「黒崎の郷土史」平成19年発行より転記
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Kさんの太平洋戦争(シベリア抑留記抄)
昭和19年
4月15日 充員召集令状(赤紙)来る。
4月25日 独立白砲第18大隊第1中隊に入隊。
6月7日夜 隠密裏に小樽港を出航
6月16日 第1中隊は温称古丹島、第2中隊本部は占守島。
昭和20年
7月30日 内地より最後の郵便物来る。
8月4日 郵便戦にて出航、翌日占守島長崎海岸に上陸。
8月13日 後続の船団、米艦隊の攻撃でことごとく海没と知る。
8月15日 この日、天皇の重大放送有と聞くも、僻地の陣営では、その放送を聞くすべなし。全国民一大奮起の促すお言葉であろうと思っていた。
8月16日 15日の放送は終戦、といえども半信半疑、正式な示達はなし。
8月17日 朝、小隊長より終戦詔勅(しょうちょく)の確報を聞く。
8月18日未明 ソビエト軍占守島国端に上陸、現地部隊は竹田浜に上陸、戦闘中。
我々も戦闘戦備体制に入り命令を待つ、我が方、敵を水際まで押すも大本営よりは抵抗ならずの命令。
膠着対峙状態、我が方、軍使を出して15日ポツダム宣言受諾後の戦闘にして犠牲出すに忍びず、再三に渡り軍使を出し交渉に入れども事態は妥結せず。
見晴台の戦車部隊は全員四霊山の戦闘に参加、炊事要員2名を残し全員戦死。
8月21日 我々23名は孤立。食料無く、食料受領に中隊本部の所在も不明なまま出発する。 途中敵弾の雨あられ、進退窮する中、友軍の歩兵隊より退却を命じられ帰隊する。敵弾の飛来はようやく治まる。
8月22日 現地司令部よりたとえ大元帥閣下に背くとも武人の面目にかけ総攻撃に移らんと全軍前線に移り、ひたすら命令を待つ。
8月23日 漸く交渉妥結、正午三好野飛行場に全軍集結、武装解除される。
9月5日 ソ連の指揮下に入り作業に従事す。
10月10日 海軍基地の片岡湾に終結、ソビエト船に乗って占守島を出航。
10月18日 朝、ソビエト領カリマ州マガダン港へ投錨。
10月20日 マガダンより80キロ奥地フタロヒに着く、約4.000名。
10月22日 森林伐採作業に従事す。貧しい食料、作業はノルマの要求、寒気は募る、衣服はボロボロに破れ、寒地に適せぬ軍靴では耐えきれない冷たさに凍傷にかかる。栄養失調、体力は日々衰える。
・・・・・・・途中略・・・・・
(昭和24年)
10月11日 東舞鶴より、夕方京都駅に着く。岡山より妻・叔父来て下さる。
岡山駅頭で婦人会歓迎の茶の接待、父や娘や親類の方々来て下さる。
11時ごろ。金光駅に着く。黒崎村よりもの人たちが大勢迎えに来て下さり、郷関を出でて5年7ヶ月振りに夢にだに忘れ得ない故郷の土を踏む。
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Kさんの太平洋戦争(シベリア抑留記抄)
昭和19年
4月15日 充員召集令状(赤紙)来る。
4月25日 独立白砲第18大隊第1中隊に入隊。
6月7日夜 隠密裏に小樽港を出航
6月16日 第1中隊は温称古丹島、第2中隊本部は占守島。
昭和20年
7月30日 内地より最後の郵便物来る。
8月4日 郵便戦にて出航、翌日占守島長崎海岸に上陸。
8月13日 後続の船団、米艦隊の攻撃でことごとく海没と知る。
8月15日 この日、天皇の重大放送有と聞くも、僻地の陣営では、その放送を聞くすべなし。全国民一大奮起の促すお言葉であろうと思っていた。
8月16日 15日の放送は終戦、といえども半信半疑、正式な示達はなし。
8月17日 朝、小隊長より終戦詔勅(しょうちょく)の確報を聞く。
8月18日未明 ソビエト軍占守島国端に上陸、現地部隊は竹田浜に上陸、戦闘中。
我々も戦闘戦備体制に入り命令を待つ、我が方、敵を水際まで押すも大本営よりは抵抗ならずの命令。
膠着対峙状態、我が方、軍使を出して15日ポツダム宣言受諾後の戦闘にして犠牲出すに忍びず、再三に渡り軍使を出し交渉に入れども事態は妥結せず。
見晴台の戦車部隊は全員四霊山の戦闘に参加、炊事要員2名を残し全員戦死。
8月21日 我々23名は孤立。食料無く、食料受領に中隊本部の所在も不明なまま出発する。 途中敵弾の雨あられ、進退窮する中、友軍の歩兵隊より退却を命じられ帰隊する。敵弾の飛来はようやく治まる。
8月22日 現地司令部よりたとえ大元帥閣下に背くとも武人の面目にかけ総攻撃に移らんと全軍前線に移り、ひたすら命令を待つ。
8月23日 漸く交渉妥結、正午三好野飛行場に全軍集結、武装解除される。
9月5日 ソ連の指揮下に入り作業に従事す。
10月10日 海軍基地の片岡湾に終結、ソビエト船に乗って占守島を出航。
10月18日 朝、ソビエト領カリマ州マガダン港へ投錨。
10月20日 マガダンより80キロ奥地フタロヒに着く、約4.000名。
10月22日 森林伐採作業に従事す。貧しい食料、作業はノルマの要求、寒気は募る、衣服はボロボロに破れ、寒地に適せぬ軍靴では耐えきれない冷たさに凍傷にかかる。栄養失調、体力は日々衰える。
・・・・・・・途中略・・・・・
(昭和24年)
10月11日 東舞鶴より、夕方京都駅に着く。岡山より妻・叔父来て下さる。
岡山駅頭で婦人会歓迎の茶の接待、父や娘や親類の方々来て下さる。
11時ごろ。金光駅に着く。黒崎村よりもの人たちが大勢迎えに来て下さり、郷関を出でて5年7ヶ月振りに夢にだに忘れ得ない故郷の土を踏む。