真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

W3 手塚先生が演出家のための講演を開いた

2006年08月08日 16時26分23秒 | 虫プロW3
その後も初めの1クール(13本)は無事に終わった。
7話「シバの女王」 演出柴山 達雄
8話「サーカスの怪人」杉山卓
9話「沈むな太陽」杉山卓
10話「ミイラ工場」 高橋 良輔
11話「北の谷の決闘」手塚 治虫
12話「モグラモチ計画」 虫プロ演出家たち
13話「食鉄魚」高橋 良輔
14話「野犬の砦」杉山 卓
とワンクールと一本が終わる。11話以外は若林 一郎さんが脚本を書いてくれたがツー・クール目からは、文芸のスタッフたちが書くことになった。

 相変わらずの忙しさにも関わらず、手塚治虫先生はそのために演出家のための講習会を開いてくれることになった。
場所は第一スタジオ3階 時間は午後7時から9時までの予定となり、毎週一回開かれた。 何日も寝ないで仕事をしていた者も、なんとか時間をあけて出席した、入社したての進行は、将来の夢のためにと準備を手伝い、一番前の席に陣取って熱心に講義を受けていた。

内容は既に昔のことで忘れてしまったが、それでも記憶を聞いてまとめてみたので書いてみる。
(1)テーマを立てる
そのストーリーの中でいったい何を言いたいのか。

(2)プロット(構想)
テーマを決めそれをどのような話で進めるのか

(3)ストーリー作り
  脚本を書くに当たってはまず
 ○「シノップス」を作れと言う。
 それはまず「簡単なストーリー」を初めに作ることから始まる。
次には
 ○ 「箱書き」
   事件の山場や、息抜きの場面 などクライマックスに向け大まかな全体像を書く
そして
 ○ 「シナリオ」 にする、
  せりふを書いたり、動きや背景なども書く
 場所などの時代考証や設定も大切なことである。

 ○キャラクター
   登場人物のキャラクター(人格)付け

敵役 悪役と言うのではなく、主人公と意見が合わないとか、ケンか相手、憎まれ役となるこれを旨くえがけば、主人公が引き立つ。

三枚目 (これは歌舞伎で名札の一枚目は主役(たて役)二枚目が敵役、三枚目がこっけいなことをする役であったことから)
主人公にはできるだけこっけいなことはやらせず。 サブキャラにやらせ、視聴者を笑わせ、楽しくさせる役。

複線:これはとても大切で複線を張っておく事で、視聴者がこうなるのではと想像できる、そしてストーリーの展開と想像どうりかどうかで 聴視者の興味を倍増できる大切なテクニックである。

楽屋落ち
仲間内で受けるギャグで、まったく知らない視聴者にとっては、ギャグでもなんでもなく、無駄なシーンとなることが多い。 アトムの初めの頃スタッフの似顔絵がサブキャラででていた、試写でスタッフに大いに受けたが、アメリカ売りの時、誰も笑わず 面白いシーンではないと気がつき、これはいけないことだと気がつきすぐに反省するのが手塚先生の良い所であった。

下品なギャグ
汚いギャグ
卑猥なギャグ
暴力
子供の漫画映画である。少しでも悪い影響を与えるものでは、あってはならないといっていた。
そのご流行った、ドリフターズなどのギャグを見て、うえに書いた禁止事項がすべて当てはまるのに、嫌な思いをしたが、現代そんなのは当たり前の時代になってしまい、感覚も麻痺して、目くじらを立てるほうが、変な人と思われる時代と変わってしまった。
演出上の注意点
大きな一本のテーマ
えだはとなる筋は軽くして途中で消したり本筋へ戻す。
筋の運びは、滑らかでわかりやすくする
先細りにならず、一から最後まで貫く。

中心となるテーマを途中でそらしてしまわない
横道にそれたストーリがなお枝葉に分かれてしまい
本来のテーマがわからなくなってしまう。
悪い例として
尻切れトンボになってしまう。
筋がギクシャク固い
独り善がり
こんがらがっている
意味の無いふくらみがある。

などが講習会の内容ですが、以上が必死になって思い出せたことです。
当時のノートなどが残っていれば、宝ものとなったでしょうね。
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ワンダースリー 演出家座談会

2006年08月06日 15時53分53秒 | 虫プロW3
 第4話「くすのき物語」演出柴山 達雄さんと斉出 光布さん このお話はアトムでも使われたし、のちの ふしぎなメルモや 森の伝説 などでも使われている、手塚先生お気に入りの話であった。
第5話「浮かぶ要塞島」 演出は鈴木 良武さん ほか何人かがお手伝いしたので、虫プロ演出部となっております。

「十年ひと昔」というが10年過ぎた昭和53年7月、手塚治虫アニメ特集の中で「演出家座談会 W3を語る」がありましたが、 参加者は杉山 卓さん 、高橋 良輔さん、月岡 貞夫さんでありました。
高橋:ところでW3をやってて、ぼくが一番つらかったのは、第6話「摩天楼動物園」ですね。 これはもうやめちゃった漫画家志望の山室くんと、斉出君が絵コンテを書いたんですよ。
二人は漫研で一緒だったから、絵はよかったんですよ。
 で、その絵コンテをもとに、ぼくが演出したんです。
ところが、撮影アップの日になって、よくよく計算してみたら3分足りない。
月岡:で、どうしたわけ?
高橋:調べたら絵コンテ自体が足りない。
その3分をどうにかしなくてはいけない。だけど、どうにもならないから、先生に泣きついた、
「じゃ、ボクがライブを使って作りましょう」と言ってくれたんです。
杉山:やっぱり手塚先生だな。
高橋:それで手塚先生が全部作ってくれるんなら、ぼくはもう土下座して喜んじゃう、て感じで居たんだよ。
月岡:そうだろうねえ。
高橋:で先生はライブの部屋に行って、あっという間に1分半のカットを取り出した、そして、
「ボクの分担はここまでです。後半分は良ちゃんやってください」
だもんね(笑)
月岡:それでやったわけ?
高橋:その頃はもう何日も寝ていなかったので、先生がライブで作っているのを受け取っていても眠くてねえ。寝ていないから寒くも無いのに体にふるえが。来る
杉山:そうだったの
高橋:「それじゃあとの一分半はよろしく」って言われてもぼくの処理能力なんて先生のスピードの十分の一も無いもん。
月岡:手塚先生はすごいもんね。
 月岡貞夫さんは当時独立して、田無の白亜の邸宅で仕事をしていた。今のシチズン田無工場の踏切を渡って左折したあたり。背の高いとうもろこし畑がまわりにあった。
このとき使用したライブカットはアトムのロボットが、合体するシーンなども使っています。
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昔を書いておこう

2006年08月05日 00時50分37秒 | Weblog
 ホームページを作り始め過去のことを書こうとすると、子どものころのことが思い出され、その思い出に慕っていると、夜が白々と明けてしまうことが、続いている。なら時々は、ここに書いておくのもひとつの余興ではないかと、書いておいてみよう。
 敗戦の年、9月には、無条件降伏書に調印、その翌月14日に私は、埼玉の浦和中山道は、浦和坂通称焼き米坂といわれている、坂を上ったあたり、番場といわれている、白幡で生まれた、父の両親は父が幼くして相次いでなくなっている。家系を調べると、結核でたくさん亡くなっているので、不治の病というのは事実であったのであろう。母は3女でかわいがられて育ったらしい。その母の父のもとで、結婚生活を始めたらしいが1時弟が生まれたあたりで、岸町の仕事場の倉庫を借りて住んでいた。椎の木があり、椎の実を拾った記憶がある。そんな頃なので、多分3歳か4歳ぐらいだろう、近くに、後に白幡から通った1年保育園があったので推測できる。50銭という単位がまだあった、飴玉が買えた記憶がある。そばの通りは少し広く穴は開いていたが、舗装されていた。バスが止まっていた記憶がある、朝、薪をくべていた。もくもくと上がる黒鉛を眺めていた、木炭車だ、焼き米坂を登るとき、乗客がみんな降りて押していた、面白がって遊んでいた子供たちも押した。
 童謡歌手がそばの長屋に住んでいたという、誰だったのだろうか、記憶にない。まだ赤ちゃんの弟が、お漏らしして、玄関の外で途方にくれている思い出だけが、鮮明に覚えている。父の仕事場が火事になって、震えながら見ていたのも、記憶に残っている。でもそんなものしか覚えていないのか。
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ワンダースリー 鈴木良武演出家の思い出

2006年08月04日 15時31分30秒 | 虫プロW3
ワンダースリー 鈴木良武演出家の思い出
第3話「シャングリラの謎」を担当した鈴木良武演出家は当時を思い出して次のように書いていました。
絵コンテの校閲をやっとのことで終わらせて、演出と各パートの監督や、チーフとの打ち合わせにこぎつけた。そこへ、たまたま仕事を終えた、手塚先生も来た。そして「ボクも原画を描きますから、任せてください」と言われた。手塚先生のその言葉は本来なら大変ありがたく、感謝しなければならない、しかし、今までの経験が、それがどういう結果になるかは、想像しなくてもわかっていた。「ああ!これは遅れるぞ」内心叫んでいた。
進行に再度スケジュール表を作り直すように指示した、放送日から逆算して、最悪ぎりぎりのスケジュールを立てた。もちろん師には言ってはいけない。そして最悪師が遅れても穴埋めできる範囲で師に作画をお願いした……。
 鈴木演出家は進行だけに任せておけず、催促するために、漫画部のある母屋の一階を訪ねた。既に何日も前から雑誌の編集者たちが詰めていた。輪転機を止めてまで師の原稿上がりを待つこともしばしばあったという。そんな編集者たちにとって、映画部のスタッフは手塚先生の仕事能率を下げる、目の敵であった。一斉に鈴木演出家に鋭い視線が注がれた、 余りにも激しい視線に一瞬たじろいだが、放送日が迫っていて譲ることはできない。
「先生もう間に合いません、原画なら他の者でも描けますので、もう任せてください」
編集者たちは、校閲ではなく、作画と聞いて、さらに険しい表情になった。
 が、手塚先生はそれでも引き下がろうとしなかった。
「いま、描きますから。いま、これがちょっと終われば、すぐできますから、待ってください。あと少しですから。もう手を着けてあるんですよ、もうちょっとで仕上がりますから……。」
 実際にはまだ手付かずであった。本当に作画をしたくてしょうがないのであった。そのために口からでまかせを言っている。 こんな時は本当にまだ子供のようであった、嘘とわかる事を駄々っ子のように言う。スタッフはそれを痛いほど知っている、でも放送を落とすわけにも行かない。
良武さんは引き下がった。
「あと1日だけ待ちます、本当にそれ以上は、無理ですから、よろしくお願いいたします」と、待つことによって、とんでもないことになるのは承知であった。
 次の日も上がらなかった。背景は何とかなるにしても、動画とトレス、彩色がある、トレス、彩色の女性が、そのカットを仕上るために、昨日から深夜まで待機している。既に2日目皆疲れきっている。これで穴が開くことが、確実となってしまった。仕方なしに、良武さんは、ライブへ行き、今までのカットやアトムのカットを、片っ端から探して、師の秒数の穴埋め作業を始めた。そして漫画部へ「手塚先生の作業中止を伝えた」
しばらくすると3スタに師がやってきた。良武さんと進行に、興奮して怒鳴った。
「どう結うことですか!ボクはいつもいいものを作ろうと思うから、ぎりぎりまで粘るんです、ぎりぎりになっても、いいものを作るんです」
すでに作業は撮影が終わるところまで行っている。東洋現像所の、フィルム引取りの定期便は、7時過ぎには来てしまう。終わったフィルムは即日ラッシュで現像してもらうため、もう何日も寝ていない、進行がこれから五反田まで飛んでいく。
良武さんは、手塚先生の思いも十分わかるし、進行さんの立場は痛いほど理解できている、その板ばさみになっていたたまれず、ただうなずいて、手塚先生の怒りを受け取るしかなかった。
穴見常務が、とんできた、
「師の言うことは良くわかります、スタッフも手塚先生の志を知らないわけではありません、ですから穴があいてしまうぎりぎりまで待ってくれていたのです、けして悪意はありません、今日のところは、どうか怒りを納め勘弁してください」
 穴見常務は手塚先生と映画部の間に入ってなだめる役でもあった。
穴見常務は手塚先生にほれ抜いて手塚先生と一緒にそのロマンをかなえたいと言う思いで虫プロへ来た。そのロマンを果たすために作られた、虫プロダクションを運営するために、手塚先生師に我慢をさせなければならないと言う矛盾に頭を悩ませ葛藤していた。
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W3  手塚先生 第1話を演出

2006年08月02日 15時03分00秒 | 虫プロW3
手塚治虫は第1話「宇宙からの3匹」の演出を受け持った、その話の内容は、まだ誰わからなかった。それは、手塚先生の頭の中にあったからで、手塚先生は雑誌と同じストーリー展開で行くのか、新たにテレビ用にお話を作って行くのか、考えていた、テレビ用に新たに作ろうと決めかけていたが、その話もいくつかあるので、迷っていた。そして、雑誌の締め切りにも追われ、6月の放送開始日はどんどん迫っていた。とうとうスケジュールがなくなってきてしまい、脚本家の若林一郎さんに来ていただいて、2話、3話のアイディアーを口頭で伝え、先にシナリを書いてもらうことにした。
1話の絵コンテがやっと上がると、手塚先生は自分でも原画を書くと言い出した、が、折角の申し出も、すでにスケジュールがなくなり、数カットで、我慢してもらうしかなかった、それでも、担当した進行は遅れに遅れるため、死ぬ思いをしなければなかった。
そんな経緯は「鉄腕アトム」のころからで、手塚先生の虫プロでの映画部と、漫画部のスケジュールをうまく処理することができれば、円滑にできるのでは、という話がプロデューサー会議などで出てきた、手塚治虫は常にスケジュール地獄の中であがいていたのでありました。
「虫プロ映画部から手塚先生専任の進行係を立て、雑誌編集者とのスケジュール取りをスムースにしようよ」 と言う提案が出ました。 しかしその役目は「地獄の底の、そのまた底を、這い摺り回る事、」になることは、判りきっていたのです。そんな役回りを引き受ける人などいない、そのため上司も指名する事が、できませんでした、また指名できたとしても、指名されたものがハイそうですかと簡単に引き受けるような、無謀な者が居る筈もなかったのでした。
ことは一刻を争うだけに、プロデューサー会議では困惑しきっていました。そんな時一人の男が、敢然と名乗り出ました、その勇気ある男こそが、富岡 厚司さんであったのです。
真相はカッパさんが(こういうと怒られてしまうが、みんなは愛情を持ってそう呼んでいました)無理やり押し付けられた、という人もいますが、いずれにしろカッパさんは、思慮深い方で、何の策も無く、心身の限界を超える、無謀とも言える、そんな役回りを引き受けるわけが無かったでしょう。その証拠に約1年間、実に見事に手塚先生進行係の職責を全うしたのでありました。
手塚先生は、第一話では原画だけではなく動画まで書き上げています。その悪役のしゃべりの口の動かしかたの見事さに、作画家たちや、アフレコタレントさんたちが、感嘆の声を上げました。
2話「24時間の脱出」はチーフディレクター兼任作画の杉山 卓さんが絵コンテと演出を担当されました。「ワンダースリー」班では外注が多いので、作画を統一するために光一担当の杉山 卓さん、松尾 信吾さんをブッコ作画担当に、三輪 孝輝さんをノッコ作画担当に、ワコさんはボッコ作画担当に決めて、作画の絵の統一を図りました。第3話「シャングリラの謎」の絵コンテは鈴木 良武さんが描いて演出も担当しました。
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W3 雨夜のしなさだめ

2006年08月01日 17時58分13秒 | 虫プロW3
前に書いたようにW3のスタッフが足りなかった特にベテランの原画を書く人が不足していた、穴見常務の奥さんとなり、家庭に入られた和子さんを、手塚先生は貸してくれるよう穴見さんに頼んだ、
穴見常務は和子さんに「とにかく家のことはいいから、先生が困っている、助けてやってくれ」 と言った。 
その人 中村和子さんと手塚先生との出会いは「西遊記」東映時代であった。当時から「女優さんが間違えてスタジオへ入ってきてしまった」と守衛さんが思うぐらい、とてもきれいな人でありました。
虫プロの創立以来アニメーターとして、活躍していただいたが穴見さんと結婚をして家庭に入っていたのでありました。
 嘱託という形でW3班へ来てもらいウサギのボッコを主に担当しました。
 文芸課長のアオさんもこのように言っていました
「この人だけは、いつも、毅然たる態度で仕事に没頭していた、もっとも、この女性の場合、たとえこちらに想いがあっても、その美しさを眺めるだけ、」

 さすがのアオさんでさえ触ることができなかった。と述べている。アオさんがそうなのだから、ほかの男性人も同じであったと想像できる。 続けて

「テレビ漫画映画はこの当時のすべてとは言わぬが、多くが相当いい加減な作り方をしているように思う。制作日数と人材の不足がその原因である、作り手として絶対妥協してはならない事があるはず、その一線を守ることができないなら映画作りの基本をないがしろにすること。アニメの粗製乱造ぶりのもとを正せば、結局作り手一人一人の意識に問題が帰する事になろう」
           とアオさんは嘆きました、さらに

「とはいっても、そういう現状を憂い、なお、アニメーション作りの原点を見失わない人たちも多い。その1人として、オレはワコさんを挙げたい」

「大袈裟な言い方をすれば、ワコさんこそ、アニメーション作りの本質を担っている人いや本質そのものだ」

「ともすれば制作日数が足りないばかりに、ともすれば手を抜いてしまうことがあった。そんなとき、ワコさんに会うと心が何か清清しい気分に満たされ、力強い覇気が蘇ってきたものだ」
最後に
「ワコさんはアニメーション作りの本質を頑なに守り続ける人、ゆえに、ともすれば、一部の心無い者達から、煙たがられる、それはとりもなおさず、アニメーター中村 和子に対する憧憬の裏返しだ。」

「師の全幅の信頼を受けている。このワコさんに対する信頼こそ、オレの言葉を裏付ける証明だ」。彼女はいわば、アニメ界の女王なのであります。」
        と結んでいます。
またこんなエピソードもありました。
 ある雨の夜、手塚先生から「あぁ!ぼくですがね、手が空いていたら遊びに来ませんか」若い進行や演助に遊びに来ないかとの電話でありました、場所は手塚先生のお母さんの部屋でした。お酒は出なかったがジュースや、お茶、お菓子など、お母さんが運んできてくれました、若い人と話すのが好きであったお母さんであったが、その時は深夜であったので、遠慮して別の部屋に行て男だけになりました。
先生は若い人から話を聞くのが好きで深夜に仕事が上がり、編集者がいなくなって誰もいなくなると、すぐに眠れないので、(何日も寝ていないのですぐ寝れると思うと興奮していて眠れないことって、ありますよね)
そのうち男同士、「虫プロで1番きれいなのは誰だろう」という話題になりました。なべ子さんや、宮下秘書さんの名前が挙がりましたが、やはり文句なしに、ワコさんが一番ということになったのですが、だれかが「先生も好きなんでしょう」と聞いきました「好きですよ」と先生はすなおに答えました。「奥さんに申し訳ない、なんてことを聞いてしまったのだろう」とその場のみんなが、思ったのですが、それは違っていました。 その好きですが「異性」に対する感情ではなく、アニメの同志ということであると全員が理解できたのですが、そのことを旨く説明できないために、誰も現在まで外部に話しませんでした。 その事は「源氏物語」をもじって、仲間内では「雨夜の品定め」として心のうちに仕舞い込んでいました。  最近になって韓国ドラマ「ホジュン」を見ました。演出がよい作品だと思っています。その作品を見て、手塚先生が抱いていたワコさんに対する感情は「ホジュン」が「イェジン」に描いている感情と同じであると理解できました。
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