☆悪い映画じゃないんだけど、
なんか、小学校の時、学年で視聴覚室に集められて見た映画のような、純文部省推奨作品的な潔癖感が感じられる作品だった。
・・・学校で孤立し、登校拒否に陥った主人公の娘(高橋真悠)が、祖父の死後、山間の山小屋で一人住む、英国人だった祖母(サチ・パーカー)のもとに預けられるのだ。
両親と微妙な齟齬があり、車に揺られて山道を行く情景は、『千と千尋の神隠し』の冒頭と似ていて、
全体の雰囲気も、似ているような気がした。
近所に住むやさぐれた男・木村祐一や、庶民性を届けてくれる郵便配達員の高橋克実など、いかにも、薄められた「油屋」のメンバー的な個性が感じられる。
人(それぞれ、客のためであったり、自分のためであったり)が過ごすための仕事をこなしていく様も、似ていた。
◇ ◇
『西の魔女・・・』では、その主人公マイが、田舎の生活を体験している様が丹念に描かれている。
しかし、その丁寧な撮りかたが、物語にちゃんと密着しているのだろうか?
私には、その方法論の是非が分からずに、作品全般を通して違和感があった。
レタスエッグサンドイッチやブルーベリージャムのつくり方を順を追って語られても、・・・田舎での足踏み洗濯のさまを長々と見せられても、いまいち意味が分からないのである。
そういったイベントを通して、マイの変化を、作り手側は描きたいのだろうが、こんなにも冗長である必要はない。
これらの行為は、後々(エピローグ時)に効果を発するわけでもない。
私は、ジョン・カーペンター監督の『ゼイリブ』での、「異星人を見破れるサングラスを掛けさせるための、延々と続けられたストリートファイト」を思い出した^^;
ならば、両親との関わり合いを、もっと念入りに描いてしかるべきだろう。
お母さん役のりょうの心境の変化を「お茶漬けサラサラ」「不在の娘の部屋眺め」で済ませてしまうのも中途半端に辛い・・・。
この物語における両親の存在は、取ってつけたような「オチつけマン」的な存在でしかない。
◇ ◇
「西の魔女」役であるサチ・パーカーさん、シャーリー・マクレーンの実の娘さんだそうだが、
スピリチュアルな世界に没入してしまったお母さんに対し、
今回は、「西の魔女」とは呼ばれているけれど、
純自然を友とするおばあちゃんを演じている。
その演技は、マゴリアムおじさん(ダスティン・ホフマン)クリソツだった^^;
目元や、相手に安心感を与えるような口もとなんか、双子にも思えた。
ダスティン・ホフマンが「西の魔女」を演じても違和感がなさそうだった。
思えば、ダスティン・ホフマンは『トッツィー』で女装をしていたものだ。
懐かしいなぁ^^
◇ ◇
「西の魔女」の清潔感は、物語のテーマ性に関わるので良いとして、
主人公マイ役の色気のなさたるや、何ごとであろうか?
なんか、「少女」としての魅力が皆無なのである。
私は、自分の姪っ子を見せられているような居心地の悪さを感じられた(非常に似ている)。
せっかくの「少女」なのである。
少しくらい、私をときめかせて欲しかった。
「西の魔女」なんだから、『いちご100%』の「西野つかさ」くらい可愛かったら良かったのだが・・・^^;
私は、松浦亜弥のコンサートのチケットを貰い行ったことがあるのだが、その魅力のなさにシラけながら観て、だが、彼女がヘソ出しルックに衣装を変えて出てきたトコだけは、そのウエストの美しさに見惚れた。
しかし、高橋真悠には、そんな魅力もなかった。
高橋嬢の素材は悪くないのだから、作り手の責任である。
ミミズやナメクジを見て、驚いて尻餅をつくパターンが何度かくり返されるが、全く萌えない。
そういった指向の作品でないのは分かるが、そういった要素を描けなければ、総合芸術と呼ばれる映画ではないのだよ・・・。
◇ ◇
マイは、「西の魔女」と気まずい別れをしてしまう。
次に「会う」ときは、「西の魔女」との永遠の別離の時であった(楳図かずお『漂流教室』の主人公と母親のシチュエーションと似ている)。
取り返しのつかないと思われたことは、「西の魔女」の<魔法>でことほぐれる。
その<魔法>が、物理的には<魔法>とは言えないトコが良かった。
PS.欠点ばかり書きすぎたが、「西の魔女」の<魔女修行>における言葉の中には、私が自身の人生を省みさせるような諌言が散見された。
私は、ゆっくりとした時間が流れる作品中で、何度か考えさせられた・・・。
(2008/06/28)
なんか、小学校の時、学年で視聴覚室に集められて見た映画のような、純文部省推奨作品的な潔癖感が感じられる作品だった。
・・・学校で孤立し、登校拒否に陥った主人公の娘(高橋真悠)が、祖父の死後、山間の山小屋で一人住む、英国人だった祖母(サチ・パーカー)のもとに預けられるのだ。
両親と微妙な齟齬があり、車に揺られて山道を行く情景は、『千と千尋の神隠し』の冒頭と似ていて、
全体の雰囲気も、似ているような気がした。
近所に住むやさぐれた男・木村祐一や、庶民性を届けてくれる郵便配達員の高橋克実など、いかにも、薄められた「油屋」のメンバー的な個性が感じられる。
人(それぞれ、客のためであったり、自分のためであったり)が過ごすための仕事をこなしていく様も、似ていた。
◇ ◇
『西の魔女・・・』では、その主人公マイが、田舎の生活を体験している様が丹念に描かれている。
しかし、その丁寧な撮りかたが、物語にちゃんと密着しているのだろうか?
私には、その方法論の是非が分からずに、作品全般を通して違和感があった。
レタスエッグサンドイッチやブルーベリージャムのつくり方を順を追って語られても、・・・田舎での足踏み洗濯のさまを長々と見せられても、いまいち意味が分からないのである。
そういったイベントを通して、マイの変化を、作り手側は描きたいのだろうが、こんなにも冗長である必要はない。
これらの行為は、後々(エピローグ時)に効果を発するわけでもない。
私は、ジョン・カーペンター監督の『ゼイリブ』での、「異星人を見破れるサングラスを掛けさせるための、延々と続けられたストリートファイト」を思い出した^^;
ならば、両親との関わり合いを、もっと念入りに描いてしかるべきだろう。
お母さん役のりょうの心境の変化を「お茶漬けサラサラ」「不在の娘の部屋眺め」で済ませてしまうのも中途半端に辛い・・・。
この物語における両親の存在は、取ってつけたような「オチつけマン」的な存在でしかない。
◇ ◇
「西の魔女」役であるサチ・パーカーさん、シャーリー・マクレーンの実の娘さんだそうだが、
スピリチュアルな世界に没入してしまったお母さんに対し、
今回は、「西の魔女」とは呼ばれているけれど、
純自然を友とするおばあちゃんを演じている。
その演技は、マゴリアムおじさん(ダスティン・ホフマン)クリソツだった^^;
目元や、相手に安心感を与えるような口もとなんか、双子にも思えた。
ダスティン・ホフマンが「西の魔女」を演じても違和感がなさそうだった。
思えば、ダスティン・ホフマンは『トッツィー』で女装をしていたものだ。
懐かしいなぁ^^
◇ ◇
「西の魔女」の清潔感は、物語のテーマ性に関わるので良いとして、
主人公マイ役の色気のなさたるや、何ごとであろうか?
なんか、「少女」としての魅力が皆無なのである。
私は、自分の姪っ子を見せられているような居心地の悪さを感じられた(非常に似ている)。
せっかくの「少女」なのである。
少しくらい、私をときめかせて欲しかった。
「西の魔女」なんだから、『いちご100%』の「西野つかさ」くらい可愛かったら良かったのだが・・・^^;
私は、松浦亜弥のコンサートのチケットを貰い行ったことがあるのだが、その魅力のなさにシラけながら観て、だが、彼女がヘソ出しルックに衣装を変えて出てきたトコだけは、そのウエストの美しさに見惚れた。
しかし、高橋真悠には、そんな魅力もなかった。
高橋嬢の素材は悪くないのだから、作り手の責任である。
ミミズやナメクジを見て、驚いて尻餅をつくパターンが何度かくり返されるが、全く萌えない。
そういった指向の作品でないのは分かるが、そういった要素を描けなければ、総合芸術と呼ばれる映画ではないのだよ・・・。
◇ ◇
マイは、「西の魔女」と気まずい別れをしてしまう。
次に「会う」ときは、「西の魔女」との永遠の別離の時であった(楳図かずお『漂流教室』の主人公と母親のシチュエーションと似ている)。
取り返しのつかないと思われたことは、「西の魔女」の<魔法>でことほぐれる。
その<魔法>が、物理的には<魔法>とは言えないトコが良かった。
PS.欠点ばかり書きすぎたが、「西の魔女」の<魔女修行>における言葉の中には、私が自身の人生を省みさせるような諌言が散見された。
私は、ゆっくりとした時間が流れる作品中で、何度か考えさせられた・・・。
(2008/06/28)