真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

ジャングル大帝 挿入歌

2006年09月17日 17時37分04秒 | 虫プロジャングル大帝
ジャングル大帝 では、挿入歌が ジャングル大帝を見る楽しみの一つであった、 山本 暎一さんが数々の曲の作詞をなされていた。
お馴染の梓みちよさんが歌った 「星になったママ 」 コミカルで楽しい 川久保 潔さんと熊倉一雄さんとで歌っている、 「ディックとボウ」そのほか、 
「ジャングル工事 」 は フランク赤木 さん
「三匹の死神 」 世良明芳 さん
「ぼくに力をお父さん 」うたうのは 太田淑子 さん
動物学校では「アイウエオ・マンボ」
「たまごの赤ちゃん 」弘田三枝子とコロムビア合唱団
「ふくろうの子守歌 」デューク・エイセス
「ブラック フォア(4ひきの黒ひょう) 」デューク・エイセス
「フンワカマーチ 」中山千夏
「サル忍者 」熊倉一雄とコロムビア合唱団
などなど、10曲もの作詞をなさっているのであります。

のちにジャングル大帝の、LPレコードもコロンビアから発売された。
 社員からは、「たくさん作詞した、暎一さんは、版権料がたくさん入って良いな」 そして「チャンスがあったら作詞して、版権料を私ももらおう」なんて声が上がっていました。

しかし山本 暎一さんには一銭も支払われていないことを知っている者は、当時も今も、ほとんどいませんでした。

コロンビアレコードが、LPレコードを出すに当たって、暎一さんとの契約がなされましたが、支払い先は、虫プロダクションになっていたのです。
手塚先生の原作料や版権が、虫プロに入る。だから当然暎一さんも、虫プロに入れる。という、をけのわからない論理であった、 現在では、とても信じられないことであり、作家の作品を無視する暴挙であったといえるのではあいだろうか。
 当然手塚先生が、そのことを知っていれば、役員を怒鳴りつけたであろうが、そんなことがなされた事を、忙しい手塚先生が知る由もなかったのだ。
そして倒産するまで、あらためて山本さんに支払われた、と言う事実は存在していないのである。
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ジャングル大帝 17

2006年09月07日 16時30分34秒 | 虫プロジャングル大帝
ジャングル大帝 第1話の放送が終わり、手塚社長と今井専務、穴見常務、桑田常務、先生の奥さん、秘書の宮下さん、などに送られて、亀山さんたちが,淋しそうに帰られた。
 2スタ2階には虫プロの全スタッフが、「ジャングル大帝」を見終わって、ジュースを飲んだりして雑談していた。全員が残っているように命じられていたからでもあった。

穴見さんは、その会場に急いで行った。
テレビの置いてある場所とは違い、入り口近くに、少し高い場所が作られた。穴見さんの、挨拶が始まり、ジャングル班の苦労をねぎらい、今後もがんばるようにと激励した。

アトムもW3もそうであったが、時々、スポンサーから、スタッフへとお菓子や、ガムの差し入れがあった。

「三洋電機から、放送に当たって、スタッフへと、トランジスターラジオを頂きました」
亀井さんが、持ってきていたのであった。スタッフに渡し、労をねぎらい、と思っていたに、違いなかった。

「しかし」と穴見さんは続けた、
「こちらの手違いで、スタッフは何人おりますか、と聞かれ、ジャングル班のスタッフ120名と答えてしまった。200台のトランジスターラジオを、持ってきて頂いたが、今、虫プロのスタッフは300人を越えている。管理職や、総務など除いてである。」
続けて
「アトムも、W3も、差し入れは、全スタッフで、今までわけていた、今回『ジャングル班』のスタッフだけと言うのはどうかと思っている。」
すると
「人数が、間違っていましたと言って、不足分をもらえばいいじゃないですか」
と誰かが、後ろから叫んだ、笑いが起きた。

「申し訳ないが、そんなことは言えないですよ」

今日のことを思うと、そんなことを頼むこと自体、無神経で、どんな人たちなのだ、と疑われてしまう、手塚先生の名誉も傷つくだろう。
続けて言った。
「そこで申し訳ありませんが、抽選にいたしたいと思います。3人に2人が、当選となりますが、残念賞は、ロッテの、チューインガムです。」 ワンダースリー班の私が高田の馬場のロッテ工場から貰ってきてあった。そして、抽選会が始まり、あちこちで歓声が上がった。もちろん私もくじに当たって、トランジスターラジオを貰うことができた。お酒の無いパーティーであったが、遅くまで笑い声が続いた。

第一話の視聴率が出た、ビデオ・リサーチが19.1%、ニールセンが、22.5%であった、この当時ビデオ・リサーチが権威があり、ニールセンは参考程度であった、ニールセンのほうが、いつも視聴率が良く出た。
アトムも、W3も30%の時代であった。それは期待していたより、はるかに低い視聴率であった。
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ジャングル大帝 主題歌騒動記3

2006年09月05日 16時15分57秒 | 虫プロジャングル大帝
10月2日から3日にかけて、伊豆の伊東へ旅行していた。食事のあと、参加できなかった、辻さんが、差し入れたウイスキーを飲みながら会議が始まった。
「CMソングをはずさなければ、オレはおりるぞ」
おりるとは、責任のある今の役職を辞めると言うことで、あくまで会社を辞めるということではなく、社員が上司を脅かす時に、オレはおりるという言葉をしばし使っていた。
あまり良くない慣例であったが、虫プロでまねするものがでて、何か在るとすぐに「俺は降りる」と言うのが流行って、悪習となってしまった。
よった勢いか、「オレもおりるぞ!」「オレもおりるぞ!」と全員がおりるという結論に達して、意気揚々と帰ってきたと言う。
伊藤温泉事件である。

この不穏な空気はすぐに役員の知るところとなった、誰かがわざと、リークしたのである、心配した手塚社長は、穴見常務に
「もしものことがあったら困るので、フジテレビの映画部長の耳に入れておいてくれと」
と頼み、合わせて対策も頼んだ。
アトムとワンダースリー班には、手塚派といわれる人たちが居ることが力強かったと手塚先生はあとで語っていた。

穴見常務はフジテレビの部長から
「スポンサーにおりろなんていう、プロダクションは、民放始まって依頼の不祥事、前代未聞だ!一体全体何様のつもりで居るんだ!」
と怒鳴りつけられたと言う。このことがテレビ局と虫プロの力関係が弱まるきっかけになった。

穴見常務の立場に同情した三洋電機の亀山さんは、ジャングル班のスタッフを、説得しようとわざわざ富士見台の手塚邸まで赴いた。あらかじめ連絡をいれて3時に会うことになった。
2時半には手塚邸についた、説得するものとして早めについて礼儀を示したのであった。そう言う意味では、かなりの人格者であると、手塚先生も穴見常務も感心させられていた。

穴見常務に電話が入った、
「軽い交通事故を起こしたため、遅れる、たいしたことではないので心配しないように」
と言う連絡であった。
師や、穴見さん、それに亀山さんたちまでが心配した。
4時を過ぎ暎一さんが、応接間に到着した、
「事故は大丈夫、怪我は無かった」
と心配して声をかけた。
「お待たせして、すみません」
と暎一さんは冷たく答えた

「今回の件で三洋電機側のおっしゃることはわかります」
と言い
「しかし、スタッフは自分がしている仕事はベストと、信じています、ぼくの仕事は、そのスタッフを信じてやることです。ですから、今ここで、ぼくの口から、ハイどうぞと言う言葉を申し上げるわけには行きません」
といったと、暎一さんは書いている。そして
このことはジャングル大帝の作品とスタッフを暎一さん自身が評価してなく、やるなら勝手にやれといっていることになってしまったと。暎一さんは気付いたとも語ている。

亀山さんはそんな暴言にも腹を立てず
「私は今日、あんたと、肩を並べて、放送を見ようと思って来たんやで」
と悲しそうに述べた、それに対し
「すみません」
と冷たく頭を下げ出て行った。

 実は、この時の交通事故は嘘で、ボーリングをして、わざと遅れたことも、暎一さんは書いている。

第2スタジオ2階中央の南側天井付近に棚が作られ、そこに電気屋さんがカラーテレビをセットしていった。
他の班のスタッフも集り、後ろに立って見た、10月6日水曜日午後7時「ジャングル大帝」の放送が、開始された。
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ジャングル大帝 主題歌騒動記2

2006年09月04日 16時07分11秒 | 虫プロジャングル大帝
三洋電機側としては、
 「ジャングル大帝」を提供するセールスポイントに社運をかけているのだという。この「ジャングル大帝」には大変力をいれ、どうしても成功させたい。」
また
たしかに「ジャングル大帝」の作品は良い作品であるが、大衆受けにはイマイチ自信がもてない。ドラマなどのテーマ曲は番組をヒットさせる大きな力を持っている、確かに「ジャングル大帝」のオープニングは、玄人受けするであろうが、子供に受け入れられるかと言うと、疑問なのである。」

「三洋電機としては、そのためCMの一枠を使ってヒットする可能性のある曲を作りオープニングをフォローする事にした、
「ジャングル大帝」をヒットさせるため、こちらの誠意でやっていることなので理解して欲しい。」
と伝えてきた。

「理解できない」
と暎一さんは答えた。
「そんなに「ジャングル大帝」を信用できないんなら、スポンサーを降りたらいいんだ」
あまりの剣幕に穴見さんは
「そんなこといったら、本当におりてしまうよ」
と言ったそうだが、それに対して暎一さんは
「おもしろいですね、おりてもらってくださいよ、自分の提供する作品を信用できないようなところに、スポンサーになってもらいたくないですから」
と答えたと述べている。
 三洋電機としては、最初のコマーシャル枠を潰して、一流の作曲家に頼んで、曲を作ってもらった、最後に、サンヨーとコマーシャルを入れたが、あくまで、良かれとおもってした事、まさか、提供者にクレームが着くなんて思っても見なかった。

片方は誠意で、もう片方は制作者として、穴見さんは両方の言い分が痛いほどわかるので、板ばさみになって困惑してしまった。
「暎一つぁん もう一度三洋電機側と交渉してみよう」
と言うのが、精一杯であった。

暎一さんたちジャングル班の主だったスタッフが消えた。放送日まであと4日。
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ジャングル大帝 主題歌騒動記

2006年09月03日 15時58分47秒 | 虫プロジャングル大帝
そのニュースは,音響の田代さんによってもたらされた。すぐに暎一さんたちに召集を駆け、一本のテープを聴いてもらった。
流れた歌は
「はーしれジャングルを、レオ!レオ!レオ~、...............サンヨー、サンヨー、サンヨー電気、」

 聞いたみんなが異口同音に「なんだこれは!」と怒鳴った。
「三洋電機のコマーシャルソングです」
と田代さんが説明した。
「これでは本編の主題歌だとみんなが思ってしまうじゃないか」

「オープニングと本編の間のコマーシャルに入れるという」
と田代さんが説明した。
「冗談じゃない、主題歌が2つあるみたくなってしまう」

「代理店でこのことを知り、大変な事だと、テープを借りてきた」
と田代さんは説明した。

作詞作曲が、三木鶏郎、戦後ラジオの「冗談音楽」などをしていた、当時CMソングの多くを作っていて、CMソングのNo1の作り手であった。

作曲家の富田さんも、
「この曲を、ぼくの作曲と誤解する人も出てくるであろう、音楽を、担当するものとして曲の良し悪しではなく、そのような、誤解を受けることは、耐えられない、」
と語ったという。
そんな騒動が起こっているとも知らず、穴見常務は13日に帰国した。穴見常務はその曲に対する、ジャングル班の憂いを、すぐに三洋電機側に申し入れた。
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ジャングル大帝 11

2006年09月02日 15時54分33秒 | 虫プロジャングル大帝
8月お盆が過ぎた頃、三洋電機の亀山という宣伝担当重役さんと宣伝担当課長さんが、手塚社長に挨拶に訪れた。社長室はすぐに穴見常務に報せ、山本暎一さんを呼んでもらった。
穏やかそうで、芯にたくましさを感じられ、山本暎一さんは握手を求められ。
「視聴率など気にせず、良いものを作って下さい」と言われた、山本暎一さんはとても好感を持ったとそのときのことを語っている。
「ジャングル大帝」は、日本PTA全国協議会の、第一回推薦番組に指名された。この時試写を見た役員やお母さん方は、涙を流し、絶賛したと言う。
そして手塚治虫先生は、
「数年前までは、マンガ焼却運動が起こった、マンガは非難され、俗悪と決め付けられた。その時の文部省や、PTAの団体が、やっと理解してくれるようになった。」
と述べている。
 海外向けセールスも、穴見さんたちの、苦労で、NBCへのセールスが決まり契約のため、手塚社長は穴見さんと、渡米して行った。
9月 教育者懇談会も「ジャングル大帝」の推薦を決めた。

そしてあの事件が起きた。
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ジャングル大帝 放送決定

2006年09月01日 15時44分02秒 | 虫プロジャングル大帝
8月スポンサーが決まった。
スポンサーになりたいと言ってくれた会社は 森ちゃんが発行した「ジャンボ」には。
明治製菓、不二家、日清製粉、ヤクルト、大塚製薬、藤沢薬品、シオノギ、セーラー万年筆、三洋電機、などと書かれている。
広告代理店は、電通、博報堂、萬年社、東急エージェンシー、日東エージェント、第一広告など、全国ネットを組むことを約束して申し入れをしてきた。

結局スポンサーは三洋電機、代理店は第一広告と決まったが。連絡漏れで知らなかった、日立と、東芝は、広告代理店にペナルティーを科したというエピソードまで残ってしまった。
夢のような話である。
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ジャングル大帝 9

2006年08月31日 15時38分33秒 | 虫プロジャングル大帝
6月ワンダースリーがフジテレビから放送開始された。
 そんなある日、穴見常務は、完成した「ジャングル大帝」を編成局や関係者相手に、フジテレビで試写会を行った。
見に来た局の人たちは「動物ものったって、どうせ動きの悪い、電気紙芝居だろう」と、対応や、感触は大変よくなかったと穴見さんは感じた、たかをくくっていたのである。
 しかし見終わった後、しばらく沈黙があり、やがて拍手が沸きあがった。みんなが乗り出して見ていたのだ、誰もが感動していた。穴見さんは、握手を求められた、苦労が報われた...。涙があふれ出た 。

「オープニングの迫力は、抜群で、皆、褒めちぎっていた」

 ジャングル大帝のオープニングは1話分の予算を使ってしまった。富田さんが作曲したテーマ曲は、トランペットがファンファーレのごとく、オープニングにふさわしく、ジャングルの夜明けから1日の始まりを歌い上げていた。ボーカリスト平野 忠彦さんのスキャット?がまたいい、のだ、歌詞など要らなかった。ターザンの雄たけびのごとく、ただ、あ~ と歌い上げていた。

動きも良かったも。もと東映動画でも活躍した、勝井 千賀雄さんを中心に、フラミンゴが、飛ぶシーンなどフルアニメで動かした、それは実写と違いアニメならでは、の素晴らしい仕上がりとなっていた。

 森ちゃんが編集者となって発行しているジャングル班のための広報誌「じゃんぼ」にこの喜びを載せ、スタッフ一同に知らせ、喜びを わけち合った。

 山本 暎一さんは事務に居た女性と結婚することになった。式場は目白の「椿山層」披露宴には親族を含めて30人ほどであったのでごく親しい人しか招待されなかった。「スタッフの中には、会員制にしてでも、みんなで祝いたかったのに」と言う人が多かった。
 また招待された人は、暎一さんにとって特別な人として一目置かれることになった。 引き続き箱根へ新婚旅行に行ったが、たった1週間、暎一さんが抜けただけで、鬼の居ぬ間の洗濯か、少し箍(たが)が緩んでしまったのは仕方が無いことなのか。
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ジャングル大帝 8 箱根旅行

2006年08月29日 15時24分50秒 | 虫プロジャングル大帝
4月第1話が完成した、この頃山本暎一さんは、ジャングル班の実務管理や「アトム」「W3」3班とのプロデューサー会議を、もりちゃんに任せることが出来ていた、
その結果、暎一さんは作品の内容に打ち込むことが出来たといっている。
 そのころのW3はロッテのスポンサーで6月からの放送が決まって毎日貫徹が続いていた。
そんなころであった。暎一さんが森ちゃんに、
「第1話を完成させたので、みんなで旅行にでも行きたいな」といった、それがきっかけとなった。
「それはいいですね」
と賛成はしたが、すぐに、お金の心配をした、制作費の管理を任されていたので、とてもそんな予算は無い事を知っていたからだ。
「自費で行けばいいだろう」
と暎一さんは言う
「ジャングル班の体制はスタッフの将来のためにあるんだ、そう言う自覚を持ってもらうためにも自腹にすべきだ」
との考えを述べた。森APは
「そう言うことなら、意義をガリ版で刷って、全員に、呼びかけてみます」

 その結果有志による旅行実行委員会ができた。
箱根湯元への一泊旅行に決まった。交渉すると宿泊先の送迎バス2台が第二スタジオの駐車場まで迎えに来てもらえることになった。

役員会を通して、役員から寄付をもらえる事にもなった、そして手塚先生からも寄付してもらった。その上虫プロとしても寄付をすることになった。
虫プロにはいろいろな業者が入っていた。例えば、食事のための、レストランや、食堂、それにお菓子屋さん、3時の休憩前に注文を取りに来て、休憩時間に合わせて届けてくれた。
本屋さん、これも注文や、予約を取りに来た、月ぎめの本などは、発売されると届けてくれた、またそのほかであった。ツケがきいたので、ほとんどの人は、月2回の給料日にまとめて払っていた。
虫プロの周りには、虫プロで成り立つお店が増えていた。
 実行委員会はこれらのお店の人たちにも、カンパを頼んだ、(以後悪習として残ってしまった)結果かなりの金額となり、自己負担も少なくて、豪華な旅行が出来たのであった。
新緑を迎えた箱根の山は、仕事を忘れ、大いに盛り上がった。
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ジャングル大帝 7

2006年08月26日 12時26分55秒 | 虫プロジャングル大帝
1月 1話のシナリオは既に出来ていた。山本さんは、「ジャングル大帝」に、まずは、なじんでもらおうと、全スタッフで1話を取り掛かるように指示した。
絵コンテも、山本暎一さんはじめ林重行さん、永島慎二さん、瀬山義文さん、北野英明さん、の5人で合作した。
2月に入って、やっと原画と動画の作業が始まった。枚数制限を1話2800枚と決めたが、動物アニメなので、枚数制限は守られぬことが多かった。作画が始まると、続いて他のパートの作業も始まっっていた 。
3月 撮影出しが始まり20日過ぎにはラッシュ試写も出来た、3月末には編集も終わっていた。
声優は山本暎一さんの希望でパンジャとナレーションを小池 朝雄さん。また音響の田代 敦巳さんの意見でレオに大田 淑子さんを決めた 。
 田代さんが居る音響の部屋は、第二スタジオ一階の奥突き当たり資料室の手前左にあった。部屋は北向き、木造の学校のような窓があり駐車場が見えた。音を作るためのテープやレコードがあり、予定を書く大きな黒板。プロ用の、幅広テープのレコーダーも置いてあった。
田代さんはバンドを組んでいたほど音楽好きで、アトムで進行として入ってきた。
虫プロでも音響をするべきだと進言して、虫プロ音響班を立ち上げた。
音楽は田代さんが今まで関わって、その才能を高く認めていた、富田 勲さんに決まった。
 あるとき田代さんは音響の部屋へ暎一さんを呼んだ、ちょうど富田さんと打ち合わせをしていた時であった。
「1話のクライマックスで、レオがアフリカに向かって海を泳ぐシーンに、歌を付けたいので暎一さん作詞してください」
「作詞家に頼むよりジャングル大帝のことをよく知っている、暎一さんが書くべきです」と言うのであった。
だめなら、それをもとに作詞家に頼んでもよいからと言い、富田さんが、食事に行っているうちに、書いておいてと言われた。作詞は初めての経験、苦しんだが、何とか30分ぐらいで、書いた。
寂しがらないで レオ
ママが一緒よ  レオ
ママはここ 星になったのよ.......。
食事を終え戻ってきた富田さんはそれを見て、「作詞家を頼むことないよ、イメージがわいた、」その詩のまま曲をつけ、レオがアフリカへ向かい泳ぐシーンに使われた。歌ったのは前年「こんにちはあかちゃん」のヒットを飛ばした、梓 みちよさんであった。
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ジャングル大帝 6

2006年08月23日 12時16分50秒 | 虫プロジャングル大帝
 昭和40年 年明け早々の1月4日虫プロではプロデューサー会議が,役員を交え開かれた。

二百三十人を超えた虫プロのスタッフを必要最小限の「鉄腕アトム」班とあらたな「ジャングル大帝」班にスタッフを編成変えするためで 山本暎一さんは115人の「ジャングル大帝」班の人員を優先的に要求した。
これは山本暎一さんにとって外注を使わず社内だけで作っていく上での、予算的にぎりぎりの人員の数であった。
ジャングル大帝班は、新装の第二スタジオを使用することになり、1階を制作進行、文芸演出、編集、音響、資料室、下駄箱、更衣室、に、
2階を、原動画、仕上、美術背景、特殊効果などを置いた。1階は森 柾さんが 2階の中央には、にらみをきかせるようにと、山本 暎一さんの机が置かれた。

山本暎一さんはジャングル大帝の制作体制を説明するために、全スタッフを一スタ3階に集め会議を開くことにした。

誇り高き作家気質の連中に「ジャングル大帝」班の制作方針を伝え 彼らが最も軽蔑する、スケジュールと制作費をまもって、仕事をすることを、納得させる、この説得に失敗したら、誰もついてこないと心配した。

 いいものを 早く 安く 楽しく をスローガンに掲げ、革新的に作っていこうと説明した。

森 柾さんが作った、ガリ版刷りの組織表と作業手続きの要領を配り,説明をした。

そのあと「質問はありませんか」と問うたが、 一同無言であった。
「じゃぁ解散します」
と一言、会議は終わった。


参加した一人は言う。
「難しい言葉ばかりでよく理解できなかった。が、まさか将来 手塚先生を無視して、ジャングル大帝を作るのだとは、思いもよらなかった」と…….。
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ジャングル大帝 5

2006年08月20日 12時04分13秒 | 虫プロジャングル大帝
山本暎一さんは森柾さんや撮影の広川和行さんらと話し合っっていた。
どのようにしたら役員会で言う「制作費の範囲で「ジャングル大帝」を作る」ことが出来るのかということであった。
 制作費の無駄を省くことが一番である。それは“スケジュールを守ること”これが基本姿勢となる。
アトムではシナリオや絵コンテがスケジュールどおり上がらなかった。このことは大勢の作画から撮影編集まで、待ち時間を作ってしまい、遅れの結果徹夜で仕上る このことが費用のかかってしまう理由だった。 なぜスタッフが手空き時間の待ち時間ができてしまうのか?それは、手塚先生の仕事が忙しすぎるためで、漫画原稿の締め切りが優先され、シナリオや絵コンテチェックが、どうしても後回しされるのが原因であることは明白であった。
現場では「先生待ち」状態にされることで、スタッフから不満が出ている。しかし、漫画を描いて、その原稿料で、虫プロの経営が成り立っている現状や、何日も寝ないでがんばっている手塚先生を見ると「苦情」など,とても言えない状態であったのだ。
 
 他のアニメ製作会社は、営利事業として漫画映画作りをしている。売値が安ければそれなりの作品を作る、採算を重視するのである。極端に言えば、出来ばえが悪かろうと、納得できなくても気にしない体質に見える。

 虫プロのスタッフは違っていた、置かれた状態でも、最高のものを作るべきだと思っていた。身を削り寝食を忘れ仕事の没頭し納得できるまで追及していくのであった。

       それが、虫プロの誇りであった。

 それは手塚先生自身が率先して行った結果であった。
作品が完成してからでも、納得出来なければ、納期を遅らせても、徹底的にリテーク(作り直し)を出した。

このことは、余計な出費がかかったが、そのためなら、手塚先生は命を削って書いた漫画の原稿料を惜しげもなく使った。それだからこそ、虫プロのスタッフは、自分の時間を犠牲にし、給料も時間外手当も無視して働くことに誇りを持っていた。

話し合いは続いた。
「手塚先生が漫画部でマンガを描くのは、虫プロ映画部と比べると漫画部の規模は小さい、締め切りを過ぎてまで粘っても手塚先生とアシスタント何人かがつらい思いをすればすむ。人件費のロスの金額もたいしたことがない。
しかし、アニメはたくさんの人が関わっている。ロスの金額も大変な金額になる、同列には扱えない。」

「作品に徹底して自分を賭ける、その姿勢は、作家として常に必要な心がけでしょう、必要条件、十分条件、と分ければ、ものごと必要条件だけではない。アニメーターにとって十分条件は健全な事業性を、両立させること」

「手塚先生のいう 〝虫プロは営利事業ではなく、アニメーターの作家集団であり、会社の形をとって制作活動を、効率的にするため〟 なぁんて言ってみても、赤字が増え、事業体が危うくなれば、作品は作れない、そうなれば、作家もへったくれも無い、事業基盤がしっかりしてこそ作品が作れ、それでこそ、作家であり作家性じゃないんですかねぇ」

「虫プロを事業体としてしっかりさせ、その上で、どこよりも良い物を作る、そうできてはじめて、テレビアニメの開拓者であり、アニメ界の旗手だといえるんだ。」

「虫プロへ入ってくるのは、みんな好きだからですけど、その好きをいいことに、全人格的な、没入と犠牲を強いることで成り立っている。アニメ界の古い体質で作家プロダクションなのです。そんなものは資本の論理の競争の中では弱いです、「鉄腕アトム」を始めた時はしょうがなかったけれど、その後もきつい仕事の連続でみんな疲れ果てている」

「「ジャングル大帝」では、作品内容はもちろん、制作体制の改革を期待する。」

こんな話の内容であったと聞いている。

最後に山本さんは
「そういう意味で、おれたちアニメーターの作家像が、変わらなければいけないところへ来ている」と考えたのであった。

この改革は、手塚先生だけではなく、虫プロ中から批判されるであろうが、それでもやる、と決意した山本暎一さんであった。
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ジャングル大帝 4

2006年08月18日 11時45分42秒 | 虫プロジャングル大帝
 お金の話になると、スタッフの中には顔をしかめる者が多かった。「金を稼ぐために仕事をするのでは無く、よい仕事をする、金は二の次だ」と言う雰囲気を持っていた。金銭管理をする制作に携わる者でさえもそうであった。

虫プロでは「ナンバー7」虫プロランドの「新宝島」などの制作費、制作規模の拡大見込みでの社員の雇用費用、社員の養成所の費用、第一スタジオの拡張、屋根裏部屋の改築、交換室件守衛室や第二スタジオの建設、第3スタジオと第4スタジオの家賃、撮影室の増築や撮影機の購入、社用車の購入(ブルーバード1300を使用40年にはスカイライン1500で増車合計12台)
など設備投資や人件費で、運営が苦しくなっていた。

版権収入は「原作者手塚治虫」と分けるのが本来であったが、資金不足で借金と言うことにして版権収入は全額虫プロへ入っていた。(師への借金を返済した事実は無い)

銀行での借り入れを考えても漫画映画制作は、水物商売と、どの銀行も見て借り入れは出来ないし、担保になるものも、すでに無かった(一スタの土地と建物は手塚個人のもので、ただで借りている。二スタは借地、アパートにも使えない専門的建物は担保にはならない )鉄腕アトムのフィルムでの価値も当時の担保としてはゼロであった。

作品でテレビ局から前渡で契約をする方法もあるが制作費や版権の契約条件が著しく不利となり、自転車操業せざるを得なくなることは判っていた(のちにはこうなってしまったが)

山本暎一さんにはいろいろな制約が課せられたが、中でも一番頭を悩ませられたのか、企業としては当たり前のことの「決められた制作費のなかで作る」と言う難しさであった。そのため山本さんは新たに経理の勉強までしたと聞いている。  予算管理も任せられたことになってしまい、暎一さんは、ジャングル大帝班、独自の経理体系を作り、今までは、制作が終わってからでないと、収支決算がわからない、虫プロの経理体制を改善して、途中の制作費の状態を把握できるように改革しようと考えた。
そこで、頭脳明晰なアトムで制作進行をしていた森 柾さんを制作助手(アシスタントプロデューサー)とし補助するように求めた。

森柾さんは もり・まさきのペンネームを使って漫画家として活躍していた、その後監督などもやり、真崎 守と言う名前も使っている。峠 あかねで、漫画の評論もしている。
(ひばりが丘の北口線路沿いに東久留米方面に行ったところに自宅があった、用事で行ったが、部屋が書庫になっていて、体を斜めにして本棚の間をすり抜けなければならず、漫画本の
多さにおどろいた。)
もりちゃんは、解析力があり、漫画家なので絵や図表を描くのが旨く伝票や,集計表など独自に作っていった。経理との現行体制と合わせるために経理と打ち合わせしたが、経理としては、面倒なことをと、積極的には協力してはもらえなかった。
 12月「ナンバー7」の企画が中止となり、経営面で10月には放送できるように、との要請が来た。
山本さんは、制作費の無駄を省く観点から、手塚先生の更正によるスケジュール遅れを防ぐため、最悪の状態を考えて52本分のシナリオを作っておく事にした。

シナリオライターに、辻 真先をまず起用することにして依頼した。辻さんは石郷岡 豪さんと雪室 俊一さんにも手伝ってもらうことにした。話し合った結果、最初の1年4クール(52本)はレオの子供時代にすることに決めた

一話は原作があったが2話以降はオリジナルな話を作らなければならず、苦労してなんとか、1年放送分4クール52本分の話を作った。

手塚先生に見てもらったが、手塚先生からは、当然クレームが来た。

「スケジュールぎりぎりまでよい作品を作る努力をすべきである」と
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ジャングル大帝 3

2006年08月12日 16時52分49秒 | 虫プロジャングル大帝
穴見常務は、大変に勉強、研究し、その結果を、山本さんに指示した。以下のような事であった。
まずは、

動物が主人公であるので、海外売りには、うってつけであったが、アフリカが舞台であるので、黒人の登場は避けられなかった。当時、まだ黒人差別のあった、アメリカへの輸出には黒人問題で黒人の登場を控えるよう最新の注意が必要である。
と言うようなこと。ジャングル大帝を作るに当たっては。

 1話完結に話を作り、話を前後させたり、抜いたりしても問題が無い様に作って欲しい。
 これは問題があったときアメリカでは、前後を入れ書いたりする場合があるので、また

人間が動物をいじめるシーンは、やめて欲しい。これは、動物愛護団体からクレームが、起きることを避けたいから。

 こんな注文を受け 山本 暎一さんは、前途多難な「ジャングル大帝」の企画に入った。
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ジャングル大帝 2

2006年08月11日 16時47分41秒 | 虫プロジャングル大帝
 穴見常務は 鉄腕アトムの頃、広告代理店萬年社の社員であったがアトムでの手腕を買われ、手塚先生にヘッドハンティンッグされたのであった、穴見常務も手塚先生にほれ込んでいて常々「オレは手塚先生にすっかりほれたね、あんなにエネルギーのある人はいないそして、あんなに人に感動を与えられる人もいないよ」と言っていた。 学徒出陣したが特攻として生き残った、「手塚先生のためなら」と穴見さんは、新たな死に場所を得た思いであったという。
穴見常務は手塚先生と相談して、赤字になるのがわかりきっているカラーアニメ化を、どのようにして黒字にしていくか、相談をした。マーチャンダイジング(キャラクター収益)を含め海外に、黒字にすることを求め、カラー作品「ジャングル大帝」の海外売りに合わせた作品作りをすることとした、そして手塚先生は穴見常務に全権をお任せしたのでした。
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