予告編を見ると、どうやら感動作らしいし、数人しかいなかった館内の、斜め後ろに座っていた女の子が終盤、大泣きしていたということもあるのだが、言っちゃあなんだが、感動作としては微妙な手触りの作品だった。
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問題点は二つ・・・、
先ず、物語の前半、主人公ベン(ウィル・スミス)は、何やら、過去に大きな人生の転機となるエピソードがあり、そして物語上の現在においても、何かを計画して動いている。
それが、目の不自由な、電話注文の肉屋で働いている男を苦情で翻弄する話で幕開けするので、見ているこちらには、主人公がなんか悪いことを企んでいるようにも見えるのだ。
物語の終盤まで、主人公の目的は伏せられ、また、主人公が、良くも悪くも取れる表情をするので、理由を伏せられている我々は、この主人公は悪なのか善なのかと、妙なサスペンス気分に置かれる。
ウィル・スミスは、なんか妙に命のやり取りをするような場所(病院など)に、古畑任三郎っぽい奇妙な笑顔で飄々と現われる。
作り手は、そういったサスペンス効果を狙って作っているようだ。
でも、それっておかしいのである。
何で、我々は、物語の前半、「感動作」の主人公に疑心暗鬼の思いを抱かされなくてはならないのか?
何で、「感動作」に、違和感ありありのミステリー要素を絡めなくてはならないのか?
ウィル・スミスは、『アイ・アム・レジェンド』(クリック!)でも『ハンコック』(クリック!)でも、物語の中盤で、それまでの物語の方向性とは180度違うことを始めていた。
それに凝っているのだろうか?^^;
なんか、シャマラン監督のような、どんでん返しの強迫観念に駆られているのか?
・・・おそらく、そうでもしないと、この物語が40分ほどしか持たなかったんだろう。
そもそもが、オスカー・ワイルドの『幸福の王子』みたいな短編ネタに過ぎないからなあ。
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もう一つの問題としては、
この主人公のやっていることは、どのように物語をデコレーションしたとしても、「自殺」以上でも以下でもないのである。
ゆめゆめ、これを、例えば、『アルマゲドン』や『インディペンデンス・デイ』などでパクられた日本の特攻隊のような<自己犠牲>の亜流とは思わないで欲しい。
ただの、命の粗末な扱い方である。
一生目に不自由な方がおられようが、心臓病で余命いくばくもない方がおられようが、それが天命だから我慢しろなどとは言わないが、そのために命を自ら奪うような人間がいて、その人間が人生での「使命」を貫徹するチャレンジもしないうちに自殺し、それを認めるような物語は、これ、破綻していると言わざるを得ない。
この主人公がすべき第一義は、亡くなった恋人亡き後を幸せに生きることであった。
あるいは、自分なりの前向きな方法で、不治の病の者を助ける努力だ。
この主人公への違和感は、『私は貝になりたい』(クリック!)の主人公の死に赴く態度を見たときと近い。
アメリカの映画にこのような道義を内包した作品が生まれてしまったことに、
大多数の人間(アメリカ社会)が、このような内容を認めてしまっていることに、私は驚きを禁じえない。
現在アメリカの精神性はここまで落ち込んでいるのかと・・・。
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・・・救いは、ヒロインのロザリオ・ドーソンの美しさか・・・。
エンディングでホロリとさせられたのは、ひとえに彼女の演技でである。
(2009/02/27)