[(動画リンクは『V』)『ガンダム』以後の『イデオン』『F91』(福井晴敏も)]
☆いやはや、ガンダムネタは強い^^
[(動画リンク)『ガンダム』以前の『ザンボット3』(『どろろ』『ワーロック』も)]
http://midnight-run.iza.ne.jp/blog/entry/116025/(現在閉鎖中)
の、おかげで昨日・今日と高アクセスざんす^
仕事が忙しい時は、思想や政治的な内容ではなく、かような内容の方が楽に更新できまする。
てな訳で、「柳の下の二匹目のドジョウ」を掬わせて頂きます。
『F91』『イデオン』行きましょう^^
『ガンダムF91』では、安彦氏が、非常に洗練された仕事を見せてくれていた。
『イデオン』は、安彦良和氏は関係なくて、湖川友謙の作画であるが、富野由悠季監督作品で、湖川氏は才能をふんだんに発揮していた。
この作品も、【皆殺し物】である。
14歳という多感な頃の私の脳を直撃した作品である。
・・・以下、2005/6/6の再掲です。
# # #
[福井晴敏と『ガンダム』絡みの話 <仮面のケレン>]
▼今年(2005)になって、福井晴敏原作の作品が三作も映画化され公開される。
『ローレライ』『戦国自衛隊 1549(原案・半村良)』『亡国のイージス』・・・。
それぞれ出来が良く、概ね評価も高いようである。
戦争を描いていても、安易な「反戦」主張に陥ることはなく、現実に前提としてある「戦争」、その中での「物語」を素直に描いているところが、保守層にも好評のようである。
いまだ、その三作全てが公開されている訳ではないが、西村幸裕氏などは、その全てを(試写会含め)観たそうで、その「福井三部作」を総括した批評を用意しているという。
・・・おそらく、西村氏などは、その若き作家の構築した「戦場」に、多くの解せない思いを抱いていると思うのだが、福井氏の、その「現実」に立脚した「意志」を評価しているのだと思う。
それは、メチャクチャ勉強不足の私が、こうして、曲がりなりにも保守派の道化役として、意見を発表する場を与えてもらっているのと、ちょっと近いものがあろう・・・^^;
▼福井晴敏・・・。私は、ちょっと不満がある。
それは、どうにも、作品上に「ケレン」を隠せない時があるようだ。
例えば、『ローレライ』の原作『終戦のローレライ』では、降伏したドイツ軍から、いまだ抗戦を続ける日本軍が譲り受けた秘密潜水艦兵器「伊507」を日本に引き渡す役割の者に、フリッツと言うドイツ軍将校がいるのだが、この人、日本軍に編入されてもナチス・SSの軍服を着続けているのである。
物語の中盤になって、日本軍の仲間にそのことを指摘されると、「・・・恐怖を克服するには、自らが恐怖になるしかない」とか「狂気の世界を生き抜くには、自分もまた狂ってみせなければならない。・・・だからだ」とか自嘲気味に呟くのである。
確かに、日本軍服ばかりの艦内に、SSの制服を着た男がいたら、物語上の彩りは豊かになるだろう。
福井の大好きな『機動戦士ガンダム』の仮面の男・シャア大佐的な物語的深みを与えてこよう。
しかし、過酷な戦場をくぐってきただろう現実の軍人が、日本軍に編入しつつも、上記の理由によってSSの制服を着続けると言うのは、リアリズムが、物語上のバラエティ要求に屈したような気がして、私は鼻白んだ。
『終戦のローレライ』は、そもそもが、美少女が「人間レーダー」と言う特殊超能力でもって、日本軍を有利に導くと言う荒唐無稽(超ケレン^^)な物語であるので、細部には厳密に「リアル」を配置して欲しかった。
▼さて、「福井三部作」第二弾『戦国自衛隊 1549』が公開されている。
私はまだ観ていないが、四半世紀前の角川映画『戦国自衛隊』は大好きである^^
その映画作品の短評を、とある映画雑誌で立ち読みした。
「敵味方入り乱れての決戦は、わけ分からないくらい凄まじかった」との一文が、私に、15年前のとある映評を思い出させた。
すぐに、押入れの中から、その映評の載っていた『キネマ旬報(91/4月下旬号)』を探し出した。
評者は、山根貞夫。
この方の批評、その結論に同意出来ない時が多いのだが、とにかく、視点が鋭い。
だから、15年後の現在、すぐに山根氏の批評を思い出せた。
『日本映画時評』、その『機動戦士ガンダムF91』の批評・・・。
≪富野由悠季の「機動戦士ガンダムF91」を見て、全篇をおおう消費の勢いのすさまじさに目を瞠った。
例によって、平和な宇宙都市を破壊する反逆集団に対して若者たちが闘いに立ち上がる話で、人間の形をした「モビルスーツ」という巨大兵器による大戦闘が宇宙空間にくりひろげられるが、そこでは、兵器も乗り物も建造物も、むろん人命も、めまぐるしい速度で破壊され消費されてゆく。そして、注目すべきことには、圧倒的なスピードの画面展開のもと、個々の画面そのもの、個々の描写それ自体すら、ただひたすら消費されるためにだけある。つまり、このアニメ作品をおもしろがることは、あらゆる意味で物語とはまるで逆に、破壊と消費を楽しむことにほかならないのである。
たとえば宇宙空間を何機ものモビルスーツが飛び回って闘うとき、あまりにスピーディーな描写のため、敵味方の判別がつかないばかりか、かんじんの「ガンダムF91」がどれかさえ不明になってしまう。おそらくこれはわたしのような古い世代に限ったことで、描写の細部に引っかかって、速さについていけないのであろう。年少のアニメ世代なら、マンガ週刊誌のページを猛スピードでめくるときと同様、この描写の速度でドラマを十二分に楽しんでゆくにちがいない。ドラマ展開にしても、敵方に拉致されたヒロインがコロリと変心して反乱軍の要人として闘うくだりなどは、わたしには描写の細部が素っ飛ばされているとしか思えないが、アニメ世代にしてみれば、そんなことは問題ではなく、敵か味方かだけが判別できればよいのであろう。
けれども別の観点からいうなら、わたしなどの世代とは違って、細部にこだわることがアニメ世代に独特の感性ではないのか。この作品の場合、宇宙兵器のメカニズム細部にこだわるからこそ、ガンダムF91なる新型モビルスーツの活躍が楽しめるはずである。その関心が、しかし同時に、描写の細部などに頓着しない形で成り立ってもいる。
思えば奇妙な事態であるが、いまの情報消費社会にあっては、そのように両極に引き裂かれた形が人々に強いられた常態なのかもしれない。その執着と没執着のはざまを縫ってこそ、すさまじい勢いの消費が遂行されてゆくのである。とりわけこの作品で個々の描写自体さえ消費のためだけにあることは、映画の現在において描写とは何かを象徴していよう。いうまでもないが、映画的な表現のあり方を問うとき、アニメと実写の区別などはごく小さな問題である。・・・≫
▽私も、新宿で、この『ガンダムF91』を見たとき、美しいセル画アニメの至高に「行き着くとこまでいったなあ^^」と感動しつつも、その戦闘のスピード感に全くついていけなかった。
でも、私は、この作品を【傑作】だと思っている。
思えば、戦場の中に没入していくということは、まさに、これなのだと確信したのだ。
背景の敵はビュンビュン飛び交っていく。
自分が戦うべきは、目の前の敵だけなのである。
そんな個々の戦いを包括し、宇宙大戦争は行なわれる。
それらを俯瞰した情景に、個々の判別などは要求されないのである。
ハリウッド映画は、個々のドラマに始終するばかりに、物語のスケールを矮小化する。
いや、日本映画も、そもそもそうなのである。
しかし、ここに、富野由悠季という非凡な演出家が登場した。
この頃、富野監督は、『ガンダム』映画三部作、『伝説巨神イデオン』映画二部作、さらに硬質の高品質アニメ『機動戦士Zガンダム』テレビシリーズ、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』劇場オリジナル版など、硬派なリアル戦争物を、コンピュータグラフィックに頼りきりになる手前のアニメ界で連発していた。
先の、福井晴敏が『ガンダム』以上に影響されたと語っている『イデオン』においては(『ダビィンチ』最新号のインタビューにて)、戦場のドラマ描写を極限まで追い詰めて、主人公の目のまえで、ヒロインが敵襲を受け、主人公のヘルメットのゴーグルに、ヒロインの生首が飛んでいくのが映るという描写をも行なっている。
激怒した主人公は、イデオンを使って敵の前線基地の惑星自体をブッタ斬るのである。
また、総動員体勢の中、敵との応戦中、みんなのマスコットガール的存在だった幼児が、バズーカーを撃とうとしてバリケードから顔を出したら、次の瞬間、画面が何かおかしいのである。よーく見ると、その女の子の頭部が、敵の砲弾に吹き飛ばされてなくなっていたのである。
更に、宇宙戦争和解への鍵を握るメシアをその身に育んだ女性は、敵の女兵士の弾丸を顔面に三発も受け即死する。
主人公が、その亡骸を見ようと近づく、回りにいた仲間が「見ちゃダメ! 顔を撃たれて、酷いのよ!」と止める。
しかし、主人公は、その死に顔を見る・・・。「あんなに、綺麗だった人が・・・」
その主人公も、宇宙戦争最終局面において、イデオンの操縦桿を握ったまま、その両手を引き千切られて絶命。
敵も味方も、二つの宇宙民族自体が宇宙から消滅し、そして、宇宙の彼方「因果地平」で、敵も味方も霊体となって集まり、「次の世は、もちっと良い世の中にしようぜ^^」と、とある原始惑星に転生するのである。
『イデオン』において、形而上学的な哲学的戦争解決に逃げなくてはならなかった富野由悠季監督が、あくまでも、現実においての「戦争」を描き続けたのが『ガンダムF91』だったと思うのだ。
そこには、山根貞男氏の言うような映画的描写は斬り捨てられている。
だが、「戦争」を描いた作品として特筆すべき硬質なリアリズムが感じられるのである。
(また、「戦争」の中の個人の戦い<初代ガンダム主人公・アムロ VS ガンダムシリーズの主役・シャア>を、国家対革命組織の理念まで高めたのが『逆襲のシャア』であろう)
・・・思えば、戦争は、【大いなる消費】なのである。
山根貞男氏は、既に、答えを得ていたのである。
十五年前、日本アニメは、実写映画をはるかに超えていたのである。
▽果たして、『戦国自衛隊 1549』に表現される戦争が、上記に長々と書いた戦場観と符合するとは思えないが、少なくとも、その原作者の福井晴敏は、『ターンA ガンダム』のノベライズも執筆してるし、そのガンダム好きは有名であるし、紛うことなき<『ガンダム』世代の申し子>である。
思えば、『終戦のローレライ』の将校フリッツのSS軍服には鼻白み、アニメ『ガンダムF91』の描写欠落は許容する・・・。
私の映画の見方も面白いでしょ^^;
さて、だが、問題は福井晴敏氏の「ケレン」である・・・。
その「ケレン」がなかったら、多くの、後続のガンダム世代の若者の心を掴めないのかも知れない・・・。
思えば、マスクのシャア大佐に、我々は業の深さを感じた。
そして、『ガンダムF91』の敵役<鉄仮面>の存在も、一筋縄ではいかない人間観を窺わせてくれた。
福井晴敏も、フリッツに、戦争の一側面を背負わせていたのか・・・。
(2005/06/06)
# # #
では、最後に『機動戦士Vガンダム』の、クライマックスシーンをリンクさせておく。
この作品は評判が悪いが、物語の途中では、富野の目指していた子供たちだけの戦いというものが、自然な形で表現されていた。
『ZZ』などでは、それが見事に失敗していた。
リンクしているシーンは、若い者を退艦させて、老いた者だけで戦艦を操り敵に突っ込んでいくシーンである。
『V』は、母性が色濃く出た作風で、物語全般で計10人くらいの女パイロットが主人公をかばって散っていったが、
ここでは、男たちが最後の踏ん張りを見せる。
私も、年老いたら、若者のために散ろう・・・。
『特攻! リーンホース』
(2007/02/13)
☆いやはや、ガンダムネタは強い^^
[(動画リンク)『ガンダム』以前の『ザンボット3』(『どろろ』『ワーロック』も)]
http://midnight-run.iza.ne.jp/blog/entry/116025/(現在閉鎖中)
の、おかげで昨日・今日と高アクセスざんす^
仕事が忙しい時は、思想や政治的な内容ではなく、かような内容の方が楽に更新できまする。
てな訳で、「柳の下の二匹目のドジョウ」を掬わせて頂きます。
『F91』『イデオン』行きましょう^^
『ガンダムF91』では、安彦氏が、非常に洗練された仕事を見せてくれていた。
『イデオン』は、安彦良和氏は関係なくて、湖川友謙の作画であるが、富野由悠季監督作品で、湖川氏は才能をふんだんに発揮していた。
この作品も、【皆殺し物】である。
14歳という多感な頃の私の脳を直撃した作品である。
・・・以下、2005/6/6の再掲です。
# # #
[福井晴敏と『ガンダム』絡みの話 <仮面のケレン>]
▼今年(2005)になって、福井晴敏原作の作品が三作も映画化され公開される。
『ローレライ』『戦国自衛隊 1549(原案・半村良)』『亡国のイージス』・・・。
それぞれ出来が良く、概ね評価も高いようである。
戦争を描いていても、安易な「反戦」主張に陥ることはなく、現実に前提としてある「戦争」、その中での「物語」を素直に描いているところが、保守層にも好評のようである。
いまだ、その三作全てが公開されている訳ではないが、西村幸裕氏などは、その全てを(試写会含め)観たそうで、その「福井三部作」を総括した批評を用意しているという。
・・・おそらく、西村氏などは、その若き作家の構築した「戦場」に、多くの解せない思いを抱いていると思うのだが、福井氏の、その「現実」に立脚した「意志」を評価しているのだと思う。
それは、メチャクチャ勉強不足の私が、こうして、曲がりなりにも保守派の道化役として、意見を発表する場を与えてもらっているのと、ちょっと近いものがあろう・・・^^;
▼福井晴敏・・・。私は、ちょっと不満がある。
それは、どうにも、作品上に「ケレン」を隠せない時があるようだ。
例えば、『ローレライ』の原作『終戦のローレライ』では、降伏したドイツ軍から、いまだ抗戦を続ける日本軍が譲り受けた秘密潜水艦兵器「伊507」を日本に引き渡す役割の者に、フリッツと言うドイツ軍将校がいるのだが、この人、日本軍に編入されてもナチス・SSの軍服を着続けているのである。
物語の中盤になって、日本軍の仲間にそのことを指摘されると、「・・・恐怖を克服するには、自らが恐怖になるしかない」とか「狂気の世界を生き抜くには、自分もまた狂ってみせなければならない。・・・だからだ」とか自嘲気味に呟くのである。
確かに、日本軍服ばかりの艦内に、SSの制服を着た男がいたら、物語上の彩りは豊かになるだろう。
福井の大好きな『機動戦士ガンダム』の仮面の男・シャア大佐的な物語的深みを与えてこよう。
しかし、過酷な戦場をくぐってきただろう現実の軍人が、日本軍に編入しつつも、上記の理由によってSSの制服を着続けると言うのは、リアリズムが、物語上のバラエティ要求に屈したような気がして、私は鼻白んだ。
『終戦のローレライ』は、そもそもが、美少女が「人間レーダー」と言う特殊超能力でもって、日本軍を有利に導くと言う荒唐無稽(超ケレン^^)な物語であるので、細部には厳密に「リアル」を配置して欲しかった。
▼さて、「福井三部作」第二弾『戦国自衛隊 1549』が公開されている。
私はまだ観ていないが、四半世紀前の角川映画『戦国自衛隊』は大好きである^^
その映画作品の短評を、とある映画雑誌で立ち読みした。
「敵味方入り乱れての決戦は、わけ分からないくらい凄まじかった」との一文が、私に、15年前のとある映評を思い出させた。
すぐに、押入れの中から、その映評の載っていた『キネマ旬報(91/4月下旬号)』を探し出した。
評者は、山根貞夫。
この方の批評、その結論に同意出来ない時が多いのだが、とにかく、視点が鋭い。
だから、15年後の現在、すぐに山根氏の批評を思い出せた。
『日本映画時評』、その『機動戦士ガンダムF91』の批評・・・。
≪富野由悠季の「機動戦士ガンダムF91」を見て、全篇をおおう消費の勢いのすさまじさに目を瞠った。
例によって、平和な宇宙都市を破壊する反逆集団に対して若者たちが闘いに立ち上がる話で、人間の形をした「モビルスーツ」という巨大兵器による大戦闘が宇宙空間にくりひろげられるが、そこでは、兵器も乗り物も建造物も、むろん人命も、めまぐるしい速度で破壊され消費されてゆく。そして、注目すべきことには、圧倒的なスピードの画面展開のもと、個々の画面そのもの、個々の描写それ自体すら、ただひたすら消費されるためにだけある。つまり、このアニメ作品をおもしろがることは、あらゆる意味で物語とはまるで逆に、破壊と消費を楽しむことにほかならないのである。
たとえば宇宙空間を何機ものモビルスーツが飛び回って闘うとき、あまりにスピーディーな描写のため、敵味方の判別がつかないばかりか、かんじんの「ガンダムF91」がどれかさえ不明になってしまう。おそらくこれはわたしのような古い世代に限ったことで、描写の細部に引っかかって、速さについていけないのであろう。年少のアニメ世代なら、マンガ週刊誌のページを猛スピードでめくるときと同様、この描写の速度でドラマを十二分に楽しんでゆくにちがいない。ドラマ展開にしても、敵方に拉致されたヒロインがコロリと変心して反乱軍の要人として闘うくだりなどは、わたしには描写の細部が素っ飛ばされているとしか思えないが、アニメ世代にしてみれば、そんなことは問題ではなく、敵か味方かだけが判別できればよいのであろう。
けれども別の観点からいうなら、わたしなどの世代とは違って、細部にこだわることがアニメ世代に独特の感性ではないのか。この作品の場合、宇宙兵器のメカニズム細部にこだわるからこそ、ガンダムF91なる新型モビルスーツの活躍が楽しめるはずである。その関心が、しかし同時に、描写の細部などに頓着しない形で成り立ってもいる。
思えば奇妙な事態であるが、いまの情報消費社会にあっては、そのように両極に引き裂かれた形が人々に強いられた常態なのかもしれない。その執着と没執着のはざまを縫ってこそ、すさまじい勢いの消費が遂行されてゆくのである。とりわけこの作品で個々の描写自体さえ消費のためだけにあることは、映画の現在において描写とは何かを象徴していよう。いうまでもないが、映画的な表現のあり方を問うとき、アニメと実写の区別などはごく小さな問題である。・・・≫
▽私も、新宿で、この『ガンダムF91』を見たとき、美しいセル画アニメの至高に「行き着くとこまでいったなあ^^」と感動しつつも、その戦闘のスピード感に全くついていけなかった。
でも、私は、この作品を【傑作】だと思っている。
思えば、戦場の中に没入していくということは、まさに、これなのだと確信したのだ。
背景の敵はビュンビュン飛び交っていく。
自分が戦うべきは、目の前の敵だけなのである。
そんな個々の戦いを包括し、宇宙大戦争は行なわれる。
それらを俯瞰した情景に、個々の判別などは要求されないのである。
ハリウッド映画は、個々のドラマに始終するばかりに、物語のスケールを矮小化する。
いや、日本映画も、そもそもそうなのである。
しかし、ここに、富野由悠季という非凡な演出家が登場した。
この頃、富野監督は、『ガンダム』映画三部作、『伝説巨神イデオン』映画二部作、さらに硬質の高品質アニメ『機動戦士Zガンダム』テレビシリーズ、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』劇場オリジナル版など、硬派なリアル戦争物を、コンピュータグラフィックに頼りきりになる手前のアニメ界で連発していた。
先の、福井晴敏が『ガンダム』以上に影響されたと語っている『イデオン』においては(『ダビィンチ』最新号のインタビューにて)、戦場のドラマ描写を極限まで追い詰めて、主人公の目のまえで、ヒロインが敵襲を受け、主人公のヘルメットのゴーグルに、ヒロインの生首が飛んでいくのが映るという描写をも行なっている。
激怒した主人公は、イデオンを使って敵の前線基地の惑星自体をブッタ斬るのである。
また、総動員体勢の中、敵との応戦中、みんなのマスコットガール的存在だった幼児が、バズーカーを撃とうとしてバリケードから顔を出したら、次の瞬間、画面が何かおかしいのである。よーく見ると、その女の子の頭部が、敵の砲弾に吹き飛ばされてなくなっていたのである。
更に、宇宙戦争和解への鍵を握るメシアをその身に育んだ女性は、敵の女兵士の弾丸を顔面に三発も受け即死する。
主人公が、その亡骸を見ようと近づく、回りにいた仲間が「見ちゃダメ! 顔を撃たれて、酷いのよ!」と止める。
しかし、主人公は、その死に顔を見る・・・。「あんなに、綺麗だった人が・・・」
その主人公も、宇宙戦争最終局面において、イデオンの操縦桿を握ったまま、その両手を引き千切られて絶命。
敵も味方も、二つの宇宙民族自体が宇宙から消滅し、そして、宇宙の彼方「因果地平」で、敵も味方も霊体となって集まり、「次の世は、もちっと良い世の中にしようぜ^^」と、とある原始惑星に転生するのである。
『イデオン』において、形而上学的な哲学的戦争解決に逃げなくてはならなかった富野由悠季監督が、あくまでも、現実においての「戦争」を描き続けたのが『ガンダムF91』だったと思うのだ。
そこには、山根貞男氏の言うような映画的描写は斬り捨てられている。
だが、「戦争」を描いた作品として特筆すべき硬質なリアリズムが感じられるのである。
(また、「戦争」の中の個人の戦い<初代ガンダム主人公・アムロ VS ガンダムシリーズの主役・シャア>を、国家対革命組織の理念まで高めたのが『逆襲のシャア』であろう)
・・・思えば、戦争は、【大いなる消費】なのである。
山根貞男氏は、既に、答えを得ていたのである。
十五年前、日本アニメは、実写映画をはるかに超えていたのである。
▽果たして、『戦国自衛隊 1549』に表現される戦争が、上記に長々と書いた戦場観と符合するとは思えないが、少なくとも、その原作者の福井晴敏は、『ターンA ガンダム』のノベライズも執筆してるし、そのガンダム好きは有名であるし、紛うことなき<『ガンダム』世代の申し子>である。
思えば、『終戦のローレライ』の将校フリッツのSS軍服には鼻白み、アニメ『ガンダムF91』の描写欠落は許容する・・・。
私の映画の見方も面白いでしょ^^;
さて、だが、問題は福井晴敏氏の「ケレン」である・・・。
その「ケレン」がなかったら、多くの、後続のガンダム世代の若者の心を掴めないのかも知れない・・・。
思えば、マスクのシャア大佐に、我々は業の深さを感じた。
そして、『ガンダムF91』の敵役<鉄仮面>の存在も、一筋縄ではいかない人間観を窺わせてくれた。
福井晴敏も、フリッツに、戦争の一側面を背負わせていたのか・・・。
(2005/06/06)
# # #
では、最後に『機動戦士Vガンダム』の、クライマックスシーンをリンクさせておく。
この作品は評判が悪いが、物語の途中では、富野の目指していた子供たちだけの戦いというものが、自然な形で表現されていた。
『ZZ』などでは、それが見事に失敗していた。
リンクしているシーンは、若い者を退艦させて、老いた者だけで戦艦を操り敵に突っ込んでいくシーンである。
『V』は、母性が色濃く出た作風で、物語全般で計10人くらいの女パイロットが主人公をかばって散っていったが、
ここでは、男たちが最後の踏ん張りを見せる。
私も、年老いたら、若者のために散ろう・・・。
『特攻! リーンホース』
(2007/02/13)