しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

珍果・干しイチジク

2016年05月28日 | 父の話
談・2005.2.27

赤トーガキも白トーガキも同時に採れる。
白トーガキは西浜(ようすな)の人が買いに来て生食ように売っとったが、2~3年で止めた。
朝は赤を採り、晩に白を採る。

ほぼろから、はねうつして、まっすぐに並べなおして燻蒸(うむす)。

銅山や西ノ谷の人が多かった。

蒸し方、干し方は研究しょうた。それで統一するようにしようた。

美味いもんじゃあなかったが、珍しいんで(いつ時でも、少量)買う人はいた。

(廃止まで)作る家じゃったけえ作ってきたが、そんなにええ相場の年はなかった。
止めたときはほっとした。

うむし小屋は1軒に一つあったが、要らんようになったらみなころがした。邪魔になるだけ。
今ぁ残ってるもんはなかろう。

白トーガキ畑は赤トーガキ畑に変わっていった。


(母)

嫁にはじめて来たとき、(昭和17年)5月じゃったが倉庫にまだ干しイチジクが残とった。
食べてみたら美味かった。あの味はわすれられん。
あの時分には、ほんまにおいしかった。一つ食べても値打ちがあるようじゃった。

練炭がなかなか火が付かん。消し炭をちょっと入れ、堅炭(かたずみ)を起こす。
堅炭を起こしてから練炭を燃やしょうた。
練炭は途中で消したらいけんので、(消えない程度に)火が付くのを確認して(うむし小屋に)入りょうた。

(イチジクは毎日採れるので)毎日そうしょうた。
外へ干して雨が降りそうなら、長屋のよくちに棚をして、そこへ仕舞ようた。
毎晩長屋の前にしまう、そうせんと雨が心配で寝らりゃあへん。
ビニールができたら(段積して)外に置くようになった。

(雨は)カビがくる。
カビがきたら捨てたりしょうた。
燻蒸したのを日に何回も裏返しょうた。
天日で干して、日に二度(にへん)はなんでもしょうた。
場所も変えんと、ええように干んのじゃ。
力がいりょうた。
今頃なら扇風機で乾燥しょうたろう。

一週間ほど日和なら(次の工程の)もむのを始みょうた。

箱へ入れて保管しとると、真っ白い粉がつく。ええ粉が付くんじゃ。

正月ごろから2月3月まで出荷しょうた。

(茂平の出荷所で)りょうやんの奥さんやこ4~5人で(選別等級)分けて、箱詰めしょうた。その頃がさかりじゃった。

いつの頃から贅沢になってきて食べんようになった。(売れなくなった)美味うないゆうて。
ひとりでに「硫黄が危ない」ゆう声もしだして止めた。

あれがのうなったら、ほんまにくつろいだようじゃった。

ウチにゃ白を植えとったんで作りょうたが
赤トーガキの方が昔から相場で売りょうた。
赤はむしって、出荷するだけで金になる。

作者・この「のうなったら」の意味は、
①干しイチジクの季節が過ぎたら②干しイチジクの廃止
の二つのうち、②の廃止(昭和41.42年ごろ)を指すと思えた。
そのころ、日本の産業構造も、生活も大変動が始まっていた。


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大阪のおじ・おばの話② 2016.1.19

2016年05月28日 | 父の話
おじは大正の最後の日に産まれたが戸籍上、昭和2年1月2日生まれ。
終戦過ぎ頃まで茂平で暮らした。
おばは昭和5年、神島内浦の生まれ。
社会人となってからは大阪が主で、定年後は高槻市に住んでいる。
2016年1月19日、久し振りに帰郷したので昔話を聞いた。

城見尋常小学校の時(昭和8年4月1日~昭和14年3月31日)
笠岡商業学校の時(昭和14年4月1日~昭和19年3月31日)

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出征兵士の見送り

(学校から)
旗をもって線路際で送るのはしょっちゅうじゃった。
支那事変からは、
毎日のように送った。


八幡さんのとんど

何年に一度かはお宮で火を焚いた。龍王(りおう)さんの雨ごい。


(弘化3年生まれ、超長寿の)ゆくばあさんのこと

(日常生活は?)

縁側で、毎日ひなたぼっこをしながら真田を編みょうた。
週に一回、一反なんぼゆうて買いに来とった。

(ばあさんの編んだ真田は)穴だらけで、「もうやめい、ワシャ恥ずかしい」ゆうてようた。
それでも買ぉてくれるから。死ぬるまで真田を組んどった。

それで、朝起きたら、死んどった。晩は元気で。

(祖父の)利三郎おじいさんは一ケ月ほど寝込んでから死んだ。
(曾祖母の)ゆくばさんは、98まで病気もなかった。

小学校の1.2年の担任の女の先生が、年一回の家庭訪問をしてきたら、次の日に教室でワシのところのおばあさん(曽祖母)の話をして恥ずかしかった。おばあさんがこう言った、ああ言ったゆうて。
自分のところから嫁に行っとるので気にしとるし、おばあさんは自分の出所でなつかしいんで話しとった。相手が先生なんでほめちぎって話したことを、教室で話すのでこもうなって聞きょうた。

嫁に来たとき、用之江から提灯行列で来た時のことを話しょうた。何度でも話し、それを繰り返して話す、「止めてくれ」ゆうまで話しょうた。何度もそうゆうことがあった。ぐるぐるぐるぐる、何度でも言ようた。


脇差のこと

家に脇差があった。
(ゆくばあさんの夫で、天保11年生まれの曽祖父の)
富次郎じいさんは臆病もん言わりょうた。それは
用之江から夜中に帰るときは、刀を抜いてから峠を越しょうたゆうことじゃった。


(小学校の遠足の行き先は?)

大見山に日の丸弁当もって行とった。

(小学校の同級生の)六月さんのこと

いっしょに福山工業の応用化学を受けた。
戦争があり、新しくできた科で人気があった。7人に一人か、5人に一人しか合格せんいわりょうた。
二人とも落ちて、六月さんは金中に行って、ワシは笠商へ行った。
六月さんは(金中から)陸軍士官学校に行って、(終戦で)ぱーになり、姫高に行った。

「ワシの息子は大臣にするんだ」、という話は聞いた。親父が直接言うとった。小学校の頃じゃった。

兄の武徳さんは「高文」(こうぶん)試験を通って、県の課長になった。村の映画をしてまわりょうた。学校は苦学で、選挙は親父の意志じゃろう。


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