☆松浦光修著『日本の心に目覚める五つの話』を読んだ。
とりとめなく書いてみよう。
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序文にかくある。
<もしも将来、京都や奈良の文化財が、災害などで失われたとしても、私たち一人ひとりの"心のなか"に"日本"があるかぎり、"日本"は、けっして滅びません。世界には、いく世代にもわたる弾圧にも屈せず、いく百年の流浪にも耐えて、みずからの民族の信仰と誇りを護りつづけている民族が、いろいろとありますが、そういう事例からしても、それは確かなことです>
そして、今、まさに、この文中の「将来」である。
大震災を経て、そして、悪夢のように下卑た民主党政権下・・・、どうにか、"日本のこころ・美徳"で踏みとどまっているのが現状だ。
それは思想の問題ではない。
例え「アナキスト」を自称する者でさえも、かような有事においては、心の奥からふつふつと「愛国心(と書くと誤解する人がいるので「郷土愛」としようか)」が芽生えてしまうものだ。
我々は、今、建国始まって以来の、矮小なるかな実存の、小さな小さな自己の「帳尻合わせ」ばかりを気にする卑劣な政治元首を掲げるに至ってしまっている。
艱難辛苦の中の被災者置き去りで、
ただの言葉上の「救援」「支援」「復旧」「復興」を唱えて、上の空の「目つき」で自分の地位保全だけを考え続けている・・・。
こんなにも「こころ」のない人物は犯罪者でも稀だ。
その中で、「こころ」をもった国民や、「こころ」を心の片隅に抱いていた国民の踏ん張りで持ち堪えている。
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第一話では、「神さまの国―神話・天皇・神宮」と題し、唯物論に毒されつつある現在に、精神の「持ち方」の重要性が語られる。
と言うと、「うは、精神論かよ」と、唯物論で事足りると嘯いているようなヤカラは呟くかもしれないが、
私のブログは、何故か、そのような人ほどよく読んでくれるんですよね^^
気になるのでしょうかぁ?^^
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芸術やスポーツを愛する者は、芸術やスポーツの根源的なパワーが「精神」であることを身を持ってしってながら、
だが、何故だか、それを口に出すことを恥じらい、口では正反対のことを語る人が多い。
<なでしこジャパン>のパワーの源は、日本への思い・国民からの応援であったし(実力だけでは勝てん)、
今、ふと思い出したのだが、落合は現役時代に年俸アップ要求のことばかりがクローズアップされたものだが、彼の活躍は、そんな収支と別の志(こころざし)から得ているものだと、今では誰もがわかっていることだ(「努力は才能のない奴がすること」などと嘯いてもいたが、陰では努力していたのも有名。一種のツンデレ)。
そして、映画の主人公も、少年ジャンプの主人公も、最終的に、「正義」のために立つのは、そして勝つのは、「こころ」のありようからである。
人の良心的行動の根幹を為すのは、常に「こころ」を衝動としている。
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神さまと言うのは「目に見えない」ものだが、「存在しない」ものではない、と松浦先生はひたすらに穏やかに語る(面識のある方で、多くを学ばせてもらっているので「先生」と呼ぶ^^ 私は過激に語る^^;)。
あたかも、目に見えるものでの判断・唯物思想を、「進歩」の最先端の思考法と考えている人は多く、心の中での本来の常識的な判断から遠ざかる答えを出してしまうが、
唯物思想は、古代ギリシャ時代からある、(新しい思想が正しいと考えている人には、あえてこのような言い方をするが)「古い思想」なのである。
近代になってマルクス主義に、「それ」がピックアップされたに過ぎないし、
その後の、マルクス主義の生んだ「大虐殺(世界中で一億人超)」の結果を鑑みれば、その間違いは明白だ。
だが、マルクス主義の「妄想」は、未だに世界の半分を汚染している。
アメリカは、共産主義(極左)を完全に排除している風ではあるが、その薄まったもの(左翼)が浸透しつくしている。
その「左翼思想」がアメリカで最も顕著な時代に、日本は戦争に負け、占領され、異なる価値観を押し付けられた。
アメリカの神は、他の神を認めない神である。
日本の八百万の豊潤なる神さまたちを擁護する宣言をしつつも(それが機能した点もある)、反面、それを無意識に信じていた国民の「こころ」を喪失せしめた。
神さまでなくてもいい、「規範」でも「道徳」でもいい、「慣習」、「文明」でもいい、それら「目に見えないもの」が無価値だと教育されたのだ。
アメリカは、先ず、人類初の原子爆弾を、日本に「実験」の一環として落とし、
続いて、日本に、過度の「左翼思想」=「極左」=共産主義を植え込んでみる実験をした(例:日教組)。
本来ならば、そこにおいては、未曾有の流血沙汰が生まれたはずだ。
それでも、日本が踏ん張ったのは、敗戦までの「民族的な文明の蓄積」である。
「目に見えないもの」を信じる「こころ」である。
それで持ち堪えた。
いや、それは分からない、命は殺されてなくとも、こころは殺され続けていた。
だが、敗戦から70年が経とうとしている。
二世代の交代が繰り返されて、一世代目での「目に見えないものを信じて敗戦した反発」さえもなくなり(そこには更なる反作用が生まれる故に、国家総体では持ち堪えられる)、
ニ世代目においては、「虚ろ」が支配するに至った(私は、菅直人は、世代を先走った「虚ろ」の権化だと思っている)。
そこには、「目に見えないものを信じる気持ち」もなければ、「目に見えないものを信じる気持ち」の存在さえも選択肢にない。
そして、異常犯罪・自殺があとを絶たない。
自殺者なんて、年間に3万人超である。
あれほど騒いでいるのに原発事故の死者は「0人」である。
で、ここからは私見を書くが、
何で、「人の心」を踏みにじるかのような異常犯罪が昨今多いのか? だが、私はこう考える。
それは、「目に見えない存在を信じる気持ち」を喪失せしめられた人間が、だが、心に何かの欠落を感じ、その獲得の方法が分からずに、それが犯罪のかたちになって現われているのかもしれない、と。
だからと言って、そんな犯罪者の犯罪衝動に同情はしないし、犯罪に見合った以上の刑罰を与えればいいと思うが、上記は一つの答えと言えよう。
数年前に、『俺を好きにならなかったら殺す』という、究極の社会通念破壊発言で名をはせた、少女監禁魔・露天商手伝いの鄭隆之がいたが、
これなどは、その顕著な例だ。
考えるだに凄まじいセリフだ。
暴力で身体を自由にすることは、犯罪ではあるが出来ようが、その心を暴力でどうにかできると考えている異常性は、アメリカのGHQの政策・連なる日教組教育下アトモスフィアの「完成」を意味しよう。
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さて、二世代に渡っている「唯物思想」の「しばり」だが、
松浦先生は、その「しばり」がすぐに取れるとも、取りなさいとも言わない。
しかし、その「しばり」が自分の頭の中にあるということを気づいて欲しいと言っている。
それが端緒だと。
自分の頭に選択肢をもつことによって、
「目に見えないもの」のかつての話、それを祭る場所、その祭祀を取り仕切るお方の話が多少なりとも認識できるようになると語っている。
神話、神宮、天皇の話である。
神話には、科学的とは言えない話が多数あるが、そこには、文学野においての「真理」は散見されている。
日本には、大小の神社が8万社以上あり、そこには、その、のべ数万倍の参拝者がいる。
みんながみんな厳粛であるわけでもなく、ライトな感覚の持ち主が大半であるのかもしれないが、こころの片隅では確かに祈る。
そして、祭祀の最大最高の儀式を執り行うのが天皇である。
凄まじく多くの国民が、「目に見えないもの」のために生きている。
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面白いもので、科学の最先端を垣間見た方の多くは、多くを知ったが故に「目に見えないもの」の存在を信じざるを得ない。
宇宙飛行士が、宇宙で、神の存在(あるいは宇宙の意思)を信じざるを得ないのと同じである。
当たり前である。
物質を突き詰めて突き詰めて科学的に解釈しようとした時、そこには、それを創造した者の存在を意識せざるを得ないからだ。
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さて、私見であるが、福島原発事故における放射能についてだ。
不思議なのである。
この「目に見えぬ存在」、多くの国民に恐れられている。
「目に見えぬ存在」を信じなくなったはずの多くの国民が恐怖におののいている。
科学的には、人体に影響のないレベルの放射線量なのに、殊更に恐れている。
それを煽っているのは、どんな勢力か?
左翼マスコミであり、左翼運動組織であり、極左の共産党である。
こいつらは、科学で証明できない「こころ」の問題は認めなかったのに、
科学で「人体に何ら影響がないが、自然界に存在するよりは多い放射能」と完全解明されている、今回の原発事故の放射能を殊更に秩序破壊の理由付けとして利用している。
今まで信じていなかった「目に見えぬもの」が、今回は負の存在と分かるや、手のひら返しで利用する。
欧米は、日本を原爆実験の場とした「民族的な引け目」を、これからも半永久的にもち続けるであろうから、その反作用で、「放射能」と言うものを永遠に恐れ続け、左翼・極左と同じく、放射能ヒステリックを持ち続けるだろう。
だが、日本人ならば、輸入された思考様式に囚われず、もっと冷静にならなくてはなるまい。
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最後に、「目に見えない存在」を信じられるようになったら、我々はどうすべきか、である。
簡単である。
自分の現実と照らし合わせ、正しい行ないで生きる、と言う、簡単な事である。
(2011/07/24)