しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

漢口攻略戦その五 北支への転進と凱旋

2018年02月14日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

父の所属する部隊の記録を転記する。

「岡山県郷土部隊史」より転記

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(昭和13年)

師団は11月29日漢口に着き、
翌30日鴨井丸・黒姫丸等四隻に乗船下航し、
12月5日南京に着き浦口より徐州を経由して12月11日石家荘に着く。

北支についた各部隊はそれぞれ、石家荘を中心として南北の各主要都市に分散して守備につく。
昭和14年にはいって第一期粛正作戦を四次に分けて行い、第二期粛正戦を行う。
8月11日復員下令をうけ、9月下旬から石家荘付近に集合し、
10月初旬青島を出発して10月中旬晴れの郷土に帰還した。

満二箇年聖戦の名の下に支那各地に転戦武勲の数々の中にとうとい犠牲となった勇士は七百余人、
第一中隊の如きは在籍者四百人のうち健在者はわずか七人にすぎなかったという。
戦いの現実は実に生命のやりとりで、残酷極まりないとの感を深くする。


昭和14年10月郷土に帰還した歩兵第十連隊はしばらく兵舎で英気を養っていたが、
翌昭和15年8月1日満州派遣の編成下令があり、8月7日編成完結し、いよいよ岡山を後に出陣し、8月12日宇品で乗船、8月16日羅津に上陸して、8月20日佳木斯(ジャムス)に着く。

佳木斯では対ソ戦車戦闘等に専念し、精鋭を誇っていた。
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漢口攻略戦その四 平靖関の攻撃

2018年02月14日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父の所属する部隊の記録を転記する。

「岡山県郷土部隊史」より転記

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(昭和13年10月)

大迂回作戦の栄誉を樹立した毛利部隊は、戦塵を洗う暇もなく、霖雨で泥まみれとなって疲れた身体を10月16日より平靖関の攻略にとりかかった。
平靖関は武勝関と共に漢口北方の護りであった。

行軍二日突然山から砲弾が飛んできた。
平靖関の鉄壁にぶつかったのだ。
10月19日より、右第三大隊、左第一大隊で血闘の幕は切られた。
右第三大隊は右に第9中隊左に11中隊が二手に分かれて全面の高地に進出した。
第9中隊は10月22日から連日敵の逆襲を受け、集中砲火を浴び生地獄と化した。
この時生き残ったのは僅か17人。
壮絶な一夜が明けて第10中隊主力が来援して高地の死守に当たったが敵の逆襲は止まず白兵死闘のるつぼであった。
左第一大隊でも595高地を占領したが、それからはどうすることもできない。どの山にも敵がいる。

25日に漢口陥落のニュースが全軍に伝わり、苦戦の第10連隊各部隊に歓声が挙がり、兵隊の目に涙がにじんでいる。

大別山にわけ入って死闘10日間食糧は不足し籾から飯までにつくらねばならぬ兵站の兵の苦労も一通りでなかった。

10月27日夜敵は総退却した。
28日第10中隊を一番乗りに平靖関を通過して29日応山を通過し、付近に駐留する。
11月6日馬坪を出発し7日は徳安北方に露営し、8日徳安に入り、城内に駐留す。
11月12日各連隊より一箇中隊を抽出して漢口警備に当たることとなり13日孝安に宿営して16日漢口に着き特別第三区の警備につく。


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漢口攻略戦その三 信陽南方への迂回作戦

2018年02月14日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父の所属する部隊の記録を転記する。

「岡山県郷土部隊史」より転記

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(昭和13年9月下旬)

羅山を出発した第33旅団は右・歩兵63連隊、左・歩兵10連隊が進むと、わずか5粁南進して王家湾で、北側斜面から急射を受け、逐次敵は兵力を増してきた。
歩兵は猛射のため前進できない。

10月1日頃より羅山西方8粁の八里店付近で敵は重砲・山砲を配して猛撃を繰り返し、信陽の攻防戦は最高潮に達する。
わが方は万全の準備を整えてじりじりと進み10月5日欄行舗を占領し、南方迂回の33旅団は10月5日青山を占領し京漢線へ後20粁に迫った。

10月6日京漢線は爆破され、敵の退路は遮断された。

6日間の山岳踏破の苦心を重ねた毛利部隊は突如信陽の南方に出現し、休む暇なく北上して山又山をこえて721.5高地に迫ったが、敵大軍の後方に進出したのであるから四面楚歌で、毛利部隊は死傷続出で信陽攻撃で最大の苦戦となった。
10月11日、戦車隊が少数の兵力で城門を爆破し、城壁の一角を占領する。

信陽陥落まで毛利部隊が払った犠牲は戦死57、負傷者111人に達した。

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