談・2004.8.16
(父は戦前、実業学校を卒業後、岡山県農業普及員・・県職員・・をしていた。
日常の仕事はどんな内容か?)
百姓の指導じゃ。米を作ったり、麦を作ったり
作り方を指導しょうた。
農薬の作り方も、作ってやりょうた。
産婆さんへの謝礼は
(母)お金を渡しょうた。うむし(赤飯)といっしょに。
たばやし小麦屋(うどんや)
(母)おやつがない時分、
小麦をわたせばせんべいを代わりにくりょうた。うどんもくりょうた。
余った小麦は用之江の加藤の脱穀屋にもっていきょうた。
あまった穀物はちぃちっとでも買いにもきょうた。よう流行りょうた。(穀物がない時分)
盆のソーメンもたばやしに頼みょうた。
茂平のビニールハウスのはじまり
(イチゴのハウスが始まりか?・・昭和40年ごろか??)
(母)丸山に竹で始めた。
鉄パイプはなかった。
試行錯誤でした話はよく聞いていた。
イチゴは昔から相場がよかった。路地ものでも。
いわさん方の前にジャム工場があった。
ゲージ飼の餌
農協で袋で買って、三つ四つ配合してから食わしょうた。
もろ木(もろぐい)
売りに来とった。
ウチにゃあ竹田(祖父の実家)から、じいちゃんと二人で竹田に行って、山から手城までもってでて、手城からは船でもって帰りょうた。えらかった。・・・、えらかった。
ドジョウ
沖の田にドジョウの巣があった。専門家が獲りにきょうた。籠を置いて、あげたら中によおけい入っとった。
もらうこともあったが、うもぉねぇんじゃ。くさいんじゃ。
タニシの方がまだ美味い。
灰小屋
たまったら畑にもっていきょうた。
今はビニールがあるから使えん。
畑に筋を引いて撒きょうた。ようためになりょうた。
はたびらの花火見物
(笠岡の花火は)はたびら、、苫無の先でも見ようた。
子供神輿の女性
(祭りの子供の行列は男だけだったが、今は男女の参加になっている)
子供の数が減ったので女を入れるようになった。
子供の病気
(母へわが子の病気のことを聞いた。)
吉浜の上田さんへ連れていった。
流行り病をもらう、夏の麦刈りの最中ごろハシカが流行る。
(管理人がハシカになったとき)リンゴでも食べさしょう思うても物がない。
大まで買いにいきょうた。
やっと買えたおもうたら腐っとる、ゆうこともあった。