中公新書「日中十五年戦争史」大杉一雄著より転記
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日中戦争は当時、はじめは「北支事変」、戦線拡大後は「支邦事変」と呼ばれていた。
日本が宣戦布告をしなかったのは、米国中立法の適用を受けて軍需資材の輸入停止を恐れたためである。
7月7日の盧溝橋事件端緒については、史実がはっきりとしていない。
発端の問題は必ずしも重要なテーマではない。問題はどのように処理しようかとしたかである。
当時の参謀本部は悪化した日ソの軍事バランスのもと、中国にたいする融和的な政策をもっていた。
現地軍も不拡大に努め、11日に一応停戦協定が成立した。
しかし軍中央には二つの対照的な反応がみられ、これをチャンスに日中間の懸案事項を武力的に解決しようという拡大派が存在し、対支一撃論・暴支膺懲(ぼうしようちょう)論を唱えたのも事実である。
以後この派が石原作戦部長を中心とする不拡大派を次第に圧倒して行った。
政府も不拡大、現地解決の方針を持しつつも11日、出兵声明を行ったが、実はこれより数時間前に現地では停戦協定が調印されていた。
この声明が中国側を刺激し、現地軍をして中央への真意を誤解させることともなった。
中国に対して恫喝的な高姿勢となってしまった。
蒋介石、最後の関頭演説、
「満州が占領されてすでに6年、
それに続いて塘沽停戦協定を強制され今や敵は北京の入り口である盧溝橋まで迫っている。
もし盧溝橋が占領されれば、北京は第二の瀋陽(奉天)になってしまうし、そうなれば河北省・察哈爾省(チャハルしょう)も満州国になるでしょう。
さらに南京が北京の二の舞を演じないわけがない。
中国民族はもとより平和を熱望しているが、ひとたび最後の関頭に至れば徹底的に抗戦するほかない」