岡山県史近代Ⅲより転記する。
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(昭和13年7月)
現地では、ともかく11日午後8時に停戦協定にこぎつけた。
ところが、同じ日
軍中央では「三個師団か四個師団を出して一撃し手を挙げさせる、一部兵力を残せば北支から内蒙古は思うようになる」
という拡大派が大勢を制し、近衛内閣は「重大決意」のもと華北へ派兵を決定、事件拡大に大きく踏み出した。
「支那軍の暴戻を膺懲し以って南京政府の反省を促す」という、
極めて道徳的で感情的な戦争目的しか掲げることができなかった。
近衛内閣や軍人たちの、中国に対する優越意識は、万世一系の天皇を頂点とする国家が「面目」や「威信」を傷つけられた時、「反省を促す」ために「膺懲する」。
中支那方面軍司令官松井石根大将の言は認識の構造をよく示している。
「日華両国の闘争は「亜細亜の一家」内における兄弟げんか。
一家の兄が忍びに忍び抜いても乱暴を止めない弟を打擲(ちょうちゃく)するに均しく、可愛さ余っての反省を促す手段たることは余の信念なり」
ほんの一撃で降参するはずの中国軍の、予想以上の抵抗で大打撃を被った上海戦の後、いきあたりばったりで充分な補給もなく、略奪・強姦・虐殺を続けながら南京に殺到した日本軍の、あの南京大虐殺は「可愛さ余って憎さ百倍」の結果であった。