しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

日中戦争と郷土部隊④赤柴部隊 岡山県史近代Ⅲ

2018年02月16日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

岡山県史近代Ⅲより転記する。

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(昭和12年)

赤柴八重蔵大佐が歩兵第十聯隊長に発令されたのが、盧溝橋事件から半か月後の7月22日。
聯隊への動員下命が7月27日。
応召者およそ5千名。

天津到着が8月18日。
「支那駐屯軍」と合流、任務は北京・天津地区の支那軍を膺懲し、同地区を安定さす」
作戦地域は「概ね安定」していた。

ところが
中国中央軍の予想外の進出・抵抗のため支那駐屯軍は廃止され、八個師団の第一軍・第二軍からなる「北支那方面軍」が編成され、
赤柴部隊は第二軍に属することになった。

北支那方面軍は「敵の戦争意識を挫折せしめ戦局終結の動機を獲得する目的をもって、速やかに中部河北省の敵を撃滅すべし」という任務を与えられた。
第二軍は天津から南京に向かう津浦線方面を南下する作戦に従うことになった。

敵は一撃ごとに、抗日民族統一戦線の態勢を整え、ますます戦闘意欲を高めてきている。
敵の戦争意識を挫折するというのは、永遠に交わることのない背反関係にあった。

赤柴隊も津浦線に沿って、滄県→徳県→済南→徐州→漢口へと、「鬼の赤柴隊」との異名をとって、多くの犠牲を出しながら、
まさしく日本が泥沼の破滅へと歩んでゆくのと、行をともにしたのであった。


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日中戦争と郷土部隊③山陽新報の日中戦争観 岡山県史近代Ⅲ

2018年02月16日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

岡山県史近代Ⅲより転記する。

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盧溝橋事件勃発直後から、事件の原因は中国側の抗日姿勢にあるとして、連日センセーショナルな報道を続けている。

8月16日の社説「断固膺懲に決す」において
「今度という今度は、断じて支那の常套手段に乗ぜられて姑息不徹底な解決に堕してはならない。
膺懲の鉄槌は徹底的に下さるべきである。
国民は挙国一致、政府を支援し、しかして皇軍の武威をもってするならば目的達成は近くにある」
と戦争意欲を宣揚している。

8月21日の社説「支那の実態暴露」では、いっそう露骨に表明している。
「事変発生以来今日まで支那軍の行える暴虐行為は枚挙に遑なきほどで、文化の光に浴したることなき蛮人と何等選ぶところはない。
こうした支那軍の狂暴性、残虐性は他面からすれば、支那軍隊の無規律、不統制によるものであり、更に進んでいえば、支那がまだ政治的にも、経済的にも、社会的にも、文化的にも、独立国家たるの資格を有せず、その実質を欠如せるによるのである」

こうした戦争観と中国観からする、「正義の皇軍」「暴戻の支那軍」という戦争報道がされた。

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