令和5年5月26日(金)
<大垣船町川湊石碑>
<絶景!水門川>
先ずは、
芭蕉翁と木因翁の像で、
四度の往来を振り返る。
<芭蕉と谷木因の立像>
やはり、
人と人との絆の深さを、
尊縁のよさを感じざるを得ない。
芭蕉が最初に大垣を訪れたのは、
貞享元年(1684)、
「野ざらし紀行」の旅の途中、
俳友 谷木因(ぼくいん)を
訪ねたのがきっかけ。
谷木因と芭蕉とは、
谷木因と芭蕉とは、
京都の北村季吟(きぎん)の相弟子。
当時、大垣の俳諧は、
大垣十万石の城主戸田公の
文教奨励もあって、
谷木因の指導のもと、
大垣藩士らを中心に盛況となる。
芭蕉の4回にわたる大垣への訪れは、
芭蕉の4回にわたる大垣への訪れは、
大垣俳壇に新風を吹き込み、
「蕉風」俳諧は美濃一円に広がり、
以後美濃俳諧としての基礎が
固まったといわれている。
<蛤塚の芭蕉句碑>
蛤塚は、
「奥の細道」の旅を無事終え、
大垣で詠んだ句、
「蛤の
ふたみに別
行秋ぞ」
は、
は、
千住で、
矢立の句として詠んだ、
「行春や
「行春や
鳥啼き魚の
目ハ泪」
と呼応。
長旅の疲れを、
大垣で木因らと俳諧に興じ、
癒やすことになる。
~つづく。
伊勢まで船旅もいいなあ! 芭蕉句碑を挟むように、木因白桜塚がある。 「惜むひげ 剃りたり窓に 夏木立」 白桜下 木因
と刻印されている。
~つづく。
伊勢まで船旅もいいなあ! 芭蕉句碑を挟むように、木因白桜塚がある。 「惜むひげ 剃りたり窓に 夏木立」 白桜下 木因
と刻印されている。