岡山県史近代Ⅲより転記する。
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(昭和12年)
赤柴八重蔵大佐が歩兵第十聯隊長に発令されたのが、盧溝橋事件から半か月後の7月22日。
聯隊への動員下命が7月27日。
応召者およそ5千名。
天津到着が8月18日。
「支那駐屯軍」と合流、任務は北京・天津地区の支那軍を膺懲し、同地区を安定さす」
作戦地域は「概ね安定」していた。
ところが
中国中央軍の予想外の進出・抵抗のため支那駐屯軍は廃止され、八個師団の第一軍・第二軍からなる「北支那方面軍」が編成され、
赤柴部隊は第二軍に属することになった。
北支那方面軍は「敵の戦争意識を挫折せしめ戦局終結の動機を獲得する目的をもって、速やかに中部河北省の敵を撃滅すべし」という任務を与えられた。
第二軍は天津から南京に向かう津浦線方面を南下する作戦に従うことになった。
敵は一撃ごとに、抗日民族統一戦線の態勢を整え、ますます戦闘意欲を高めてきている。
敵の戦争意識を挫折するというのは、永遠に交わることのない背反関係にあった。
赤柴隊も津浦線に沿って、滄県→徳県→済南→徐州→漢口へと、「鬼の赤柴隊」との異名をとって、多くの犠牲を出しながら、
まさしく日本が泥沼の破滅へと歩んでゆくのと、行をともにしたのであった。