しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

岡山県農業普及員

2016年05月30日 | 父の話

談・2004.8.16

(父は戦前、実業学校を卒業後、岡山県農業普及員・・県職員・・をしていた。
日常の仕事はどんな内容か?)

百姓の指導じゃ。米を作ったり、麦を作ったり
作り方を指導しょうた。
農薬の作り方も、作ってやりょうた。


産婆さんへの謝礼は

(母)お金を渡しょうた。うむし(赤飯)といっしょに。


たばやし小麦屋(うどんや)

(母)おやつがない時分、
小麦をわたせばせんべいを代わりにくりょうた。うどんもくりょうた。

余った小麦は用之江の加藤の脱穀屋にもっていきょうた。
あまった穀物はちぃちっとでも買いにもきょうた。よう流行りょうた。(穀物がない時分)

盆のソーメンもたばやしに頼みょうた。


茂平のビニールハウスのはじまり

(イチゴのハウスが始まりか?・・昭和40年ごろか??)

(母)丸山に竹で始めた。
鉄パイプはなかった。
試行錯誤でした話はよく聞いていた。

イチゴは昔から相場がよかった。路地ものでも。
いわさん方の前にジャム工場があった。


ゲージ飼の餌

農協で袋で買って、三つ四つ配合してから食わしょうた。


もろ木(もろぐい)

売りに来とった。
ウチにゃあ竹田(祖父の実家)から、じいちゃんと二人で竹田に行って、山から手城までもってでて、手城からは船でもって帰りょうた。えらかった。・・・、えらかった。


ドジョウ

沖の田にドジョウの巣があった。専門家が獲りにきょうた。籠を置いて、あげたら中によおけい入っとった。
もらうこともあったが、うもぉねぇんじゃ。くさいんじゃ。

タニシの方がまだ美味い。


灰小屋

たまったら畑にもっていきょうた。
今はビニールがあるから使えん。
畑に筋を引いて撒きょうた。ようためになりょうた。


はたびらの花火見物

(笠岡の花火は)はたびら、、苫無の先でも見ようた。


子供神輿の女性

(祭りの子供の行列は男だけだったが、今は男女の参加になっている)
子供の数が減ったので女を入れるようになった。


子供の病気

(母へわが子の病気のことを聞いた。)
吉浜の上田さんへ連れていった。
流行り病をもらう、夏の麦刈りの最中ごろハシカが流行る。
(管理人がハシカになったとき)リンゴでも食べさしょう思うても物がない。
大まで買いにいきょうた。
やっと買えたおもうたら腐っとる、ゆうこともあった。

コメント
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