真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

ワンダースリー 最終回

2006年09月15日 17時02分24秒 | 虫プロW3
昭和41年1月2日日曜日午後7時からTBSで『ウルトラQ』が放送された
『W3』はそれまで視聴率20%以上をとっていたが『ウルトラQ』の放送で10%台まで落ちてしまった。 息子、「手塚 眞も「ウルトラQを」」の逸話が残っているが、家族とテレビを見ながら食事していた師が、気になる『ウルトラQ』を、まこちゃんと見た と言うのが本当なのではないか。あくまで師は作家である。

その日が来た W3の最終回のアフレコが行われそれにたちあった。
カット
544 円盤上昇し遠ざかる    (F・O)
545 (F・I) 山端から登太陽
546 花々しずくがキラリ
567 花 キラリ
568 倒れている少女(ボッコ)にしずくがポトリ
549 少女 眼を開ける、
560 起き上がる少女     少女「どうしたのかした 私」
561 少女の胸にペンダント  少女「私、どこからきたのかしら 」
562 ふたの開いたペンダント 少女「真一さん........。」
553 立ち上がる少女
554 歩いていく少女
555 歩く少女
556 歩く少女の足
557 少女
558 山々
559 丘の上の少女
    彼女の行く手には1本のみちが・・・・・・・・。
     end
映写機の音だけが響き、フイルムの終わりがリールに巻き取られて、パタパタという音が響く。映写機のスイッチが止められ、シーンとする 。誰かが拍手をすると、次々拍手が起こり、隣同士が手を握り合っている。

せりふ台本を差し出すと、その裏に愛川 欽也がサインする。すると、そのうえに、光一 金内 吉男、 プッコ 近石 真介、ノッコ小島 康男、ボッコ 白石冬美、 真一君よ! さわだかずこ、最後に石井 敏郎 さんがサインをしてくれた。いまでも宝物。
 少しのお菓子と、ジュースで慰労、これでこのスタッフでは会う事がなくなる、そんな感傷が胸を刺した。

 この最終回の放送は少し待たなければならなかった。名残を惜しむためか、または放送枠の関係でか
6月 6日(月)は 「ワンダースリー」の再放送 で「死の自動車レース」 6月13日 は 「謎の発明家」 6月20日 「フェニックス物語」 と再放送をして。
6月27日 この 52話「さよならW3 」最終回が放送されたのでした。
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ワンダースリー メモリー

2006年09月14日 16時13分45秒 | 虫プロW3
昭和41年スケジュールの苦しい中続けてきた師の講習会であったが、年をあけると、スケジュール調整がどうにもならないところまで来ていて、中止となり、そのまま再開されることは、2度と無かった。
貫徹続きで、地獄のような、W3班であったが、なれてくると、忙しい中にも、自分の時間が取れるようになった。 その思いでは苦しい中の楽しさだったので、良い思い出となり、この年になっても鮮明に残っている。
 貫徹でふと気がつくと夜が明けていた、誰かが「行こうか」というのがあいずで、進行が運転する車で近くの石神井公園に行った。日の出前の湖面には、霞がかかり、岸辺の柳の翠(みどり)が眼に優しい。三宝寺池まで足を伸ばすと、そこはまったく違う歴史の世界、今にも伝説のお姫様が湖面から現れるような錯覚に陥る。 何日も寝ていないためか、そんな幻想を見たような気がする。

 そして働く意欲が湧き出た。
虫プロには、火曜会という組合があった。労働組合というより、親睦会といったものであった。会費は、300円で入会は自由であった。冬季にはスケート大会やスキー旅行。夏季は海の家を一月借り、予約して宿泊することができた。
火曜会でスキー旅行が1月にあるため昭和39年12月22日に開設されていた狭山スキー場のスキースクール、初級へ軍曹と通った。7時から9時までなので、仕事の時間を空けて、1週間通っていた、翌年のスキー旅行の前にも初級へ通っていたところを見ると、旨くはならなかったのだろう。 スキー旅行は、志賀高原の丸池であった。たくさんの思い出ができた。
 スケート大会は、池袋のマンモスプールが、冬季はスケート場になっていて、夜間貸切でスケートを楽しんだ。
そのころ池袋駅前には、都電や、トロリーバスが走っており、駅前には靴磨きの人たちがまだ大勢いた。虫プロまでの道は泥道もあり、ドロだらけになった革靴を、よく磨いてもらった。 ボーリングが流行り始めると、火曜会主催のボーリング大会も開かれた。

 西部劇(ララミー牧場や、ロウハイド)やアクション(007ーこの映画が公開されたとき身分証明でも車の車検証でも007が入っていると映画代が半額になった)ものが流行り、モデルガンも流行っていて、2スタの駐車場で、子供のように撃ちあいごっこをしていた。多くの男性社員がアメ横まで買いに行き、モデルガン持っていた。 このころ、テンガロンハットを買ってかぶっていた、軍曹がまねをすると、アメ横へ買いに行った。次の日彼がかぶっていたのは、ドイツ軍の鉄カブト、コンバットが流行っていた頃、オヌシが軍曹というあだ名をつけた。今でも呼ばれている。
 同じ趣味の人が集まって、スポーツ関係(野球、ピンポン、バレーボール、バーベルなどを使った運動などや、エレキバンドなどが作られ、月賦でキーボードを買ってバンドへ入れてもらった。 手塚先生のお父さんの北風さんの部屋で、モデルさんを呼んで、デッサンの勉強会をしていた。 カンちゃんが入っていた写真クラブはお父さんの部屋で現像室を使って、写真の現像をした。
先生のお母さんに呼ばれて、お母さんのグランドピアノの伴奏で、うたを歌ったりもした。

APの黒川さんとトレスチーフの進藤さんが、テレビ結婚式を挙げた。スキーが上手なお二人のなりそめを、有志による結婚させる委員会が16mm撮影機で2人をスキー場などロケをして、一スタ3階で上映会をした。そのフィルムは二人が出演した「テレビ結婚式」でも使われた。そして全スタッフの祝福を受けた。

 1年経つとワンダースリー班がなくなると言うことに気がつき始め、学生時代の卒業前の寂しさが胸を締め付け始める春の終わりの頃であった。
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W3 ちょうちょ

2006年09月11日 16時18分23秒 | 虫プロW3
 W3班は制作進行さんが貫徹続きで、見ていられないと、人員の増加がされた。
プロデューサー は池内 辰夫さんであったが、実質的に現場を動かし、指揮していた、アシスタントプロデューサーの黒川 慶二郎を中心にして今までの進行の古参 小柳 朔郎、下崎 闊、神田 武之、吉村 昌輝、 中島 浩、 に新たに丸山 正雄、金沢 秀一、山田 和夫、本橋 誠、斉藤 一郎、秋沢 宏、牧元 悟、吉田 孝雄が、次々と、入社してきた。
そこで運転免許を持っていない神田 武之は演出助手、小柳 朔郎、下崎 闊は持ち前の器用さから演出助手を兼任した。

 そのご吉村 昌輝は寝る間も惜しんで作画の勉強をし、社内試験に合格して、当初の夢、作画班に移った。彼は一度作画で入社試験を受けていた、諦めきれずに、運転免許を持っていたので制作進行として、試験を受けなおし、虫プロに入ってきていた。初心を忘れず、貫徹続きのなか、寝る間を惜しんで、作画の勉強を続けていたのであった。

丸山 正雄、は自転車すら乗れなかったので演出助手出あったがすぐに頭角を現し持ち前の器用さから、文芸を兼ねた。
山田 和夫、金沢 秀一 が演出助手
本橋 誠、斉藤 一郎、秋沢 宏、牧元 悟、吉田 孝雄は進行にきまった。

一人前になるまでには時間がかかったので最後まで楽にはならなかった、それでもみな覚えは早かった。

ワンダースリー班にも、いくつかの語り草(エピソード)が残っている。何せ仕事場は戦場であった、娯楽など、ほとんど無い、制作進行はスタッフの精神的なケアーもしなければと考えていた、まじめに仕事ばかりでは、精神的にまいってしまうからで、笑いが必要であった。
ギターが弾けるものは、休憩時間にギターを弾いて、みんなでうたを歌った(このころ歌声喫茶なるものが流行っていた)またお酒が入ると必ず、泣く娘が居た、皆が面白がるので、悲しいマイナーの曲をする。するとすぐに泣き出し、また泣かすといって男お泣きして、皆を笑わす。
 丸山 正雄さんは、入るとすぐに、皆からかわいがられて、まるたんと呼ばれていた、ある日3スタの急な階段に足を滑らせ、顔をすりむいてしまった、 すぐに一スタに手当てをしに行った、とても痛い思いをしたが、彼はただでは起きなかった。
おおげさに、顔中赤チンをつけてきて、戻ってくると、おどけた表情でおどりだした、つらい仕事が続いていた時、みんなを、大笑いさせた。 この時のことは、今でも昨日のことのように、よく覚えている、つらくて、くじけそうになっているとき、大笑いさせてくれた、まるチャンのおかげで、雰囲気が、ぱっと,明るくなったのだ。でもそのことで覚えているのではなく あの時のまるたんの目を見たが、けして笑っていなかった、きらりと光るものがありこいつは、只者ではないと直感みたいなものを感じていた。
 彼はのちに、あしたのジョー班で、実質的に現場を取り仕切った、アシスタントプロデューサー、網田靖夫の影となりささえていた、そして、あしたのジョー班でマッドハウスを作った、その人が今のマッドハウスの丸山 正雄その人である。

ほかにもとつぜん、変な声で「あっ!赤いチョウちょがとんでいる~、あっ!青いチョウちょもとんでいる~......。黄色いチョウちょもとんでいる~、あ~ぁ、赤、青、黄色、きれいだな~」と気が、ふれたような声で突然やるのだ! これはうけた。
つねずね、気のふれるようなスケジュールだ!など言っているものだから、とつぜんのこれは、大うけするのであった。 仕事だけこなせば良いではなかった。あの手この手を考え、いろいろなことをやり、張り詰めた空気をなごませた、それがW3の進行であった、このことは苦しい仕事の中、楽しい思い出になったと今でも、語り継がれている。
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W3 先生を囲んで

2006年09月10日 16時49分23秒 | 虫プロW3
ジャングル大帝の第2話が放送された、 
2話の試写会の時、ディックとボウの登場には拍手が起きた 川久保 潔さん 熊倉一雄さんの歌が良く、音楽にあわせて踊ってい動きも、実に楽しくて良かった。話の中でもう1度聞きたいと思ったし、曲も1度聞くと覚えることが出来てしまう良い曲であった。
 しかし途中からアクションシーンに変わり銃撃戦のシーンと、サブキャラが亡くなってしまうシーンは、暗い話となってしまっていたのが残念との意見が多かった。

その後も視聴率は伸びなかった........。

あるとき深夜ワンダースリーに作業に来ていた手塚先生は、集まってきていた、若い人たちにそれとなく意見を聞いた。
 第3スタジオ2階の手塚先生の作業机(動画机)は杉山 卓さんと、中村 和子さんの机の間にあり、いつ見えても作業が出来るようになっていた。
周りには松尾 信吾さん、三輪 孝輝さん大貫 信夫さん、など原画家の机が並び、先生の机を中心に少し広めにスペースを取ってあった。
それは手塚先生が見えたとき、若い動画家や、ほかの、パートの人たちまでが、時間を調整して、集まってくるからでいつの間にか広くなっていたのであった。
手塚先生から、何かを盗もうと(良い意味で)眠い目を輝かせて集まってきた。
手塚先生は、若い人たちと、話をするのが、好きだった。そこから若の者の感性を探り自分の作品に生かすため、などと、穿った見方をするものもいたが、そうではなく、手塚先生は若者の心を持ったままなので、会話をするのが好きだったので、青年のように純粋であった。
話題が「ジャングル」の視聴率になって、屈託の無い意見が出た、すでに無礼講となるのであた。
「話が、大人にはわかるが、子供には、難しい、」
「独り善がりで、場面変わりが早く子供にはわかりづらく、ついていけないのでは」
「作品の質が、例えば、絵や動かし方が下手であっても、お話が面白ければ、子供は見てくれると思うのですよ、子供の空想力って、たとえ動いていないものでも、空想力できれいに動かしていますよね、私が、小さい頃先生のマンガを見ましたが、アトムもレオも、頭の中ではちゃんと動いていました」
など、遠慮の無い意見が出た。
「ウチは貧乏なので、カラーテレビは買えません、学校で、カラーテレビを持っている家の子が、やっぱりカラーテレビは良い、きれいだ、と自慢する、カラーで見られないから、劣等感を感じてしまい、だったら最初から見ないという子が増えた。親もカラーテレビをねだられても買うことは不可能、カラーテレビ、カラーテレビ、と宣伝するものだから、親もカラーの番組は見せないのだ」
などと言う意見まで出た。

「やはり手塚先生がお話を作るのが、子供の心を知っているので一番良いと思う、せめて先生が校閲して意見を言うのが良いのではないでしょうか」
と言う意見になってしまった。
W3のスタッフは、こんな風に手塚先生と話が出来ることが、幸せだと思い、話すうち、ますます手塚先生を好きになってしまっていた。
「いっそうのこと演出家のための講習会を開くことが出来れば良いのに、時間的には不可能でしょうが、実現すれば、私たちも是非参加させていただき、教えを頂きたい」と言う無鉄砲な意見まで出た。
 「講習会を」の要望に手塚先生はしばらくの間悩んでいた。役員に相談しても「講習会なんて、とんでもない」と頭から否定されるのはわかりきっていた。でも手塚先生の心には、長くそのことが気になっていた。
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W3 手塚先生が演出家のための講演を開いた

2006年08月08日 16時26分23秒 | 虫プロW3
その後も初めの1クール(13本)は無事に終わった。
7話「シバの女王」 演出柴山 達雄
8話「サーカスの怪人」杉山卓
9話「沈むな太陽」杉山卓
10話「ミイラ工場」 高橋 良輔
11話「北の谷の決闘」手塚 治虫
12話「モグラモチ計画」 虫プロ演出家たち
13話「食鉄魚」高橋 良輔
14話「野犬の砦」杉山 卓
とワンクールと一本が終わる。11話以外は若林 一郎さんが脚本を書いてくれたがツー・クール目からは、文芸のスタッフたちが書くことになった。

 相変わらずの忙しさにも関わらず、手塚治虫先生はそのために演出家のための講習会を開いてくれることになった。
場所は第一スタジオ3階 時間は午後7時から9時までの予定となり、毎週一回開かれた。 何日も寝ないで仕事をしていた者も、なんとか時間をあけて出席した、入社したての進行は、将来の夢のためにと準備を手伝い、一番前の席に陣取って熱心に講義を受けていた。

内容は既に昔のことで忘れてしまったが、それでも記憶を聞いてまとめてみたので書いてみる。
(1)テーマを立てる
そのストーリーの中でいったい何を言いたいのか。

(2)プロット(構想)
テーマを決めそれをどのような話で進めるのか

(3)ストーリー作り
  脚本を書くに当たってはまず
 ○「シノップス」を作れと言う。
 それはまず「簡単なストーリー」を初めに作ることから始まる。
次には
 ○ 「箱書き」
   事件の山場や、息抜きの場面 などクライマックスに向け大まかな全体像を書く
そして
 ○ 「シナリオ」 にする、
  せりふを書いたり、動きや背景なども書く
 場所などの時代考証や設定も大切なことである。

 ○キャラクター
   登場人物のキャラクター(人格)付け

敵役 悪役と言うのではなく、主人公と意見が合わないとか、ケンか相手、憎まれ役となるこれを旨くえがけば、主人公が引き立つ。

三枚目 (これは歌舞伎で名札の一枚目は主役(たて役)二枚目が敵役、三枚目がこっけいなことをする役であったことから)
主人公にはできるだけこっけいなことはやらせず。 サブキャラにやらせ、視聴者を笑わせ、楽しくさせる役。

複線:これはとても大切で複線を張っておく事で、視聴者がこうなるのではと想像できる、そしてストーリーの展開と想像どうりかどうかで 聴視者の興味を倍増できる大切なテクニックである。

楽屋落ち
仲間内で受けるギャグで、まったく知らない視聴者にとっては、ギャグでもなんでもなく、無駄なシーンとなることが多い。 アトムの初めの頃スタッフの似顔絵がサブキャラででていた、試写でスタッフに大いに受けたが、アメリカ売りの時、誰も笑わず 面白いシーンではないと気がつき、これはいけないことだと気がつきすぐに反省するのが手塚先生の良い所であった。

下品なギャグ
汚いギャグ
卑猥なギャグ
暴力
子供の漫画映画である。少しでも悪い影響を与えるものでは、あってはならないといっていた。
そのご流行った、ドリフターズなどのギャグを見て、うえに書いた禁止事項がすべて当てはまるのに、嫌な思いをしたが、現代そんなのは当たり前の時代になってしまい、感覚も麻痺して、目くじらを立てるほうが、変な人と思われる時代と変わってしまった。
演出上の注意点
大きな一本のテーマ
えだはとなる筋は軽くして途中で消したり本筋へ戻す。
筋の運びは、滑らかでわかりやすくする
先細りにならず、一から最後まで貫く。

中心となるテーマを途中でそらしてしまわない
横道にそれたストーリがなお枝葉に分かれてしまい
本来のテーマがわからなくなってしまう。
悪い例として
尻切れトンボになってしまう。
筋がギクシャク固い
独り善がり
こんがらがっている
意味の無いふくらみがある。

などが講習会の内容ですが、以上が必死になって思い出せたことです。
当時のノートなどが残っていれば、宝ものとなったでしょうね。
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ワンダースリー 演出家座談会

2006年08月06日 15時53分53秒 | 虫プロW3
 第4話「くすのき物語」演出柴山 達雄さんと斉出 光布さん このお話はアトムでも使われたし、のちの ふしぎなメルモや 森の伝説 などでも使われている、手塚先生お気に入りの話であった。
第5話「浮かぶ要塞島」 演出は鈴木 良武さん ほか何人かがお手伝いしたので、虫プロ演出部となっております。

「十年ひと昔」というが10年過ぎた昭和53年7月、手塚治虫アニメ特集の中で「演出家座談会 W3を語る」がありましたが、 参加者は杉山 卓さん 、高橋 良輔さん、月岡 貞夫さんでありました。
高橋:ところでW3をやってて、ぼくが一番つらかったのは、第6話「摩天楼動物園」ですね。 これはもうやめちゃった漫画家志望の山室くんと、斉出君が絵コンテを書いたんですよ。
二人は漫研で一緒だったから、絵はよかったんですよ。
 で、その絵コンテをもとに、ぼくが演出したんです。
ところが、撮影アップの日になって、よくよく計算してみたら3分足りない。
月岡:で、どうしたわけ?
高橋:調べたら絵コンテ自体が足りない。
その3分をどうにかしなくてはいけない。だけど、どうにもならないから、先生に泣きついた、
「じゃ、ボクがライブを使って作りましょう」と言ってくれたんです。
杉山:やっぱり手塚先生だな。
高橋:それで手塚先生が全部作ってくれるんなら、ぼくはもう土下座して喜んじゃう、て感じで居たんだよ。
月岡:そうだろうねえ。
高橋:で先生はライブの部屋に行って、あっという間に1分半のカットを取り出した、そして、
「ボクの分担はここまでです。後半分は良ちゃんやってください」
だもんね(笑)
月岡:それでやったわけ?
高橋:その頃はもう何日も寝ていなかったので、先生がライブで作っているのを受け取っていても眠くてねえ。寝ていないから寒くも無いのに体にふるえが。来る
杉山:そうだったの
高橋:「それじゃあとの一分半はよろしく」って言われてもぼくの処理能力なんて先生のスピードの十分の一も無いもん。
月岡:手塚先生はすごいもんね。
 月岡貞夫さんは当時独立して、田無の白亜の邸宅で仕事をしていた。今のシチズン田無工場の踏切を渡って左折したあたり。背の高いとうもろこし畑がまわりにあった。
このとき使用したライブカットはアトムのロボットが、合体するシーンなども使っています。
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ワンダースリー 鈴木良武演出家の思い出

2006年08月04日 15時31分30秒 | 虫プロW3
ワンダースリー 鈴木良武演出家の思い出
第3話「シャングリラの謎」を担当した鈴木良武演出家は当時を思い出して次のように書いていました。
絵コンテの校閲をやっとのことで終わらせて、演出と各パートの監督や、チーフとの打ち合わせにこぎつけた。そこへ、たまたま仕事を終えた、手塚先生も来た。そして「ボクも原画を描きますから、任せてください」と言われた。手塚先生のその言葉は本来なら大変ありがたく、感謝しなければならない、しかし、今までの経験が、それがどういう結果になるかは、想像しなくてもわかっていた。「ああ!これは遅れるぞ」内心叫んでいた。
進行に再度スケジュール表を作り直すように指示した、放送日から逆算して、最悪ぎりぎりのスケジュールを立てた。もちろん師には言ってはいけない。そして最悪師が遅れても穴埋めできる範囲で師に作画をお願いした……。
 鈴木演出家は進行だけに任せておけず、催促するために、漫画部のある母屋の一階を訪ねた。既に何日も前から雑誌の編集者たちが詰めていた。輪転機を止めてまで師の原稿上がりを待つこともしばしばあったという。そんな編集者たちにとって、映画部のスタッフは手塚先生の仕事能率を下げる、目の敵であった。一斉に鈴木演出家に鋭い視線が注がれた、 余りにも激しい視線に一瞬たじろいだが、放送日が迫っていて譲ることはできない。
「先生もう間に合いません、原画なら他の者でも描けますので、もう任せてください」
編集者たちは、校閲ではなく、作画と聞いて、さらに険しい表情になった。
 が、手塚先生はそれでも引き下がろうとしなかった。
「いま、描きますから。いま、これがちょっと終われば、すぐできますから、待ってください。あと少しですから。もう手を着けてあるんですよ、もうちょっとで仕上がりますから……。」
 実際にはまだ手付かずであった。本当に作画をしたくてしょうがないのであった。そのために口からでまかせを言っている。 こんな時は本当にまだ子供のようであった、嘘とわかる事を駄々っ子のように言う。スタッフはそれを痛いほど知っている、でも放送を落とすわけにも行かない。
良武さんは引き下がった。
「あと1日だけ待ちます、本当にそれ以上は、無理ですから、よろしくお願いいたします」と、待つことによって、とんでもないことになるのは承知であった。
 次の日も上がらなかった。背景は何とかなるにしても、動画とトレス、彩色がある、トレス、彩色の女性が、そのカットを仕上るために、昨日から深夜まで待機している。既に2日目皆疲れきっている。これで穴が開くことが、確実となってしまった。仕方なしに、良武さんは、ライブへ行き、今までのカットやアトムのカットを、片っ端から探して、師の秒数の穴埋め作業を始めた。そして漫画部へ「手塚先生の作業中止を伝えた」
しばらくすると3スタに師がやってきた。良武さんと進行に、興奮して怒鳴った。
「どう結うことですか!ボクはいつもいいものを作ろうと思うから、ぎりぎりまで粘るんです、ぎりぎりになっても、いいものを作るんです」
すでに作業は撮影が終わるところまで行っている。東洋現像所の、フィルム引取りの定期便は、7時過ぎには来てしまう。終わったフィルムは即日ラッシュで現像してもらうため、もう何日も寝ていない、進行がこれから五反田まで飛んでいく。
良武さんは、手塚先生の思いも十分わかるし、進行さんの立場は痛いほど理解できている、その板ばさみになっていたたまれず、ただうなずいて、手塚先生の怒りを受け取るしかなかった。
穴見常務が、とんできた、
「師の言うことは良くわかります、スタッフも手塚先生の志を知らないわけではありません、ですから穴があいてしまうぎりぎりまで待ってくれていたのです、けして悪意はありません、今日のところは、どうか怒りを納め勘弁してください」
 穴見常務は手塚先生と映画部の間に入ってなだめる役でもあった。
穴見常務は手塚先生にほれ抜いて手塚先生と一緒にそのロマンをかなえたいと言う思いで虫プロへ来た。そのロマンを果たすために作られた、虫プロダクションを運営するために、手塚先生師に我慢をさせなければならないと言う矛盾に頭を悩ませ葛藤していた。
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W3  手塚先生 第1話を演出

2006年08月02日 15時03分00秒 | 虫プロW3
手塚治虫は第1話「宇宙からの3匹」の演出を受け持った、その話の内容は、まだ誰わからなかった。それは、手塚先生の頭の中にあったからで、手塚先生は雑誌と同じストーリー展開で行くのか、新たにテレビ用にお話を作って行くのか、考えていた、テレビ用に新たに作ろうと決めかけていたが、その話もいくつかあるので、迷っていた。そして、雑誌の締め切りにも追われ、6月の放送開始日はどんどん迫っていた。とうとうスケジュールがなくなってきてしまい、脚本家の若林一郎さんに来ていただいて、2話、3話のアイディアーを口頭で伝え、先にシナリを書いてもらうことにした。
1話の絵コンテがやっと上がると、手塚先生は自分でも原画を書くと言い出した、が、折角の申し出も、すでにスケジュールがなくなり、数カットで、我慢してもらうしかなかった、それでも、担当した進行は遅れに遅れるため、死ぬ思いをしなければなかった。
そんな経緯は「鉄腕アトム」のころからで、手塚先生の虫プロでの映画部と、漫画部のスケジュールをうまく処理することができれば、円滑にできるのでは、という話がプロデューサー会議などで出てきた、手塚治虫は常にスケジュール地獄の中であがいていたのでありました。
「虫プロ映画部から手塚先生専任の進行係を立て、雑誌編集者とのスケジュール取りをスムースにしようよ」 と言う提案が出ました。 しかしその役目は「地獄の底の、そのまた底を、這い摺り回る事、」になることは、判りきっていたのです。そんな役回りを引き受ける人などいない、そのため上司も指名する事が、できませんでした、また指名できたとしても、指名されたものがハイそうですかと簡単に引き受けるような、無謀な者が居る筈もなかったのでした。
ことは一刻を争うだけに、プロデューサー会議では困惑しきっていました。そんな時一人の男が、敢然と名乗り出ました、その勇気ある男こそが、富岡 厚司さんであったのです。
真相はカッパさんが(こういうと怒られてしまうが、みんなは愛情を持ってそう呼んでいました)無理やり押し付けられた、という人もいますが、いずれにしろカッパさんは、思慮深い方で、何の策も無く、心身の限界を超える、無謀とも言える、そんな役回りを引き受けるわけが無かったでしょう。その証拠に約1年間、実に見事に手塚先生進行係の職責を全うしたのでありました。
手塚先生は、第一話では原画だけではなく動画まで書き上げています。その悪役のしゃべりの口の動かしかたの見事さに、作画家たちや、アフレコタレントさんたちが、感嘆の声を上げました。
2話「24時間の脱出」はチーフディレクター兼任作画の杉山 卓さんが絵コンテと演出を担当されました。「ワンダースリー」班では外注が多いので、作画を統一するために光一担当の杉山 卓さん、松尾 信吾さんをブッコ作画担当に、三輪 孝輝さんをノッコ作画担当に、ワコさんはボッコ作画担当に決めて、作画の絵の統一を図りました。第3話「シャングリラの謎」の絵コンテは鈴木 良武さんが描いて演出も担当しました。
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W3 雨夜のしなさだめ

2006年08月01日 17時58分13秒 | 虫プロW3
前に書いたようにW3のスタッフが足りなかった特にベテランの原画を書く人が不足していた、穴見常務の奥さんとなり、家庭に入られた和子さんを、手塚先生は貸してくれるよう穴見さんに頼んだ、
穴見常務は和子さんに「とにかく家のことはいいから、先生が困っている、助けてやってくれ」 と言った。 
その人 中村和子さんと手塚先生との出会いは「西遊記」東映時代であった。当時から「女優さんが間違えてスタジオへ入ってきてしまった」と守衛さんが思うぐらい、とてもきれいな人でありました。
虫プロの創立以来アニメーターとして、活躍していただいたが穴見さんと結婚をして家庭に入っていたのでありました。
 嘱託という形でW3班へ来てもらいウサギのボッコを主に担当しました。
 文芸課長のアオさんもこのように言っていました
「この人だけは、いつも、毅然たる態度で仕事に没頭していた、もっとも、この女性の場合、たとえこちらに想いがあっても、その美しさを眺めるだけ、」

 さすがのアオさんでさえ触ることができなかった。と述べている。アオさんがそうなのだから、ほかの男性人も同じであったと想像できる。 続けて

「テレビ漫画映画はこの当時のすべてとは言わぬが、多くが相当いい加減な作り方をしているように思う。制作日数と人材の不足がその原因である、作り手として絶対妥協してはならない事があるはず、その一線を守ることができないなら映画作りの基本をないがしろにすること。アニメの粗製乱造ぶりのもとを正せば、結局作り手一人一人の意識に問題が帰する事になろう」
           とアオさんは嘆きました、さらに

「とはいっても、そういう現状を憂い、なお、アニメーション作りの原点を見失わない人たちも多い。その1人として、オレはワコさんを挙げたい」

「大袈裟な言い方をすれば、ワコさんこそ、アニメーション作りの本質を担っている人いや本質そのものだ」

「ともすれば制作日数が足りないばかりに、ともすれば手を抜いてしまうことがあった。そんなとき、ワコさんに会うと心が何か清清しい気分に満たされ、力強い覇気が蘇ってきたものだ」
最後に
「ワコさんはアニメーション作りの本質を頑なに守り続ける人、ゆえに、ともすれば、一部の心無い者達から、煙たがられる、それはとりもなおさず、アニメーター中村 和子に対する憧憬の裏返しだ。」

「師の全幅の信頼を受けている。このワコさんに対する信頼こそ、オレの言葉を裏付ける証明だ」。彼女はいわば、アニメ界の女王なのであります。」
        と結んでいます。
またこんなエピソードもありました。
 ある雨の夜、手塚先生から「あぁ!ぼくですがね、手が空いていたら遊びに来ませんか」若い進行や演助に遊びに来ないかとの電話でありました、場所は手塚先生のお母さんの部屋でした。お酒は出なかったがジュースや、お茶、お菓子など、お母さんが運んできてくれました、若い人と話すのが好きであったお母さんであったが、その時は深夜であったので、遠慮して別の部屋に行て男だけになりました。
先生は若い人から話を聞くのが好きで深夜に仕事が上がり、編集者がいなくなって誰もいなくなると、すぐに眠れないので、(何日も寝ていないのですぐ寝れると思うと興奮していて眠れないことって、ありますよね)
そのうち男同士、「虫プロで1番きれいなのは誰だろう」という話題になりました。なべ子さんや、宮下秘書さんの名前が挙がりましたが、やはり文句なしに、ワコさんが一番ということになったのですが、だれかが「先生も好きなんでしょう」と聞いきました「好きですよ」と先生はすなおに答えました。「奥さんに申し訳ない、なんてことを聞いてしまったのだろう」とその場のみんなが、思ったのですが、それは違っていました。 その好きですが「異性」に対する感情ではなく、アニメの同志ということであると全員が理解できたのですが、そのことを旨く説明できないために、誰も現在まで外部に話しませんでした。 その事は「源氏物語」をもじって、仲間内では「雨夜の品定め」として心のうちに仕舞い込んでいました。  最近になって韓国ドラマ「ホジュン」を見ました。演出がよい作品だと思っています。その作品を見て、手塚先生が抱いていたワコさんに対する感情は「ホジュン」が「イェジン」に描いている感情と同じであると理解できました。
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W3  手塚先生の校閲

2006年07月31日 17時07分50秒 | 虫プロW3
アニメ関係者が手塚先生との打ち合わせで、母屋の仕事場へ先生に行くのは、何日も泊りがけで待機している雑誌編集者が殺気がった目でにらみつけるので、大袈裟に言えば、命がけであった、会う約束をしていて、その時間に行っても、会うのは不可能で、必ず何時間も待たなければならなかった。  母屋の仕事部屋は、玄関を入ると大きな下駄箱があり、そこでスリッパに履き替える。左のドアが漫画部の仕事場であるが、秘書に来ている事を伝え、直接入るのは控えていた。左のドアに部屋があり、雑誌の編集者の待合室になっていた。部屋は8畳ぐらいの部屋で、押入れがあり,そこには、寝具が備えついていた。各社の編集者の「手塚番」と言われる、猛者たちが、すきさえあれば先に自分の原稿を入れようと、お互いの動向に鎬(しにぎ)を削っていた。秘書に来ていることを伝えても、必ず「少し待っていて」と言う答えが返ってきた。そこで待合部屋で待つわけだがなにより、殺気立った編集者たちの目線に耐えなければならなかった事がつらかった。朝から待っても夜遅くになるのは毎回のことであった。うっかり食事などで席をはずしたりすれば、順番がとばされるので、待っている間は、飲まず食わずになってしまう。そう言う意味で「命がけ」であった。やっと時間がとれて、シナリオライターとの打ち合わせとなるが、次から次へとストーリーが口から出てくる。時には細かい演技のことまで矢継ぎ早に話す。そして待っていた時間に比べると、打ち合わせはあっという間に終了。 そこから初めてシナリオライターの仕事が始まった、約25分の話にまとめるのが大変で、なれると、原稿用紙の枚数で、その分数にまとめることが出来た。  シナリオが上がると、こんどは手塚先生の校閲がありました、こんどもまたまた何時間も待たなければならず、雑誌の締切日になど重なると、何日にも及ぶことも多々ありました。やっと校閲にありついても、書き直しが出て、また校閲を受けるために待たなくてはならず、スケジュールを取られてしまいました。  シナリオが校閲が済むと演出家が絵コンテを書きましたが、この頃は絵コンテ専門の人がいるシステムがまだ無く、進行から演出家になった、絵がかけない人がどんな苦労をしたか、仕事の合間に絵の勉強をどんなにしていたか、想像してほしいがわからないでしょうね。 絵コンテも手塚先生の校閲がありました。というより絵コンテのほうが熱が入っておりました。リテークと言いますが、やり直しが、何べんもでます。1回でOKになることはほとんど無かったです。 予断ですが高校のときにそろばんと簿記の試験が受からないと卒業させないという噂が立ちました。そろばん塾へ通い、簿記も必死に勉強してなんとか3級を取りました。進行でそのことが役に立ったのでした24コマで1秒右の桁を、24進にして。60秒が1分だから、次の位を60進にして計算する。 今まで進行さんは暗算でメモしながら秒数計算をして何時間もかっていた。アオサンが暎一さんとの時に計算を間違えて、余分に作画をさせてしまったという伝説が残っている。わたしはそろばんを使って、数分で計算を終わらせることができた、間違えは無かったが念のため3度やっていた、必ずあっていたので、演出家たちに信頼された。その計算方法を制作事務の女性に教え、みんなが苦痛におもっていた秒数計算が改善されました。  絵コンテが上がると 演出家が各パートと打ち合わせをするのでありますが、ワンダースリーでは、打ち合わせ時間を手塚先生に連絡しておかなければなりませんでした。 忍者のように抜け出してきた手塚先生が、打ち合わせに立会うと、「ぼくがやります」といって、何カット分かの、作画を持って行きますと、悲劇が始まり、スケジュールを守って上がるわけが無く、進行やスタッフが死ぬ思いをすることになってしまいます。  それでも、手塚先生のうれしそうな、その姿を見ると、誰も文句を言えず、やっと上がってきた動画は、見せて、見せて、と作画班のものたちの取り合いになりました。手塚先生が上げる動画はそれほど素晴らしかったからでした。
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W3班と手塚先生

2006年07月30日 21時26分09秒 | 虫プロW3
W3は原作とは違う路線で行くことにした。母屋から抜け出し、3階の屋根裏部屋で、企画会議がよく行われた。制作プロデューサに池内 辰夫さん しかし実際の現場を仕切っていたのはアシスタントプロデューサー(AP)の黒川慶二郎さんでありました。
「ワンダースリー」班が組まれたある日 3スタのワンダースリーのスタッフに召集が、かかりました、皆ぞろぞろと、1スタ3階に集合しました。屋根裏部屋には手塚先生が待っていて一人一人に訪ねましたた。
「きみは、何やりたいんですか?」と
鉄腕アトムの進行をしていたものは、将来アニメ界花形の演出家になるのが夢であった、そのためにはアニメの演出家は絵コンテが書けなければならないのでした。彼らが仕事の合間に絵の勉強をしているのを、師はちゃんと知っていました。
多くのスタッフは
「演出をやりたいです」と答えましたが
手塚先生は即座に
「いいですよ、がんばってください」
と答えたといいます。ちゃんと見ていたのですね。
また
「シナリオを書きたいので文芸に進みたいです」
 なにも知らないものが、それを聞けば、何を勝手なことばかり言うんだと、怒るに違いないのですが、手塚先生は良く見ていました。スタッフそれぞれが、持っている将来の夢に向かって、勉強をしていることを知っていたのです。
ほとんどのものに「OK」を出し、希望するものをやらせてくれました。それが「W3」班であったのです。
 アトムの時、W3班の演出家が何をしていたかを調べると、述べたことがわかって面白いはずです。

 進行が、いなくなっってしまいました。動画家も足りない。そこで新聞広告に小さな募集を出しました。ものすごい数の応募があり、書類審査で1日で面接できる数に絞りました。第二スタジオで、入社試験と、面接が行われました。 第二スタジオ1階に伸びた廊下は古びた病院みたいで、同じような長いすもあり、次に呼ばれる順番を待つものが腰掛けていましたが、数が多くて、手前には立って並んで待つ人が、外の駐車場にまで、列を作っていました。その中から。動画4人と進行4人が新たに「W3」班の仲間に加わることが出来ました。
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W3 第3スタジオ

2006年07月23日 21時04分41秒 | 虫プロW3
W3(ワンダースリー)班は、アトムや手塚先生の意向を無視(言い過ぎ)しスケジュールと予算を重視した「ジャングル大帝」班とは違って、TCJが複数本制作しているのと同じように、テレビ番組を複数制作する目的で急遽作られました。「ジャングル」は放送開始まで1年以上の準備期間があったのですが、W3は半年もありませんでした。ワンダースリーは手塚先生の原作が雑誌で同時連載されていて、手塚先生の意向に沿って制作されているため、手塚先生の校閲などでスケジュールがなくなってしまうことは、初めから想定できており、深夜残業や貫徹など体力と精神面で屈強のスタッフが選ばれておりました、その結果は、最も手塚先生を尊敬するスタッフの集まりとなったのは当然のことだったでしょう。虫プロ本来の原点は手塚先生を、中心にして制作していく事でしたが、それが難しくなりつつありました。初心に帰ろうと、W3に手塚先生は心躍らせ、情熱を傾けたが、余りにもの雑誌の仕事の多さに、かえってその情熱があだとなってしまいました。ワンダースリー班の現場は、第3スタジオでした、2スタより、少し離れたアパートで、二階全部と、下の部屋2部屋でありましたが、まだ他の2部屋は住人が住んでいなした、下の手前通りの部屋は、お茶屋さんの倉庫として使われていて、茶箱が、かさねて置いてありました。二階の部屋の仕切りは取り外して、柱だけが残っていて、広い部屋にしてあり、衝立やロッカー、机などで、かくパートごとに仕切っていました。 道路から入る2階への階段は急で、いつも便所臭かった、思い出です。
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ワンダースリー事件

2006年07月18日 20時46分52秒 | 虫プロW3
 そんな時にワンダースリー事件が起こった。
「宇宙少年ソラン」にも関わっていた豊田さんに疑いの目を向けるものがいた。いつの世にも才能あるものは知らないうちにねたみを買い、足を引っ張られる。ナンバー7に引き続いてのトラブルに手塚先生は心身ともに参っていた、こんな時悪魔はささやく、論理立てたその、ごちゅうしんに、師は信じてしまった。1度信じてしまうとすべてのことが、悪いほうに思い当たる。そんなはずは絶対ありえないという、アオさんの声にも耳を貸さなかった。
「豊田君っ!困るじゃないですかっ!きみが、あんな安易な仕事をしているとはおもわなかった」
「は、はいっ!」
「あのソランのシナリオは、なんですかっ!アトムのイルカ文明とまったくおんなじですっ!」
「でも、あの時はイルカでこれは人魚です」
と言い訳するのが精一杯で、手塚先生に頭から怒られたら、あたまが真っ白になって、弁解など、とてもできないのであった。
 手塚先生は頭に血が上ってしまい、信頼していたものに裏切られたと言う思いに駆られて、「可愛さ余って、憎さ百倍」なのであった。
 企画室では文芸部課長のアオさん以外、声を出して、かばう人はいなかったのだ。
そして豊田さんは虫プロを去って行った。  その後アオさんも虫プロを去ってしまった。人が集まると、派閥ができる。家庭的なというには、虫プロは、人が増えてしまい、300人になろうとしていた。
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かなふり事件

2006年07月17日 20時36分49秒 | 虫プロW3
私の先輩であり、社長室の頃いつも「君が守ってあげなければ、ダメじゃないか」とお叱りを受けていた、アオさん(石津嵐)のお話
 「鉄腕アトム」で文芸課長であったが、手塚先生の紹介で豊田有恒さんは文芸部に入ったという。かなりの秀才で家が医者東大の理Ⅱと慶応大学医学部に合格した経歴を持った人、医学を選んだと言うことで、手塚先生も大変気に入っていたようであった。
またこんな伝説も残っている。
 山本 暎一さんは、豊田さんの書いてくるものはなかなかよく、大きな戦力になったといっている、しかし、時には才気走ったものもあったので、上がったシナリオを手塚先生の校閲を受ける前に暎一さんが校閲して「子供には難しすぎる」と修正を求めた。「僕はそうでもないと思う」と言い返し、何回かやり取りがあってののち、山本暎一さんは「絶対難しいので、もっとやさしくしろ」と修正を命令した。次の日、暎一さんのもとへ、アオさんが「豊田さんが忙しいのですぐ帰らなくてはならないのでと、暎一さんに渡してくれと置いて帰ったよ」と修正シナリオを持ってきた。「下まで来たなら持って来いよ」とつぶやきながら修正シナリオを見て暎一さんは驚いたと言う。文章は前のまま、まったく、なおしていなかった、ただ漢字に、すべてふりがなが、ふってあった。
 子どもに難しくて読めないなら、漢字に振り仮名をふれば読めるだろう。そう言っているのである。そんな豪傑でであった、
豪傑と言えばアオさんも、進行の時に、伝説を残している。
「遅い」と怒られ免許を持っていなかった彼は「電車でまわったもので」と答えた、「急いでいるんだタクシーでも使え」と言われたそうだが、次の日彼はタクシーを1日中使って、外注回りをした。領収書を出された経理はその金額にびっくりした、しかしかれの上司は、怒れなかったと言う。そんな豪快な話も残っている。 その文芸課長の親友である豊田さん2人で何かあったのではと、想像したくなる漢字かなふり事件、下衆の勘ぐりかな。 そんな豊田さんに手塚先生は絶大な信頼と彼の才能にほれ込んでいた。
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W3 (ワンダースリー)

2006年07月11日 20時00分55秒 | 虫プロW3
昭和39年に「ジャングル大帝」の企画の放送が決まった。 昭和40年初めに「鉄腕アトム」と「ジャングル大帝」との班わけでスタッフ入れ替えプロデューサー会議が開かれた、「ジャングル大帝」が必要な人員、150人を取った。「鉄腕アトム」班は最小限必要な人員90人を選んだ。そうすると25人が余ったので、これをどうするかで会議はいきずまり、 その25人の対策で手塚先生はワンダースリーの放送企画が決まった。これもまた伝説となった。
 鉄腕アトムで 手塚先生が校閲することで、スケジュールが遅れてしまい、結果貫徹続きの生活が続く、体を壊したり辞めて行ったりする人も出た。 始めは手塚先生をしたって入ってきた人たちも、背に腹は変えられなくなり、手塚先生を呪う人まで出てきた。虫プロを企業として成り立たせるには。手塚先生の校閲待ちを、なくせば良いことは分かりきっていた、そこでその方法を試みたのが「ジャングル大帝」であった。社内には公然と手塚派を名乗る者が出てきた。  ほんらい手塚先生を慕って入った社員、全員が手塚派のはずなんだが、現実は違っていた。その手塚派と思われるものたちが、スタッフ選びからはずされた。手塚派は疎外されたのである。 ワンダースリーは、もとはナンバーセブンの企画であった。事情で中止となったが、その放送枠で、急遽「ワンダースリー」を放送することになった。 これは雑誌に連載し、脚本からすべて手塚先生のやりたいようにする ものであった。「W3」は最初、「少年マガジン」の昭和40年3月21日号より連載が開始された。その時点でTV化も決まっており、人気も相当なものであった、にもかかわらず、第6回で何の予告もなく、突然終わってしまい、どうしたわけか「少年サンデー」誌上で連載が開催された。
 不評の漫画がこれからというときに終わってしまうことはあるが、なぜこんな事件が起きたのかは、謎とされている」と言うのが当時の事情であり社員もこのように思っていた。
 また手塚先生はこの件についてはかなりの間、口外しなかったが伝説は生きていた。
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