▼(産経抄 2006/03/27)
《▽中国人詩人の田原氏と話をする機会があった。一九六五年の生まれとまだ若いが、仙台を拠点にすでに日本在住十五年、日本語で詩も書く。『谷川俊太郎詩選』を中国語に翻訳、それが出版され中国文学界に谷川詩ブームを起こした仕掛け人でもある。
▽谷川さんの「襤褸」という詩の冒頭はこんなふうに訳される。「詩歌/在天亮之前/誕生」(夜明け前に/詩が/来た)。ひらがなまじりの日本現代詩と漢字だけの中国詩はまったくリズムが違うのに、朗読すると同じ時間的空間的な感覚が広がってくる。
▽二つの言語の違いについての理解と愛着のなせるわざだろう。「垂直に落下する梅の香りは梅雨に濡れない…」(『梅雨』より)。田氏のつくる日本語詩も助詞が生み出すリズムが美しい。
▽「現代詩といえば毛沢東賛歌しか書けなかった時代も長かった」という中国で、平易だが深く美しい谷川詩への反響は大きかったそうだ。「現代中国詩発展のための重要な参考」と詩的な表現ではないが絶賛されて昨年、その訳詩選集が中国で出版された優れた東アジア文学に与えられる「二十一世紀鼎鈞双年文学賞特別賞」を受賞した。
▽筆者が生まれて初めて出合った現代詩は、やはり谷川詩だった。「かっぱらっぱかっぱらった…」。ぼろぼろになるまで繰り返し読んだ名作絵本詩集『ことばあそびうた』は、日本語のもつ妙、リズム、面白さを幼心に刷り込んだ。
▽それなのに…と、いい年になったいま考えさせられる。大量の外来語や安易な略語、流行語にさらされているうち、自分もまたぞんざいな日本語を使うことに無感覚になってはいまいか。美しい日本語への愛着を示してくれた外国人と別れたあと、古い詩集を引っ張り出した。》
▼いい話だなあ、と思って読んだ。
短歌や俳句なども、多言語に訳されてたりするものを読むと、不思議と深意が伝わっていたりするものだ。
ただ、谷川俊太郎ブームとは言っても、中国の膨大な人口の0.00000001%位なんだろうなあ^^;
今、調べたら、中国の文盲の率は5%もあるらしい。
ちなみに、韓国は25%なんて記事があったのだが、ホントかよ^^;
▼(ネットで拾った。翻訳なので変な日本語、朝鮮日報の記事らしい^^; いちお、手直ししてみたよ。微妙に意味が違ってしまっているかも知れないが、許してね)
《大人の25%、ハングルを書く事ができない。政府対策 「文盲」》
我が国の、大人4人のうち1人が、文盲であるにもかかわらず、政府は、実態調査さえ行わず、無関心であると、指摘を受けている。
学界の、碑文垓字(文盲)教育を担当してきた民間のハングル教育機関たちは、最近 、大人の文盲が25%にのぼると、これまでの政府が、1960年の古い調査結果を土台で文盲を 2~5%位と途方もなく低く取っていると批判した。
「碑文して」と言うのは、ハングルの読み取り・書き取り・数えるのが、全然不可能とか、もしくは可能だとしても、これをまともに理解することができなくて、手紙を読んで書くとか、銀行などでの用事を出来ないなど、生活に莫大な差し支えを与えることを意味する。学界では、卑下表現である「文盲」の代わりに「碑文して」と言う言葉を使っている。
去年、韓国教育開発院が、満19歳以上、全国の大人3千名を対象で調査した結果を見れば、小学校 6年生水準の読み取り・書き取り・数えることが、全く不可能な「完全碑文垓字」が8.4%も現われた。
また、少し複雑な読み取り・書き取り・数えることに難しさを感じる大人まで含めば、大人4人のうち1名ずつである24.6%人が「碑文垓字」と調査結果が出された。
「完全碑文垓字」は、60~70台の年寄りで、おおよそ、34~76%にのぼり、農村は42%、女性の場合は、男性の三倍にのぼるなど、高齢者・農村・女性の「完全碑文垓字」が深刻だと調査された。
政府は、50~60年代の初め、人口調査過程で、「手紙を読んで理解できる・できない」式の単純調査を通じて出た8~9%の文盲率に、その間の就学率上昇を考慮して、現在、「完全碑文垓字」を2~5%と推定いる。ユネスコは、こういう数値を根拠にしても、毎年発表する世界各国文盲率順位で、韓国を高い順位にしている。
だが、教育省・文化観光省・統計庁などの関係者たちは、「私たちの国は、最近、文盲率統計を取っていない」と、国際機関への資料提出自体を否認している次第だ。
金信一ソウル大国語教育科教授は「政府が、これまで30余年間、公式的に、文盲の調査を実施することのないまま、非科学的調査結果を土台で統計を出してきたせいで、その深刻性がそっぽを向かれて来た」と「全国的文盲調査が急務だ」と強調した。
ハングル学校を運営中の、安養市民大学博士屋校監は「政府は、大部分が零細な教育機関・団体のために財政支援と教師養成・教材開発などに支援を出して欲しい」と言った・・・。
▼・・・と、これは私が書きたかった話ではない。
そもそも、私は、谷川俊太郎について、ちょいと書きたかっただけなのだ。
私は、よく、表面上は下品な文章を書く。
ウンコ・チンコ・マンコ・オッパイが良く出てくる。
そういう言葉を書いていても、文脈で読み取って貰えば、自分の真意が読者に読み取って貰えると思って書いてるし、どうやら、私は、ウンコチンコマンコについて書くのが大好きらしい。
いつも、そういった言葉を書くときに思い浮かべているのが、谷川俊太郎の詩だった。
・・・こんな詩があるのだ。
===男の子のマーチ===
おちんちんはとがつてて
月へゆくロケツトそつくりだ
とべとべおちんちん
おにがめかくししてるまに
おちんちんはやらかくて
ちつちやなけものみたいだ
はしれはしれおちんちん
へびのキキよりもつとはやく
おちんちんはつめたくて
ひらきかけのはなのつぼみ
ひらけひらけおちんちん
みつはつぼみにあふれそう
おちんちんはかたくつて
どろぼうのピストルににてる
うてうておちんちん
なまりのへいたいみなごろし
▽現代詩人の最高峰が「ひらけひらけおちんちん」である^^;
こんなのありなんだ・・・、高校時代の私は興奮した!
だって、素晴らしいじゃないですか^^
・・・「鉛の兵隊皆殺し」ですよ。
正直、上記の詩の文学的意味合いは、私には見出せない。
だが、谷川俊太郎の文学的評価を下げるようなことはあるまい。
ましてや、この内容で、その思想的な背景を限定されることもあるまい。
▼オチンチンやウンコや糞マンコと書くと、とたんに下品と感じる人間がいるが、本当の下品と言うのはそんなものじゃないんだよね。
そう言った言葉を、反射的に遠ざける人物は、「平和」と言う言葉に酔いしれるテロリスト擁護派(左翼)と同じだ・・・。
私利・私欲・私怨で、共同体(国家)を破壊しようとするヤカラ・・・。
思想なく、日和見(パワーバランスを抜け目なく見て)で自分の意見をコロコロ変えるヤカラ・・・。
標語に呪縛され、物事の例外を認めようとしないヤカラ・・・。
自分のコミュニティを保つために、外界を認めないヤカラ・・・。
私は、「専守防衛」の人間であるから、かように下品なヤカラに対しては、全力をもって打撃を加えます。
そこに容赦はありません。
「和」を乱すヤツには、徹底的な言葉の砲撃を加えます。
<撃て、撃て、オチンチン!>です。
<鉛の兵隊、皆殺し!>です。
なーに、所詮は言葉、人間はしぶとく、何ら変わらずに這い上がってくるのである。
私は非常に優しい人間であるから、本当の弱者に「言葉の暴力」を向けたりはしない。
驕りたかぶった人物に「言葉の武力」を行使するのである。
文学は、虚学などではけしてなく、【人間の心を直撃】できる最高の実学である。
私は、私に、些少ではあるが文章能力があって良かったと心から思っている。
どんな卑劣な野郎とでも戦える武器となり得るからである。
PS・私の卒業した高校の校歌は、作詞・谷川俊太郎、作曲・團伊玖磨と言う豪勢なコラボ(^^;)でした。
(2006/03/30の再掲)
《▽中国人詩人の田原氏と話をする機会があった。一九六五年の生まれとまだ若いが、仙台を拠点にすでに日本在住十五年、日本語で詩も書く。『谷川俊太郎詩選』を中国語に翻訳、それが出版され中国文学界に谷川詩ブームを起こした仕掛け人でもある。
▽谷川さんの「襤褸」という詩の冒頭はこんなふうに訳される。「詩歌/在天亮之前/誕生」(夜明け前に/詩が/来た)。ひらがなまじりの日本現代詩と漢字だけの中国詩はまったくリズムが違うのに、朗読すると同じ時間的空間的な感覚が広がってくる。
▽二つの言語の違いについての理解と愛着のなせるわざだろう。「垂直に落下する梅の香りは梅雨に濡れない…」(『梅雨』より)。田氏のつくる日本語詩も助詞が生み出すリズムが美しい。
▽「現代詩といえば毛沢東賛歌しか書けなかった時代も長かった」という中国で、平易だが深く美しい谷川詩への反響は大きかったそうだ。「現代中国詩発展のための重要な参考」と詩的な表現ではないが絶賛されて昨年、その訳詩選集が中国で出版された優れた東アジア文学に与えられる「二十一世紀鼎鈞双年文学賞特別賞」を受賞した。
▽筆者が生まれて初めて出合った現代詩は、やはり谷川詩だった。「かっぱらっぱかっぱらった…」。ぼろぼろになるまで繰り返し読んだ名作絵本詩集『ことばあそびうた』は、日本語のもつ妙、リズム、面白さを幼心に刷り込んだ。
▽それなのに…と、いい年になったいま考えさせられる。大量の外来語や安易な略語、流行語にさらされているうち、自分もまたぞんざいな日本語を使うことに無感覚になってはいまいか。美しい日本語への愛着を示してくれた外国人と別れたあと、古い詩集を引っ張り出した。》
▼いい話だなあ、と思って読んだ。
短歌や俳句なども、多言語に訳されてたりするものを読むと、不思議と深意が伝わっていたりするものだ。
ただ、谷川俊太郎ブームとは言っても、中国の膨大な人口の0.00000001%位なんだろうなあ^^;
今、調べたら、中国の文盲の率は5%もあるらしい。
ちなみに、韓国は25%なんて記事があったのだが、ホントかよ^^;
▼(ネットで拾った。翻訳なので変な日本語、朝鮮日報の記事らしい^^; いちお、手直ししてみたよ。微妙に意味が違ってしまっているかも知れないが、許してね)
《大人の25%、ハングルを書く事ができない。政府対策 「文盲」》
我が国の、大人4人のうち1人が、文盲であるにもかかわらず、政府は、実態調査さえ行わず、無関心であると、指摘を受けている。
学界の、碑文垓字(文盲)教育を担当してきた民間のハングル教育機関たちは、最近 、大人の文盲が25%にのぼると、これまでの政府が、1960年の古い調査結果を土台で文盲を 2~5%位と途方もなく低く取っていると批判した。
「碑文して」と言うのは、ハングルの読み取り・書き取り・数えるのが、全然不可能とか、もしくは可能だとしても、これをまともに理解することができなくて、手紙を読んで書くとか、銀行などでの用事を出来ないなど、生活に莫大な差し支えを与えることを意味する。学界では、卑下表現である「文盲」の代わりに「碑文して」と言う言葉を使っている。
去年、韓国教育開発院が、満19歳以上、全国の大人3千名を対象で調査した結果を見れば、小学校 6年生水準の読み取り・書き取り・数えることが、全く不可能な「完全碑文垓字」が8.4%も現われた。
また、少し複雑な読み取り・書き取り・数えることに難しさを感じる大人まで含めば、大人4人のうち1名ずつである24.6%人が「碑文垓字」と調査結果が出された。
「完全碑文垓字」は、60~70台の年寄りで、おおよそ、34~76%にのぼり、農村は42%、女性の場合は、男性の三倍にのぼるなど、高齢者・農村・女性の「完全碑文垓字」が深刻だと調査された。
政府は、50~60年代の初め、人口調査過程で、「手紙を読んで理解できる・できない」式の単純調査を通じて出た8~9%の文盲率に、その間の就学率上昇を考慮して、現在、「完全碑文垓字」を2~5%と推定いる。ユネスコは、こういう数値を根拠にしても、毎年発表する世界各国文盲率順位で、韓国を高い順位にしている。
だが、教育省・文化観光省・統計庁などの関係者たちは、「私たちの国は、最近、文盲率統計を取っていない」と、国際機関への資料提出自体を否認している次第だ。
金信一ソウル大国語教育科教授は「政府が、これまで30余年間、公式的に、文盲の調査を実施することのないまま、非科学的調査結果を土台で統計を出してきたせいで、その深刻性がそっぽを向かれて来た」と「全国的文盲調査が急務だ」と強調した。
ハングル学校を運営中の、安養市民大学博士屋校監は「政府は、大部分が零細な教育機関・団体のために財政支援と教師養成・教材開発などに支援を出して欲しい」と言った・・・。
▼・・・と、これは私が書きたかった話ではない。
そもそも、私は、谷川俊太郎について、ちょいと書きたかっただけなのだ。
私は、よく、表面上は下品な文章を書く。
ウンコ・チンコ・マンコ・オッパイが良く出てくる。
そういう言葉を書いていても、文脈で読み取って貰えば、自分の真意が読者に読み取って貰えると思って書いてるし、どうやら、私は、ウンコチンコマンコについて書くのが大好きらしい。
いつも、そういった言葉を書くときに思い浮かべているのが、谷川俊太郎の詩だった。
・・・こんな詩があるのだ。
===男の子のマーチ===
おちんちんはとがつてて
月へゆくロケツトそつくりだ
とべとべおちんちん
おにがめかくししてるまに
おちんちんはやらかくて
ちつちやなけものみたいだ
はしれはしれおちんちん
へびのキキよりもつとはやく
おちんちんはつめたくて
ひらきかけのはなのつぼみ
ひらけひらけおちんちん
みつはつぼみにあふれそう
おちんちんはかたくつて
どろぼうのピストルににてる
うてうておちんちん
なまりのへいたいみなごろし
▽現代詩人の最高峰が「ひらけひらけおちんちん」である^^;
こんなのありなんだ・・・、高校時代の私は興奮した!
だって、素晴らしいじゃないですか^^
・・・「鉛の兵隊皆殺し」ですよ。
正直、上記の詩の文学的意味合いは、私には見出せない。
だが、谷川俊太郎の文学的評価を下げるようなことはあるまい。
ましてや、この内容で、その思想的な背景を限定されることもあるまい。
▼オチンチンやウンコや糞マンコと書くと、とたんに下品と感じる人間がいるが、本当の下品と言うのはそんなものじゃないんだよね。
そう言った言葉を、反射的に遠ざける人物は、「平和」と言う言葉に酔いしれるテロリスト擁護派(左翼)と同じだ・・・。
私利・私欲・私怨で、共同体(国家)を破壊しようとするヤカラ・・・。
思想なく、日和見(パワーバランスを抜け目なく見て)で自分の意見をコロコロ変えるヤカラ・・・。
標語に呪縛され、物事の例外を認めようとしないヤカラ・・・。
自分のコミュニティを保つために、外界を認めないヤカラ・・・。
私は、「専守防衛」の人間であるから、かように下品なヤカラに対しては、全力をもって打撃を加えます。
そこに容赦はありません。
「和」を乱すヤツには、徹底的な言葉の砲撃を加えます。
<撃て、撃て、オチンチン!>です。
<鉛の兵隊、皆殺し!>です。
なーに、所詮は言葉、人間はしぶとく、何ら変わらずに這い上がってくるのである。
私は非常に優しい人間であるから、本当の弱者に「言葉の暴力」を向けたりはしない。
驕りたかぶった人物に「言葉の武力」を行使するのである。
文学は、虚学などではけしてなく、【人間の心を直撃】できる最高の実学である。
私は、私に、些少ではあるが文章能力があって良かったと心から思っている。
どんな卑劣な野郎とでも戦える武器となり得るからである。
PS・私の卒業した高校の校歌は、作詞・谷川俊太郎、作曲・團伊玖磨と言う豪勢なコラボ(^^;)でした。
(2006/03/30の再掲)