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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

新山小学校の魚雷

2016年05月13日 | 昭和20年(終戦まで)
「新山人物誌」の古写真に、新山小学校の校庭に奉安殿と魚雷が前後して写っている。
なぜ学校に魚雷があったのか気になり、今年2月11日の新山歴史ウオーキングの参加申し込みの際、文書(メモだが)で問い合わせた。

ウオーキング当日、主催会長のT先生より書籍をコピーした1枚をいただいた。
先生からコメントも受けたが今は忘れた。
以下そのコピーを転記する。書籍名は不明だが56頁である。

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昭和48年新築された体育倉庫は奉安殿の跡地であるが、その姿は写真による以外見る方法はない。
大正5年に大正天皇・皇后陛下のお写真を下賜(かし)された。新山尋常高等小学校ではどこに奉安すべきか、学区の住民あげて検討された。
校長は農村副業として最も有利な麦稈真田編みの工賃を基金として石造りの奉安殿をつくることとした。
児童へ放課後、講堂で編み方を指導し、家に持ち帰って編ませるという方法をとった。
奉安殿が完成したのは大正9年4月28日であった。

奉安殿の周囲の庭園は前長福寺住職の長尾円澄の指図により造営されたと伝えられる。
奉安殿を守護する役目として国定唯平氏が奉納された水雷2個は奉安殿の前面に並び、左側に機械水雷、右側に魚形水雷があり、堀をめぐらし石橋をかけた見事なものであった。

昭和12年石造りの奉安殿内に自然現象の変化が起こり御写真に汚点がつくという失敗があったと思われる。
そこで奉安殿の屋根を検討し、赤銅造り神殿形式に改造することになった。
このようにして永久に安泰すると期待していた矢先、昭和21年10月10日マッカーサー指令により奉安殿撤去のうき目を見ることになった。
奉安殿および庭園に使われた石は学区内各所に分散され、ヒノキの庭木は校長室の裏手に生きている。

登校した児童は、必ず集団ごとに奉安殿の前まで行って、の上級生の指図で拝礼して教室に入ったものである。
またボールが奉安殿の敷地に入ったら、なかなか拾うことができない。先生に届けて許しを得たら恐る恐る拾ったものである。

このように奉安殿にまつわる思い出はたくさん残っている。

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なおT先生はこの用紙に、「釣鐘などと同時期に水雷は供出では?」とメモられている。

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