☆私は、大相撲やプロレス、芸能の興行活動の陰には、いわゆる「ヤクザ」の存在は当たり前だと思っていたので、今回の一連の相撲界の暴力団絡みの不祥事の、マスコミや世論によるヒステリックな糾弾には非常に驚いている。
興行の裏においてのヤクザの活動は、ヤクザのシノギの中では「健全」なものの範疇だろう。
《「これで終わりではない」強い口調の放駒理事長 (2010.8.26 19:59)》
<放駒理事長(元大関魁傑)一問一答
--素早い対応だった
「秋場所も間近に迫っている。この問題をいつまでも引きずってはいけない。ただ、これで終わりではない。名古屋場所以前の形に戻すには、まだまだやることがある」
「難しい言葉ではなく、誰にでも分かる言葉遣いを一番に考えた。皆さまにどういう評価をしていただけるか。(相撲協会規定集の)寄付行為に盛り込むとは考えていない」
--具体的な暴力団排除方法はあるのか
「警察の協力を得て、いろいろと対策を講じている。(暴力団関係者など)そういう人の入場をチェックしていきたい」
--宣言はいつから適用されるのか
「今日からだ。ただ以前に起きたことは無罪放免ではない。場合によっては罰則もある。その時は暴力団等排除対策委員会などで検討する」>
・・・いや、この、苦境を負かされた放駒理事長に不満を言うのではない。
ただ、なーんか、こうして、いわゆる「庶民」の常識で、いかなる環境からも「闇」を排除し、世の中を透明化し、白日の下に晒し続けていったら、
日本全てが、今の民主党政権のような、「恥部」をさらけ出して、それを恥と考えない世の中になってしまうような気がする。
かようにして排除されていったヤクザ者・・・、、健全なシステムの闇としてあった「はみ出し者」は、より先鋭化し、完全なる「悪」へと変貌してしまうだろう。
ヤクザ者の居場所は必要で、スポーツ界や芸能界への「寄生」は、女子供に危害の及ばない、ヤクザ者を穏健な社会に収めておく、機能的なシステムであったはずなのに・・・。
◇
この本、読みやすいので、私、ちょくちょく読み直す。
『戦前の日本』(武田知弘著・ 彩図社)
その第一章は「国会議員にヤクザの親分がいた」で、九州の筑豊炭鉱からのしてきた吉田磯吉について語られる。
彼が、議員になる前のエピソードにこんな話がある。
<・・・吉田磯吉を象徴する事柄に「放駒事件」がある。
明治42年(1909年)、大阪相撲協会に所属する大関、放駒が東京大相撲に移籍すると発表した。当時の大相撲は、東京と大阪のふたつの団体に分かれていた。相撲取りの身分は所属する団体に握られていたため、勝手な移籍は許されないことだった。しかし放駒は大阪での待遇に不満を持ち、あえてタブーを犯して移籍しようとしたのである。
この一件は、大きな波紋を呼んだ。当時、大相撲といえば人気ナンバーワンのスポーツだったため、新聞各紙はこぞってこの話題を取り上げた。また、水面下では、興行に関わるヤクザの親分や地域のボスたちが互いに意地と面子を張り合ったので、問題はこじれにこじれ、複雑怪奇な様相を呈していた。
そんな中、弱った関係者が吉田磯吉に仲介を打診した。
事件に関係するボスたちの顔を立てて、うまく解決に導いて欲しいとの狙いだった。
依頼を受けた磯吉は、さっそく放駒の移籍を渋っている関西の顔役のもとに赴いた。その際、磯吉は死をも覚悟していたといわれるが、その顔役とは五分の兄弟分だったのが幸いして、顔役は説得の言葉に耳を傾けた。その結果、磯吉は顔役から放駒の移籍の容認を引き出し、事件を解決したのである。この仲裁劇は読売新聞などの全国紙でも報道され、磯吉の名は一躍広まることになった。
また、磯吉は「ストの調停」でも名をなした。
高まる社会主義思想の影響か、大正から昭和初期にかけての日本では、全国でストライキが頻発していた。しかし、当時はまだ労働法も整備されておらず、公的な調停機関もなかったため、争議がこじれて流血騒ぎになることもしばしばだった。そのため、労働者のまとめ役でもある地域のボスに、調停の依頼が舞い込んできたのである。
調停の打診を受けた地域のボスは、企業から労働者側に有利な譲歩を引き出す一方で、腕力をチラつかせてストライキを押さえ込んだ。このやり方は、当時の社会制度の中では、有効な解決策だったのである。
吉田磯吉は、こうしたストの調停のプロパーともいえる存在だった。
彼は旭硝子争議、三井炭鉱の長崎沖仲仕紛争など、数々の争議を調停し、吉田磯吉にかかればどんな困難な争議でも必ず解決する、とまでいわれるようになった。
もちろんそのやり方は、きれいなものばかりではない。ときには子分を使って暴力沙汰を起こしたり、威嚇行為を行なうこともあった。>
かつての任侠者と、現在の暴力団を、安易に比べるわけにもいかないが、
世の中には、裏街道を生きるしかない人間がいて、世の中には、そんな「はみ出し者」が収まる「適所」が必要だと思うのだ。
また、世の中の表舞台には、表街道の仮面を被った異常者(異常組織)がいっぱいいて、そんな奴(ら)には、どうあっても「暴力」を用いるしかないときもある。
私が言いたいのは、戦争も、その帰結の一つだってことだ。
日教組教育においては、性悪者による性善説の洗脳がなされているが故、多くの国民は、その行動原理から攻撃的な思考回路が、ロボトミー手術を施されたかのように切除されている。
その雛形が、鳩山由紀夫である。
私は今、吉田磯吉の仲介の行動を書き写していて、菅首相と小沢元民主党幹事長の間を右往左往して仲介者を気取っている鳩山前首相と比べ、そのあまりにもの隔たりに歯軋りする。
私は、民主党は、もはや、暴力で駆逐されるべき段階に突入していると思う。
小沢一郎は「悪」である。
だが、その「悪」でしか、民主党は葬れないであろう。
◇
先日から予告していた通り、私、小説執筆に入りたいと思いますので、三ヶ月ほど、ブログを休ませて頂きます^^
このブログは、ちょくちょく覗くので、コメントやTBへはちゃんと返信させて頂きます^^
また、私への連絡は、こちらにお願いします^^
midnight-run@tbc.t-com.ne.jp
では、シーヤ!!
(2010/08/31)
興行の裏においてのヤクザの活動は、ヤクザのシノギの中では「健全」なものの範疇だろう。
《「これで終わりではない」強い口調の放駒理事長 (2010.8.26 19:59)》
<放駒理事長(元大関魁傑)一問一答
--素早い対応だった
「秋場所も間近に迫っている。この問題をいつまでも引きずってはいけない。ただ、これで終わりではない。名古屋場所以前の形に戻すには、まだまだやることがある」
「難しい言葉ではなく、誰にでも分かる言葉遣いを一番に考えた。皆さまにどういう評価をしていただけるか。(相撲協会規定集の)寄付行為に盛り込むとは考えていない」
--具体的な暴力団排除方法はあるのか
「警察の協力を得て、いろいろと対策を講じている。(暴力団関係者など)そういう人の入場をチェックしていきたい」
--宣言はいつから適用されるのか
「今日からだ。ただ以前に起きたことは無罪放免ではない。場合によっては罰則もある。その時は暴力団等排除対策委員会などで検討する」>
・・・いや、この、苦境を負かされた放駒理事長に不満を言うのではない。
ただ、なーんか、こうして、いわゆる「庶民」の常識で、いかなる環境からも「闇」を排除し、世の中を透明化し、白日の下に晒し続けていったら、
日本全てが、今の民主党政権のような、「恥部」をさらけ出して、それを恥と考えない世の中になってしまうような気がする。
かようにして排除されていったヤクザ者・・・、、健全なシステムの闇としてあった「はみ出し者」は、より先鋭化し、完全なる「悪」へと変貌してしまうだろう。
ヤクザ者の居場所は必要で、スポーツ界や芸能界への「寄生」は、女子供に危害の及ばない、ヤクザ者を穏健な社会に収めておく、機能的なシステムであったはずなのに・・・。
◇
この本、読みやすいので、私、ちょくちょく読み直す。
『戦前の日本』(武田知弘著・ 彩図社)
その第一章は「国会議員にヤクザの親分がいた」で、九州の筑豊炭鉱からのしてきた吉田磯吉について語られる。
彼が、議員になる前のエピソードにこんな話がある。
<・・・吉田磯吉を象徴する事柄に「放駒事件」がある。
明治42年(1909年)、大阪相撲協会に所属する大関、放駒が東京大相撲に移籍すると発表した。当時の大相撲は、東京と大阪のふたつの団体に分かれていた。相撲取りの身分は所属する団体に握られていたため、勝手な移籍は許されないことだった。しかし放駒は大阪での待遇に不満を持ち、あえてタブーを犯して移籍しようとしたのである。
この一件は、大きな波紋を呼んだ。当時、大相撲といえば人気ナンバーワンのスポーツだったため、新聞各紙はこぞってこの話題を取り上げた。また、水面下では、興行に関わるヤクザの親分や地域のボスたちが互いに意地と面子を張り合ったので、問題はこじれにこじれ、複雑怪奇な様相を呈していた。
そんな中、弱った関係者が吉田磯吉に仲介を打診した。
事件に関係するボスたちの顔を立てて、うまく解決に導いて欲しいとの狙いだった。
依頼を受けた磯吉は、さっそく放駒の移籍を渋っている関西の顔役のもとに赴いた。その際、磯吉は死をも覚悟していたといわれるが、その顔役とは五分の兄弟分だったのが幸いして、顔役は説得の言葉に耳を傾けた。その結果、磯吉は顔役から放駒の移籍の容認を引き出し、事件を解決したのである。この仲裁劇は読売新聞などの全国紙でも報道され、磯吉の名は一躍広まることになった。
また、磯吉は「ストの調停」でも名をなした。
高まる社会主義思想の影響か、大正から昭和初期にかけての日本では、全国でストライキが頻発していた。しかし、当時はまだ労働法も整備されておらず、公的な調停機関もなかったため、争議がこじれて流血騒ぎになることもしばしばだった。そのため、労働者のまとめ役でもある地域のボスに、調停の依頼が舞い込んできたのである。
調停の打診を受けた地域のボスは、企業から労働者側に有利な譲歩を引き出す一方で、腕力をチラつかせてストライキを押さえ込んだ。このやり方は、当時の社会制度の中では、有効な解決策だったのである。
吉田磯吉は、こうしたストの調停のプロパーともいえる存在だった。
彼は旭硝子争議、三井炭鉱の長崎沖仲仕紛争など、数々の争議を調停し、吉田磯吉にかかればどんな困難な争議でも必ず解決する、とまでいわれるようになった。
もちろんそのやり方は、きれいなものばかりではない。ときには子分を使って暴力沙汰を起こしたり、威嚇行為を行なうこともあった。>
かつての任侠者と、現在の暴力団を、安易に比べるわけにもいかないが、
世の中には、裏街道を生きるしかない人間がいて、世の中には、そんな「はみ出し者」が収まる「適所」が必要だと思うのだ。
また、世の中の表舞台には、表街道の仮面を被った異常者(異常組織)がいっぱいいて、そんな奴(ら)には、どうあっても「暴力」を用いるしかないときもある。
私が言いたいのは、戦争も、その帰結の一つだってことだ。
日教組教育においては、性悪者による性善説の洗脳がなされているが故、多くの国民は、その行動原理から攻撃的な思考回路が、ロボトミー手術を施されたかのように切除されている。
その雛形が、鳩山由紀夫である。
私は今、吉田磯吉の仲介の行動を書き写していて、菅首相と小沢元民主党幹事長の間を右往左往して仲介者を気取っている鳩山前首相と比べ、そのあまりにもの隔たりに歯軋りする。
私は、民主党は、もはや、暴力で駆逐されるべき段階に突入していると思う。
小沢一郎は「悪」である。
だが、その「悪」でしか、民主党は葬れないであろう。
◇
先日から予告していた通り、私、小説執筆に入りたいと思いますので、三ヶ月ほど、ブログを休ませて頂きます^^
このブログは、ちょくちょく覗くので、コメントやTBへはちゃんと返信させて頂きます^^
また、私への連絡は、こちらにお願いします^^
midnight-run@tbc.t-com.ne.jp
では、シーヤ!!
(2010/08/31)