私的には、P・ジャクソンくらいになると、この悲惨なテーマでファンタジーを創れるのだなと感心した。
と言うのも、私も20年ほど前、宮崎勤事件が日本中を震撼させたとき、
私は、せめてせめて、被害にあった子たちが、死後の世界で幸せになっていて欲しいと思い、このような物語を想った。
しかし、どう考えても、それは厳しい展開にならざるを得ないと、私は端っから諦めるのだった。
展開上、「事件」を経なければならなかったからだ。
そして、今回、P・ジャクソンは、リアルに構築された映画文法の中で、それをやり遂げた。
私は見ていて非常に「不愉快」で、だがP・ジャクソン、与えられた縛りの中では最高の仕事をしたと思う。
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14歳にして、少女連続猟奇殺人者に殺されたスージー・サーモンを演じるシアーシャ・ローナンの演技は、あらゆる局面で完璧だった。
殺人者を演じた男も、ケレンなく、日常に潜むおぞましい恐怖の存在を見事に演じていたが、それに対した「少女」としてのシアーシャ・ローナンの演技は凄まじかった。
線が細い、透き通るような瞳と肌と髪の美少女である。
故に、表情の微妙な変化に、その心の変化が如実に現われていた。
私は、『うた魂』で主演の夏帆が「歌っている顔が鮭みたいだ」と言われていたのを思い出し、スージー・サーモンと言う役名の面長のシアーシャ・ローナンを「サーモン」みたいだなと、予告編などでは見ていたのだが、いざ、本編を見たら、そのあまりにもの「儚さ」に魅了された。
やはり、クライマックスなのである。
憧れだった少年とキスをすることが出来たときのスージーの本当に嬉しそうな泣き笑いの顔・・・。
私は、若い頃にキスした相手の表情を思い出して、目に涙が溜まった。
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これは、『ゴースト』のような、現世に残された家族と積極的に繋がる話ではない。
死んで、現世に思いを残しているが故に「狭間の世界」に残ったスージーだが、ただ、現世を眺めることしか出来ない。
ここら辺は、『ゴースト』が流行ったときにスピルバーグ(今作品のプロデューサー)が撮った『オールウェイズ』と同じ、霊に対しての観念のような気がした。
ちなみに、色彩豊かな「狭間の世界」、一つ間違えれば丹波哲郎チック(大霊界)で、私は訝しげに見ていた。
特に、太陽が、大きな花びらのイメージに変化するところなどは、「胡散臭い白人ブッディスト」の世界観のようにも思えた。
だからこそ、スージーが奔放に「狭間の世界」で遊ぶシーンは底抜けで良かった。
しかし、テーマがテーマであるが故に、私の心は陰鬱でもあった。
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物語のスージーのパートと、現世のパートは、完全に独立している。
そして、興味深いことに、登場人物たちも、それぞれが主人公の如く自立して物語を牽引する。
スージーの妹などは、利発で活発で、スージー以上の活躍をする。
親子関係や夫婦関係も別個に進行する。
これは、最近親友を亡くした私が、『ダム・ファッカー』シリーズで語ろうと思っていたことなのだが、P・ジャクソンも同じテーマに行き着いたと考えるしかない。
つまり、「他者が亡くなってしまっても、自分の人生は続く」と言うことだ。
それぞれがそれぞれの独立した、自分が中心の人生を送るしかなく、そうあるべきなのだ。
・・・だからこそ、この物語の犯人は、他者の人生を蔑ろにしたことで愉悦を感じ、それを咀嚼しほくそ笑んでいたのだ。
人生の美しさ(ラブリー)と暗黒(ボーン=骨)を表裏一体不可分にして描いた、この作品は「不愉快だが凄い」。
(2010/01/31)