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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

占守島 「黒崎の郷土史」

2018年02月19日 | 占守島の戦い
「黒崎の郷土史」平成19年発行より転記

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Kさんの太平洋戦争(シベリア抑留記抄)

昭和19年
4月15日 充員召集令状(赤紙)来る。
4月25日 独立白砲第18大隊第1中隊に入隊。
6月7日夜 隠密裏に小樽港を出航
6月16日 第1中隊は温称古丹島、第2中隊本部は占守島。

昭和20年
7月30日 内地より最後の郵便物来る。
8月4日 郵便戦にて出航、翌日占守島長崎海岸に上陸。
8月13日 後続の船団、米艦隊の攻撃でことごとく海没と知る。
8月15日 この日、天皇の重大放送有と聞くも、僻地の陣営では、その放送を聞くすべなし。全国民一大奮起の促すお言葉であろうと思っていた。
8月16日 15日の放送は終戦、といえども半信半疑、正式な示達はなし。
8月17日 朝、小隊長より終戦詔勅(しょうちょく)の確報を聞く。

8月18日未明 ソビエト軍占守島国端に上陸、現地部隊は竹田浜に上陸、戦闘中。
我々も戦闘戦備体制に入り命令を待つ、我が方、敵を水際まで押すも大本営よりは抵抗ならずの命令。
膠着対峙状態、我が方、軍使を出して15日ポツダム宣言受諾後の戦闘にして犠牲出すに忍びず、再三に渡り軍使を出し交渉に入れども事態は妥結せず。
見晴台の戦車部隊は全員四霊山の戦闘に参加、炊事要員2名を残し全員戦死。
8月21日 我々23名は孤立。食料無く、食料受領に中隊本部の所在も不明なまま出発する。 途中敵弾の雨あられ、進退窮する中、友軍の歩兵隊より退却を命じられ帰隊する。敵弾の飛来はようやく治まる。
8月22日 現地司令部よりたとえ大元帥閣下に背くとも武人の面目にかけ総攻撃に移らんと全軍前線に移り、ひたすら命令を待つ。
8月23日 漸く交渉妥結、正午三好野飛行場に全軍集結、武装解除される。

9月5日 ソ連の指揮下に入り作業に従事す。
10月10日 海軍基地の片岡湾に終結、ソビエト船に乗って占守島を出航。
10月18日 朝、ソビエト領カリマ州マガダン港へ投錨。
10月20日 マガダンより80キロ奥地フタロヒに着く、約4.000名。
10月22日 森林伐採作業に従事す。貧しい食料、作業はノルマの要求、寒気は募る、衣服はボロボロに破れ、寒地に適せぬ軍靴では耐えきれない冷たさに凍傷にかかる。栄養失調、体力は日々衰える。

・・・・・・・途中略・・・・・

(昭和24年)
10月11日 東舞鶴より、夕方京都駅に着く。岡山より妻・叔父来て下さる。
岡山駅頭で婦人会歓迎の茶の接待、父や娘や親類の方々来て下さる。
11時ごろ。金光駅に着く。黒崎村よりもの人たちが大勢迎えに来て下さり、郷関を出でて5年7ヶ月振りに夢にだに忘れ得ない故郷の土を踏む。


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風船爆弾攻撃   「年表太平洋戦争全史」

2018年02月19日 | 昭和16年~19年
下記の本から転記する。

「年表 太平洋戦争全史」2005年 編者日置英剛 図書刊行会

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風船爆弾攻撃(19・11・1)

気球連隊は11月1日「ふ」号攻撃を始めた。
この攻撃はいわゆる「風まかせ」で、その成果を確認する手段がない。
昭和20年3月まで続く。



注・「ふ」号作戦については米西部防衛司令部参謀長の報告がある。
以下その要点を抜粋引用しておく。

内輪に見積もっても900~1.000個が米大陸に到達した。
落下した区域はアラスカからメキシコに至る広範囲で、太平洋北西地帯からカナダにかけて200個近くが発見され、その外75の風船の破片が陸上や海中から拾われた。
少なくとも100個の風船が上空で爆発したのを見た人々がいる。

世界で初めて飛び道具が人間に導かれないで海を渡ったのである。
大損害をもたらす可能性もあったが、冬の雪で山火事は少なかった。

また細菌を運んで来るのではあるまいかと心配し、米政府が動かした細菌学者は4.000名に及び、要所要所に防毒マスクや薬が準備される騒ぎであった。
米国は秘密にし、国民に警告を与えることもできなかった。
新聞ラジオも検閲によって報道しなかったからである。


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ガ島は蛾島 「年表太平洋戦争全史」

2018年02月19日 | 昭和16年~19年
下記の本から転記する。

「年表 太平洋戦争全史」2005年 編者日置英剛 図書刊行会

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ガ島は蛾島(17・11月)

あの頃の話をすると、「では蛇やトカゲを食べた組ですね」と質問される。
蛇もうまく、トカゲもうまさはあるけれど、蛇は早いし、トカゲもするすると走ってゆく。
杖をついて歩く兵隊にはたやすくつかまるご馳走ではない。
我々の口にはちょっと入らぬものと諦めていた。

水草、島苺、ぜんまい、蟹。塩の代わりに海水。
腹のたしになれば何でもよい。

死んでゆく人間の脆さは、枯れ木の折れるよりはかない。
「俺は駄目だ」そう言った人間は例外なく死んだ。
弱音を吐いた者はおしまいだった。

吉田嘉七「ガダルカナル戦記」










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日中戦争と郷土部隊⑥銃後の組織化 岡山県史近代Ⅲ

2018年02月19日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

岡山県史近代Ⅲより転記する。

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赤柴部隊の独流鎮の戦いの報道が、県民に伝えられている最中の、8月24日だけの記事のなかにも、凝縮して現れている。


まず、県知事以下県会議員が先頭になって「国威宣揚」「皇軍武運長久」の祈願を行う。吉備津神社。
総社町 帝国在郷軍人会吉備郡連合分会主催、郡下各町村分会長会を開催。


在郷軍人会を中心に市町村や警察が乗り出して、各地域に銃後後援会=軍人後援会あるいは国防婦人会が組織されていく。

倉敷市大高学区内 郷軍、消防、生徒、市議、町総代、国防その他の婦人団体、産組、宗教団体各総代50余名集合して軍務公用者並びに遺族家族の救護に関する協議会を開催。
金光町 金光町軍人後援会創立総会が町小学校講堂で開催。各代表120名。
刑部町 国防婦人会結成式結成式。会員450名出席。終わって武運長久祈願祭を村社で執行した


こうして、銃後における戦争熱が高まる中、次々と歓呼の声に送られて出征した兵士たちも、その多くが、やがて「白木の箱」で故郷に帰ってくる。
先の諸団体は、その戦死者を村を挙げて英雄として祀り、戦争熱をさらに増幅し扇動していったのである。


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日中戦争と郷土部隊⑤戦争報道 岡山県史近代Ⅲ

2018年02月19日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

岡山県史近代Ⅲより転記する。

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赤柴部隊の天津から徐州を経て武漢への、果てしない行軍は、そのまま、戦争目的もあいまいなまま、ズルズルベッタリに、戦争に深くのめり込んでいく日本の姿そのものであった。

合同新聞は「仰げ護国の人柱 碧血に輝く郷土将兵の偉勲」「あゝ○○大尉 我が赤柴部隊に鳴る勇猛果敢」と大きく報道した。
岡山市の留守宅を訪れると、夫人は流石に武人の妻らしく、
「かねて覚悟をしてゐました。お国のために立派に働いたのですから思ひ残すことはありますまい、私としても武人の妻としていま更何事も申すことはありません」
と、少しも取り乱すこともなく言葉少なに語ったという。

この後も一貫するワン・パターンの記事が載せられ、銃後の国民はそうした建前に押し流されていくことになる。
こうした記事が、次々と新たにセンセーショナルな形容詞を冠せられて、紙面を埋めつくしていくのである。
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