令和5年5月18日(木)
往昔、遊行二世の上人、
大願発起の事ありて、
みづから草を刈、
土石を荷ひ、
泥渟をかはかせて、
参詣往来の煩なし。
古例今にたえず、
神前に真砂を荷ひ給ふ。
これを『遊行の砂持と申侍る』と、
亭主のかたりける。 「月清し
遊行のもてる
砂の上」
十五日、
十五日、
亭主の詞にたがはず雨降 。
「名月や
北国日和
定なき」 」
と記されている。
芭蕉の敦賀市訪問の目的の一つが、
と記されている。
芭蕉の敦賀市訪問の目的の一つが、
美しい月の姿を句に詠むこと。
敦賀では特に、
“中秋の名月”
を心待ちにしていたようだ。
1689年(元禄2)
1689年(元禄2)
旧暦の8月14日の夕方、
快晴の敦賀に入り、
宿の旅籠出雲屋の主人に、
明日も晴れるかどうかを問う。
出雲屋の主人は、
北陸の天気は変わりやすく
明日は晴れるか分からないので、
月見なら今晩の内にと・・・。
芭蕉は、
芭蕉は、
その夜に「氣比神宮」を参拝し、
月明かりに照らされた神前の白砂と
その由来に感動し、
次のように詠む。
「月清し
「月清し
遊行のもてる
砂の上」
翌15日、
翌15日、
亭主が言ったとおり雨天となる。
そして、
「名月や
そして、
「名月や
北国日和
定なき」
という句を詠む。
樹齢七百年といわれる
という句を詠む。
樹齢七百年といわれる
タモの木の前には、
高さ26m、横44m、奥行き1.3m、
重量が約30tの巨大な句碑。
<芭蕉翁月五句碑>
しかも
日本では数少ない自然石を使用したもので、
上記の敦賀の地を詠んだ
“芭蕉翁月五句”
が刻まれている。
「國々の
「國々の
八景更に
氣比の月」
「月清し
「月清し
遊行のもてる
砂の上」
「ふるき名の
「ふるき名の
角鹿や恋し
秋の月」
「月いつこ
鐘八沈る
海の底」
「名月や
北国日和
定なき」
また、
また、
別の「芭蕉と敦賀の月」の石碑には
他3句が刻まれている。
<芭蕉と月の説明碑>
「中山や
越路も月ハ
また命」
「月のみか
「月のみか
雨に相撲も
なかりけり」
「衣着て
小貝拾ハん
いろの月」
~つづく。
~つづく。