しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「福山市史」⑥「生めよふやせよ」

2018年02月01日 | 昭和16年~19年
過剰人口を数百万人、国外へ移住さす方針を出した政府は
その4年後には、移住政策(減らす)と同時に多子(増やす)を奨励した。

「福山市史 下」福山市史編纂会著 昭和58年発行 より転記する。
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食糧不足・物資不足のなかで、それらの節約が叫ばれたのとは逆に、「人的資源の確保」を目的に、「生めよふやせよ」と子どもをたくさん生むことが奨励された。

「遅くとも21歳までに結婚し、少なくとも五子をもうけよ」といわれ、
その徹底ぶりは、市内の新生児が14年の1.045人から翌15には1.819人、16年には1.790人と増加し、
19年2月には市内に18歳から49歳までの「身重の国策婦人」が1.886人いるといわれるほどであった。
子どもの多い「多子家庭」や多くの出征者や戦死者を出した「国策家族」は、表彰の対象にさえなった。

「人的資源の確保」とは戦死者の補充にほかならなかったのである。



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「福山市史」⑤地方事務所の設置

2018年02月01日 | 昭和16年~19年
「福山市史 下」福山市史編纂会著 昭和58年発行 より転記する。

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昭和17年(1942)政府の意図を地方によりいっそう徹底させ、かつ行政を敏速に処理するために、地方官寛政の一部改正によって、県の補助行政機関として、県下12カ所に地方事務所が設置された。
この地方では沼隈・深安地方事務所が福山市におかれたが、以後県と町村の中間機関として、かつての郡役場以上に大きな権限をもち、戦時体制下の統制強化に大きな役割を果たした。
翌18年には、市町村制の全面的な改正によって、市町村長に対する指示権を付与した。
その結果、
市町村は自治権をいちじるしく制限され、明治以降かつてないほど、中央の強い統制下におかれることになった。

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満州事変 「福山市史」④小国民の暖かい心

2018年02月01日 | 昭和元年~10年

「福山市史 下」福山市史編纂会著 昭和58年発行 より転記する。

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昭和6年11月26日の朝日新聞は、「この寒いのに兵隊さんはお国のために一生懸命に忠義をつくしてくだされ、本当に有難うございます。
このお金は僅かですが、どうぞ兵隊さんに水飴でも買ってあげてください」
と、3円の為替を呉鎮守府に送った西小学校の一児童の「美談」を大きく報道した。

こうした「美談」は子供から大人まで巻き込み、その後も児童が小遣いを貯えたり、麦稈真田を編んで行った献金や、在郷軍人会福山南分会の「タッタ一銭国のため」運動などが相ついで新聞に報じられている。

慰問袋は
愛国婦人会や在郷軍人会・新聞社などが扱い、日用品のほか子どもたちの図画や作文がその中に入れられた。
その数は愛国婦人会扱いだけでも6年11月中旬までに1市3郡で1.843個にのぼり、新聞社扱いも4日間で呉鎮守府へ24.086個が発送され、そのすままじさは、軍部が「物品より金銭を希望」したほどであった。
このほか、春日小学校児童が「寒気と戦う満州軍の困苦をしのび、この冬には足袋・手袋などの防寒具を一切用いぬ」と申し合わせ、金江村・本郷村の少年団が松毬を拾ったり菰を作ってえたお金を寄付し、増川・門田高女生徒が千人針やお守りを送付し、看護婦従軍志願者が血書を提出して志願した。

この運動で注目されるのは成人も対象としていたが、それ以上に生徒・児童を主な対象として、教育界あげて戦争熱を煽ったことである。
「兵隊さん」への「感謝」の気持ちの他に、教師の奨励やマスコミの大々的な報道とも相まって、子どもたちの心に戦争熱や中国への憎しみを植え付ける結果にしかならなかったことは、否みえない事実と思われる。


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満州事変 「福山市史」③ 爆弾三勇士

2018年02月01日 | 昭和元年~10年

「福山市史 下」福山市史編纂会著 昭和58年発行 より転記する。

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(昭和7年・1932)

年が明けると、
1月6日に南小学校で錦州入場映画が公開されたのをはじめとして、つぎつぎと映画会が行われた。
郷土部隊の活躍もあって、寒夜にもかかわらずいずれも超満員で、アンコールの要求が出るほど市民は熱狂した。

たちまち大ブームとなり、各学校で修身の時間を割いて三勇士の話を生徒に聞かせたのをはじめ、娼妓連が軍服姿で三勇士踊りを披露するなど、「どこもかしこも肉弾三勇士が大もて」といわれるようになり、市も4月17日に公会堂で肉弾三勇士の夕べを開催した。
4月にはいると、出征兵士が徐々に帰還し始めた。遺骨の帰還は、当時の新聞は「悲しみの上陸」などと表現し、日米開戦後に比べると、戦死を「悲しいもの」としていることが注目される。

こののち、
11月17日のリットン報告排撃福山市民大会に至るまで、あらゆる催物や会合で排外熱と戦争熱が鼓吹され、戦争支持が世論となっていった。
そして、そのような世論形成を下から支え、子どもたちまで巻き込んで行われたのが、慰問運動と「美談」創出運動にほかならない。
これは上からの押し付けられた運動というよりも、一定の自主性をもって行われた面が強いことに、注意しておく必要があろう。


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満州事変 「福山市史」②

2018年02月01日 | 昭和元年~10年
「福山市史 下」福山市史編纂会著 昭和58年発行 より転記する。
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(昭和6年・1931)

11月末になると、「満事変号外を生徒へ!学童へ!」という目的で、福山師範、誠之館・盈進中学、福山・門田・増川高女と東・西・南・霞小学校にアサヒ学校ニュース版が作られ、「平易に解説して、児童にわかりやすく書いて効果を挙げ」るようになった。

12月に入ると市民を対象に、ついで津之郷・水呑・鞆の各小学校で写真展が開かれ、
3日には1.500人が参加して水呑村で村民大会が開かれた。
中旬には福山の職工が必需品以外の不買を申し合わせている。

18日には第5師団の出動下命があり、それにともない41連隊からも若干部隊の出動が命じられた。
福山はわきたった。
19日には午後6時から市民が提灯行列を行って門出を祝った。
市会は満場一致で送別文を隊長に呈し激励している。
21日午後3時の派遣部隊の福山駅出発にあたっては、沿道・駅頭ともに見送り人が殺到したという。

一行は寺内寿一師団長の「広島男子の意気を示す時が来た」という言葉に送られ、波田隊長は「男子の本懐」と一言、
22日午後4時半宇品を出港していった。



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