 9

2006年08月31日 15時38分33秒 | 虫プロジャングル大帝
6月ワンダースリーがフジテレビから放送開始された。
 そんなある日、穴見常務は、完成した「ジャングル大帝」を編成局や関係者相手に、フジテレビで試写会を行った。
見に来た局の人たちは「動物ものったって、どうせ動きの悪い、電気紙芝居だろう」と、対応や、感触は大変よくなかったと穴見さんは感じた、たかをくくっていたのである。
 しかし見終わった後、しばらく沈黙があり、やがて拍手が沸きあがった。みんなが乗り出して見ていたのだ、誰もが感動していた。穴見さんは、握手を求められた、苦労が報われた...。涙があふれ出た 。

「オープニングの迫力は、抜群で、皆、褒めちぎっていた」

 ジャングル大帝のオープニングは1話分の予算を使ってしまった。富田さんが作曲したテーマ曲は、トランペットがファンファーレのごとく、オープニングにふさわしく、ジャングルの夜明けから1日の始まりを歌い上げていた。ボーカリスト平野 忠彦さんのスキャット?がまたいい、のだ、歌詞など要らなかった。ターザンの雄たけびのごとく、ただ、あ~ と歌い上げていた。

動きも良かったも。もと東映動画でも活躍した、勝井 千賀雄さんを中心に、フラミンゴが、飛ぶシーンなどフルアニメで動かした、それは実写と違いアニメならでは、の素晴らしい仕上がりとなっていた。

 森ちゃんが編集者となって発行しているジャングル班のための広報誌「じゃんぼ」にこの喜びを載せ、スタッフ一同に知らせ、喜びを わけち合った。

 山本 暎一さんは事務に居た女性と結婚することになった。式場は目白の「椿山層」披露宴には親族を含めて30人ほどであったのでごく親しい人しか招待されなかった。「スタッフの中には、会員制にしてでも、みんなで祝いたかったのに」と言う人が多かった。
 また招待された人は、暎一さんにとって特別な人として一目置かれることになった。 引き続き箱根へ新婚旅行に行ったが、たった1週間、暎一さんが抜けただけで、鬼の居ぬ間の洗濯か、少し箍(たが)が緩んでしまったのは仕方が無いことなのか。
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日本テレビ動画研究会夏季講習会を開く

2006年08月30日 14時21分52秒 | ドラえもん
今日午前9時から講習会を開いた
きっかけは、ドラえもん会員の九州のSさんから日テレ「ドラえもん」を拝見できないでしょうか、という依頼であった。
ほとんど毎日暇ですから、都合の良い日を知らせてくださいと、返事をした。
8月25日に来週8月30日仕事で上京しますが、午前中あいている、というメールが来ました。
8月26日(土)会場を探しましたが、東久留米市男女平等推進センターで9時から12時までの間、会場を借りられそう、という事がわかった。
市が借り上げている施設なので、正式な返事は休み明け、月曜日になる、ということであった。
Sさんにメールを出し、場所は、東久留米のイトーヨーカドー前の左のマンション1階「東久留米市男女平等推進センター」
出借りられそうです28日正式に借りられたらすぐに、メールをしますと。返事を出し、もしよければ20人入れる会場ですので
ほかの会員の方も呼びかけていいかの問い合わせをして、許可を貰ったので、深夜になってドラえもんの掲示板と真佐美 ジュンの掲示板で参加の呼びかけをしました。
日本 テレビ動画研究会    夏季講習会を開催いたします。
8月30日午前中 9時から 
場所  男女平等推進センター 
予定 9時   準備
10時まで 雑談など
10時から  第9話 「おせじ鏡の巻き」
10時15分 第20話 「ねがい星流れ星の巻き」
10時30分 第24話 「男は力で勝負するの巻き」
10時45分 第42話 「お天気ボ ックスの巻き」
11時から 質疑応答
11時45分  片付け
12時  解散

費用 無料
会場の都合で 先着20名様までとさせていただきます。

28日〔月) 部屋が借りれることとなり、Sさんへ「部屋の確保ができましたのでお知らせいたします。部屋は9時から12時までお借りいたしました。掲示板等で、他の方にも呼びかけましたが、今のところ申し込みはありません。
9時という時間は早いですので、見はじめるのは、10時からということにいたします。あまり、むりをせずにお出で下さい。」とメールを出した
夜になっても申し込みの返事が来ないので、東京の会員の方にメールを出す事にした
平日それも午前中ではありますが、ご都合のよい方がいらっしゃいましたら、ご参加下さい。
日本 テレビ動画研究会
真佐美 ジュン
その結果
29日会員の「野比のび三再び!!」さん、「sa」さん、「宍シックス」さん、「CONY199」さんなどから返事が来ました、親友の「博士」さんも、参加してくれました。
9時前、早いので9時になるのを待って会場へ行き、先に見えていたsaさんに手伝ってもらい、準備を始める、続いてお見えの、Cony199さん、つくばから駆けつけた友人の博士を交え、、ラッシュプリントをかけておき、持参のセル画や、もとのキャラクター集を見たりしてもらい雑談をしていた。
10時、九州のSさんが見えたところで、上映会を初め、飛行機の関係で11時までが限度といっていたので、講演をやめそのまま、6本の本編を見ていただく
11時はすぎていましたが、まだ見たいというので、引き続いて音のない、ラッシュプリントを2本見ていただき、走って空港へ向かわれた。
11時半をすぎていたので、雑談をしながら片付け始め、12時になり、解散ということであったが、どうぞロビーを使ってくださいと、受付の人に言われ、しばらくまた雑談をした。
今回、講習会と銘打ったが、講習らしいことは、何もできず、上映会になってしまった。
今後の課題としたいところである。それにやはり、一人でやるということには限度を感じた。お手伝いをしてくれる人がいればと、高校や中学の、ホームページを見てみたが、
漫画クラブはあるのだが、アニメの研究会はまったくなかった。今は母校にもなくなっていた。
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ジャングル大帝 8 箱根旅行

2006年08月29日 15時24分50秒 | 虫プロジャングル大帝
4月第1話が完成した、この頃山本暎一さんは、ジャングル班の実務管理や「アトム」「W3」3班とのプロデューサー会議を、もりちゃんに任せることが出来ていた、
その結果、暎一さんは作品の内容に打ち込むことが出来たといっている。
 そのころのW3はロッテのスポンサーで6月からの放送が決まって毎日貫徹が続いていた。
そんなころであった。暎一さんが森ちゃんに、
「第1話を完成させたので、みんなで旅行にでも行きたいな」といった、それがきっかけとなった。
「それはいいですね」
と賛成はしたが、すぐに、お金の心配をした、制作費の管理を任されていたので、とてもそんな予算は無い事を知っていたからだ。
「自費で行けばいいだろう」
と暎一さんは言う
「ジャングル班の体制はスタッフの将来のためにあるんだ、そう言う自覚を持ってもらうためにも自腹にすべきだ」
との考えを述べた。森APは
「そう言うことなら、意義をガリ版で刷って、全員に、呼びかけてみます」

 その結果有志による旅行実行委員会ができた。
箱根湯元への一泊旅行に決まった。交渉すると宿泊先の送迎バス2台が第二スタジオの駐車場まで迎えに来てもらえることになった。

役員会を通して、役員から寄付をもらえる事にもなった、そして手塚先生からも寄付してもらった。その上虫プロとしても寄付をすることになった。
虫プロにはいろいろな業者が入っていた。例えば、食事のための、レストランや、食堂、それにお菓子屋さん、3時の休憩前に注文を取りに来て、休憩時間に合わせて届けてくれた。
本屋さん、これも注文や、予約を取りに来た、月ぎめの本などは、発売されると届けてくれた、またそのほかであった。ツケがきいたので、ほとんどの人は、月2回の給料日にまとめて払っていた。
虫プロの周りには、虫プロで成り立つお店が増えていた。
 実行委員会はこれらのお店の人たちにも、カンパを頼んだ、(以後悪習として残ってしまった)結果かなりの金額となり、自己負担も少なくて、豪華な旅行が出来たのであった。
新緑を迎えた箱根の山は、仕事を忘れ、大いに盛り上がった。
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ジャングル大帝 7

2006年08月26日 12時26分55秒 | 虫プロジャングル大帝
1月 1話のシナリオは既に出来ていた。山本さんは、「ジャングル大帝」に、まずは、なじんでもらおうと、全スタッフで1話を取り掛かるように指示した。
絵コンテも、山本暎一さんはじめ林重行さん、永島慎二さん、瀬山義文さん、北野英明さん、の5人で合作した。
2月に入って、やっと原画と動画の作業が始まった。枚数制限を1話2800枚と決めたが、動物アニメなので、枚数制限は守られぬことが多かった。作画が始まると、続いて他のパートの作業も始まっっていた 。
3月 撮影出しが始まり20日過ぎにはラッシュ試写も出来た、3月末には編集も終わっていた。
声優は山本暎一さんの希望でパンジャとナレーションを小池 朝雄さん。また音響の田代 敦巳さんの意見でレオに大田 淑子さんを決めた 。
 田代さんが居る音響の部屋は、第二スタジオ一階の奥突き当たり資料室の手前左にあった。部屋は北向き、木造の学校のような窓があり駐車場が見えた。音を作るためのテープやレコードがあり、予定を書く大きな黒板。プロ用の、幅広テープのレコーダーも置いてあった。
田代さんはバンドを組んでいたほど音楽好きで、アトムで進行として入ってきた。
虫プロでも音響をするべきだと進言して、虫プロ音響班を立ち上げた。
音楽は田代さんが今まで関わって、その才能を高く認めていた、富田 勲さんに決まった。
 あるとき田代さんは音響の部屋へ暎一さんを呼んだ、ちょうど富田さんと打ち合わせをしていた時であった。
「1話のクライマックスで、レオがアフリカに向かって海を泳ぐシーンに、歌を付けたいので暎一さん作詞してください」
「作詞家に頼むよりジャングル大帝のことをよく知っている、暎一さんが書くべきです」と言うのであった。
だめなら、それをもとに作詞家に頼んでもよいからと言い、富田さんが、食事に行っているうちに、書いておいてと言われた。作詞は初めての経験、苦しんだが、何とか30分ぐらいで、書いた。
寂しがらないで レオ
ママが一緒よ  レオ
ママはここ 星になったのよ.......。
食事を終え戻ってきた富田さんはそれを見て、「作詞家を頼むことないよ、イメージがわいた、」その詩のまま曲をつけ、レオがアフリカへ向かい泳ぐシーンに使われた。歌ったのは前年「こんにちはあかちゃん」のヒットを飛ばした、梓 みちよさんであった。
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ジャングル大帝 6

2006年08月23日 12時16分50秒 | 虫プロジャングル大帝
 昭和40年 年明け早々の1月4日虫プロではプロデューサー会議が,役員を交え開かれた。

二百三十人を超えた虫プロのスタッフを必要最小限の「鉄腕アトム」班とあらたな「ジャングル大帝」班にスタッフを編成変えするためで 山本暎一さんは115人の「ジャングル大帝」班の人員を優先的に要求した。
これは山本暎一さんにとって外注を使わず社内だけで作っていく上での、予算的にぎりぎりの人員の数であった。
ジャングル大帝班は、新装の第二スタジオを使用することになり、1階を制作進行、文芸演出、編集、音響、資料室、下駄箱、更衣室、に、
2階を、原動画、仕上、美術背景、特殊効果などを置いた。1階は森 柾さんが 2階の中央には、にらみをきかせるようにと、山本 暎一さんの机が置かれた。

山本暎一さんはジャングル大帝の制作体制を説明するために、全スタッフを一スタ3階に集め会議を開くことにした。

誇り高き作家気質の連中に「ジャングル大帝」班の制作方針を伝え 彼らが最も軽蔑する、スケジュールと制作費をまもって、仕事をすることを、納得させる、この説得に失敗したら、誰もついてこないと心配した。

 いいものを 早く 安く 楽しく をスローガンに掲げ、革新的に作っていこうと説明した。

森 柾さんが作った、ガリ版刷りの組織表と作業手続きの要領を配り,説明をした。

そのあと「質問はありませんか」と問うたが、 一同無言であった。
「じゃぁ解散します」
と一言、会議は終わった。


参加した一人は言う。
「難しい言葉ばかりでよく理解できなかった。が、まさか将来 手塚先生を無視して、ジャングル大帝を作るのだとは、思いもよらなかった」と…….。
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ジャングル大帝 5

2006年08月20日 12時04分13秒 | 虫プロジャングル大帝
山本暎一さんは森柾さんや撮影の広川和行さんらと話し合っっていた。
どのようにしたら役員会で言う「制作費の範囲で「ジャングル大帝」を作る」ことが出来るのかということであった。
 制作費の無駄を省くことが一番である。それは“スケジュールを守ること”これが基本姿勢となる。
アトムではシナリオや絵コンテがスケジュールどおり上がらなかった。このことは大勢の作画から撮影編集まで、待ち時間を作ってしまい、遅れの結果徹夜で仕上る このことが費用のかかってしまう理由だった。 なぜスタッフが手空き時間の待ち時間ができてしまうのか?それは、手塚先生の仕事が忙しすぎるためで、漫画原稿の締め切りが優先され、シナリオや絵コンテチェックが、どうしても後回しされるのが原因であることは明白であった。
現場では「先生待ち」状態にされることで、スタッフから不満が出ている。しかし、漫画を描いて、その原稿料で、虫プロの経営が成り立っている現状や、何日も寝ないでがんばっている手塚先生を見ると「苦情」など,とても言えない状態であったのだ。
 
 他のアニメ製作会社は、営利事業として漫画映画作りをしている。売値が安ければそれなりの作品を作る、採算を重視するのである。極端に言えば、出来ばえが悪かろうと、納得できなくても気にしない体質に見える。

 虫プロのスタッフは違っていた、置かれた状態でも、最高のものを作るべきだと思っていた。身を削り寝食を忘れ仕事の没頭し納得できるまで追及していくのであった。

       それが、虫プロの誇りであった。

 それは手塚先生自身が率先して行った結果であった。
作品が完成してからでも、納得出来なければ、納期を遅らせても、徹底的にリテーク(作り直し)を出した。

このことは、余計な出費がかかったが、そのためなら、手塚先生は命を削って書いた漫画の原稿料を惜しげもなく使った。それだからこそ、虫プロのスタッフは、自分の時間を犠牲にし、給料も時間外手当も無視して働くことに誇りを持っていた。

話し合いは続いた。
「手塚先生が漫画部でマンガを描くのは、虫プロ映画部と比べると漫画部の規模は小さい、締め切りを過ぎてまで粘っても手塚先生とアシスタント何人かがつらい思いをすればすむ。人件費のロスの金額もたいしたことがない。
しかし、アニメはたくさんの人が関わっている。ロスの金額も大変な金額になる、同列には扱えない。」

「作品に徹底して自分を賭ける、その姿勢は、作家として常に必要な心がけでしょう、必要条件、十分条件、と分ければ、ものごと必要条件だけではない。アニメーターにとって十分条件は健全な事業性を、両立させること」

「手塚先生のいう 〝虫プロは営利事業ではなく、アニメーターの作家集団であり、会社の形をとって制作活動を、効率的にするため〟 なぁんて言ってみても、赤字が増え、事業体が危うくなれば、作品は作れない、そうなれば、作家もへったくれも無い、事業基盤がしっかりしてこそ作品が作れ、それでこそ、作家であり作家性じゃないんですかねぇ」

「虫プロを事業体としてしっかりさせ、その上で、どこよりも良い物を作る、そうできてはじめて、テレビアニメの開拓者であり、アニメ界の旗手だといえるんだ。」

「虫プロへ入ってくるのは、みんな好きだからですけど、その好きをいいことに、全人格的な、没入と犠牲を強いることで成り立っている。アニメ界の古い体質で作家プロダクションなのです。そんなものは資本の論理の競争の中では弱いです、「鉄腕アトム」を始めた時はしょうがなかったけれど、その後もきつい仕事の連続でみんな疲れ果てている」

「「ジャングル大帝」では、作品内容はもちろん、制作体制の改革を期待する。」

こんな話の内容であったと聞いている。

最後に山本さんは
「そういう意味で、おれたちアニメーターの作家像が、変わらなければいけないところへ来ている」と考えたのであった。

この改革は、手塚先生だけではなく、虫プロ中から批判されるであろうが、それでもやる、と決意した山本暎一さんであった。
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ジャングル大帝 4

2006年08月18日 11時45分42秒 | 虫プロジャングル大帝
 お金の話になると、スタッフの中には顔をしかめる者が多かった。「金を稼ぐために仕事をするのでは無く、よい仕事をする、金は二の次だ」と言う雰囲気を持っていた。金銭管理をする制作に携わる者でさえもそうであった。

虫プロでは「ナンバー7」虫プロランドの「新宝島」などの制作費、制作規模の拡大見込みでの社員の雇用費用、社員の養成所の費用、第一スタジオの拡張、屋根裏部屋の改築、交換室件守衛室や第二スタジオの建設、第3スタジオと第4スタジオの家賃、撮影室の増築や撮影機の購入、社用車の購入(ブルーバード1300を使用40年にはスカイライン1500で増車合計12台)
など設備投資や人件費で、運営が苦しくなっていた。

版権収入は「原作者手塚治虫」と分けるのが本来であったが、資金不足で借金と言うことにして版権収入は全額虫プロへ入っていた。(師への借金を返済した事実は無い)

銀行での借り入れを考えても漫画映画制作は、水物商売と、どの銀行も見て借り入れは出来ないし、担保になるものも、すでに無かった(一スタの土地と建物は手塚個人のもので、ただで借りている。二スタは借地、アパートにも使えない専門的建物は担保にはならない )鉄腕アトムのフィルムでの価値も当時の担保としてはゼロであった。

作品でテレビ局から前渡で契約をする方法もあるが制作費や版権の契約条件が著しく不利となり、自転車操業せざるを得なくなることは判っていた(のちにはこうなってしまったが)

山本暎一さんにはいろいろな制約が課せられたが、中でも一番頭を悩ませられたのか、企業としては当たり前のことの「決められた制作費のなかで作る」と言う難しさであった。そのため山本さんは新たに経理の勉強までしたと聞いている。  予算管理も任せられたことになってしまい、暎一さんは、ジャングル大帝班、独自の経理体系を作り、今までは、制作が終わってからでないと、収支決算がわからない、虫プロの経理体制を改善して、途中の制作費の状態を把握できるように改革しようと考えた。
そこで、頭脳明晰なアトムで制作進行をしていた森 柾さんを制作助手(アシスタントプロデューサー)とし補助するように求めた。

森柾さんは もり・まさきのペンネームを使って漫画家として活躍していた、その後監督などもやり、真崎 守と言う名前も使っている。峠 あかねで、漫画の評論もしている。
(ひばりが丘の北口線路沿いに東久留米方面に行ったところに自宅があった、用事で行ったが、部屋が書庫になっていて、体を斜めにして本棚の間をすり抜けなければならず、漫画本の
多さにおどろいた。)
もりちゃんは、解析力があり、漫画家なので絵や図表を描くのが旨く伝票や,集計表など独自に作っていった。経理との現行体制と合わせるために経理と打ち合わせしたが、経理としては、面倒なことをと、積極的には協力してはもらえなかった。
 12月「ナンバー7」の企画が中止となり、経営面で10月には放送できるように、との要請が来た。
山本さんは、制作費の無駄を省く観点から、手塚先生の更正によるスケジュール遅れを防ぐため、最悪の状態を考えて52本分のシナリオを作っておく事にした。

シナリオライターに、辻 真先をまず起用することにして依頼した。辻さんは石郷岡 豪さんと雪室 俊一さんにも手伝ってもらうことにした。話し合った結果、最初の1年4クール(52本)はレオの子供時代にすることに決めた

一話は原作があったが2話以降はオリジナルな話を作らなければならず、苦労してなんとか、1年放送分4クール52本分の話を作った。

手塚先生に見てもらったが、手塚先生からは、当然クレームが来た。

「スケジュールぎりぎりまでよい作品を作る努力をすべきである」と
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竹やぶの竹の上で寝た。

2006年08月17日 01時35分44秒 | Weblog
子供の頃家の周りは竹やぶに囲まれていた。真ん中を抜ける道は、夜になると真っ暗で、肝試しに使われた。中ほどに3本の上りやすい木が有り、よく上って遊んだ。枝が折れてかなりの高さから落ち、息ができなくなる恐怖も味わったが、骨を折ることも無く、よく遊んだ、もう大きくなった頃の思い出だが、多分信じる人は少ないと思う、そんな経験をした、中学生ぐらいだったと思う、いつものようにその木を上り、竹やぶの竹に乗り移った、竹の枝は折れやすかったけれど、両手と両足の力の入れ具合を旨く調整すると、どんどん他の竹に移っていけた、竹が密集しているので、ある程度までしか撓(しな)らない。そのうち、上に登ことができるようになり、竹やぶの上に首を出すことができた。面白いことに、すべての竹が同じ高さにそろっていた、遠くに秩父の山並みと富士山が見えた、折れる枝に気をつけて、竹の林の上に出た、そして仰向けに寝転んだ。とても気持ちが良かった。
 宮崎さんの、風の谷のナウシカを見た、最後のシーンを見ていてあの頃のことを思い出した。
竹やぶの端に行き、2,3本の、竹の上部を掴んで、そのまま竹を撓らせて旨く地上に降りた。あの時の気分のよさに友人に話したが、その目で見るまで、誰も信じなかった。
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銃撃

2006年08月16日 20時51分57秒 | Weblog
北方領 漁船銃撃 一人死亡のニュースが、貝殻島付近で操業していたかにかご漁船「第31吉進丸」が、ロシアの警備艇に銃撃され、一人が死亡、拿捕された事件がおきた。今の首相が、北方領土問題に、積極的ではなかったことが、今回の悲劇を踏んだのではないか。お互いの国同士が主張をし合って、話し合わず、そのため、生活のために危険を侵し起きた、悲劇である。イランで人質になった3人が日本に帰国して、マスコミから受けた、パッシング。危険と判っていて起こした事件、というのが、理由だった。今回も、撃たれることはわかっていたはず、危険を侵しての、操業、マスコニが、どう扱うのか、心配。
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敗戦の日に靖国参拝

2006年08月15日 20時40分02秒 | Weblog
 朝寝ぼけ眼でテレビのスイッチを入れる、あかない目で、耳だけでニュースを聞いていると、小泉総理が、もう少しで,靖国へ参拝に訪れるというニュースであった。各チャンネルが、その特番となっていた。
 靖国参拝が良いのか悪いのか、論じるつもりは無いが、われわれが子供の頃、人の迷惑や、嫌がることはしない。という教えを、当たり前な道徳として、教えられた。そして大人は子供の手本となる行いをする。これを出来ないのは、恥であったはず。再度言う事の良し悪しは論じるつもりはない。果たして今回の行いは、子供にとって、どんな手本となるのであろうか、それも、日本国の最高責任者、覇者の行いである。覇王は庶民に盲目となるのであろうか。
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東京大停電?

2006年08月14日 20時26分27秒 | Weblog
朝、東京で停電が起きているというニュースが流れた。旧江戸川を航行中のクレーン船が、クレーンを上げて航行、高さ約16メートルの送電線「江東線」に接触したのが原因。 昭和49年電通映画社の宣伝の仕事を手伝ったことがある。その時に、送電のシステムを、勉強したそのことを、思い出した。発電所で発電された電気は、電圧降下を出来るだけ避けるため変電所へ50万ボルトの送電網で送る。そこで27.5万ボルトに電圧を下げ放射状に広げて送る、その27.5万ボルトの「江東線」で起きた事故。千葉側から送られてきた、電気を都内で別の主要送電線で神奈川県内にまで送っている。事故で、送電を止めたため、葛南、江東、城南、世田谷、荏田の5つの変電所が、ブレークダウンした。他の送電ルートで送電するのだが、そのためには、安全性を計算しなければ送電を出来ず。そのために復旧に時間がかかった。それでも早いほうで、2003年8月に起きた、アメリカ、カナダ大停電では送電の復旧に29時間もかかり、全アメリカ送電網の復旧には3日もかかったのは、記憶に新しいし。1999年11月に狭山で航空機が送電線を切断し、実際に何時間か停電した時のことが、思い出された。
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ジャングル大帝 3

2006年08月12日 16時52分49秒 | 虫プロジャングル大帝
穴見常務は、大変に勉強、研究し、その結果を、山本さんに指示した。以下のような事であった。
まずは、

動物が主人公であるので、海外売りには、うってつけであったが、アフリカが舞台であるので、黒人の登場は避けられなかった。当時、まだ黒人差別のあった、アメリカへの輸出には黒人問題で黒人の登場を控えるよう最新の注意が必要である。
と言うようなこと。ジャングル大帝を作るに当たっては。

 1話完結に話を作り、話を前後させたり、抜いたりしても問題が無い様に作って欲しい。
 これは問題があったときアメリカでは、前後を入れ書いたりする場合があるので、また

人間が動物をいじめるシーンは、やめて欲しい。これは、動物愛護団体からクレームが、起きることを避けたいから。

 こんな注文を受け 山本 暎一さんは、前途多難な「ジャングル大帝」の企画に入った。
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ジャングル大帝 2

2006年08月11日 16時47分41秒 | 虫プロジャングル大帝
 穴見常務は 鉄腕アトムの頃、広告代理店萬年社の社員であったがアトムでの手腕を買われ、手塚先生にヘッドハンティンッグされたのであった、穴見常務も手塚先生にほれ込んでいて常々「オレは手塚先生にすっかりほれたね、あんなにエネルギーのある人はいないそして、あんなに人に感動を与えられる人もいないよ」と言っていた。 学徒出陣したが特攻として生き残った、「手塚先生のためなら」と穴見さんは、新たな死に場所を得た思いであったという。
穴見常務は手塚先生と相談して、赤字になるのがわかりきっているカラーアニメ化を、どのようにして黒字にしていくか、相談をした。マーチャンダイジング(キャラクター収益)を含め海外に、黒字にすることを求め、カラー作品「ジャングル大帝」の海外売りに合わせた作品作りをすることとした、そして手塚先生は穴見常務に全権をお任せしたのでした。
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ジャングル大帝

2006年08月10日 16時40分33秒 | 虫プロジャングル大帝
ジャングル大帝 
昭和39年10月「東京オリンピックをカラーで見よう、」をキャッチコピーに、カラーテレビの普及が始まっていた。
テレビ漫画の世界でもカラー化が切望されていたが、白黒でさえ時間とお金が掛かるテレビ漫画に3倍もの時間とコストがかかるカラー化は無理と思われていた。
手塚先生は黙っては居なかった。なんにおいても、先駆者となることに、至上の喜びを感じるのではないかと思われるぐらい、先駆者として誇りを持っていた。そこで手塚先生はカラーアニメ化を役員会にかけた。手塚先生は自分の「ジャングル大帝」国産初のカラーテレビ漫画映画にすると宣言した。その頃の役員会議は、社長が絶対であったのだ。制作担当である今井専務は、山本暎一さんに「ジャングル大帝」の制作準備室を立ち上げるよう、指示した。昭和39年11月オリンピックが終了した後であった。
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祖父と口笛

2006年08月09日 01時16分07秒 | Weblog
 白幡の母の父は植木職人だった。かしらと呼ばれていた。よくいたずらをして大人に「どこの子だ!」といわれると、「植木屋のせがれだ」と、生意気な啖呵をきった。せがれではなく孫なのに、どこかで聞きかじった言葉の響きで、意味もわからずそういっていた。周りを竹やぶに囲まれていて、祖父の住居兼温室に隣に家を建て住んでいた。怖いおじいちゃんのイメージが強かった。申し訳なさそうに立っていた、木戸代わりの2本の丸太を入るとすぐ右手に柿木が有った。今も根岸の実家にあるが、今年もたくさん実をつけている。その柿木に上るのが好きだった、するとすぐに怒られた、柿木の枝は折れやすいので、心配して怒ってくれていた、とはその頃まだ判らない。だから怖いおじいちゃんだった。口笛を覚えた。多分ラジオで口笛の曲が流行ったのだと思う。「夜口笛を吹くと蛇が来るぞ」と隣から怒ってくる。悪戯盛りだから、柿木に上って口笛を吹いた。その精神がわからない、甘えていたのだろうか、偶然 「し」の言葉を言う時に、口笛見たいな「ぴー」という音が出た。面白がって、出しているうち、だんだん旨くなり、口笛と同じように歌を吹くことができた。口笛より、大きな音が出せた、口をとんがらせる必要が無かったので、ちょっと見には、誰が吹いているかわからなかった。
小学校に入って、なにかの拍子に、口笛を吹いている時に、偶然唇を震わせた。すると、先生が吹くホイッスルのような音が出せた。そのうち、たいそうの時間に号令をかけるとき、口をブルルをして、笛を吹くことができた。紛らわしいいたずらもした。友達が、教えてといってきたが、いまだにでき他人はいない。もう口笛を吹かなくなって、どれぐらい年月がたったであろうか、車の中で吹いてみたが、昔ほど、音量も音程も出ない。笛も旨く吹けなくなってしまった。
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