通り道と花かつみ
平成30年2月20日(火)
昨日はお世話になった人の告別と
荼毘に付された一連の法要に参列。
導師のわかりやすい説明等、参列者も皆
納得をして衷心より旅立ちの安全を祈り、
お別れをすることができた。
彼岸への通り道もよく見えた。
そして、堰の恵みの通り道もしっかり
できていた。
さて、安積山。
花かつみは、芭蕉と曾良が奥の細道で、
郡山に着いた時、必死にこの花を探し求め
たが、土地の人も分からず残念無念の日々を
おくったという花。
花かつみという花は、ヒメシャガのこと。
芭蕉達がこの花を探した動機は、『古今和歌集』
にある。
「みちのくの あさかのぬまの 花かつみ
かつみる人に 恋ひやわたらん」
という歌がきっかけ。
歌の意味は、
「みちのくの安積の沼の花かつみの名の、
かつみというように、かつがつに不満足ながら、
ともかくも、ちょっと逢ったばかりの人なのに、
恋しく思って、永く月日を暮らすことで
あろうか。」
この歌により、「花かつみ」は陸奥国の
安積の沼の名物となる。
多くの歌にも詠まれるようになったという経緯。
「奥の細道」には、「等窮が宅を出て五里斗、
檜皮(ひはだ)の宿を離れてあさか山有。
路より近し。此あたり沼多し。
かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を
花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども
更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみかつみと
尋ねありきて、日は山の端にかゝりぬ。」
どうも花かつみには、古より諸説があり、
幻の花とされていたようだ。
そして、明治9年6月17日、明治天皇の東北巡幸
の折、日和田の安積山の麓、横森新田のご休息所で
花かつみを「菖蒲に似て最(いと)些小(ちいさ)き花」
なるヒメシャガを花かつみとして天覧に供したそう。
以後、「ヒメシャガ」が「花かつみ」とされ、
昭和49年、郡山市の花に制定されたそうだ。
説明板
芭蕉の道をいったん下り、安積山公園の入口
を出て、また戻った。
天気にも季節にも恵まれ、芭蕉の小径を登ると、
気分爽快。疲れも吹っ飛んだ。
もう一度花かつみを楽しみ、駐車場へ。
土日や休日には、市民のいい憩いの場所だなあ
と、その整備にも感心した。
平成30年2月20日(火)
昨日はお世話になった人の告別と
荼毘に付された一連の法要に参列。
導師のわかりやすい説明等、参列者も皆
納得をして衷心より旅立ちの安全を祈り、
お別れをすることができた。
彼岸への通り道もよく見えた。
そして、堰の恵みの通り道もしっかり
できていた。
さて、安積山。
花かつみは、芭蕉と曾良が奥の細道で、
郡山に着いた時、必死にこの花を探し求め
たが、土地の人も分からず残念無念の日々を
おくったという花。
花かつみという花は、ヒメシャガのこと。
芭蕉達がこの花を探した動機は、『古今和歌集』
にある。
「みちのくの あさかのぬまの 花かつみ
かつみる人に 恋ひやわたらん」
という歌がきっかけ。
歌の意味は、
「みちのくの安積の沼の花かつみの名の、
かつみというように、かつがつに不満足ながら、
ともかくも、ちょっと逢ったばかりの人なのに、
恋しく思って、永く月日を暮らすことで
あろうか。」
この歌により、「花かつみ」は陸奥国の
安積の沼の名物となる。
多くの歌にも詠まれるようになったという経緯。
「奥の細道」には、「等窮が宅を出て五里斗、
檜皮(ひはだ)の宿を離れてあさか山有。
路より近し。此あたり沼多し。
かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を
花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども
更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみかつみと
尋ねありきて、日は山の端にかゝりぬ。」
どうも花かつみには、古より諸説があり、
幻の花とされていたようだ。
そして、明治9年6月17日、明治天皇の東北巡幸
の折、日和田の安積山の麓、横森新田のご休息所で
花かつみを「菖蒲に似て最(いと)些小(ちいさ)き花」
なるヒメシャガを花かつみとして天覧に供したそう。
以後、「ヒメシャガ」が「花かつみ」とされ、
昭和49年、郡山市の花に制定されたそうだ。
説明板
芭蕉の道をいったん下り、安積山公園の入口
を出て、また戻った。
天気にも季節にも恵まれ、芭蕉の小径を登ると、
気分爽快。疲れも吹っ飛んだ。
もう一度花かつみを楽しみ、駐車場へ。
土日や休日には、市民のいい憩いの場所だなあ
と、その整備にも感心した。