☆ネット上での友人、おってプライベートでも友人のMUTIさんが、私個人に『落下の王国』評を送ってくれたので、ここに転載する。
ちなみに、私は、
[映画『落下の王国』を観た(大傑作!!)](クリック!)として書き残しているので、併せて読んで欲しい。
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蘭さん、MUTIです。
おすすめいただいた「落下の王国」を見ました。
見たのは、10日程前でしたが、印象がまとまらず、
今日まで連絡できなかった次第です。
今となっても、まとまらない感想ですが、以下、映画の感想です。
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ターセム・シン監督の「落下の王国」(2006年 THE FALL)を見た。
冒頭が恐ろしいほどの傑出映像だった。
白黒によるスローモーション映像で、これほどに美しい映画を私は未だかつて見た事がない。
映画史において比類のない数分間の一つとして記憶されるべきイメージだ。
私がこれまで見てきた経験からすると、
スローモーションというものは、映像の美しさ・映画的構成という点で、きわめて扱いにくい手段であり、多くの場合、作者の意図通りの効果を生まないだけでなく、それまでの「流れ」をぶち切ってしまう無惨な例と化す。
アメリカン・ニューシネマの名監督、サム・ペキンパーのような、スローモーションに関して異様・特異な才能をもつ監督もいるが、しばしばスローモーションの使用は、その作者の映画についての無理解部分を晒してしまうことにつながってしまう。
そして白黒。
この監督の前作「ザ・セル」(2000年 THE CELL)はDVDで鑑賞し、鮮やかな色彩のカラーを多用した衝撃的イメージは印象にのこった。
本作でも、鑑賞前にポスター等をみて、鮮やかな原色のイメージを持っていのだが、冒頭の白黒映像のもつ緊張感とみずみずしさは、そんな私の先入観を鮮やかにとびこえてくれた。
この白黒スローモーションの冒頭部分についていた音楽がなかったら、私は全身全霊で、この部分を賞賛した事だろう。
ただ、この部分で、クラシックの名曲を使っている事だけが、映画としての感動に水を差した。
こういう気分の中ではじまった本編は、ここでも私の監督に対するイメージをくつがえしてくれた。
恥ずかしながら「ザ・セル」を見た印象からは、これほどのものを作る能力がある監督とはまったく想像できなかった。
「ザ・セル」は、写真集といった、見る側が自由に深読みし、想像のできる発表形式での「画」なら相当の水準のものだったと思う。
が、「ザ・セル」において、スクリーンの枠内で時間をかけて流されたものは
前後とのつながりが悪く、結果、ストーリーとしっくりこない物と化していた。
精神異常者の心象風景、という事であったから、監督の意図通りなのかもしれないが、とりあえず普通の人間である私にとって、その衝撃的な映像は「鬼面人を驚かす」、「独りよがり」の絵空事となってしまっていた。
全体としては「同人」的な作品だったように思う。
それが(今作品では)、サイレント映画撮影の際のスタントの失敗によって
半身不随となった青年が幼い女の子に語るお話という「物語」の枠組みを設定することによって奔放なイメージが有機的に結合し、見事に動いて鮮明な印象を残してくれるストーリーとなっていた。
映画前半の、「物語」のイメージの「きらめき」と、青年と幼い女の子の入院した「現実」の病院のシーンとの微妙な関連は、さりげなく慎ましく、それを発見するものにさりげない喜びとしっとりした感触を与えてくれる。
奴隷が引いていた車からでてくる扇のベールの姫の美しさ。
が、この映画は、ストーリーをハッピーエンドには持って行かない。
半身不随の青年は自殺の衝動に囚われ、幼い女の子をだまして自殺に荷担させ、
大怪我をさせてしまう。
大怪我をした幼い女の子のベッド脇で、真に反省出来ない青年は、酒に浸りつつ嘆き、「物語」を悲惨な展開へと持って行ってしまう。
「物語」の主要なメンバーは次々と無惨な死をとげ、ベールの姫の美しさは衰える。
なんとか幼い女の子の訴えにより、「物語」での全滅、そして自死は食い止められる。
が、病院を出た二人の接点はなくなり、幼い女の子は黄金時代のサイレント映画に出てくる超人的な役者を、回復した青年だと思いこんで、現実を見る事が出来ないままなのだ。
そして、この映画は、
「キートンの恋愛三代記」(1923 THE THREE AGES)の中の、落下しつつ愛を全身で表現するバスター・キートンの名シーンを最後に暗転し、冒頭部と同じ曲をエンディングとして終わる。
なぜこの作品はハッピーエンドにならないのだろうか。
さて。
この映画が冒頭とエンディングでテーマとしている曲は、ベートーベンの交響曲第七番の第二楽章であり、この曲を聴くと私はある漫画を思い出すのだ。
それは松本零士の作品だ。
この松本零士の多くの著作・関係作品のうち、私の知る範囲における最高の傑作なのではないか、と思っているのが、「四次元世界」という漫画短編集だ。
松本零士の若い時代、そう、アニメ等で有名になった時代とは違う、繊細かつ強靭、どこか魔的(デモーニッシュ)な線の時代の作品集で、その中に「未完成」という題名の小編がある。
将来を目指して苦悩する青年が映画館に入る。
そこでは、作曲家フランツ・シューベルトを主人公とした映画をやっている。
(実際に存在する映画にはシューベルトを対象としたものがいくつかあるが、この漫画の中の映画はおそらく、古典的名作とされている、邦題「未完成交響曲」を参考にして松本零士が作ったものだろう。)
この劇中劇、漫画内の映画のシューベルトはベートーベンの音楽について、自分を慕う貴族令嬢に対して語る。
「交響曲第七番 第二楽章 不滅のアレグレット
僕の血は海に、
血が青い海のように騒ぐ
永遠の命のささやきが僕には聞こえる。
ルートヴッヒ・ヴァン・ベートーベン
偉大な世界…
僕には作れない世界…」
それを聞いた令嬢はシューベルトに、
「あなたには歌曲がある…」
とささやくのだが、シューベルトの顔とまなざしは、おののきと絶望に満ちたままだ。
結局、この漫画内の映画のシューベルトは三十一歳で、
「これが…
俺の終わりか… 」
と最期に独白して死去。(ちなみに年齢は史実どおり。)
未完成の人生の後には未完成の交響曲が遺される。
この「映画」を見た漫画の主人公の青年は涙しつつ、「自分にはまだ未来がある」とおもうが、時は刻々と過ぎてゆく。
松本零士の「未完成」は、こういう内容の漫画だ。
松本零士にとってベートーベンの交響曲第七番 第二楽章は、成功に焦がれて達成できない情念の象徴であったが、ターセム・シンにとってもそうなのだろうか?
冒頭の白黒スローモーションのすばらしさを見た私としては、この監督は映像的成功を達成できないのではなく、それを恐れているのではないか、という気がしてしまうのだ。
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以上、私の感想です。
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MUTIさんは、無声映画の時代の作品をこよなく愛す方であります。
私と若干解釈が違いますが、そこで特に口論になるようなことはありません。
お互いの思考の流れが分かっているからです。
「ああ、そこを、そう感じたか!^^」と一本取られた思いになるのです。
映画に関しては、原理主義的な方ですが、その方をして、ここまで語らせているのは、この作品の非凡でしょう。
(2008/12/10)