安達ヶ原の鬼婆伝説
平成30年2月26日(月)
「春よ来い 早く来い」
今週中に「春一番の到来」の予報。
平昌のオリンピックも、パラリンピックに
バトン。日本選手の活躍も凄かったね。
最強に近い良きライバルがいることが、
メダルへの近道!?
さて、黒塚観世寺にやっとの思いで
入路、参拝。
観世寺の由緒、観世音菩薩のについて
も知る。
そして、住職に「宝物資料館」に
案内される。
「鬼婆伝説」についてビデオ鑑賞となる。
黒塚(くろづか)は、福島県二本松市
(旧安達郡大平村)にある鬼婆の墓、
及びその鬼婆にまつわる伝説。
安達ヶ原(阿武隈川東岸の称。安達太良山
東麓とも)に棲み、人を喰らっていたという
「安達ヶ原の鬼婆(あだちがはらのおにばば)」
として伝えられている。
黒塚の名は正確にはこの鬼婆を葬った塚の
名を指すが、現在では鬼婆自身をも指すよう
になっている。
能の『黒塚』も、長唄・歌舞伎舞踊の
『安達ヶ原』、歌舞伎・浄瑠璃の『奥州安達原』
もこの黒塚の鬼婆伝説に基く。
神亀丙寅の年(726年)の頃。紀州の僧・
東光坊祐慶(とうこうぼう ゆうけい)が
安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、
一軒の岩屋に宿を求めた。
岩屋には一人の老婆が住んでいた。
祐慶を親切そうに招き入れた老婆は、薪が
足りなくなったのでこれから取りに行くと
言い、奥の部屋を絶対に見てはいけないと
祐慶に言いつけて岩屋から出て行った。
しかし、祐慶が好奇心から戸を開けて
奥の部屋をのぞくと、そこには人間の
白骨死体が山のように積み上げられていた。
驚愕した祐慶は、安達ヶ原で旅人を殺して
血肉を貪り食うという鬼婆の噂を思い出し、
あの老婆こそが件の鬼婆だと感付き、岩屋
から逃げ出した。
しばらくして岩屋に戻って来た老婆は、
祐慶の逃走に気付くと、恐ろしい鬼婆の姿
となって猛烈な速さで追いかけて来た。
祐慶のすぐ後ろまで迫る鬼婆。
絶体絶命の中、祐慶は旅の荷物の中から
如意輪観世音菩薩の像を取り出して必死に
お経を唱えた。
すると菩薩像が空へ舞い上がり、光明を
放ちつつ破魔の白真弓に金剛の矢をつがえ
て射ち、鬼婆を仕留めた。
鬼婆は命を失ったものの、観音像の導きに
より成仏した。
祐慶は阿武隈川のほとりに塚を造って
鬼婆を葬り、その地は「黒塚」と呼ばれる
ようになった。
鬼婆を得脱に導いた観音像は「白真弓観音
(白檀観音とも)」と呼ばれ、後に厚い信仰
を受けたという。
その昔、岩手という女性が京の都の公家屋
敷に乳母として奉公していた。
だが、彼女の可愛がる姫は生まれながらに
して不治の病におかされており、5歳になっ
ても口がきけないほどだった。
姫を溺愛する岩手は何とかして姫を救いた
いと考え、妊婦の胎内の胎児の生き胆が病気
に効くという易者の言葉を信じ、生まれた
ばかりの娘を置いて旅に出た。
奥州の安達ヶ原に辿りついた岩手は岩屋を
宿とし、標的の妊婦を待った。
長い年月が経ったある日、若い夫婦が
その岩屋に宿を求めた。
女の方は身重である。ちょうど女が産気
づき、夫は薬を買いに出かけた。
絶好の機会である。
岩手は出刃包丁を取り出して女に襲い
掛かり、女の腹を裂いて胎児から肝を
抜き取った。
だが女が身に着けているお守りを目にし、
岩手は驚いた。
それは自分が京を発つ際、娘に残した
ものだった。
今しがた自分が殺した女は、他ならぬ
我が子だったのである。
あまりの出来事に岩手は精神に異常を
来たし、以来、旅人を襲っては生き血と
肝をすすり、人肉を喰らう鬼婆と成り果
てたのだという。
これらの話を、宝物資料館で唯ひとり
映像で観ることになる。
大昔からある「嬰児殺し」。今もそちこちで
不幸なことは起こっているが、心痛む話でもある。
ややブルーな世界に導かれたよう。
そして、黒塚へ。
これが出刃洗いの池
そして、鬼婆の石像がある所へ。
鬼婆だ。
可愛らしくもある?
きれいなシャム猫がしっかり寺番。
つづく。
平成30年2月26日(月)
「春よ来い 早く来い」
今週中に「春一番の到来」の予報。
平昌のオリンピックも、パラリンピックに
バトン。日本選手の活躍も凄かったね。
最強に近い良きライバルがいることが、
メダルへの近道!?
さて、黒塚観世寺にやっとの思いで
入路、参拝。
観世寺の由緒、観世音菩薩のについて
も知る。
そして、住職に「宝物資料館」に
案内される。
「鬼婆伝説」についてビデオ鑑賞となる。
黒塚(くろづか)は、福島県二本松市
(旧安達郡大平村)にある鬼婆の墓、
及びその鬼婆にまつわる伝説。
安達ヶ原(阿武隈川東岸の称。安達太良山
東麓とも)に棲み、人を喰らっていたという
「安達ヶ原の鬼婆(あだちがはらのおにばば)」
として伝えられている。
黒塚の名は正確にはこの鬼婆を葬った塚の
名を指すが、現在では鬼婆自身をも指すよう
になっている。
能の『黒塚』も、長唄・歌舞伎舞踊の
『安達ヶ原』、歌舞伎・浄瑠璃の『奥州安達原』
もこの黒塚の鬼婆伝説に基く。
神亀丙寅の年(726年)の頃。紀州の僧・
東光坊祐慶(とうこうぼう ゆうけい)が
安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、
一軒の岩屋に宿を求めた。
岩屋には一人の老婆が住んでいた。
祐慶を親切そうに招き入れた老婆は、薪が
足りなくなったのでこれから取りに行くと
言い、奥の部屋を絶対に見てはいけないと
祐慶に言いつけて岩屋から出て行った。
しかし、祐慶が好奇心から戸を開けて
奥の部屋をのぞくと、そこには人間の
白骨死体が山のように積み上げられていた。
驚愕した祐慶は、安達ヶ原で旅人を殺して
血肉を貪り食うという鬼婆の噂を思い出し、
あの老婆こそが件の鬼婆だと感付き、岩屋
から逃げ出した。
しばらくして岩屋に戻って来た老婆は、
祐慶の逃走に気付くと、恐ろしい鬼婆の姿
となって猛烈な速さで追いかけて来た。
祐慶のすぐ後ろまで迫る鬼婆。
絶体絶命の中、祐慶は旅の荷物の中から
如意輪観世音菩薩の像を取り出して必死に
お経を唱えた。
すると菩薩像が空へ舞い上がり、光明を
放ちつつ破魔の白真弓に金剛の矢をつがえ
て射ち、鬼婆を仕留めた。
鬼婆は命を失ったものの、観音像の導きに
より成仏した。
祐慶は阿武隈川のほとりに塚を造って
鬼婆を葬り、その地は「黒塚」と呼ばれる
ようになった。
鬼婆を得脱に導いた観音像は「白真弓観音
(白檀観音とも)」と呼ばれ、後に厚い信仰
を受けたという。
その昔、岩手という女性が京の都の公家屋
敷に乳母として奉公していた。
だが、彼女の可愛がる姫は生まれながらに
して不治の病におかされており、5歳になっ
ても口がきけないほどだった。
姫を溺愛する岩手は何とかして姫を救いた
いと考え、妊婦の胎内の胎児の生き胆が病気
に効くという易者の言葉を信じ、生まれた
ばかりの娘を置いて旅に出た。
奥州の安達ヶ原に辿りついた岩手は岩屋を
宿とし、標的の妊婦を待った。
長い年月が経ったある日、若い夫婦が
その岩屋に宿を求めた。
女の方は身重である。ちょうど女が産気
づき、夫は薬を買いに出かけた。
絶好の機会である。
岩手は出刃包丁を取り出して女に襲い
掛かり、女の腹を裂いて胎児から肝を
抜き取った。
だが女が身に着けているお守りを目にし、
岩手は驚いた。
それは自分が京を発つ際、娘に残した
ものだった。
今しがた自分が殺した女は、他ならぬ
我が子だったのである。
あまりの出来事に岩手は精神に異常を
来たし、以来、旅人を襲っては生き血と
肝をすすり、人肉を喰らう鬼婆と成り果
てたのだという。
これらの話を、宝物資料館で唯ひとり
映像で観ることになる。
大昔からある「嬰児殺し」。今もそちこちで
不幸なことは起こっているが、心痛む話でもある。
ややブルーな世界に導かれたよう。
そして、黒塚へ。
これが出刃洗いの池
そして、鬼婆の石像がある所へ。
鬼婆だ。
可愛らしくもある?
きれいなシャム猫がしっかり寺番。
つづく。