「寄島風土記」昭和61年発行より転記。
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天候が相手で、やけつく夏も、凍てつく冬も、盆も正月もない。
雨さえ降らねば朝5時から晩の6時まで、1日6回のメシを食べるきつい仕事であった。
万牙(まんが)
浜子は理屈は知らないが、朝、昼、晩と太陽の方向と風向きを考えた長い間の経験で、縦、横、斜三様の引き方で砂に着いた海水濃度を高くする。
力と技術を要するので素人には引けない。
塩を撒く
長い柄の小さな木の酌で中溝の海水を塩田に撒く。
まんべんに撒くので熟練した技術を要する作業である。
沼井堀り
沼井は約4m平方の桝形でかん水をとるところ。
ろ過がすんだ砂を掘り出して沼井の肩に積む。
海水を入れる
潮の干満に気を配り堤防の大樋を抜き、中樋、小樋と抜いて濃い海水(潮の三合満ちまでは海水の濃度が薄い)を注入する。この樋の抜き差しは油断ができない。
失敗すると塩田に海水が侵入し、隣の塩田にも迷惑をかけるので上浜子が受け持っていた。
一日の作業
万牙を引く。
昼寝をする。
午後2時、浜持ち。寄子が寄板を持って、力の限り踏ん張って砂を沼井肩の線に一列に寄せる。
女、子供の仕事であるが息も絶えだえ、汗が流れる。
気が遠くなるほど塩田は広い。
夏の太陽は容赦なく照りつける。
次に入鍬がつづく。
特殊な鍬で砂を沼井の中に放り込む。
最も体力がいる作業で屈強な浜子がこれにあたる。
その後に
振り鍬が沼井の肩に積んだ散土を長い鍬の爪先にひっかけて塩田にまんべんなく撒く。
つづいて沼井踏が砂を沼井鍬で踏みならす。
灼熱の炎暑に寄せ子は入鍬に追われ、入鍬は振り鍬に追われる一連の作業は汗を拭く間もない阿修羅の地獄絵である。
寄子は大きな杓を持って沼井壺から藻垂れを沼井に汲み上げる。数多い沼井壺を次々に汲み上げる。
浜子は大きな浜たごを担いで中溝の海水を担いで沼井に注ぐ。
その頃鉢山に太陽が沈む。
従業員400人の寄島塩業は漁業と二大機関産業として貢献した。
第二次大戦中は軍需産業として重視され、幹部従業員には兵役免除の特権があった。
また戦後の食糧危機を救うにも塩は貴重な資源であった。
今では塩田の跡もない。