真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

展覧会の絵の受賞

2006年10月06日 16時07分53秒 | 虫プロ展覧会の絵
昭和42年1月30日青山で明治製菓の会長さんのお葬式があった。会場へ島方室長と桑田常務をお連れし参列した。
この日の午後6時からは練馬の浜松会館で「展覧会の絵」の打上が行われ大塚清六さんやスタッフ30数名が参加した、「展覧会の絵」をお手伝いした社長室の全員も出席して、8時過ぎまで楽しんだ。

1月31日には 「展覧会の絵」で第17回ブルーリボン教育文化映画賞を受賞した。授賞式には、先に行っていた、島方さんと、2人で、間に合わないのではとひやひやしながら待たされたが、手塚先生は6時半から飯野ホールで開かれた「展覧会の絵」の映写発表ぎりぎりに間に合い、盛大な拍手を頂くことができた。そのあとの地下1階でパーティーが開かれ8時半まで中華料理店で食事を楽しんだ。
2月4日には「展覧会の絵」が文部省推進の教育映画とされ丸の内ピカデリーにて公開された。明け方降った雪がうっすらと積もっていた その「展覧会の絵」のピカデリーでの初日、手塚先生の色紙42枚がピカデリーでくばられた、また感想を聞くためにアンケート用紙も渡された。
2月25日 には毎日映画コンクール第5回大藤信郎賞 を受賞 した。
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展覧会の絵でファンタジア

2006年10月05日 15時52分54秒 | 虫プロ展覧会の絵
昭和42年1月21日には 虎ノ門ホールにて第21回芸術祭の表彰式が執り行われた。「展覧会の絵」は第21回芸術祭奨励賞を受賞し、手塚治虫と社長室は授賞式に出席した。
1月23日 には「展覧会の絵」が丸の内のピカデリーで「恋人達の世界」と一緒に封切りされた。
手塚先生はこのことで、お金が入るから、全社員に今公開されている、デズニーの「ファンタジア」を見てもらおうと言い出したのである。
これには私は少なからず責任を感じている。先生と仕事明の時よくお話をすくことがあった、「展覧会の絵」の時に、デズニーの「ファンタジア」みたいなといわれ、不勉強であったので「知りません」と答えてしまった。「あれは、アニメを志すのであれば、ぜったい見なくてはいけません」といわれたことがあったのだ。そのため先生は、全社員に見てもらいたいと考えていたのではないかと、心を痛めた。
デズニーの商法なのであろうか、何年かごとに(何年後とか忘れてしまったが)保存してあるネガから、ネガを起こして、ニュープリントで公開していた。こどもむけのアニメなので、成長に合わせて、見ていないこどもに向けて、公開することで、収益が上がる、こんな方法もあるのですねと、話していた。
その「ファンタジア」の切符を、手塚先生は全社員に配ると言った。
先生の言いつけで、デズニープロのある兼坂ビルまで330枚の切符を買いに行ってきた、総務課に渡して全社員へと配られた。しかし26日には切符が足りなくなってしまった。まだ貰っていない社員が大勢いるとの連絡が社長室に入った。またデズニープロへ行って、切符を購入してきた。それでもまだ足りなくなり31日に追加で買いに行った。
このことでわかるように虫プロでは、実際に社員が何人いたのか正確には把握できていなかった証拠で、どうも社員数を少なく見積もっていたのであろう。赤字の足音が聞こえ始めた。
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展覧会の絵 生演奏が成功する

2006年10月01日 14時36分02秒 | 虫プロ展覧会の絵
 手塚先生は田代さんに、最後のオーケストラの実写部分を実際のオーケストラが演奏できないかという注文をしたのであった。
言うのは簡単であるが、実際に生で演奏をする、それも途中から、とても簡単ではなかった。指揮者にどのように演奏開始のタイミングを知らせるか、当日の映写時に指揮者や演奏者の楽譜の照明はどうするのか、演奏を始めてから映像とのタイミングをどう取るのか、考えても結論は不可能という答えしか出てこなかった。
それでも、手塚先生の情熱を感じて、とうとう「やってみましょう」と答えてしまったが、考えれば考えるほど難しいということがわかり、眠れない日が続いた。

一人考えていても仕方がないことなので、指揮者の秋山 和慶氏をたずねて、実現するには、どんな問題があるのかを相談した、相談された秋山さんも「とても無理です」という返事をするしかなかったが、田代さんは「しないのではなく、やることを前提に考えてみてくれませんか」と説得をした。

今なら小さな照明や小さな高性能のトランシーバーなどがあり、可能性は高いが、そんなものがない時代、 指揮者の秋山さんはヘッドホーンを付け映像とおなじタイミングで演奏できるように何度もトレーニングをした。
田代さんも、譜面だけではなく、すべてのシーンを頭の中に叩き込んだ。当日は田代さんが舞台の袖の陰から、演奏開始のタイミングを指揮者の秋山さんに合図することになった。
しかし、リハーサルでは何度やっても、なかなか思い通りにできなかった。
 本番の日がきて、うまくいっていないことを知っているスタッフは、はらはらして見守っていた。
「展覧会の絵」が上映された、エンディングの場面となった。
そしてそれが、ものの見事に成功したのである。
その日の目撃者は、ほんの少数の人たちと言えるかもしれないが、「手塚治虫の歴史」の1ページを飾った出来事といえるのではないだろうか。またそれの目撃者となれたことを、感謝したい。
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展覧会の絵 虫プロフェスティバル

2006年09月30日 17時32分25秒 | 虫プロ展覧会の絵
11月11日 都市センターホールで「虫プロダクション・フェスティバル」が行われました。 
「展覧会の絵」の35ミリのフィルムはやはり開演ぎりぎり、東洋現像所へ取りに行った進行さんによって都市センターホールに運ばれた。

この日、手塚治虫先生はひとつの試みをしようとしていました。音響の田代さんが先生と何回も社長室で打ち合わせをしていました。
「それはとても無理です、素人の人にそんなことはできっこありません」
などと言う、田代さんの声が聞こえていました。
 それでも田代さんは、純真な先生の目を見ながら、その大冒険の話しを聞かされると、最後にはうなずいて「やってみましょう」と言うしかなかったのでした。

 その日手塚先生はホールの後ろに立っていました、隣で先生を見守っていました。
田代さんは開演の数時間前から、音響の連中や照明さんとめまぐるしく打ち合わせをしていました。

時間になって、都市センターホールには虫プロ友の会を中心とした観客が入り始めた。これから行われようとすることに対して莫大な費用がかかるが、観客動員数に対して換算すると、とても採算の合うという数字にははるかに遠い数字であるが、お客を喜ばせたり、驚かせたりすることに喜びを感じて、いつも金銭には換算しない手塚先生であった。

開演時間が来て、「展覧会の絵」が上映された、思った通りに観客に受けていた、映写が無事続いて、クライマックス。凱旋門の肖像たちが門を支えに戻り、安心した母子の像に涙、観客みなが感激していると、画面が実写にオーバーラップして、シンバルをたたくと同時に実際のオーケストラの演奏が始まった。
観客の驚きとどよめき、指揮者の秋山 和慶氏や演奏者にスポットライトがあたっていく。
そして短いエンディングがとても長く感じて、映写と演奏が終了。

 物音しない静けさに会場は包まれ、ぱらぱらという拍手がし始める、それが突然大砲でも撃ったかのような大音響になる。
手塚先生は私の両手を取り喜びを体いっぱいに表わした。大成功であった、手塚先生の目にも、とどめなく涙があふれていた。
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展覧会の絵 アニメーションフェスティバルへ

2006年09月29日 17時14分40秒 | 虫プロ展覧会の絵
エンディングの実写の撮影は、ムンムンする暑いさなか、杉山卓さんが立会い、東京交響楽団に冬の正装で、舞台に上がって演奏してもらって、撮影をした。
手塚先生とスタッフはラッシュ試写でその演奏場面を見たが、暑苦しい演奏はとても作品に使える代物ではありませんでした。 そこで今度は、秋風が吹く頃また全部を取り直しました。
これはほんの一例で、予算はどんどん食っていったのです。
手塚先生は、アニメーション・フェスティバル’66 の 「かいせつ」文に「いろいろな方面のかたがたにいろんなふかいご援助を頂いたが、そのご好意が無になったのではないか、と本番を見ながら首をすくめている。映画の結末については、おそらく反撥する方が多いと思うが、ぼくの好みとしてこうしたまでである。」と 書いております。

「展覧会の絵」は10月21日から11月4日まで東京草月ホールで始まる「アニメーション・フェスティバル」に間に合わせるために突貫作業となる。手塚先生の息子さんの手塚 真さんが通う南光幼稚園の園児に絵を描いてもらいキャラクターの参考にしたり。作画の女性をモデルにしてデッサンをし、過熱しすぎて、その女性を泣かせてしまったり。夜間戸外へ大きく描いた絵を立てて、 10メートル以上レールをひいて、トロッコでその絵をトラックバックで撮影したり、その撮影が1日がかりで撮影しても終わらなかったので、どこにしまおうかと苦労したり。などなど...。 それでも何とか、当日東洋現像所から上がった35mmのフィルム缶を「アニメーション・フェスティバル」会場に上映時間ぎりぎりに届けたりしました。会場ではまたまた、久里洋二さんに冷やかされたりしてしまいました。それでもアニメーション・フェスティバル」は楽しかったのですが。その日から、すぐに、11月11日 都市センターホールで行われる、「虫プロダクション・フェスティバル」に向け徹夜の修復作業とリテークが続いたのでありました。
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展覧会の絵 オーケストラが先でした

2006年09月28日 16時53分14秒 | 虫プロ展覧会の絵
まず、音楽が先に必要であった。そこで、手塚先生は、虫プロで一番音楽センスのある、音響の田代 敦巳さんに音響監督をまかせられた。
手塚先生の妹さんが嫁いだ旦那さんが東京交響楽団の方であったので、そのつてで、東京交響楽団の指揮者 秋山 和慶氏にオーケストラの演奏をお願いすることができた。
 田代さんは、手塚先生とイメージを暇を見ては打ち合わせをして、(こんな時田代さんは何時間でも辛抱強く手塚先生の手があくのをお待ちになっていた、そして先生の意を汲みいつも先生のイメージより良いものに仕上てきて、先生の絶大な信用を得ていました)
オーケストラの演奏を録音したものを先に、家庭用のテープレコーダーにダビングして、楽譜から、タイムシートに、タイミングを書き写し、タイミングシートを演出家や作画に渡しテープを聞かせました。 作画はそのタイミングシートにあわせて作画すれば、動きのタイミングが合うのでした。
田代 敦巳さんは、その作業は、大変な作業であるにも関わらず、ほとんど一人でなされたのには驚きました。そばで見ていて、そのタイミングシートに変える技術?を盗ませていただき、のちの「やさしいライオン」の時には、それを、役立たせることができました。

「展覧会の絵」は大きく分けると三つのヴァージョンがあります。

芸術際や劇場公開した、最初の作品。これはエンディングの部分が実写のオーケストラ演奏になっております。

二つ目は エンディングの部分をアニメに変えたもの。

三つ目が 富田さんが編曲したものです。

ビデオは パイオニアから発売されているもので「手塚治虫アニメワールド・ベストセレクション2)です
 何か特典が入っていて、三つのバージョンの解説でもあると勝手に解釈して、わざわざ注文して購入しましたが、見事期待を裏切られました。  富田さんのもので,何の解説もありませんでした。値段も3500円と買ってみると高いものでした。(ある街角の物語も買ったので)

最近杉並アニメーションミュージアム
http://www.sam.or.jp/index.php
へ行きましたが、そこの 視聴覚室ではライブラリーの映像を見ることが出来ました。
そこで見せていただいた 手塚治虫実験作品のDVDは内容的にも値段的にも良いと思いました。「展覧会の絵」のエンディングの実写版も入っていました。

収録作品は(本編157分)
01. ある街角の物語 (1962年/38分)
02. おす (1962年/3分)
03. めもりい (1964年/6分)
04. 人魚 (1964年/8分)
05. しずく (1965年/4分)
06. 展覧会の絵 (1966年/39分)
07. 創世記 (1968年/4分)
08. ジャンピング (1984年/6分)
09. おんぼろフィルム (1985年/6分)
10. プッシュ (1987年/4分)
11. 村正 (1987年/9分)
12. 森の伝説 (1987年/30分)
13. 自画像 (1988年/13秒)
()内は(制作年/収録時間)
となっておりました。値段的にも内容もこちらのほうが良かったですよね(¥6000以内で買えます)
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展覧会の絵 イラストレータ大塚清六氏

2006年09月27日 16時30分33秒 | 虫プロ展覧会の絵
 朝早めに出勤していた、須崎さんも早く来ていて、部屋のカーテンを開けるのが日課になっていた。その日いつも遅刻ギリギリの宮下さんが、速く来ていた。そんな宮下さんを見て2人は「今日は雨が降るね」などと、影口を叩いていた。すると、本当に雨が降ってきて、おもわず二人は顔お見合わせ、笑ってしまった。そんな日であった。 2階から週刊誌を持って手塚先生が降りてきた、開いてあるページを見せて「電話してありますので、この方に会って来て下さい」と言うのである。 その週刊誌の小説にイラストを描いていたのが、大塚清六さんで、手塚先生の目にとまったのであった。「電話で住所も聞いてあります」とメモを渡された、そのイラストの絵を見ながら、ここの描き方がとか、この線がなどと解説する手塚先生は、少年が、大発見をしたときのように、目をきらきら光らせていました。
 さっそく、住所を頼りに大塚清六さんの家へ行きました、13間道路(新目白通り)を下落合駅の踏切を渡って早稲田通りへ、13間道路を使ったのは、この頃まだ都電が走っていて早稲田通りは使いたくなかったからで、小滝橋には都電の車庫もあったころです。

その早稲田通りを中野へと戻る感じで右折、すぐ左の郵便局の道を入っていくと、住所の場所に着いたが、高いコンクリートの塀があるだけ、周りを回ってみたが、家があるのかどうかわからない。もう一度、一回りしても、門らしき物も、入り口すらも見当たらない。 困り果てて、電話をかけようと公衆電話を探したが、近くに見つからず、1度戻って大通りから電話をする。「その塀の所へ来てください」とのことで塀のところまで行くと、塀の外で大塚さんが、待っていてくださった。なんと塀と入り口が見分けがつかないようになっていて、塀の一部が入り口になっていたのでありました。

 応接間に通されると、その客室は和室の佇まいがあって、障子の向こうには和風な庭園が見えました、明かりが取り入れられるよう、大きな窓があり、庭には、竹が植えてあり、高い塀に囲まれているせいなのか、とても静かで何処か温泉宿へ来ているような、錯覚に陥ったほどでした。

 「大まかなことは手塚先生からの電話でお話してあると思いますが、週刊誌のイラストを見て、先生がとても気に入りまして、いま制作をはじめた、ムソルグスキーの「展覧会の絵」の戦場の場面に、大塚清六さんのイラストを使いたいと先生が是非にと申しておりまして。」
と依頼の趣旨をお話ししました。大塚清六さんは漫画映画にと言うことに大変興味を持たれようで、すぐに、承諾を得ることができ、社に戻って先生に「承諾を得られました」と注げました。

大塚さんは、第5スタジオに何度も足を運ばれ、手塚先生や若い作画家たちと、最後まで、参加していただきましたが、お金については、何も契約しなかったので、雑誌のイラストを描いていたほうが生活には、良かったはずだったのではと思っておりました。しかしこの頃の、もの作りの方は、「損得勘定なんてものは、まったく無かった、」よき時代であったのですね。
大塚さんは最後の打ち上げにもおいでくださり、「展覧会の絵」でたくさんの賞をもらえたことを、たいへんお喜びになって下さっていました。
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展覧会の絵 2

2006年09月26日 15時52分58秒 | 虫プロ展覧会の絵
スタッフの改編により社長室にも変化があった。
島方部長を社長室長として迎え、その下に秘書の宮下さん、長年、運転手兼秘書の須崎さん、現場のわかる人ということで、富岡 厚司さんの後任としてW3進行の下崎さん、募集で新たに入社した事務の大島さんで母屋の漫画部があった部屋に作られた。
この部屋は漫画部と使用していたが、漫画部は、中村橋駅北側線路沿い池袋方面へ、道路が突き当たりとなる、2階建ての2階に引っ越していた。

この頃手塚先生は眼鏡を作り直していた。そのめがねの度があわないせいなのか、はたまた、仕事がはかどらないせいか、いらだつことが多かった。手塚先生が原稿を描き解きは、顔を原稿に極端に近づけて描いていた。手塚先生が仕事するのは食堂側の壁際にあるピアノのそばの机か、疲れると、螺旋階段を上がった1階から丸見えの2階のへや部屋であった。社長室はいつもピーん、と張り詰めた空気が漂っていた、
 電話恐怖症であったがその時には、電話のなる音にも気を使い、電話がなる前に、受話器をとるようになった、(ふしぎに思うかもしれないが、静かな部屋だと、ベルがなる前に、リレーが入る音が、かすかに聞こえ、そのカチャというかすかな音で、受話器をとるので、音の鳴る前に出ることが出来、初めは手塚先生を驚かしました)

その眼鏡を島方室長の計らいで、再度作り直している頃だった。


前夜お話のあったムソルグスキーの「展覧会の絵」のオーケストラを注文したので、新宿伊勢丹近くのレコード店へ買ってくるように言い使った、この日は眼鏡をしきりに気にしていて、いまの仕事も遅れていて、機嫌が良いとはいえなかった。
新宿までは、フジテレビへ行く時の裏道を使って、あまり時間をかけないで買って来ることができた。手塚先生はレコードを受け取ると、すぐに螺旋階段を上って2階へ行き、レコードをかけた、すると、そのレコードは、ピアノ曲であった、「オーケストラのほうを買ってきてと言ったのに、と不機嫌そうに言うか言われないうちに、レコードを受け取り部屋を飛び出し交換に走った。
レコード店でにつくと、ムソルグスキーの「展覧会の絵」と言われたので間違っていない、一度針を通したので交換は出来ないという、それは、この頃常識となっていた。しかし負けずに、オーケストラのほうと言ったでしょう、と言い返したが、言った言わないで、小一時間も押し問答する始末であった、「ムソルグスキーの「展覧会の絵」というとピアノ曲のことで、オーケストラが欲しいのならラベル編曲と言うべきだった」と言うことまで勉強させられた。手塚先生はオーケストラのものと言っているのでこちらも引き下がれない、そこでしかたなく事情を説明して、「手塚治虫が今度アニメに使うためで、先生はピアノ曲のほうはお持ちなのだ、オーケストラが必要なのでわざわざ買い求めたのです」と説明した、しかしこんどは、手塚先生が注文したと言うことを、信用してもらえない、 「信じないなら電話を貸してください」と、最後の手段で手塚先生に電話をかけ、事情を説明、まったく信用していなかった店員も、初めは疑っていたが、やっと信じて「本来なら交換は出来ないのですよ」といいながら交換してくれたと。眼鏡の件で機嫌が悪かったので、仕事中に迷惑な電話をかけて怒られると覚悟して社に戻ったが、手塚先生はニコニコして「ご苦労さん」とねぎらってくれた。
 その夜そのレコードは壁に埋め込まれた大きなスピーカーから流れたことは言うまでも無かった。
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展覧会の絵

2006年09月25日 15時19分39秒 | 虫プロ展覧会の絵
「展覧会の絵」
手塚治虫先生は、「デズニー映画の「ファンタジア」のようなクラッシック音楽をアニメにしたい」と夢を語っていた。
そして「ぼくはねぇ、つねづね映画化したいと考えているクラッシック音楽が三つあるんですよ、それは一つはチャイコフスキーの「白鳥の湖」でして つぎには、団伊玖磨先生の 「夕鶴」 それとこのムソルグスキーの「展覧会の絵」なんですよ」と雑誌の締め切りが終わった、ある晩のこと、貧乏ゆすりをしながら、楽しそうに手塚先生は私に語った。 そのレコードを聞かせてくれたが、ピアノ曲のその曲は、まだ聞いたことがなかった。「オーケストラに編曲されているので、あしたにでも、レコードを、買ってきてください」昭和41年初秋の頃であった。
 
「展覧会の絵」はさかのぼる事、昭和40年5月に手塚先生は、「虫プロ自主作品」として、企画書を「虫プロ役員会」に提出していた。制作費は1000万円、制作日数6ヶ月、スタッフ延120名というものであった。
この企画は子供向けテレビアニメの制作で手一杯で、「こんな無謀極まりないプランは、虫プロの現状を考えると机上の楼閣だ」と当然不採用になり、この企画書は手塚先生の引き出しの中で色あせていたのでありました。
昭和41年5月末W3の終了により、スタッフの編成替えが行われた。するとスタッフに余裕が出来たので手塚先生は無理やり、何人かのメンバーを引っこ抜いた。第5スタジオにはまだ空き部屋があった。ラッキー! といったかどうか知らないが、そこに「展覧会の絵」の準備室を設けてしまった。
スタッフが決まると手塚治虫先生のアイディアはどんどん膨らんでいくのでした。
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